番外編 【追想】 Side 六条源一郎
昭和26年、年末。
らしくねえ。
捜査作業の邪魔にならぬよう、少し離れた場所から桐生喬久の亡骸を見守りながら、源一郎は思う。空が白み始めるのを待って、なにかしらの検証や記録作業を再開していた捜査関係者たちは、撤収する準備を始めていた。桐生の遺体も、ようやく動かしてもらえるようだ。すぐには返してくれないのだろうが、屋内に運んでもらえるのはありがたい。ここは寒い。いくら桐生が死んでいるからといっても、いつまでも地面に寝かせっぱなしというのでは、源一郎のほうが切なくなってくる。それに、茅蜩館ホテルにほど近いこの場所は、いわゆるオフィス街だ。あと数時間足らずのうちに大勢の人間が通勤してくる。桐生が見世物になるのは、我慢ならない。
それにしても、らしくない。
なにがらしくないかといえば、まず、殺された死体らしくない。もっとも、みぞおちあたりに突き刺さったままになっている刃物を見れば、刺殺体であることは疑いようがない。にもかかわらず、桐生の顔は、殺された人間にしてはありえないほど穏やかな表情をしている。しかも、両手両足を大きく伸ばして仰向けになっている。これでは、まるで日向ぼっこを楽しんでいる最中であるかのようではないか。
だが、遺体の状態に疑問を抱く以前に、もっと桐生らしくないことがあった、それは、彼がまんまとやられてしまったことだ。元華族の道楽人を気取っているくせに、桐生はべらぼうに強い。そのうえ、卑怯者を自負しているから、必要があれば、どんな姑息な手だって使ってのける。相手が殺人者であるならば、桐生が遠慮する理由もなかっただろう。そういう性格だっから、彼は、どのような危険な場所に飛び込んでいったとしても、いつだって生き延びてきた。
それなのに、たかだか独りの暴漢に襲われて、桐生が死んでしまうなんて…… いや、彼を殺したのは漢でさえないのだそうだ。数時間前に最寄りの警察署に自ら出頭したのは、四十過ぎの女だったという。警察は、間違いなく彼女が犯人だとみているようだ。でなければ、所かまわず年がら年中「死ね」だの「いつか殺す」だのと桐生に対して息巻いていた源一郎が、容疑者として引っ立てられることもなく殺害現場にボーッと突っ立っていられるわけがない。進駐軍も警察と同じ見立てであるようで、少しの間検分に立ち会っていた軍服姿の数人は、夜が明けるのも待たずに早々に引き上げていった。
ところで、犯人と名乗った女は、最初に応対した警察官に「自分は息子の敵討ちをした」のだと語ったのだそうだ。数日前、どこぞの雑誌の記者を名乗る人間から、例の沈没船の乗船名簿に彼女の息子の名があったと聞かされたのだという。
あの船が沈んでまもなく戦争が終わった。船さえ沈まなければ、息子は生きて帰ってくるはずだった。そうならなかったのは、桐生喬久のせいだ。あの男が自分の息子を殺したのだ。だから、自分が桐生を殺した。敵討ちだ。そう言った女は、誇らしげですらあったという。
「ふん。なにが、敵討ちだ」
桐生は無実だ。当時の彼の行為が罪になるとかならないとか、そういうことですらない。だから、このことで世間がどれだけ彼に注目しようと、どれほどいきり立とうと、桐生は「僕には関わりのないことだ」と言ったきり、全く意に介することがなかった。何も語ろうとしない態度がかえって人々の疑念をかき立てても、そのせいで源一郎が神経質になっても、桐生は「源一郎が僕の心配をしてくれるなんて、嬉しいね。明日は雪かな」なんて言いながら、ヘラヘラ笑っているだけだった。
「だから、せめて、弁明ぐらいしておきゃあよかったんだよ」
自分は関係ないから、釈明など必要ない。どれだけ源一郎がうるさくいっても、変なところで頑固な桐生は、そう言って譲らなかった。桐生のことだから、殺人犯に対しても、その態度を貫き通したのだろう。そこだけは、桐生らしいといえば、桐生らしい。彼の遺体が殺された死体らしくないのも、殺されるはずのない人間に殺されてしまったのも、天邪鬼でかっこつけが激しくて、余人と違ったことばかりしてきた桐生喬久らしいといえばらしいのかもしれない。
それでも、やはり、らしくないのだ。
あの男でも死ぬなんて! 桐生は、殺されたって死なない。たとえ世界が滅んでも、あの男だけはヘラヘラ笑いながら生きているはずだ。あの男だけは、いつまでも死なずに、源一郎が死ぬまで超えられない壁でありつづけるのだろう。なんの根拠があるわけでもないのに、これまでの源一郎は、なんとなく、そう思い込んでいた。
桐生に反発して憧れて、超えられないことが悔しくて、「どうでもいい」と口では言いながら、それでも彼を失望させたくなくて、認めてほしくて、源一郎は必死で頑張ってきた。どんなに頑張っても彼には敵わなかったし、ついて行くだけで精一杯だった時もあった。呆れるほど大馬鹿で、憎らしいほどかっこよくて、そして他の誰よりも大きな存在。それが源一郎にとっての、桐生喬久だった。その桐生が、源一郎の目の前から、急に居なくなってしまった。それも、こんなにあっけなく。
「しかも、なんで、こんなことで……」
桐生喬久のことなどよく知らない殺人犯には……息子を亡くしたその女には、彼の態度はひどく不遜に思えたのかもしれない。彼女の殺意を煽る結果にしかならなかったに違いない。
だけど、桐生は本当に関係ないのだ。他のことならいざ知らず、彼が犯人に恨まれる筋合いはない。それなのに、あんな記事がでたから。源一郎が、あんなことを言ったから。
「俺が……言ったからか?」
違う。源一郎は思うなり激しく否定した。自分のせいであるわけがない。源一郎は本当のことを言っただけだ。だから、こんなことになったのは、全部あいつらのせいだ。
昨日の夜のうちは、次の日も昨日と同じ日ような日が続くのだと思っていた。桐生が戻るのが遅いように感じてはいたものの、彼のことだから、いつものように出先からそのまま茅蜩館ホテルのバーにでも寄っているのだろうと思っていた。ちなみに、その茅蜩館ホテルのオーナー兼総支配人である恵庭久志は、現在、捜査関係者のひとりと話している。源一郎に桐生の死を知らせてくれたのも、久志だった。数年前から桐生と源一郎が茅蜩館ホテルの一室に住み着いていることを知っている警察関係者が、久志に連絡をくれたそうだ。そして、茅蜩館ホテルの総支配人といえば、この界隈の人々から絶対的な信頼を寄せられている。源一郎が捜査中の事件現場に居合わせることができるのも、久志の案内があったからだろう。
「あちらの調べがすんだら、連絡をくれるように頼んでおいたよ。桐生さんは、こちらに運ぶように手配するから」
戻ってきた久志が、先ほどまで話していた捜査関係者を視線で示しながら源一郎に言った。
「いいのか?」
ホテルとしては、客室に死体を運び込むことなどしたくないのではないだろうか。だが、この兄のような友人は、「良いも悪いもないだろう。だって、桐生さんだよ」と言ってくれる。
「茅蜩館に入れるわけにはいかないなんて僕が言おうものなら、母さんが僕をホテルから追い出すだろうさ」
とにかく桐生さんをいったん住み慣れた部屋に帰してあげようと言いながら、久志が気遣うような視線を源一郎に向けた。
「大丈夫かい?」
「ああ? ああ、うん」
いつもなら、軽口で返すところなのに、言葉が出てこない。やっと出てきたのは、「葬式」という一言だった。
「どうするかな。あのオッサンの家のことだから宗派とか菩提寺とかあるんだろうし、大きさとか格式とかも気にしなきゃいけないんだろうけど。そういうことに桐生のオッサンは無頓着だったし、俺もよくわからねえし。ともかく、まずは、桐生の本家のほうに知らせねえとな。ああ、凪湖にも連絡してやらないと」
なんでもないふうを装って、とりとめもなく早口で事務的なことを言いながらも、源一郎は急に心細くなってきた。
これまで源一郎を散々振り回してきた桐生はもういない。良くも悪くも、これまでの彼は、桐生についていけばよかった。だけど、桐生は死んでしまった。昨日と同じ日は、もうこない。これからは、源一郎独りで歩いていかなくてはいけない。
独りにされたって、生活に困ることはないだろう。生きる術なら、いくらでもある。それだけのものを、桐生は源一郎に与えてくれた。
(だけど、どこへ?)
これから、自分は、どうしたらいいのだろう。
目指すものがなくなった今、自分は、どこへ向かったらいいのだろう?