幸運な災難 1
「これから、どうしよう」
紫乃から電話もらってからというもの、紅子は、すっかり憂鬱になっていた。
笹倉氏が紅子をアルバイトとして雇ってくれたのは、彼女を利用するためかもしれない。もっとも、彼が本当に利用したいのは、紅子ではなく六条源一郎の評判だろう。六条家との縁組みが近いことを周囲に臭わせ、源一郎の圧力に抗しきれないことを言い訳にしながら、「あの六条源一郎に自分たちの会社を好き勝手にされるなら、自分たちで変えたほうがましではないか」という理屈で、自社の改革を進めるつもりなのだろう。
要するに、紅子は、魔除けの御札みたいなものだ。『六条家』という印がなければ、ただの紙切れ同然。なんの役にもたちはしない。だからこそ、だからこそ……
(なんか……なんか、ものすごく、イヤなんですけど~~っ!!!)
……と、心の中で地団駄を踏まずにはいられない紅子である。
しかも、明日もまた、アルバイトがある。笹倉商会の一般社員は、夏のうちに数日間の休みを取得することが義務づけられている。かれらが休む分だけ、大学が本格的な夏休みに入った紅子の出勤は、これまでよりも頻回になる予定だ。『だから、夏休みの間だけでも、紅子ちゃんに手伝ってほしい』というのが、笹倉氏が紅子にアルバイトに誘った口実であった。
「だから、『これから、どうしよう?』もなにもないのよね」
噂は、結局のところ噂でしかない。紅子を使って何かを企んでいるのではないかと笹倉氏から直接確認したわけでもないのに、一度引き受けた仕事を途中で投げ出すのも無責任だ。とはいえ、明日、どんな顔をして出勤したらいいのだろう。周りは自分のことをどんな目で見るのだろう。そう考えただけで、気が重くなる。鬱々としながら寝苦しい夜を過ごしたことは顔に出ていたようで、翌朝。紅子が食堂に降りると、さっそく月子に気がつかれた。
六条家の朝は、互いに複雑な感情を抱きがちな母親たちが各自の部屋で朝食を取り、子供たちと父親が食堂に集まることがきまりになっている。席は自由で、基本的に早い者勝ちだ。紅子は、口が達者な末の妹を避けるようにして、新聞を読みながら食後のコーヒーを飲んでいる和臣の隣の席を目指した。すると、月子は、横に長いテーブルをぐるりと回って、わざわざ紅子の向かい側に移ってきた。
「元気がないようだけど、どうかしたの。お父さまのせいで就職できないって、あれほど落ち込んでいたくせに、もうサボりたいなんて思ってたりないわよね?」
「ま、まさか、そんなこと、あるわけがないじゃない。ただ……」
紅子がわずかに顔を曇らせたのを、月子は見逃してはくれなかった。
「ただ?」
「ただ、笹倉のおじさまが『紅子ちゃんにしかできない仕事』って言っていたけど……」
それは、つまり、笹倉は息子の婚約者を装った六条家の娘を必要としていただけであって、働き手としての紅子など、必要としていないということではないだろうか。紅子は、そんな疑いを口走りかけたものの、すんでのところで言葉を飲みこんだ。まもなく源一郎が食堂にやってくる。紫乃や橘乃が教えてくれた噂のことは、ここでしないほうがいいだろう。話がややこしくなる予感しかしない。
「なんでもないわ。だけど、その……自分にしかできない仕事だと言われていたわりにはね。誰でもできるような仕事だったなあ……って思っただけよ」
「そんなの、あたりまえじゃない。入ったばかりのバイトにしかできない仕事なんてものがある方が不自然よ。笹倉のおじさまの方便を真に受けて、どうするのよ?」
「たしかに。『君しかできないアルバイト』なんて、違法な仕事の匂いしかしないな」
和臣も笑いながら月子に同調する。
「『自分しかできない仕事』なんて、そうそうあるものではないよ。あるとすれば芸術家ぐらいなものだろうと以前は思っていたけど、そんなこともなかったようだしね」
和臣が会話に加わっていない妹の姿を探すように視線を巡らせる。食堂に夕紀の姿はなかったが、どこからか彼女のピアノの音は聞こえてくる。コンクールに出ることには及び腰であるものの、もはや逃げるわけにはいかないと観念した夕紀は、これまで以上に熱心に練習に取り組んでいる。夕紀がコンクールにエントリーしたことで、紅子たちは、この世には才能に恵まれた芸術家といえども唯一無二となるのは難しく、才能に恵まれた若い芸術家志望の人間など、それこそ掃いて捨てるほどいることを知った。
「まあ、芸術家はともかくとして、誰にでもできる仕事を侮るのはよくないよ。ほとんどの仕事は誰にでもできることの積み重ねだ。それに、実際にやってみると、質と量の両面で、僕なんぞまだまだだと反省することもしばしばだからね」
「お兄さまでも?」
「お兄さまなのに?」
紅子どころか月子までもが驚きの声を上げれば、「そりゃあ、六条の社員は僕を跡継ぎ扱いしてくれるし、優秀だと持ち上げてもくれる。同年の人間と比べれば、いろいろやらせてもらえていることも事実だ。でもね。しょせん、僕は、まだ入って数年の若造でしかないんだよ。たとえ、僕が今いなくなったとしても、たいして会社は困らない。というより、葛笠ならば、僕の代わりが僕以上に上手くできるよ」と、自嘲気味に笑う。
「だから、せめて葛笠には追いつきたいと思って頑張っているわけだけど。彼は彼で、そもそも優秀なところに、彼を僕の片腕にしようと企んでいたお父さんと佐々木さんによって、よってたかってしごかれまくる一方で、六条家内のゴタゴタの始末にも駆り出され、同時に、妹たちのわがままにも振り回されるという過酷な日々を入社以来続けても案外涼しい顔で持ちこたえているようなとんでもない奴だったということに、最近気がついた」
「なるほど。つまり、葛笠さん自身が、年齢の割には飛び抜けて仕事ができるうえにタフな人なのね」
「そう。だから、追いつくのも容易じゃない。でも、だからといって、面倒くさいことややりたくないことを全て葛笠に押し付るような頼りかたはしたくはないんだ。なにしろ、僕の身近には、地道な仕事を頭から馬鹿にして、派手で格好いい成果ばかり追い求めたあげくに、うぬぼれが過ぎて破滅をした良い見本がいるものだから……」
「ああ……うん、そうね」
ここのところ、新入社員として彼が面倒を見ている竹里冬樹は、武里グループ創始者の四男坊だが、親から与えられた立場でやりたい放題したあげく、使い捨て同然に扱っていた彼の部下全員から裏切られ、社会的に抹殺されかけた。冬樹が六条で働いていることをまだ知らない月子が、苦笑いを浮かべながら顔を見合わせている和臣と紅子を不思議そうに眺めている。
「紅子だって、あんなふうになりたいわけじゃないだろう?」
「絶対に、いやだわ」
勢いよく振られる紅子の頭の動きに合わせて、肩までの髪が纏のように揺れる。
「そうだよね。紅子は、小さな頃から地味な作業を厭う子ではないものね?」
小さな子を誉めるかのように兄が紅子に優しくうなずいてみせる。
「朱音お母さんからの頼まれごとだって、君は、どんなに小さなことだろうと、なおざりにしない。単なる方便を真に受けるほど単純な性格もしていない。それなのに、今朝に限って、どうしたんだろうね?」
「え?」
「もしかして、君には、おじさんの言葉が方便とは思えない心当たりでも、あるのかい。方便じゃないなら、本当に君にしかできない仕事があるということになるね。でも、バイトの紅子にしかできない仕事なんて、今のところなさそうだよね。させてもらっている業務に特色があるようでもない。となると、この場合は、紅子だからこそできる不本意な役割でもあるのかな」
紅子に言いつくろう間を与えることなく和臣が畳みかけるように問いかける。だめ出しのように「ねえ、なにかあったの?」と笑顔で訊ねる兄の目は全然笑っていない。
「ねえ、紅子。君を悩ませているのは、誰なんだろう。笹倉のおじさんかな。それとも徹?」
紅子の返答次第では、源一郎よろしく、そいつを容赦なくどうにかすると言わんばかりである。
「わ、わたし……お父さまが来る前に、夕紀ちゃん呼んでくるね」
追い詰められた紅子は、身を翻すと、練習に夢中になるあまり朝食を取りそびれかけている妹を呼びに走った。夕紀の部屋にもピアノはあるけれども、彼女の母親は朝が遅いうえ、コンクールに出ることにも賛成していない。ならば、夕紀が弾いているのは姉妹がたまり場にしている最上階の部屋のグランドピアノに違いない。そう判断した紅子が屋敷の中央階段を駆け上がり始めるやいなや、華麗で目まぐるしい旋律を奏でていたピアノの音がふいに止んだ。急に曲を止めるなんて、夕紀にしては珍しい。ともあれ、これなら、練習に夢中になっている夕紀を強引に食堂に引きずっていかなくてもよさそうだ。安堵した紅子は、淑女の作法を思い出して階段を上がる速度をゆっくりにした。が、数段も上がらぬうちに、彼女は階段を降りはじめた。静けさを取り戻した玄関ロビーの外側で、執事が誰かを案内してくる気配がしたからだ。
訪問者は、ふたりの男性だった。いずれも長身で、背中に長い直線定規でも差し込んでいるのはないかと疑いたくなるほど姿勢が良く、どちらも紅子の知り合いだ。だから、彼らの厳しい顔つきも、いつもどおりだと承知しているのだが、それでも、いつにもまして怖い顔に見えるのは、紅子の気のせいだろうか?
「笹倉のおじさま。それに、徹さんまで」
「非常識な時間に、申し訳ない」
目を丸くしながら近づいてきた紅子に、折り目正しい口調で、徹が詫びる。
「でも、六条のおじさんと今日中に話をするなら、朝のうちに家に押しかけたほうが確実だと思ったものでね」
どうやら、彼らは、車での出勤途中に急きょ六条家に立ち寄ることを決めたようだ。
「俺は、さっき聞いたばかりなんだが……」
「なにやら、想像以上にロクでもない噂が広まっているようなのでな」
「親父も悪い」
「……。ふん。わかっておるわ」
非難の眼差しを向ける息子に対して不機嫌そうに鼻を鳴らすと、笹倉巌は、六条源一郎との面会を申し込んだ。