第3章 風、“彼女”、ナイフ
1.
"彼女"がようやくお目当ての店を探し当てたのは、もう陽も落ちてかなり経ってからであった。駅前の商店街から相当離れて、うら寂しいシャッター通りにぽつんと明かりがともっているその店は、東京に出てきたら訪ねたい店のリストトップにあったのだ。
街灯がチカチカする歩道を、足早に向かう。人っ子一人通らない暗い町角。18歳の女子が独りで歩くような場所ではない。ここまでの道沿いに点在していたバーや居酒屋はまだ開店準備中だったが、そこがオープンすれば、酔漢どもが道を闊歩しだすだろう。女子にはますます危険度が増すというものだ。
"彼女"は不敵に笑った。酔漢が束になってかかってきても、彼女に指一本触れることなどできないだろうから。だが、すぐに表情を引き締める。"彼女"独りの知覚では、察知できる範囲など限られているのだ。油断大敵。今何気なく通り過ぎようとしている路地裏から手が伸びてきて、引き込まれたうえ暴行される可能性もあるのだ。
暴行される。その想像にゾクゾクして、また表情を引き締め直す。それを3回繰り返した"彼女"は、ようやくお店の前に到着し――表情の引き締めを無意味にした。ショウウィンドーの中に陳列された品々に、相好を崩して見入ってしまったのだ。
控えめな、というか地味目のライトアップに輝く、数々のナイフを。
1時間後。店主の畏敬を籠めた挨拶に送られて、"彼女"は店を出た。
充実した至福の時間を満喫し、幸せな気分のまま路地裏の暗闇に滑り込む。ガサガサと音をさせて紙袋から取り出したのは、2本のナイフだった。
紙袋になんて入れなくていいと断ったのだが、店主の困り顔を見て悟ったのだ。購入品をむき出しで持ち歩いて警察に見つかったら、自分だけではなく店にも迷惑がかかるのだということを。
「これからはバッグを持ってこよう」
そうつぶやいて、1本ずつを握った"彼女"は、ヒュッと風を切って手とナイフを振り上げた。するとどうだろう、宙で停止したその手にあったはずのナイフが掻き消すように消えてしまったではないか。
そう、本来は紙袋もバッグも要らないのだ。手を一振りするだけで、その手にしていた小物を隠し持つことができるのだから。だが、店主の前や往来でそれをするわけにはいかない。
"彼女"は微笑む。それは素敵な得物を手に入れることができた満足感か、あるいは己の技に対する満足か。
路地裏から出て帰宅しようとしたその時、"彼女"の知覚は往来の遠くで始まったらしき騒ぎを察知した。酔っぱらいなどではない。これは、
「妖魔……?」
"彼女"はほくそ笑んだ。東京に出てきた目的のうち、最後の一つを早くも果たすことができそうな予感に。
"彼女"は胸の前で指を組み、印を結んだ。そして街灯が作り出した影へ、潜っていった。
速やかに、音もなく。
2.
その頃、別の"彼女"は浅間商店街の人の流れに逆らって、駅へと歩を進めていた。おろしたてのパンプスを履いたその足取りは重い。
一つには、できたばかりの同級生からの誘いを断ったことがある。
『せっかく大学生になったんだし、男子とコンパしようよ!』
盛り上がった同級生たちの誘いを、散々迷った末、断ったのだ。
男子とのコンパに苦い経験があることは告げず、ただ『レッスンがあるから』という言いわけをして。
(やっぱり、無理してでも出るべきだったかな……)
でも今さらだと何回自問自答しただろう。そのたびに溜息をつき、その重みが足に加わってゆく。
もう一つ。ピアノレッスンは本当にあったのだ。日時は変更可能だったのだが。足取りを重くしたポイントはそこじゃない。
アリバイを作るため早めに到着した先生宅で、見てしまったのだ。"彼女"より流麗にかつ正確に、そして自分流の解釈を加えてソナタを弾く中学生を。
『いいところに来たわね。この子と連弾をしてちょうだい』
虐めか。虐めだな。それでも先生の指示に従って連弾をし、散々にとちって迷惑をかけ、自分のレッスンをどうやって終えたか記憶も無いまま、こうしてのたりのたりと駅へ向かっている。それが"彼女"の夕方からの惨状だった。
分かってる。自分がピアニストとしては大した腕ではないことを。大学に入学して1週間、同級生や先輩の力量に感嘆し、嫉妬し、発奮してがむしゃらに練習をしたのだ。
それを、見事に打ち砕かれた。中学生に。
辞める? そんな選択肢はない。幼稚園の頃から弾き続けてきたピアノを辞めるなんて、できない。大学の音楽科に通うため、両親に啖呵を切って出てきたのだし。
それも今さらながら、『啖呵を切る』という行為自体が、自分の才能の限界を現しているのだろう。圧倒的な才能を持っているなら、あの中学生みたいに弾けるなら、反対する親などいないだろうから。
そこまで思い及んで顔を上げた"彼女"の涙でぼやけた視界の端を、旧知の人が通り過ぎた。
「?! 理佐さん?」
慌てて眼鏡を外して目をこすり、去った方向を見やる。あのしゃきっとした後ろ姿、確かに理佐だ。
海原満瑠・江利川千夏ペアのファンとして――理佐は満瑠派、"彼女"は千夏派だが――コンサートで何度も顔を合わせ、憎まれ口半分の冗談を言い合える仲。そういった知人の1人が理佐だ。大学受験の忙しさですっかり忘れていたが、
(そういえば、浅間大学だって言ってたっけ)
走っていって、声を掛けよう。そう決めて追いかけたのだが、すぐに異変を感じた。スマホをちょっと眺めた理佐の表情が引き締まったかと思うと、どんどん人気のないほうへ行くのだ。そして路地裏の暗がりに飛び込んでしまった。
(あとをつけてるの、ばれたかな?)
でもあの足音、逃げている音じゃなかった。むしろ確信に満ちたものだった。
よせばいいのにと心中苦笑しながら、暗がりの入り口まで小走りにたどりつくと、そっとのぞき込む。どうして自分がそんなことをするのか、分からない。
白い光。それが"彼女"の眼を射た。フラッシュライト? 違う――
(なに? あれ……)
大きな雪の結晶が理佐の全身を上下に往復すると、その身にはまるでアニメか何かのキャラクターのようなコスチュームがまとわれていた。そして、
「よっ、と」
理佐はジャンプして、隣り合ったビルの壁を交互に蹴り登る。3階建てのビルの屋上までたどりつくと、軽々と隣のビルに飛び移り、消えていった。
バカみたいに唖然として夜空を見上げる"彼女"。目からの電気信号が星々の瞬きを脳に伝えて数瞬、"彼女"、浦永陽子は場所もわきまえず絶叫した。
「な――なにあれぇぇぇぇ!!」
3.
今夜の敵は、長爪4体に金剛5体。いつもの倍という大部隊だ。
「早いな、ブラック」
「ああ、近所で交通誘導やってたから」
バイトを終えて、近くの暗がりに駆け込んで確認した端末――鷹取家から無償貸与されたもの――に表示されていた戦闘開始時刻から考えて、15分は優に経っている。
軽傷の見受けられるルージュに言葉を返して、手近な金剛に三段ロッドを叩きこむ。だが、黒く筋をつけただけでさしてダメージを与えた様子もなく、弾き返されてしまった。
金剛は、疫病神が送り込んでくる妖魔の一種である。その名のとおりいかつい身体と硬い皮膚を持つ。長爪より動きが鈍いが、腕力に任せたその攻撃はまともに食らえばただではすまない。
ラディウス光線による攻撃に切り替える。少しずつでも削っていかないと、今オンステージしている戦力――ブラック、ルージュ、イエロー、トゥオーノ――では、一気にいくのは難しいだろう。
『アルファ、鷹取の人は?』
イヤフォン越しにブランシュの声が聞こえてきた。息を弾ませているのを聞くに、こちらへもうすぐ到着するくらいまで来ているのだろうか。
ブラックが長爪の攻撃を三段ロッドで跳ね除けていると、
『あと1分よ。もうそろそろ聞こえない?』
その語尾に、頭上からのヘリの飛来音が被さった。
「来たね」とイエローが反応し、
『いまイエローがいる辺り、街灯で明るい辺りを降下ポイントにします』
と琴音の声で通信が来た。
「ポイントの手前で食い止めるぞ!」
ルージュの掛け声で、スキルを放って牽制しながら走り、降下ポイントと妖魔たちのあいだに立ち塞がった。次いで、道路の横幅いっぱいにプリズム・ウォールを展開する。この地区にしては広めの道路なのは、かつては商店が軒を連ねていたからだろうか。シャッターが下ろされている建物のほうが多いその変遷は、地元民でないブラックには分からないが。
ガリガリ、ドンドンと光壁を攻撃する音を聞きながら、息を整える。イエローと手分けして負傷を治癒していると、降下ポイントに琴音と鈴香、もう1人面識のない巫女が降りてきた。
相変わらずヘリボーンに慣れないのか、ゼイゼイやっている鈴香。だが、彼女が落ち着くのを待つ余裕はなく、光壁が破壊された。むろん雑談などしていたわけではなく、
「行けっ!」
琴音が用意していた月輪を複数本飛ばし、鈴香たちもそれに追随する。命中率の高い月輪は機動力の高い長爪に偏して使用されるのがセオリーである。ならば、こちらも溜めておいたやつをぶちかます!
「ラ・プラス フォールト!」
ちょうど真正面、10歩ほどの距離にいた金剛の胴目がけて最大攻撃を放つ。避けるというより身をよじって逃れようとした金剛は失敗し、絶叫を残して爆散した。その横の金剛はブランシュのゼロ・スクリームで氷結し、別の金剛はルージュの炎の矢で貫かれて炎上して、軽い地響きを上げながらのたうちまわっている。
「トゥオーノ、いくで!」「はい!」
電撃系2人の同時攻撃で、最右翼にいた金剛1体と、その周りで月輪の攻撃を受けて呻いていた長爪が電撃の洗礼を浴びた。残るは左翼の金剛1体と、長爪1体。その時、
「遅くなりました!」「したー」
瞳魅と優羽が敵の横にある路地から走り出てきた。
「優羽、長爪お願い」
瞳魅は金剛と近接戦闘を始めた。金剛の拳が唸りをあげるが、インファイトをする気は瞳魅にはないらしい。くるくるとステップを刻みながらかわしつつ、拳や蹴り、遅刃を当てていく。
一方、優羽は。
「いやぁんなんでまだ生きてるのこれぇ」
手負いの長爪にすらきりきり舞いしている。
「いやぁんやないやろ」「あれが噂のブリブリちゃんですか……」
電撃系二人の呆れ交じりの会話を場に残して、ブラックは救援に駆けつけた。「ブラック行かなくていい!!」というブランシュの金切り声も残して。
前後から挟み撃ちにするまでもなく、インフィニティ・ブレイドで斬りつけてみたら効果てき面、長爪はぱたりと倒れて動かなくなった。それを確認して振り向きざまにラディウス光線を発射! 左の肩口に命中して動きの止まった金剛に、瞳魅の右正拳突きが決まり、金剛は胸を貫かれて死んだ。
「ふう、終わった終わった。お疲れさん」
優羽にそう声をかけたら、浮わついた声が眼を星のように煌めかせた顔から返ってきた。
「隼人先輩、あたし嬉しいですぅ! 助けてくれるなんて!」
「いや、コードネームで呼んでくれないと困るんだが」
「あ! そっか! いっけなーいテヘっ」
残してきた人たちからのコメントは、実に冷たかった。
「な? あのテヘっまでがテンプレートやで? どや、取り入れてみたら」
「……わたしに社会的に死ねとおっしゃる?」
「自分自身にいたたまれなくて自害しちゃいそうだな、あたし」
「ご親戚的にはどうなの? あれ」
意外と冷静な白い人の問いは琴音に向けられたものだったのだが、
「……感動だわ」
琴音よりも鈴香よりも早く口を開いた面識のない巫女は、目を潤ませていた。
「感動?」
「ええ。ラ・プラス フォールトやインフィニティ・ブレイドがこの目で見られるなんて」
「聞いてない……」
鈴香がこめかみを揉み始めた。
いつの間にか現れた庭師たちが妖魔の遺骸を片付け始めた。3時間ほどで黒い砂状になって消滅するとはいえ、それまで路上に放置するわけにもいかないのだ。琴音がぱちんと手を叩いた。
「さ、撤収しましょう。ルージュさんたちは、車呼びました?」
ルージュはかぶりを振った。
「ううん、この片付けを手伝ってから帰るよ。あたしらのほうが重い物持てるし」
「いつもありがとね。本当に助かるわ」
と巫女。戦闘中は気づかなかったが、結構な年配の人だ。
「いえいえ、ボランティアですから」
そう笑い合ったブラックたちだったが、次に聞こえてきた声に仰天させられることになった。
「すみませーん、わたしもそのボランティア、やりたいんですけど」
声の主は、女の子だった。小柄でスリムな体躯に、短めの髪に活発そうな容貌。そこには怖気づいたような色も、遠慮するような様子もまったく見えない。
路地裏の暗がりから出て優羽のちょうど背後に現れたその子を見て、彼女は挙動不審になった。
「え?! あれ? そこ、誰もいなかったのに……あれぇ?」
優羽の狼狽した叫びをよそに、ブラックたちは新来の女子を向かえるべく歩み寄ることにした。
4.
「狗噛……凌さん?」
「はい」
支部長に学生証を返してもらうと、凌はにこりと笑った。
西東京支部に帰ってきて、支部長室は久しぶりの千客万来であった。いやそれは、久しぶりのフロントスタッフ希望者が来たからでもある。
隼人の見たところ、敏捷そうだし、頭も切れそうだ。それに、
「うん、素質あるんじゃないですか?」
優菜が先んじて代弁してくれた。素質、すなわちエンデュミオールとしての、である。
「へぇ、分かるんですか」
「なんとなくだけどね。強いかどうかはともかく」
瞳魅に答えていたら、優羽が瞳を輝かせた。
「じゃあじゃあ、あたしは?」「無い」
理佐の即かつ突き放すような答えに驚く。確かになさそうではあるが、そんなつっけんどんな言い方をしなくてもいいのに。
泣き真似を始めた優羽に、瞳魅が追い打ちをかけた。
「あんた、変身できなかったじゃん」
「ぐすん、瞳魅だってできなかったくせに」
仔細を問えば、ボランティアを辞めたフロントスタッフから沙良が回収した白水晶を借りて、変身できるかどうか試してみるのが流行ったのだというではないか。一族全員が試したわけではないそうだが、
「へぇ、誰ができたの?」と隼人が訪ねると、
「美玖ちゃんと霧乃ちゃんはできてましたよ。んーと、赤と緑だったな」
「霧乃ちゃん、近接戦闘キャラなんだ……」
「あのー――」
忘れてた。だが、口を開くより早く、ミキマキ――真紀は支部で待っていた――がユニゾンを始めた。
「「そーいえば、狗噛て、備前シノビ村のオーナーとおんなじ名前ちゃう?」」
「ええ、父です」
確か岡山にある、割りとメジャーな忍者のテーマパークだ。ミキマキは子どものころ行ったことがあるらしく、珍しい苗字だったので覚えていたらしい。
祐希がその話題に乗ってきた。興味津々なのがありありと分かる輝く瞳がおかしい。
「へーじゃあ忍術使えるの?」
「「いやそれはないやろ。あれただの観光――「使えますよ」
あっさりした声でミキマキを遮って、悠然とした表情の凌。支部長がそれに乗ってきたが、『なかなか言うわね』という大人の態度を崩していない。
「使えるって、どんな?」
「こんなです」
そう言い放ちざま、凌の身体が跳ね上がった!
ソファに腰掛けた姿勢からどうやったのか、大きく飛び上がるとくるりと後方宙返りをしたのだ。唖然と見守ることしかできない一同に、さらに追い討ちがかかる。足音も立てずに着地したかと思うと、なんとその身が4つに増え、すぐ掻き消すように消えてしまった!
声も出ず、立ち尽くす隼人たち。だが、ミキマキは即応していた。さっと背中合わせになって2秒、
「ほい」
美紀が出した足から衝突音が聞こえ、つまずかされた凌が出現した。いや、転倒しそうな勢いを利用して床に手を突くとまた飛び上がり、空中で向きを変えると、天井の一角にぴたりと張り付いてしまった。
座っていた椅子から跳ね上がってここまで4秒ほど。静まり返った室内に、ミキマキの揃えた声が響く。
「「すごいね自分。そんな術も使えるんや」」
ミキマキは、自分たちの影に向かって話しかけていた。
「「で、先輩のパンツ見て、何が楽しいん?」」
「そういう趣味は、ないですね。今のところ」
影から声が聞こえたかと思うと、また音もなく飛び出してきた凌が、今度こそ床に着地したままにっこり微笑んだ。
「うわ、あれ身代わりの術?」
「空蝉だ……すごい……」
天井の角に張り付いていたのは、凌のジャケットを背に羽織らされた支部長のデスクチェアだった。
凌が表情を変えぬまま、双子と少し距離を取る。
「わたしが前を通るタイミング、どうやって測ったんですか? もしかして、見えてました?」
「「いやいや、空気の流れでわかるよ?」」
瞳魅が隼人の腕を指で突いてきた。
(どういう意味ですか? あれ)
(あのアホ毛でいろいろ感知してるって説明されたんだけど。1年生の時に)
(……冗談、ですよね?)
隼人は肩をすくめた。冗談に見えないから困っているのだ、みんな。
「あのぉ――」と優羽が手を挙げた。
「リョウちん、白水晶いらないんじゃ……」
「いきなり気安い呼び方だな、おい」
「またいかにもそう呼びそうなネーミングセンスがむかつく……」
……どうして優菜と理佐は、優羽に対してあんなにツンケンするのだろう。真紀と美紀もか。
(俺のいないところで、なにかあったんだな。こないだの昼飯の後か……?)
まあ確かに、男に好かれるポイントに全振りした言動は、女子連には受けが悪いだろうなと容易に推測できる……って、隙あらばくっついてくるし!
「ねぇ隼人せんぱーい、そう思いませんかぁ?」
支部長室の空気が『ああ殺したい』という思念で満たされる中、それに染まらない3人、すなわち支部長と凌、瞳魅の会話は続けられていた。
「私のその、変身アイテムはどうなるんでしょうか?」
「今は手持ちがないわ。だから、私のを代わりに貸与ということにするわ」
「いいんですか? そんなに簡単に渡して」
瞳魅の怪訝そうな問いに、支部長は笑って答えた。
「会長のところに予備ができたら、それを私がもらうわ。これじゃないと変身できないわけじゃないし。と、その前に――」
「? ああ、ボランティアの加入手続きですね?」
「それもそうだけど――」
ソファに座りなおそうとした凌を、支部長が押し留めた。
「あの椅子、下ろしてもらえないかしら?」
30分後、大学の裏山。木々のあいだを吹き抜ける夜の風は少々肌寒いが、今宵は久しぶりに来訪者の交わす会話と熱気に溢れていた。
繰り返しになるが、久々のフロントスタッフ希望者で、しかも九ノ一という異色にもほどがある経歴の持ち主である。当然話題は、
「系統、なんだろうね?」になるわけで。
「炎系じゃねぇの? 火遁の術とか使えるっしょ?」と優菜が言い、
「いやいや、そこは水遁の術で」
とるい――経緯をメールで知らされて、男を放っぽりだして駆けつけてきた――の眼は輝いている。
「隼人先輩はなにか予想してますか?」
瞳魅に訊かれて、隼人は返答に困った。何も考えてなかったからだ。素直にそう告白すると、なぜかフロントスタッフたちににらまれた。
「お前、ほんと何も考えてないよな。時々」
「確かに予想したからどうなるものでもないけど」
「「ま、隼人君的にはもっと別のやね――」」
「そうそう! なんたって、人類の半分の敵ナンバーワンだもん!!」
「ほんとニューカマーだろうがお構いなしですね、隼人さん」
隼人は呆れ混じりに嘆いた。
「話がどんどん系統のことと関係なくなっていくんだが」
そして凌のほうを振り返った。
「さ、変身してみてよ」
「あ、はい」
白水晶をズボンのポケットから取り出したまま、凌が固まった。
「どしたの?」
「いやその、みんなに見られてるのは、結構恥ずかしいですね」
そのうち慣れるからとみんなに言われて、ようやく彼女は変身する気になって――白水晶を握った手をポケットに突っ込んだ。
「? 何してるの?」
「だって、スキルでしたっけ、それを発動する時に光るじゃないですか、これ。変身する時もそうみたいだし。九ノ一的にはそれはちょっと……」
分かるような分からないような理屈にみんなで苦笑すると、やっぱりそのままポケットの中に手を突っ込んだまま、
「では、変身」
コールした次の瞬間、凌の身体の周りを数え切れないほどの細く短い何かが、回転しながら巡り始めた。結構な速度で動き回っているためよく見えないが、光る刃物のような形状だ。
複雑な機動で巡ること3秒ほど、彼女がその一つに手を伸ばして触れた瞬間、光は全て彼女の身体の各所に衝突し、張り付いてコスチュームを形成。最後にもう一度全体で発光して、変身が完了した。
「ああなんだ、変身はやっぱり光るんだ……」
ちょっとがっかりしたような、でもどことなくうれしそうにコスチュームの点検を始めた凌を見て、優羽がうなった。
「なんか、地味目な色だねー」
「これは何系なんですか?」と瞳魅に振られて、隼人たちもうなった。
「鈍色……だよな」「アンヌさんと同じだ!」「てことは……」
「「武器強化系やな」」
それを聞いて少しだけ眼を見開くと、凌は何もコメントせずうつむいてしまった。本人が想像していたのと違ったのだろう。フォローしようか迷っている隼人をよそに、先輩たちと巫女たちがてんでにしゃべり始めた。
「武器……忍刀ですかねやっぱり」
「どーやって持ち歩くんだよそれ。忍びなら手裏剣とか苦無だろ」
「いやいやここはネタに走ろうよ! 鎖鎌、鎖鎌!」
「どうせなら鉤爪とかのほうが、戦闘力が高そうですよね」
「あ、じゃあおっきなガマガエルに乗って」
「やめてよ、カエル嫌いなのよわたし」
「いやぁん夢が膨らむねリョウちん――「うふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
突然、凌が含み笑いをしだした。今の雑談でおもちゃにされて、吹っ切れたのだろうか、止まらない。
隼人の予測は、まったく違う形で裏切られた。うつむいたままの凌が両手を軽く上に挙げて、しゃっと空気を切り裂きながら振り下ろす。その手には、1本ずつナイフが握られていたのだ!
肝を潰した一同などもはや眼中に無いかのように、ナイフを自分の目の前に持ち上げ、刃を月光に煌かせて含み笑いを再開する凌。
しばらくしてくるりと反転するや、まさに目にもとまらぬ速さで近くの樹に駆け寄り、踏み込みとともに右手のナイフを横薙ぎ一閃! 凌の胴ほどもある太さの幹に、芯まで達するほどの大きく真っ直ぐな切り込みをつけてしまった。
こちらに背を向けたまま、また眼前で刃を煌かせ、
「うふ。うふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ」
「な、ナイフ女……」
優菜の震え交じりのつぶやきは、凌の止まらぬ含み笑いとともに裏山の暗闇に吸い込まれていった。
5.
夕食もそこそこに下宿に駆け戻って、気を落ち着かせるためにピアノを散々弾いて。陽子は諸々で掻いた今日の汗を流すべくお風呂に入った。が、それもすぐに終わった。頭を洗っている途中に、ふとした思い付きが浮かんだのだ。
パソコンを起動し、ネットで情報を漁る。
「わたしが理佐さんを見送ったのが、この辺りだから……」
浅間商店街の地図を拡大し、次いでまた考え込む。
「で、跳び去っていったのがこっちの方角……」
地図を少し広域にして、理佐が跳び去った方角を探るが、ただのマップにそんな怪情報が載っているわけは無いと思い直す。ならば、SNSだ。
あんな派手なコスチュームの女が屋根伝いに跳んでいくのだ。目撃者がいないわけが無い。案の定、白い女の目撃情報が散見された。画像に添付されたGPS情報から見ても、浅間市内で間違いない。
さらに調べていくうちに、浅間市内に留まらず、日本各地で『屋根伝いに跳んで行く女』の投稿が見られるようになった。色もさまざまで、
「……広域的な組織? それとも、ただの偶然?」
もう一度"白い女"関連の投稿を見ようとした陽子は、首をかしげた。全て消えているのだ。つい10分ほど前まで見ていたというのに。
使用者が自分で消したのか。少し探してみたが、違うようだ。勝手に消えてしまったことを憤慨する投稿があるのだから。
じわり、と嫌な汗が流れる。自分がこうして情報を漁っていることも"抹消者"に探知されているかもしれないのだ。それでも、止められない。
「別の角度から……ん?」
浅間市内で検索していくうち、妙なものを見つけた。『大鹿商店街がいきなり通行止めだよどうなってんだ』というもの。そこの居酒屋に予約がしてあったのに、仕事がはねて現地に行ったら警察による通行止め。半年前のテロ事件に関する捜査だと説明されたが、そんなことがあったらニュースになっているはずなのに、無い。どういうこったという内容の投稿だった。
ほかにも大鹿商店街の通行止めに関するつぶやきが4件ほど見受けられる。
「あそこって、確か……」
ネット上の地図に戻る。理佐が跳び去った方角には、その商店街があった。
眼鏡を外して再び滲み出た汗を拭い、陽子は画面を見つめた。
警察が関与し、ネット上の情報まで抹消できる。もはや一個人などではない。巨大な組織の所業だ。
問題は、理佐が"どちら側"の人間かということ。
テロ組織側なのか、あるいは警察側なのか。
我ながら陰謀論者めいてるなと自嘲しながら、陽子はしばらく考え続けていた。