Intermission
1.
うららかな春の日曜日。雲一つない晴天の下を、隼人はティスニィラントへと続く人の列に混じって歩いていた。
さすが国内最高入場者数を誇るテーマパーク。そのうえ休日、ものすごい人出だ。携帯がなかった時代はどうやって待ち合わせしてたんだろうと埒もないことを考える。
(そういうのがない分、待ち合わせ場所と時間をきっちり決めたり、一生懸命探したりしたのかな)
そういう意味では退化してんじゃね? 俺たち。そう思いながら、無意識のうちに携帯を取り出す自分に思わず苦笑いする。
メールで事前に打ち合わせてあった待ち合わせ場所を確認し、さてそれはどこだ?
「……人が多すぎて、どこだかさっぱりワカラネェ」
ここで慌ててキョロキョロしない。じっとしていれば、知り合い――というか女の子――の位置ってなんとなく分かるものだ。気配を感じるというべきか……ああいたいた、
「おはようございます!」
元気良く挨拶をしてみたら、待ち人は二人とも盛大に痙攣した。
「お、おはよう……」と沙耶が早速キョドり、
「おはようございます……」と鈴香は消え入りそう。
鈴香が手にした入場パスポートを受け取ると、隼人は前進の号令をかけた。大げさな表現ではない。いや本当に、動かないんだ、この人たち。
メールが来た。
『楽しんでくださいね』
ああ、楽しむともさ。せっかくできたバイトの休みを利用して、妙齢の2人と遊園地デートなんだから。
問題は、"利用して"ではなく"利用されて"という点と、
(鈴香様、もっと笑顔で)
(沙耶様、そんなロボットウォークしないでください)
海原系の小姑2人が隠れてついてきてることだよ!
話は4日前にさかのぼる。
どこから聞きつけてきたのか、琴音から連絡があったのだ。
『日曜日、バイトがなくなったんですよね? お願いがあるんですけれど』と。
それは、臨時バイトの求人だった。
内容は、『沙耶と鈴香が1週間後にそれぞれの知人たちと遊園地に行くので、場慣れさせてくれ』というもの。
『なに? 場慣れってどういうことかな?』
『2人とも、異性と遊園地に行ったことがないんです。だからもう大変なんですよ』
やっぱり行かないとダダをこねているらしい。
『……お子様か?』
『ええ、お子様だと思ってください』
日曜日だからろくにアトラクションも回れないだろうが、そこは我慢してくれと琴音は言った。それに、庭師などの身近過ぎる男性ではお互いに緊張感が生まれてしまうし、逆に初対面の男性では固まってしまうため、隼人に依頼したのだとも。
『いいよ。バイトっつーことだし。ちなみに、琴音ちゃんは言ったことあるの? 野郎と』
『ありますよ。そこから進展はしませんでしたけど』
いやそこまで聞きたかったわけじゃないんだが。
『ついでっていうわけじゃないけどさ、琴音ちゃんも一緒にどう?』
電話の向こうの琴音の声が悲しそうなのは、希望的観測だよな?
『お目付役がいたら、うっとおしがられるだけですから』
『残念だなぁ。んじゃ今度そういう機会があったら、行こうよ』
『……ちょっと待ってくださいね』
『メモるな』
『あ、分かります?』
……かくして今日この場に至るわけだが、
「確かにお目付役じゃないけど」
「見張られてるわね、私たち」
「琴音のバカ」
そんなことを話しながら人の波に乗って、ゲートをくぐる――って、
「沙耶さーん! どこ行くんですか!」
沙耶が早速波に押し流されていきかけたのを呼び止めると、今度は鈴香だよ。
「鈴香ちゃん、何探してるの?」
「ビールですが」
「ここはアルコール類は売ってないよ」
だからこそ、琴音と相談してティスニィミーアにしなかったのだ。あっちは売ってるから。
「ていうかデート開始3分でアルコール、ダメ、絶対」
「で、デッデデデデデート?!」
「……なんだと思ってたんすか、これ」
沙耶と鈴香がキョドり始めたのを眺めていると、瞳魅と琴音の押し殺した――しかし聞こえよがしな会話が聞こえてくる。
(隙あらばお酒を呑もうとするんですね……)
(だからお金が溜まらないのに……)
背面から小姑の声。振り向いても姿は見えず。
「鈴香ちゃん、背後霊なんか気にしちゃだめよ」
「いや沙耶さん、さすがに初デートで朝っぱらから飲酒はちょっと……」
そういえばるいと薄着基地の航空祭に行って、鯨飲されたことを思い出す。あの時は好きなだけ飲ませてやる約束だったから許したけど。
会話を交わしているあいだに、すっかりアトラクションには長蛇の列ができてしまった。
「これ、並ぶの?」
眉をひそめ始めた沙耶と鈴香に訊いて、彼女たちの意見が一致したものに一つだけ並ぶことにした。
そこへ向かいながら、2人の顔をさりげなく見やる。
『デート』という単語に挙動不審にはなったが、沙耶はすぐに落ち着いたようだ。道往く人々を澄ました顔で眺めながら、どことなく浮き浮きしているように感じられる。
一方、鈴香もお酒の件こそ残念そうだったが、テーマパーク特有の高揚感が彼女にも伝染したのか、口元にほころびが見られるようになった。
「1時間30分待ち、か……」
「ま、並ぶのも楽しさのうちということで」
これが終わったら、お昼にすればいいか。
「ちょっと、並んでてくださいね」
2人に断って、近くの屋台に向かった。クレープを3つ買って戻り、
「はいどうぞ。こっちが沙耶さんで、これは鈴香ちゃん」
「え?! あ、ありがとうございます」
「あ、いや、私がおごるようにって……」
素直に受け取った鈴香とは対照的に、沙耶は口を滑らせたことに気づいて語尾が消えてしまった。琴音から『隼人さんにおごらせちゃダメ』とでも言われてきたんだろう。
心配させないように、笑顔を作る。
「大丈夫っすよ。お昼、おごってください」
安堵した表情で笑み返してくれた沙耶には悪いが、隼人は少しだけ嘘をついた。この混み具合で、レストラン系はとても入れないだろうから。
「鈴香ちゃんは、甘い物もいけるんだね」
「ええ、大好きです」
「それがお酒と油物と渾然一体となって――」
にやりと笑った沙耶が、鈴香のわき腹を掴もうとした。すかさず防御の構えを取る鈴香。だが、それはフェイクだった。もにゅっ、と擬音が聞こえてきそうな勢いで掴まれたのは、鈴香の胸だったのだ。
「ね? ここに溜まるわけよ」
「沙耶さん、ほんとそれ、好きなんですね……」
「隼人さんもガン見しないでください!」
(ほんとに不思議な人だな……)
鈴香に謝りながら目を逸らし、ふと思う。
沙耶のことである。
人見知り、と単純な一言では片付けられない。いきなりこんなことをしでかしたりするし。そう思いながら見つめると、すぐに視線に気づいて顔を背けてしまう。以前は避けられている(もしくは嫌われている)と思っていたのだが、どうもただ単に慣れていないだけのようだ。ちょっと安心する。
鈴香がものすごい目で、隼人と沙耶をにらんでいる。話題を変えるか。
「今日は逆なんですね」
「? 何が?」
「服装ですよ」
いつもはズボンを履いていることが多い鈴香がスカートで、沙耶がジーパンを履いてきたからと説明した。
「まあ、たまにはこういうのも履かないと。スースーするから好きじゃないですけど」
「……変?」
なぜかじっとりし始めた沙耶に笑いかけて、首を振る。さっき見かけたところによると、隼人の知らないブランドのタグが腰の後ろについていた。隼人が買うような量販店のとはモノが違う感じで、
「良く似合ってますよ。鈴香ちゃんも可愛い格好だね。もっとそういう格好すればいいのに」
(9時37分 服装を褒められて、頬赤らむ、と)
沙耶が隼人に断って、列から離れようとした。
「あ、お手洗いなら一緒に行きます」と鈴香がついていきかけたが、
「違うわ」
沙耶はぐるりと周囲を見回して、さりげなく言った。
「ちょっとあれ、駆逐してくるから」
「やめてください」
出入り禁止どころの騒ぎじゃなくなるので。
やっぱりレストラン系には入れず、お昼は屋台のホットドッグやらハンバーガーやら、ファストフードになった。それを奇跡的に目の前で空いたベンチに座って食べる。
(鈴香ちゃんはともかく、沙耶さん、大丈夫かな?)
などと余計な気を回したのだが、ジュース片手にぱくついているのを見て、
「今、意外と庶民的だなって思ったでしょ?」
「あ、バレました?」
隼人は照れをごまかすと、自分も昼食に取りかかった。
「そんなにいいもの、普段は食べてないわよ。よく誤解されるけど」
「そうそう」と鈴香が笑った。
「から揚げもあんまり出てこないし」
「なんで胸をガードするの?」
沙耶さんがから揚げに反応したからだと思う。
「ほんと止めてくださいよ。男の人の前で……」
鈴香が胸の前で腕を交差させたまま、こちらをチラチラ見てくる。頬を赤らめて小さくイヤイヤをするさまは、ちょっと可愛い。
「? ああ、そういえばそうだったわね」
「……いま、完全に俺を男として認識してませんでしたね?」と泣く。
「そうなのよ」と首をかしげる沙耶。
「ゲートから入ってしばらくしたら、すーっとそういう意識が薄れていって、気にならなくなっちゃったわ。わざとやってないのよね?」
そんな奇天烈なスキル、持ち合わせてません。隼人は嘆いて見せた。
「いやほんと、大変なんですよ。ゼミでも、ずっと同じ位置に座ってたのに、女の子同士の会話をこっそり聞きに来たようなこと言われたりして」
というか、なぜ鈴香はそうならない(・・・・・・)のだろう?
そんなこんなの会話をしながら、ふと思い至ったことがある。前々からなんとなく思ってはいたのだが、こうやって長時間一緒にいて眺めてみると、
(沙耶さんも、いい身体してるな……)
そして、沙耶があまりズボンを履かない理由もなんとなく分かった。
(脚が太いの、気にしてるのかな)
気温が上昇してきたのもあるのだろうが、さっき隼人がズボンのことに言及したとたん、薄手のピンクのパーカーを脱いで腰に巻きつけたのだ。隼人の嗜好では太いという感じはしないのだが、いやむしろむっちりめのほうが――
隼人の男としての性は、後頭部への突然の衝撃によって中断された。攻撃元は沙耶でも鈴香でもなく、
「……ゆで卵」
ああ、ほんとに見事な隠れっぷりだなあ。もしかして、凌の忍術か何かだろうか、まったく姿が見えない。
「やれやれだな……」
「――って言いながら食べるのそれ?」
「だってもったいないし」
「食べ物は粗末にしちゃだめですよね」
そう言いながら鈴香がハンカチで後頭部を拭いてくれた。
(琴音ねえさま、どうしてそんなことするんですか……)
(べ つ に)
つか、あっちは弁当持参かよ。
「2人とも、暇なのね……というか、監視は2人だけか」
ジュースを飲み終えて、沙耶の目がいたずらっぽく光った。存外に可愛い表情で、つい見とれてしまう。
「撒こうと思えば撒けるわけね」
だが、鈴香は黙って首を振ると、斜め上を指差した。上空遥かに浮かんで、ゆっくり旋回しているそれは、『あおぞら』が鷹取家の傘下に入ってから現場上空でいつも見かけるようになった代物。
飛行音は、この数多の客が放つ騒々しさと園内に流れるBGMに紛れて、まったく聞こえない。いや、たとえ今全ての音が園内から消えても、果たして聞こえるかどうか。それゆえの軍用機――無人偵察機なのだから。
「母様……何が狙いなの……?」
ということは、アレは琴音の監視とは別系統ということか。
「あれですか? 大事な娘や親戚が、馬の骨に傷物にされないように見張ってるとか」
(総領様的には全然オッケーですよ)
「小姑からGOサインが出たよ……」
だからって『じゃあいただきます』とはしないんだが。こんな場所では特に。
2.
「じれったいわね……」
『居酒屋 むかい』のカウンターで、総領はじりじりしながらモニターをにらんでいた。無人偵察機のカメラでズームアップされたティスニィラントの園内。そこに移る沙耶と鈴香、そして隼人は、いたって和やかに昼食を摂っているところだった。
コーヒーが、総領と海原本家当主・海原雪乃の前に置かれた。こちらも昼食が済んだばかりなのだ。それを供した店主――向井皐月が煙草に火を点けると、紫煙を吐き出しながらなだめるように言った。
「美弥と違って、沙耶ちゃんは奥手なんだからよ。そんな急にベッタベタくっつけるかよ。なあ雪乃?」
振られた雪乃はにっこり笑った。
「そうですよ、美弥様。やっとここまでできるようになったんですもの。予行演習としては、バッチリだと思いますわ」
「予行演習? ああ、いるんだっけ? 好きな人」
「ちょっと待って。私と違ってって部分を訂正しなさいよ!」
もちろん訂正など引き出せるはずもなく、強いて引き出すつもりもなく。総領は皐月の出してくれたコーヒーをゆったりとすすった。
「そう、大学の同僚。その人と学生たちと、今週行くのよ。でもねぇ……」
「でも、なんだよ?」
総領が濁した説明は、雪乃が補った。彼女もコーヒーを一口飲むと、苦笑いがかすかに見える表情で語り出す。
「今一ピンとこないわねぇ、なんておっしゃるんですよ。出自も経歴も、その他諸々、十分な方なのに」
そう、海原の調査部から上がってきた調書を何度読み返しても、ピンとこないのだ。
現在は息子に総帥の座を譲ったとはいえ、彼女は今も財閥の根幹をなす企業を複数その指揮下に置く身である。総帥であった頃から今まで、人事面で重要視してきたのは、経歴を頭に入れたうえでの直感だった。それで外れを引かなかったことは、彼女の密かな自慢である。
「じゃあ、この当て馬君はどうなのさ?」
身も蓋もない発言をした皐月のくわえ煙草を軽くにらむ。
「当て馬なんかじゃないわ。あのサカイコ様ににらまれ嘆かれた、重要人物よ?」
大きく息をつき、総領は話の続きを待って煙草をくゆらせる皐月からモニターに視線を戻した。
「不思議な子よ。このあいだのお花見の時に思ったのだけれど、自分がしっかりあるような、ないような……」
「それは、ピンとこないとは違うのかい?」
皐月はそう言うと、にたりと笑った。
「ま、美弥の勘ってのも、信用できないねぇ」
「どうしてですか?」
雪乃の問いは、皐月の口元に浮かぶ三日月をいっそう歪めた。
「旦那は今、どこにいるんだっけ?」
そのことか。総領は深く息を吸い込む。そして、穏やかな顔を皐月に向けた。
「だんな様はまだ、ブラゼイロで頑張ってらっしゃるわ」
「がんばって、ねぇ……」
皐月の表情は茶化すようなものに変わった。だが、双方ともに目が笑っていない。そのピリピリとした雰囲気を破ったのは、雪乃の落ち着いた声だった。
「あら、沙耶ちゃんたち、動いたようですよ」
3.
もう一つアトラクションに並んで待つ。2人の意見がそう一致したので、その場所に向かった。ソフトクリームを舐めながら。
「またそんな脂肪分を……」
「沙耶様だって他人にどうこう言える細さじゃないですよね?」
「まあまあ。2人とも健康的でいいじゃないですか」
結果、2人ににらまれる羽目になった。
「やっぱり隼人さんはそういう目で見てたんですね」
鈴香が絞り出すような声で――正直なんでそんな声をするのか分からないが――涙目になるのを、打ち返す。
「うん。俺、男だし。鈴香ちゃんはそういう目で見ないの? あの人イケメンだなとか、背が低いなとか」
押し黙る鈴香の横で彼女の肩を抱いて、沙耶がとりなしてきた。
「鈴香ちゃんは嫌なのよね、そういうことにコメントする男子が」
ごめんね、私がやり過ぎたわ。素直に謝られて、鈴香は渋々ながら落ち着いたようだ。と思ったら、
「ねぇ、ああいうこと、ボランティアの女の子にも言ってるの?」
今度は沙耶が詰問調。上目遣いににらんでくる。
「ええ、まあ」
「なんにも言われないの?」
呆れた様子だったので、優菜に思わず言ってしまった時のことを話した。
「……痛い目を見てるのに、やめないのね」
「その時は反省するんですけどね。沙耶さんは、やっぱりイヤですか?」
問いかけに、押し黙ってしまう沙耶。歩く速度も落ちて、今日何度目かのじっとりし始めてしまった。
待つこと数分、ぼそっとつぶやいた言葉は、正直意外なものだった。
「……慣れてないから」
イヤじゃない、ということなのだろうか。その表情からは読み取れない。
なんとなく、鈴香が隼人と距離を取り出したような気がするが、構わず進む。それを、鈴香自身に追及された。
「謝らないんですね」
「ん? そうだね」
目を見張る2人の顔を代わる代わる見て、隼人は薄く笑った。
「だってこれ、沙耶さんと鈴香ちゃんのお試しデートだろ? こういう男、絶対いるぜ? そいつら全員に渋面しっ放しにするの?」
立ち止まってしまった2人に、もう一度笑いかけて、
「言われてイヤなのは分かったよ。でも、少なくとも俺は褒めてるつもりなんだ。沙耶さんにも、鈴香ちゃんにも」
背後霊が何か言おうと声を上げかけたのを、横目でにらんで黙らせた。
「……ありがとう」「もうちょっと、控えてください」
お互いの反応にちょっと驚いて凝視しあう2人が黙った分、小姑のさえずりが聞こえだした。
(芝生をむしっちゃダメってご当主さまに叱られたことないですか?)
(言われたわよ。それがどうしたのよ)
存外、子供っぽいところもあるんだな、琴音ちゃんって。そんなことを考えた後、隼人は悩んだ。あの2人をいっそのこと呼び出して、一緒に遊ぼうかと。
だが、相談した沙耶の答えは明快だった。黙って首を振ると、隼人の腕を掴んで引っ張ったのだ。
「ほら、進んだわよ」
どことなくやけくそ気味な、でもまあ顔の赤みを良いほうに取って、隼人は素直に従った。黙ってついてくる鈴香の表情が面白がっているように見えるが、まあいいか。
そこからしばらく雑談の後、ようやくジェットコースターに乗ることができた。午前中の体験型アトラクションでは沙耶とペアだったから、今度は鈴香と一緒に乗ろうと思ったのに、
「いえいえ、沙耶様どうぞお先に」
やっぱり根に持ってるのだね、キミは。
沙耶に先に乗ってもらって、自分も安全バーを下ろし、隼人は少し深呼吸した。そういえば、ジェットコースターなんて本当に久しぶりだ。前の前の彼女と乗って以来だな。
(あの子、いまどうしているのかな)
今年の春に短大を卒業したはずだから、どこかで保育士をやってるんだろうか。
そういえば、あの子はベタベタさんだったな。会ってる時はずっと横に座ってくっついてきてたし。周囲の目を気にしつつも、チャンスさえあればキスをせがんでくるし。ジェットコースターはずっと手をつなぎっ放しで――
「あの……沙耶さん?」
我に返ると、隼人の手がいつの間にか握り閉められていたのだ。驚いて安全バー越しに見た彼女はまっすぐ前を見据えて、表情が硬い。
(嫌なら手なんかつながなきゃいいのに……デートって言ったから、無理してるのか?)
その答えは、15秒後。
「キヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
隼人の左耳をまさにつんざく悲鳴は、真っ白な顔色の沙耶が発したもの。同時に、隼人の左手は、いや、左手の骨は別種の悲鳴を上げ始めた。
「痛い痛い痛いっす!! 沙耶さん、落ち着いて!!」
がっちりぎっちり握り締められて、かつ安全バーが邪魔して振りほどけないのだ。
本当に痛い時、人は吐き気を覚えるものだ。ただでさえ胃と脳がシェイクされているというのに、そこに激痛までブレンドされて、隼人の3分間はまさに地獄のジェットコースターだった。
「大丈夫ですか?」
「……なんとか」
ジェットコースターを降りて近くのベンチにへたり込んだ隼人を見て、さすがに気の毒に思ったのだろう、鈴香がトイレに走って、ハンカチを濡らしてきてくれた。お礼を言って受け取り、手を冷やす。
「動きますか? 指」
「痛みが治まらないとどうにもこうにも……まあ、日が落ちたら変身して治癒すればいいから」
隼人は横に座る沙耶を見やった。顔色は白から青に変わったが、すっかりうなだれて、口をきいてくれないのだ。
「沙耶さんこそ、大丈夫ですか?」
彼女は隼人とは別の意味で重症だった。安全バーのロックが解除されるやいなやそれを押しのけて、出口へとダッシュしたのだ。隼人たちが降りてきた時にはトイレからふらついて出てきたから、おそらく吐いたのだろう。
「……ごめんなさい」
「空挺降下は平気なのに……」と鈴香も不思議そうにつぶやいた。
「でも、よかったじゃないですか」
そう言いながら、隼人は痛みが少しだけ治まった手を恐る恐る握ったり開いたりしてみた。甲に痛みが走るが、軽傷の部類だろう。
「今度来た時は、そんな姿を見せなくてすみますよ。『絶叫系は苦手だから』って乗らなきゃいいんだから」
その時、隼人の胸にもやが広がった。苦しくて思わず無事なほうの手で胸を押さえてしまう。
「あ、あの、大丈夫? ごめんなさいほんとに」
「救護所行きますか?」
心配してくれる2人に笑顔を作って、大丈夫だと告げた。なおも顔を曇らせたままの彼女たちを見て、このままではだめだと奮起して立ち上がる。
「大丈夫ですよ」
これは多分――
「はやとくーーん!!」「はやとせーーんぱい!!」
黄色い叫び声とともに道の両脇から跳び出してきたのは、沙良と優羽だった。そのまま左右に展開し、隼人の両腕に飛びついてくる。
「さ、選手交代よ! 私と遊びましょ?」「痛い痛い痛い!」
「えええあたしのほうですよね、せーんぱい?」「引っ張らないで痛い!」
「分かった、分かった、分かりました」
とりあえずそう言って、2人にこの腕が引きちぎられそうなのを止めた。
「みんなで一緒に行こう。でもその前に、優羽ちゃん?」
「はぁい」
にっこり笑って、
「沙耶さんが落ち着くまで、とりあえずおやつでも食べない? どこがいいかな?」
一瞬だけ軽くにらんで、すぐ笑顔になった優羽は、店の物色にスキップしていった。
お次は、
「会長、どこ――」
「沙良です」
「……沙良さん、どこ――」
「沙 良 ちゃ ん」
「……あくまで押し通す気ですね?」
埒が明かないので、妥協する。沙耶と鈴香がなぜか不穏な空気になってきてるし。
「沙良ちゃん、どこ行きたい?」
「んふ、5時半から近くのホテルでディナー――」
「みんなで。オッケー?」
シクシク泣き真似を始めた沙良を眺めていると、優羽が帰ってくる声が近づいてきた。
「琴音ねえさま?」
「なに?」
瞳魅は琴音が振り返るのを待たず、疑問をぶつけてみることにした。多分返ってこないであろう、ある意味での愚問を。
「どうして沙良様と優羽に通報したんですか?」
「別に」
さ、合流するわよ。その言葉に声を立てず笑って、瞳魅は琴音の後を追った。