嘘つき娘の憂鬱 10
橘乃の嫁ぎ先が所有する東京の茅蜩館ホテルのロビーは、情報交換にうってつけの場所だ。遠方からの宿泊客のみならず、会議や催し物で同ホテルを利用する近隣の会社で働く者たちや買い物の途中に立ち寄った常連の奥さま方、芝居帰りの隠居たちから好んで利用される憩いの場所だからだ。
東京の他の老舗の高級ホテルと比べると規模が小さめの茅蜩館は、オーナーとスタッフとの距離も近ければ彼らと客との距離も近いために、家族経営的な雰囲気を醸し出している。現オーナーの八重も彼女につきそう橘乃も、もてなし上手で相手に気持ちよく話をさせる天才だ。しかしながら、この数日というもの、彼女たちの能力は空回りしていたという。というのも、客たちは自分たちのことよりも橘乃に話をさせたがったからだ。なんの話かといえば、彼女の妹の縁談についてである。誰も彼もが、「紅子と徹の縁談がまとまりかけているのではないか?」と、ひっきりなしに橘乃に探りを入れてくる(……と、彼女には思えたようだ)。少なからぬ人々から何度も同じことを訊ねられたおかげで、今度は、橘乃が紅子に確認の電話をせずにはいられなくなったらしい。
「ねえねえ、それで?」
「私は徹さんと婚約なんかしていないし、そういう話ももちあがっていないわ」
紅子は、笑いながら橘乃の期待を打ち砕いた。そういえば直接姉に伝えていなかったと、笹倉商会でアルバイトをしていることも話した。
「なあんだ。お仕事させてもらっているだけだったのね」
噂が本当だったのあれば妹の一大事だというのに、橘乃は本気でがっかりしているようだった。
「でも、安心したわ。だって、紅子には葛笠さんがいるものね」
「『いる』っていっても、『いる』からどうしたって言われる程度の関係でしかないけどね。いつだって、子供扱いしかされていないないし……」
「じゃあ、紅子と徹さんじゃないってことは、徹さんと夕紀ちゃんなのかしら」
紅子が口の中でゴニョゴニョ言っている隙に、橘乃が妙なことを言い出した。「なにが?」と紅子が問えば、「もちろん、縁談よ」と、橘乃が声を弾ませる。
「橘乃姉さまったら、なにがなんでも恋愛話に結びつけたがるんだから!」
だいたい、紅子でないなら夕紀とというのは、なんなのだ?
「いやあね。私がなにがなんでも誰かと誰かをくっつけたがっているわけではないわよ。ほら、紅子と夕紀ちゃんは同い年でしょ? 私にとって次の妹さんと言われれば、紅子なのだけど……」
「ああ、なんだ。そういうことね」
つまり、橘乃に噂を持ってきた人たちからして、紅子と夕紀のどちらが笹倉との縁談の対象になっているかを曖昧にしていたのだろう。昔から、『同学年の六条家の異母姉妹』は混乱の種だった。
「夕紀ちゃんは、今のところコンクールで手一杯だから、徹さんとどうにかなりようがないわ」
「なんだ、そうなのね……」
紅子と徹の噂を否定した時以上に、橘乃がつまらなそうな声を出した。
「あの二人なら、お似合いだと思ったのに、残念ね。なにしろ、夕紀ちゃんが逃げずに話ができる若い男性なんて、彼と葛笠さんとお兄さまぐらいでしょう? 昨日お会いした、玉村さまというお客さまだって……」
「話ができるのと結婚するのでは、かなり違うと思うの」
話が面倒くさくなってきた紅子は、長くなりそうな姉の話を邪険に遮った。だが、朗らかすぎる姉は、その程度ではへこたれたりしなかった。
「それもそうよね。あ、そうそう、ピアノコンクールといえばね」
橘乃は、今度は、明子の前夫である喜多島達也の今の妻の話題を持ち出してきた。浮気しているのではないかと疑っているようだ。今度こそ紅子は姉に呆れ果てた。『そうそう、笹倉商会と言えば』を言っているけれども、2番目の姉の前夫の現在の妻とピアノコンクールとの間に、どのような関係があるというのだ?
「橘乃姉さま。いい加減にしてちょうだいね」
普段よりもずっと低い声で、紅子は姉を咎めた。
「巷でどんな噂が流れているのか知らないけど、唯さんが浮気できるはずがないでしょう?」
六条家の次女を泣かせてまで手に入れた妻の座だ。本性がバレて夫に愛想を尽かされようが、再婚初日から地獄のような結婚生活を送ることなろうが、彼女は達也と離婚できない。「ふたりが別れたが最後、喜多島グループも終わりにしてやる」と、源一郎が喜多島一族に対して脅しをかけているからだ。
「喜多島一族は、唯さんが逃げ出さないように探偵を雇っているのでしょう? 年がら年中見張られている人が、どうやって不貞をはたらけるというの?」
「でも、た……」
「ともかく、唯さんの浮気はないから。じゃあね」
まだまだ話たげな橘乃の話を断固として打ち切ると、紅子は乱暴に受話器を置いた。姉の噂好きにも困ったものである。とはいえ、紅子が知っている橘乃は、信憑性のある噂とそうでないものをきちんと聞き分けられる人だったはずだ。それなのに、実の妹の縁談の噂なんてものを信じかけるなんてどうかしている。
「橘乃姉さまってば、幸せ惚けしているんじゃないのかしら?」
きっと、梅宮さんに愛され甘やかされて理性のネジが緩んでしまっているのだ。それより、梅宮さんは優しい人だから、橘乃姉さまに注意したくてもできないんじゃないかしら。
「こうなったら、紫乃姉さまに言いつけてやる」
くだらない噂を鵜呑みにする橘乃など、紫乃からうんと叱られればいい。そう思うことで、紅子は少しばかり気分がよくなった。たが、彼女が中村家の番号をダイヤルする前に、紫乃のほうから紅子に電話をかけてきた。
紫乃の用件も橘乃と同じだった。出産から一年。紫乃は、外出がままならない夫の名代という役目に完全に復帰しつつある。紫乃もまた、昨日呼ばれたパーティーの席で、紅子と徹の婚約が話題になっているのを知ったという。
紫乃は、紅子と徹の婚約などありえないと思ったそうだ。だが、噂を虚報だとして一笑に付すにはいささかのためらいがあったとも打ち明けた。
「どうもねえ。笹倉さんが否定なさっていないようなのよ」
「姉さまたちと同じように、私と徹さんが婚約したんじゃないかって笹倉のおじさまに訊いた人がいるの?」
「正確には、六条家の娘の誰かと徹さんの縁組が本決まりになりそうだっていう噂ね。いずれにせよ、笹倉のおじさまに直接訊ねた人が怖い物知らずだってことに変わりはないけど」
「おじさまのことだから、噂を否定しなかったというよりも、噂を持っていった人の相手をしなかっただけなのじゃないの?」
笹倉氏は、息子の徹と同じで愛想が良いほうではない。つまらない話に調子を合わせるのも、ゴシップも大嫌いだ。
「たしかに、おかしな噂に気分を害した笹倉のおじさまから怒鳴りつけられなかっただけまし。……というだけのことかもしれないわね。でもねえ、これは、弘晃さんからの情報なのだけど」
受話器の向こうで、紫乃が『話してもかまいませんか?』と夫に問いかけた。弘晃の返事は聞こえなかったが、彼の膝の上であやされているらしい小さな息子の可愛らしい声が聞こえてきた後、「『ここだけの話』にしてねって」と、紫乃が弘晃の意向を伝えた。
「なんでもね。笹倉さんが、会社を改革しようとしている兆しがあるそうなの」
向こうで弘晃が何かを言っているようだ。『改革というより、大掃除?』と、紫乃が困惑しながら言葉を足した。
「大掃除? きれいにするの? 何を?」
「つまり、切るに切れないしがらみとか、理屈に合わない慣習とか、血縁だってだけで取り立てられてきた年長者とかを」「笹倉商会は、お金に直しきれない権威みたいなものを商品にしているようなところがありますからね。そういうのは、ブラックボックス化しやすいんですよ」
紫乃の説明を補うように、少し遠くから弘晃の声が聞こえた。他にもいろいろあるらしい。
「要するに、笹倉商会には、あの笹倉のおじさまをもってしても、どうしかしたくてもどうにもならなかったことが澱のようにたまっているそうなのよ」
笹倉は、そういったものをこの際一気に解消しようとしているらしいのだ。
「これまでできなかったことを、一気にするの?これまでできなかったのに、今ならできるの?」
『どうして?』と姉に問いかける前に、紅子は、答えがわかってしまったような気がした。なぜなら、紅子のの身近には、これまでできずにいたことを一気にやらかしたがる人間が約一名ほどいるではないか。
「まさか、お父さま?」
「そうね。うちのお父さまがササクラの経営に口出しするとしたら、まずは、そこから手をつけるでしょうね」
しかしながら、笹倉社長が、たとえ一時でも自分の会社を源一郎に託すとは考えにくい。
「だけど、お父さまに社運を託さなくても、お父さまにいいようにされたくないばかりに会社を救おうと必死になったケースとか、お父さまが手を貸してくれようとするのを拒みつつ、ライバル会社からの嫌がらせに耐えながら自分たちを改革したケースが、ここ最近、あったでしょう?」
「……うん。あった。ここ数年。とても身近に」
中村物産グループに喜多島紡績グループ、そして茅蜩館ホテル。姉たちの嫁ぎ先が経営しているこれらの企業は、彼女たちの嫁入り前後に、大きな変化を体験している。
しかしながら、紅子は笹倉家に嫁ぐ予定はない。
ということは、つまり……
「もしかして、私、笹倉のおじさまに利用されているかもしれない?」