第2章 ツウコクウフっ。
1.
新学期を向かえて、浅間大学は1年でもっとも華やいだ時を迎えていた。言うまでもなく、新1年生が入学してきたためである。彼ら彼女らの醸し出す"大学デビュー"前の初々しさが、この華やぎの主成分である。やがて彼らもモラトリアムにどっぷりと浸かり、あるいは学究に身を捧げて、さまざまな意味で小奇麗かつ小汚くなってゆくのだ。
隼人は双子とともに、人文棟から下界へと下るべく、だらだらとした下り坂を下っていた。今日はゼミの新3年生歓迎コンパが6時から開かれる。まだ3時過ぎなのに街中へ向かおうとしているのは、この機会に服を買いたいという双子の要望に応えたためである。
「つか、なぜ俺が選ぶ? オトコに選んでもらったほうがいいんじゃないのか?」
今さらながらの疑問をぶつけると、美紀にも真紀にも言い返された。
「篠木君な、センスがいまいち無難やねん」
「今のオトコ、趣味悪いねん」
そういう問題ではないと思うのだが。
ため息を一つつきながら、空を見上げる。雲が少し出てきた茜色の空は、もういい加減に冬の時のあの吸い込まれるような高さを失いつつあった。
携帯が振動したのに反応して画面をのぞくと、琴音からだった。
『このあいだお話しした、一族の子たちのことなんですけど――』
お花見の時に、琴音から言われたのだ。
仙台に住んでいる鷹取と海原の子が1人ずつ、浅間大学に入学する。そこで2人にお花見に来てもらって皆に引き合わせようと思っていたら、親戚に不幸があって来られなくなったと。
『今お時間があったら、ちょっとだけ会っていただけませんか? それとも、夜、支部に行かせましょうか?』
「ごめん、今からミキマキちゃんと街へ行って、新歓コンパなんだ。ゼミの」
琴音は残念そうに、じゃあ明日にしますと言って電話を切った。
「「誰から?」」
琴音からかかってきた内容を伝えると、首を傾げられた。
「なんで、隼人君に会わせなあかんのやろね?」
「なんでやろね?」
「そういえば、そうだよな……」
今夜、支部に行って、その場にいる人に挨拶と自己紹介をすればいい。いなかった人には後日でいいんだし。
電話をかけなおすまでもないかと思い至って足を速めようとした隼人の袖を、双子が両側から引っ張った。ぐっと、力強く。
「ちょ、どうしたの?」
「人の気配が消えた」「ちゃう、生き物の気配が」
確かに、静か過ぎる。3コマ目が終わって人が出てくる時間なのに、人どころか鳥の鳴き声すらしない。
この大学は小山の山肌に張り付くように各学部棟が配置され、通路と中央広場、学生食堂の周辺以外は大学開設以前からある木々が文字通り林立する場所である。ゆえにさまざまな野鳥の鳴き声が始終聞こえるのだ。
いつの間にか、3人で背を合わせ、全周を警戒する態勢を取っていた。なぜだかは分からないが、直感に任せたのだ。
何か、おかしい。この感じ、いやでもまさか――
突如、隼人たちがいる道の左側上方から、咆哮が湧き起こった!
位置的に隼人の真正面の緩斜面を、異形の者たちが駆け下りてくる! あの姿、
「! 長爪?!」
「「隼人君、こっち」」
真紀と美紀に手を引っ張られ、3人でいま来た通路を駆け上がった。
「逃げないの?」と訊くと、
「下に逃げたら勢いに乗られてまうやろ?」
ああそうか、降りてきた長爪たちは、今度は斜面を上がらなきゃいけないのか。でも、どこまで上らなきゃいけないのかと思い始めた時、双子が急停止してくるりと妖魔に正対した。
「「隼人君、鷹取に通報お願い」」「え? お、おう!」
慌てて端末を取り出すが、そのあいだにも長爪4体が間を詰めてくる。妖魔への対処をするようになって5ヶ月余り、その醜怪な容姿には慣れたが、まだ陽が空に残っている時間帯に見るのは始めてだった。
ミキマキよりやや高い身長。容貌は、あえて形容すれば鬼だろうか。細身ながら筋肉のついた赤黒い全身で目を引くのは、一際ムキムキの腕と、その名のとおり長い爪である。この爪で斬り、突き、叩き折る。それがこの長爪の主な攻撃方法だ。
そいつらが、通い慣れた大学の通路を雄たけびを上げながら迫ってくる。現実と非現実が奇妙に混じり合った光景に唖然と――ミキマキはならなかったようだ。
同じく喚声を上げながら駆け下りて、長爪が振り回した爪を避けると、真紀は目の前の1体の膝にローキックを、美紀は別の1体の喉に拳を叩きこんだ!
「いったぁぁぁ! 喉も硬いな、こいつら!」
「美紀、うちらいま素やさかい、関節狙わな。打撃は効かへんで」
それぞれダメージは与えたものの、連打はせずに飛び退る2人。そこに、攻撃を受けなかった2体が迫る。早く援けに行かなきゃと焦りながら、起動した端末のアプリをタップした。
「通報よし……危ないっ!」
端末をポケットにしまうのももどかしく、隼人は突進した。美紀を襲う長爪の1体に、ぶちかましをかける! 生物にぶつかる嫌な感触は一瞬で、長爪も隼人も吹き飛んでしまった。
(なんか、昔もこんなことしたような……)
たたらを踏んで、なんとか踏みとどまる。肩が早速痛いが、もう一度――
その時、坂の下り方向から唸りを上げて、光る輪が飛んできた!
「月輪?!」
計4本と、妖魔の数と同じだけ飛んできたそれは、1本は外したものの、残りはそれぞれ長爪に命中し、悲鳴を上げさせた。
それに遅れて、女性が2人、坂を駆け上がってくる。
1人は髪の色から見て、海原の人だろう。短髪と引き締まった顔つきが、精悍さを醸し出している。その証拠に、上り坂も苦にせず駆けつけると、拳に青白い光をまとわせて、すぐさま妖魔に殴りかかっていくではないか。コンビネーションを繰り出してたちまちのうちに1体を破砕してしまった。
もう1人は、鷹取の人だろう。長く豊かな髪と羽衣をなびかせて、しかし明らかにバタバタとこちらに向かって走ってくる。この走力の差は、
(出遅れたのか、いやそれとも体格の差、かな……)
顔と同様に体躯も引き締まっているのが服越しにも分かる海原の人とは対照的に、鷹取の人はふくよかな身体を弾ませて、やっと現場に到着した。息を切らせているかと思いきや、そこは鷹取の巫女、すぐに妖魔に遅刃で斬りつけ始めたのだが、やはり海原の人より動きが鈍い。
とりあえず、"プロ"が来たからとミキマキのフォローに回った隼人だったが、長爪の絶叫が聞こえた先を「見るんじゃなかった」と後悔する羽目になった。真紀がその妖魔の両目を指で突き、潰していたのだ。のた打ち回っていた妖魔を海原の人が踵を落として止めを刺し、妖魔は全滅した。
と、突然鷹取の人が身を捩じらせてしゃべり始めた。
「いやぁん双子さんこわぁい」
甘えるような媚びるような、可愛らしいといえばらしいのだが、自分も遅刃で妖魔に斬りつけておいての言動に、思わず苦笑する。同じく苦笑いを浮かべながら電話をかけていた海原の人が、通話を終えて言った。
「どこかに穴があると思われます。それを塞ぐために応援を呼んだので、とりあえず、この場はお引き取りください。ご協力、感謝します」
「もぉヒトミったら、堅いんだからぁ」
「いや初対面だし、先輩だし」
お互いに傷がないか確認しあっていた真紀と美紀が、その言葉に反応した。
「「ああ自分ら、新入生の――」」
「きゃーほんとにユニゾンしてるぅ! かわいいー!」「うるさい」
頭をはたかれて大げさに騒ぐ鷹取の人を放置して、
「初めまして。海原瞳魅と申します」
「はじめまして! 鷹取優羽と申します! きゃはっ!」
「なんやねん、そのキャハッは」「分かったから、ポーズはやめぃ」
珍しく、双子がイラついている。戦闘の直後だから……じゃないよな。
自己紹介を返しながら、美紀が左の肩口を気にしている。長爪の爪の先がかすったらしく、服にかぎ裂きができてしまっているのが見えた。
「ありゃ、とりあえずこれ」
痛む肩に難儀しながらパーカーを脱いで羽織らせると、
「んじゃ、ごめんね。急ぐから」
と巫女たちに別れを告げて、坂を下った。
2.
次の日の朝。隼人は二日酔いで痛い頭を押して、就活のためのエントリーシートを書いていた。説明会に参加して興味を持った企業には、4月1日にはエントリーシートを送っていたのだが、昨日の新歓コンパで4年生同士の会話から興味を持った企業にも送ってみることにしたのだ。
溜息が再々漏れるのは、二日酔いのせいだけではない。
「めんどくさい……」
パソコンで入力したものをネット経由で送れる企業はいい。同じ質問項目なら、別の企業に送ったものからコピーアンドペーストできるからだ。だが、手書きで郵送せねばならない企業も存在する。3月下旬に大学の説明会で説明されてから一生懸命捻り出した回答があるので、それを書き写すだけとはいえ、
「めんどくさい……」
どうにか書き終えて盛大に溜息をついて、ごろんと寝転がった。封筒買って来なきゃ。
「「うー、頭が痛い……」」
「キミらもかよ」
結局あのまま寝入ってしまって、空腹で起きたら12時半。焦って飛び出し、車に跳ねられそうになりながら、そして重い頭と身体を無理やり持ち上げて運んだお山のてっぺんは、生ける屍が満ち溢れていた。ゼミの教室限定だが。
昼寝というか朝寝をして、多少は回復したといえるだろう。それでもまだ脳みそがアルコール漬けになっている感覚が消え去らない。
そして、教室を見回した隼人は衝撃の光景を目の当たりにした。委員長がぐったりしているのだ。あの酒豪の九州女子が、いったい何を呑んだら二日酔いになるんだろう。
近寄って、声をかけてみるか。
「委員長、大丈夫?」
女子が数人、驚いて止めるような仕草をしたが、もう遅かった。
無言で向けられたレンズ越しの眼は真っ赤で、潤んでいる。
(あ、違う。これ)
花粉症だとは聞いていないから、これはもっと深刻な原因に違いない。お年頃の女子にとって深刻な、
(オトコ関係だな、これ……)
どおりで周囲に人がいないと思ったら。二日酔いでなければ事前に察して近寄らなかったのに。
今さらながらの直感で逃げようとしたが、遅かった。
「隼人君……」
「なんでしょう?」
「……どうして、呑んでも呑んでも記憶って消えないのかな?」
何の記憶かと踏み込めば、やはり彼氏のことらしい。新歓コンパの最中に届いたメールで別れを切り出されて、何度電話をしても不通。押しかけた彼の自宅にも不在で、戻ってきて朝まで呑んだくれたのだというではないか。
「それで途中からいなくなったんだ……つか、メールのみで別れ話って、すげぇな」
二日酔いの午後に聞きたい話ではないが、うるうるしている女子――物凄くお酒臭くても、女子は女子だ――を放っておけない難儀な自分に正直に、横に座って話を聞いてあげることにする。
「だいたい、だいたい……」
「うん?」
委員長の目から涙がこぼれ始めた。ここがゼミの仲間たちで満たされた教室であること、その仲間たちの探るような雰囲気――ミキマキだけはなぜか隼人に面白がっているような視線を向けている――がこちらに集中していることすら忘れたかのように。
「なんであんな不細工と浮気するのよ! あんなへちゃむくれに、なんで……」
「そりゃあ、そのオトコの眼球が歪んで、そのへちゃむくれのほうが可愛く見えるようになったからだよ」
(むちゃくちゃな論理だな……)
(まあ確かに、自分よりかわいくない子と浮気されるとめっちゃむかつくわな)
(へー、そーゆーもんなの?)
同期たちの囁きが聞こえる。状況が分からなすぎて、本当に『へちゃむくれ』かどうかすら分からないんだが。
そしてこういう場合、失恋した女子が冷静かつ客観的な分析結果を求めているわけではないことを、隼人は知っている。たいていの場合、こういった揉め事は相手の女の子に非難がいきやすいものだが、今回はオトコにも悪者になってもらうしかないと判断したわけで。
その後も愚痴に付き合うこと5分、ようやく教官が来て、ゼミが始まった。その教官が開口一番、
「昨日言い忘れたんだが、卒論のテーマを今月中旬までに決めて、研究室宛にメールしといてくれ。それを見て、個別面談をするから」
ああ、卒論もあった。提出は来年1月とはいえ、参考文献を集めて読んでコピー取ってを就活と並行してしなきゃいけない。大学図書館にない書籍は都の図書館まで行かなきゃいけない……ああ、めんどくさい。
ざわめく室内を鎮めて、教官は講義を始めた。集中なきゃとホワイトボードを見つめた視界の端に、白い物がチラチラする。
ありがとね。すっきりしました。
ルーズリーフの端に書かれた流麗な文字に、ちょっとだけ笑ってうなずいて、元に直った。
2コマ続きの講義が終わって、さてバイト。の前に、封筒を買いに行こう。
今日も真紀や美紀と連れ立って山を降りていく。彼女たちも生協に用事があるのだ。
「ああああ、卒論……」
「美紀ちゃん、まだ悩んでるの?」
首を縦に振られた。が、姉は笑って首を横に振る。
「篠木君とのイチャイチャに忙しくて、考える暇がないだけやんか」
「違う!! ほんまにやりたいことが見つからんだけやって!」
だが、真っ赤になった頬が語るに落ちている気がする。そのことをからかいながら下っていくと、後ろから声がかかった。委員長だ。
「隼人君、さっきはありがとね」
そう言う委員長の眼は、レンズ越しにも分かるほど潤みをたたえている。そしてお決まりの、肘つねりが始まった。
「ミキマキちゃん、痛い」
「「委員長、生協行くんやけど、一緒に――「はやとせーんぱいっ!」
嬌声より速く美紀を弾き飛ばして飛びついてきたのは、優羽だった。隼人の腕をしっかり抱きしめて、見上げてくる。
「一般教養のぉテキスト、どれ買ったらいいか分からないんですぅ。ついてきてくれませんか? ね?」
急展開に唖然とする委員長、尻餅をついて眉間にしわを寄せ始めた美紀、同じくジト目になり始めた真紀。三者を素早く眺めて、隼人は左腕に取り付いた女子に声をかけた。
「優羽ちゃん、俺たち生協行くからさ、俺とミキマキちゃんの用事が済んでからね」
「えーあたしをユーセンしてほしいなぁ?」
強まる腕ハグ。昨日の第一印象でも思った――そしてそれをこの場で口に出すほど隼人は愚かではない――素晴らしく大きな胸が、押し付けを超えて挟み付けに変わる。でも残念、
「ごめんな、先約優先だから。あと、バイトにも行かなきゃいけないからあんまり時間ないし。ああ、委員長も一緒に行く?」
「ううん、いいわ。また今度ね」
それは、無期延期と同義語である。委員長は手を軽く上げると、学部棟へ戻っていった。
「さ! 行きましょ先輩!」
どことなく不満げな顔をしながらも明るい声の優羽が、腕を引っ張り始めた。
3.
30分後、隼人たちは正門近くの生協第一食堂でテーブルを囲んでいた。隼人とミキマキの用事が済んだところで彼の腹の虫が鳴き、そういえば昼ご飯を抜いて大学に来たことを今さらながらに思い出したのだ。
横で、というか真横で腕に取り付いたまま、優羽がにこにこしている。買い物を中断させられて悲しそうな彼女からの『お昼ご飯をおごる代わりに、明日テキストの買い物に付き合う』という提案に隼人が乗ったためだ。
「優羽、ちょっと離れなよ」
生協で合流した瞳魅の諌めなど柳に風と受け流し、同じく双子の鋭い視線と揶揄を右から左へと流していた彼女であったが、そこへ大寒波が襲いかかってきた。
「何 を し て い る の ?」
いつの間にか、理佐が隼人の背後に来ていたのだ。変身していないのに彼女から放たれる冷気に、思わず身震いする。彼だけが感じる寒さでないことは、周囲の学生たちも震え始めたことで明らかだ。
「いやぁんはやとせんぱーい寒ぅい」
「は な れ な さ い !」
いやぁん、などと言いつつ腕に頬を摺り寄せて離れない優羽。彼女に理佐が挑みかかる前に、隼人はつとめて穏やかに諭した。
「優羽ちゃん、食べにくいから、もっと離れて」
そう告げて、意外なリアクションに隼人は思わず優羽の顔を見つめてしまった。眼をいっぱいに開いて、こちらを見つめ返しているのだ。まるで『信じられない』とでも言いたげな顔で。
「何してんの? お前ら」
優菜が来た。と同時に不穏な冷気を感じ取って、その原因に一直線に向かってきた。
「隼人、お前まだバイトの時間じゃないのかよ」
「ん、これ食べたらもう行くよ」
急いでハンバーグをほおばり、
(マジで冷えてる……)
「優羽、テキストなら今からわたしと買いに行けばいいじゃん」
「やだやだやだやだ」
今度は拗ね始めたぞ。腕から離れはしたが、握り閉めた両手を肩に当てて身をふるふるさせてるさまは可愛い。が、ほかの女子がシブゥイ顔をしているのは、
(イヤイヤはそんなに胸を突き出してするもんじゃないと思うけど……)
あざとい。一言で表現すれば、そうなるだろう。
「あたしは隼人先輩と行くの! ヤ・ク・ソ・ク。ね? せーんぱい?」
「隼人君、なんでそんな約束をこんな女とするのよ!」
渋々向かい側の席に座った理佐が青筋立ててどなるので、隼人はお茶を飲む暇もない。
「理佐ちゃん、ここ学食だから、抑えて」
現に周囲の学生が――既に理佐が来た時点で退避をし始めた察しのいい人も含めて――席を離れつつあるのだ。
着信音が鳴り響いた。優羽のスマホのようだ。トートバッグから取り出すと、賑やかにしゃべりだした。
「――うん、うん、いま先輩とお昼食べてるの。――うん、男の人もいるよ?――んもぅ、そんなんじゃないってば。ヨシノブくんとお食事するのぉ、楽しみにして今からドキドキしてるんだよ?――」
「……こいつは」「もうオトコがおるんやないかい」「隼人、お前、遊ばれてるぞ」
女子たちのコメントに、瞳魅が手を振った。
「ヨシノブ君は地元のカレシですから」
「いやそういう問題じゃないだろ」
黙々とハンバーグランチの残りを平らげながら、面白いので会話を見守る隼人であった。
通話を終えた優羽に、瞳魅が横目で視線を送る。
「つーかさ、ダイキ君とやらと晩御飯食べるんじゃなかったの? 今日」
「? あ! 忘れてたぁ」
「ダブルブッキングかよ」「入学3日でもう修羅場かいな」
「ま、いっか」
「「いいんかい」」
双子のツッコミを聞き流してスマホを操作していた優羽が、首をかしげた。
「あれぇ?」
尋ねたい。だが明らかに見える地雷を踏みたくない。隼人は静観続行を選択した。
「どうしたの? 優羽」
「アキトモ君も同じ時間だぁ」
トリプルブッキングかよ……
「どーすんの、あんた」
瞳魅の問いは、同席する先輩全ての代表質問である。のだが……
「ん? ご飯食べるよ? 4人で」
「マジか」「絶対に居合わせたくたい現場やね」「ねーやんがそう言うって、よっぽどやで?」
んふふ、と優羽は一転、夢見る乙女風ポーズを決めた。続く言葉は乙女からは程遠い内容だったのだが。
「1対3かぁ、楽しみ楽しみぃ」
「……何が?」「ナニが、やろ?」「昼間っからエロトークすんな!」
さて、盛り上がって(?)きたところで退散するか。ごちそうさまをして立ち上がろうとしたのだが、優羽に手をしっかり握られてしまった。その、なんともいえず柔らかい手で。
「隼人先輩、お買い物は明日何時にしましょうか?」
「優羽、この状況でそれは……」
「明日は朝一なら空いてるよ」
「隼人先輩も即答しないでくださいよ」
溜息をついてこめかみを揉む瞳魅。苦労が絶えない様子で、これも以前沙耶たちから聞いた『相方』という間柄のせいなのだろう。こちらは約束を守ろうとしただけ、というのは杓子定規に過ぎるかと反省したのだが、
「あ! じゃああたし、途中まで一緒に帰りますぅ」
「ほら食い付いた」
そんな溜息交じりの瞳魅の言葉にかぶせるように、理佐が椅子を蹴立てて立ち上がる音が学食に響いた。
「優羽ちゃん、ちょっと今から話があるんだけど」
優菜や双子は理佐のピリピリ感が伝わるだけに目を見合わせたが、瞳魅は動じない。その相方も、以外にも。
「はい、いいですよ。わたしも先輩たちとお話ししたかったし」
一転してものすごく去りづらい状況になったが、バイトの時間が迫っている。優羽が無邪気風の甘ったるいしゃべり方でなくなったのを不気味に感じながら、隼人はその場を退散せざるを得なかった。
4.
理学部棟の脇にある空き地までみんなを誘導すると、理佐は開口一番、戦闘開始を告げた。
「あなた、どういうつもりなの?」
「どういうつもりって、どういう意味ですか?」
ゆったりと構えるその姿勢に苛立って、斬りつけるような口調にギアアップする。
「わたしの隼人君にちょっかいかけてくるなんて、どういうつもりだって言ってるのよ!」
視界の端で、優菜が首をすくめる。そうよ、これはあなたにも言ってるのよ。真紀にも、美紀にも。
だが、目の前の後輩は動じた気配もない。
「先輩、いけませんよ?」
「何がよ!」
指を立てて振り、優羽は笑った。
「だって、隼人先輩はあなたのものじゃありませんよね? シ・マ・ザ・キ・サ・ン」
名前に合わせてチクタク指を振る煽りまで加えて、微笑む優羽。それに乗るなという自制はすぐに消し飛び、理佐は手を振り上げると、目の前の女の左頬を音高く――打てなかった。
優羽の斜め後ろにいたはずの瞳魅が進み出て、理佐の手首を掴んだのだ! 優羽の頬に届く寸前で。
「優羽を叩かないでください」
きりっとした表情の彼女が顔色すら変えずに言った言葉を、理佐は理解できなかった。彼女を愚弄し、彼女と隼人の仲を否定した女を、なぜ叩いてはいけないのか。
親友に礼を言いつつも澄ました顔で成り行きを見つめている新入生。その女に再度攻撃を加えるため手を振り払おうとしたのだが、叶わない。逆に腕の骨に加えられた圧力に悲鳴を上げた。優羽が口を開くまで。
「瞳魅、止めて。骨が砕けるわ」
瞳魅は素直に受け入れ、手を放されたはずみで理佐は後ろによろけた。優菜が支えるように手を伸ばしてくれたのを振り払う。
殺してやる。
殺意を籠めた視線を送っているはずなのに、巫女2人は動じない。むしろ次から始まる発言は、理佐を含めた『あおぞら』の面々に動揺を与えるに十分なものであった。まさに青天の霹靂ともいうべき事実を突きつけてきたのだ。
「ま、あたしを幾ら叩いたって、現実は変わらないんですけどね。ツウコクも鳴り響いちゃったし」
「……ツウコクってなに?」
優菜が問う声は、疑念も露わなもの。真紀と美紀がそれに続く。
「なにかをお知らせする、通告かいな」「ほかに同音異義語、あったっけ?」
優羽も瞳魅も、首を振った。
「痛みに哭礼の哭、口2つに犬と書いて、"痛哭"です」
「それがどうしたっていうのよ!」「ちょっと、理佐落ち着け」
優菜の落ち着き具合は不愉快だったが、このバカ女が口にした言葉の意味も気になる。刺すような視線はそのまま、理佐は優羽に語らせることを選んだ。
「皆さん、お聞きになりましたよね? お花見の時」
あたしたちは残念ながら聞けませんでしたけど。そう言われるまでもなく、思い出す。あの神社から聞こえてきた、女の叫び声を。
「あれが、痛哭です」
「「それで?」」
真紀と美紀のユニゾンは、この期に及んでも乱れない。巫女2人はそのことに驚いたのか、少しだけ視線を双子に走らせたが、説明に戻った。
「あれを発したのは、平たく言えば、神様なんです」
「……神様?」
「はい」と瞳魅が受ける。ちょっと身じろぎすると、
「あのお社にお鎮まりいただいているのは、我が家の開祖・オビトマル様の妻。つまり、わたしたち一族にあの呪いを掛けた当人なんです」
「「祟り神……」」
タタリガミ。その語句の禍々しさに思い至るには、数秒を必要とした。
帝に仕える身から鬼の妻に下され、恨みを抱いて自害した女性。自らが生んだ鬼の子に呪いを掛けて――西東京支部の会議室で鷹取家の人々と始めて歓談した時、そう説明されたのを思い出す。
それをなぜ鷹取家が祀っているのか分からなかったが、真紀と美紀が解説してくれた。この国には古来より、恨みを抱いて死に、死後現世に災いをもたらしていると考えられた人を"神"として祀り、鎮める慣習があるのだと。
優羽のあのおちゃらけた雰囲気は、すっかり影を潜めた。あるいはあれは演技なのだろうか。
「その神様の痛哭。もう分かりますね?」
「分からないわ」
答えを予期していたのだろう、説明は澱みがなかった。
「鷹取家にとって有益な人物。家運の発展と繁盛に関わる人物。それが現れて、自分にお参りをしてきた。そのことに痛みを感じ、哭いたんです。サカイコ様は」
鷹取家の滅亡を願い続けている、祟り神なんですもの。優羽はそう結んだ。
言葉が出ない。隼人君が、そんな……
「というわけでぇ――」
優羽の口調が元に戻った。いや、仮面を被り直したと言うべきか。身体をむかつくほどいやらしくクネクネさせて、
「隼人先輩は鷹取家がおいしくいただきますので、あしからず、ごりょーしょーください。ウフっ」
「――そんなこと、許さない」
言い捨てて、理佐は踵を返した。許さない。そんなこと、絶対に。だがそれが、その場で即刻否定できるだけの材料が自分にないがゆえの逃げであったことに、彼女は気づいていない。
「帰ったね」
「帰ったねー」
瞳魅は大きく息を吐いた。隣でも同じ反応で、顔を見合わせてクスクス笑った。
会って2日目の人々にする話題ではない。まして、これから付き合っていかねばならない人々なのだ。
優羽が大きく伸びをして、
「さ、明日からがんばるぞ!」
「何を?」
「隼人先輩のぉ、コ・ウ・リャ・ク。テヘっ」
「なんであんたが攻略するのよ」と呆れる。
「だって、一族なら誰でもいいわけじゃん? 別に沙耶ねえさまや琴音様じゃなくたって、あたしでもキミでも、それこそ軟禁して10年後に美玖ちゃんのお婿さんでも」
瞳魅は驚いて、この物心ついて以来の親友を見返した。
「あんた、結婚する気あるの?」
「もしかしたら、よ。もしかしたら。キミはどう?」
「わたしはちょっとなぁ」と軟禁話はスルーして腕を組む。
「キミ、優男大好きだもんね」
「そ。やっぱ、抱きしめたらバラバラになりそうなくらい細くて、でもしっかりした人がいいな」
「キミが抱きしめたら物理的にバラバラになるけどね」
ふん、と鼻を鳴らして切り返す。
「隼人先輩の攻略は難しいと思うけどな、わたしは」
「なんでよ」
「だって、効いてなかったじゃん。あんたの"お胸挟み攻撃"」
「そう! なんで?! あたしのこのお胸のどこが不満なの?」
「本人に訊けば?」とあっさり返して、
「ま、がんばりな。ハーレムの壁が破れるといいね」
「そうなのよ。さっきもメガネっ娘がモーションかけてきてたから追っ払ってやったし」
燃えるぜ。そうのたまう友人に、例のトリプルブッキング衝突予定時刻が迫っていることを教えてやる。
優羽の楽しげな叫び声が理学部棟の壁に反射して、木々のあいだに吸い込まれていった。