嘘つき娘の憂鬱 9
笹倉巌が経営する笹倉商会というのは、いわゆる貿易会社だ。しかしながら、笹倉と同じように海外との取引を主な仕事としている中村物産と比べると、もっとずっと小ぶりな会社という印象が、紅子にはある。
父や紫乃から聞かされる話から、彼女は、中村の仕事といえばとにかく桁違いに規模が大きいものだというイメージを持っている。中村は、資源や燃料や食料を大量に海外から買い込んでくる。そして、国内で加工する業者に売る。中村の仕事が滞れば、多くの国民の暮らしに深刻な影響が及びかねない。生活に支障が出る者もいれば仕事を失う者もいるだろう。それどころか、中村は他国の国をあげてのプロジェクトに関わっていることも珍しくないから、影響は世界中に及ぶかもしれない。
一方、紅子がアルバイトをすることになった笹倉商会が扱うものは、それ以上の加工を必要としない完成品ばかりだ。他国の工房が作り出す家具や工芸品、一般の食料店では手に入れづらい食材や酒類、美術品や楽器など、明治中期の創業以来、笹倉は、大量の取引には向かない、いわゆる『舶来モノ』の逸品を海外から輸入し、その逆に、国内の良品を海外に売り込むことを得意としてきた。他にも、個人輸入のサポートや海外オークションでの落札の代行なども請け負っているという。
『だから、中村と比べると、うちは気が楽だな。あってもなくても困らないものばかりを少しずつ扱ってるわけだから』と、うちの親父が言ってなかったか」
「おっしゃってました」
「笹倉の歴代社長のお気に入りのジョークだ。面白くもなんともないけどな」
「じゃあ。徹さんも、いつか言うようになるのね」
「……」
笹倉社長の息子であり当面は紅子の上司でもある笹倉徹は、答える代わりに心底嫌そうに眉を寄せた。普段から無駄口と笑顔が少ない彼がそういう顔をすると、きつめの顔立ちも手伝って、軽口を叩いたがほうが恐縮せざるをえないような威圧感がある。だが、紅子は気にしない。笹倉徹は、学生時代からの兄の友人だ。六条家にも何度も遊びにきたことがある。とっつきづらいが悪い人ではないし、暇を持て余している源一郎の妻たちの評価も上々だ。彼女たちによれば、愛想なしなのは残念だが、そっけないところがまた可愛らしいのだそうだ。「それに、和臣くんと気が合って、あの子の隣に並んでも遜色のない容姿と佇まいの持ち主なんて、そうそういないわよ」と、橘乃の母親が言っていた。
紅子にとっての徹は、夕紀の恩人だ。いつだったか、橘乃の持参金目当てに大勢の求婚者が六条家に押しかけた時に彼らの真ん中で立ち往生してしまった夕紀を、徹が助けてくれたことがあった。あれ以来、夕紀は徹に憧れているようだし、徹のほうも夕紀を気にかけてくれているようである。笹倉商事に出入りするようになって早々に、紅子は「そういえば、おまえの妹、山河国際に出るんだって?」と、ピアノコンクールのことを徹から訊ねられた。
「すごいじゃないか」
「ありがとう。とはいえ、事前審査をとおっただけどね」
「事前審査通過だけって……おまえな、あのコンクールに何人応募すると思ってるんだ」
なにを寝ぼけたことを言っているんだと言いたげに徹が眉間にしわを寄せる。
「そんなに、いっぱいいるの?」
「事前審査をパスして予選に出られたという事実だけで箔がつくとも言われているからな。事前審査が録音の提出だけだという敷居の低さもあって、およそピアノで飯を食っていきたいと願っている25歳以下の若者なら、とりあえずエントリーするようだよ」
だが、応募はできても、片っ端から落とされる。予選に進めるのは、名だたる音大出身の自信家のピアニストの卵ばかりだという。ここでの入賞をきっかけに、海外のコンクールで受賞を重ねて名を上げた音楽家も多いそうだ。
「しかも、審査員はもちろん聴衆が、辛口の批評家を自認したがるような聴き功者ばかりときている」
「けなすためにコンクールを聴きにくる人がいるってこと?」
「過去に惜しくも入賞を逃した者や、予選落ちした人間なんかもくるぞ。それから、身びいきが激しい出場者の身内や友人だな」
青くなる紅子を徹が更に青くさせた。
「そんなところで夕紀ちゃんが演奏するの?」
知らない人が苦手で、知り合いと話すことさえ恥じらうような、あの夕紀が? あれだけ弾けるのに合唱発表会の伴奏さえ逃げてきたような、あの子が?
「だ、大丈夫なのかしら? 夕紀ちゃん」
紅子は本気で不安になってきた。「いい演奏をしさえすれば、大丈夫だろう。厳しい批評をしがちな聴衆だが、自分の耳に自信があるだけのことはあって、素晴らしい演奏をする者に讃辞を惜しむことはないよ」という、徹の言葉など、なんの慰めにもなりはしない。
「と、とにかく、このことは夕紀ちゃんには内緒にしておこう」
「そうしてやれ。知らないほうが幸せってこともある」
徹が、彼にしては優しげな微笑みを浮かべながらうなずいた。
「それにしても、徹さんって、やけに、このコンクールのことに詳しいのね」
「笹倉も協賛しているからな」
「ああ、そっか。楽器の輸入をしているのだっけ?」
「ああ。今では国産のピアノも外国産にひけをとらないし、専門の業者もいれば海外メーカーの直営店もできたから、笹倉がピアノを扱うことは減った。だが、昔は洋楽器……、しかもグランドピアノといえば、高くて珍しくて生活に支障をきたさない舶来品の典型だったからな。まさに、うちの担当だったわけだ」
「また、そんなふうに言う」
紅子は、呆れながら徹を非難した。
「そうやって、自分たちの仕事を茶化すのはよくないですよ。中村みたいに生活に必要不可欠な品物を扱ってなくても、笹倉の仕事におけるプレッシャーは相当なものだって、お兄さまも言ってらしたわ」
生きていくために特に必要のないものをわざわざ国外から買い付けてくるのだ。しかも、一品ごとの扱いは、少しずつでしかない。ゆえに、笹倉が扱う商品は、金銭的な価値が高いものが多い。おかげで、今では『笹倉商会が扱うものは、高級品である』というイメージがすっかり定着している。たとえば、ここ芝にある笹倉の本社の1階はこの会社が取り扱う食材や雑貨などの紹介を兼ねた店舗に、2階は商談スペース兼ショールームになっているのだが、並べられたものはどれも魅力的で、それなりに値の張るものばかりだ。跡取りとはいえ甘えを許さない父親のおかげで一般社員と一緒に机を並べて徹が仕事をしているこの部屋にせよ、そこかしこにセンスや質の良さを感じさせるものがさりげなく置かれている。
「そうだな。うちが介在する以上、へタなものは売れない」
「だから、笹倉のバイヤーは物の価値を見抜く目を特に求められるのですってね。徹さんも?」
「勉強はしているが、俺なんか、まだまだヒヨッコだよ」
徹は首を振ると、「ところで、六条さん」と、改まった口調で紅子に呼びかけた。
「なんでしょうか、徹さん?」
「今まで、君は、そんなふうに俺のことを呼んだことはなかったよな?」
「そんなふうにって、『徹さん』を名前で呼ぶこと?」
だが、紅子は、徹の父親から、そうしてほしいと言われている。
「なぜ親父が?」
「ここでアルバイトする条件ですって」
ちなみに、社長である笹倉巌については、これまでと変わらずに『笹倉のおじさま』と呼んでほしいとも言われている。とはいえ、紅子ばかりが徹を名前で呼ぶのも失礼だろう。それに、徹のほうこそ、これまでは兄のことだけを学生時代と同じように『六条』という名字で呼び、姉妹のことは名前で呼び分けていたはずだ。でなければ、紛らわしくてしかたがない。
「徹さんも、私のことを『紅子』と呼んでくれればいいですよ」
「いや、そういうことを問題にしているわけではないんだが……」
徹が、眉間のしわを深くする。
「なあ、なにか変だと思わないか?」
「そうなの?」
これが初アルバイトだからだろうか。彼女には、なにがどう変なのかわからない。
「でも、この会社も、姉たちの嫁ぎ先と同じような同族会社なのよね。だったら、同じ名字の人が多くて紛らわしいから、名前で呼び分ける必要があるのではないのかしら。おじさまから、お話をうかがった時には、そう思ったのだけど」
「それは、そのとおりなんだが」
「そんなに深く考えなくてもいいんじゃない」
難しい顔で考え込んでいる徹に紅子は笑いかけた。
「たとえ笹倉のおじさまのお願いに裏があったとしても、そんなに困ったことにならないんじゃないかしら。おじさまが私を使って悪巧みをしようとしているのならば、なおさらよ。おじさまのことだから、父にだけは気づかれないように細心の注意を払うと思うの」
大事な娘をおかしなことに巻き込んだとなったら、源一郎が笹倉商会になにをするかわからない。しかも、名前が売れているとはいえ、笹倉商会というのは、それほど大きくもなければ強くもない会社である。そして、六条の鼻息ひとつで潰されかねないということを誰よりも知っているのは、この会社の社長である笹倉巌に他ならない。ならば、巌が源一郎を怒らせるような危険を犯すはずがない。犯すならば、源一郎にだけは自分の企みを知られないようにするはずだ。
「なるほど、六条のおじさんに気取られない程度の裏なら、そもそも心配する必要もないということか」
「そうそう。気にしなくても大丈夫よ」
……と、その時には、紅子も徹も笑い合って話を終わらせた。
だが、のんびり笑っていられたのは、それから数日でしかなかった。
「徹さんと婚約したというのは、本当のことなの?」
まずは、3日後。誰よりも噂話に敏感な姉の橘乃が、紅子に電話をかけてきた。