第1章 痛哭
1.
4月。エイプリルフールを2日過ぎて、今年はいまだそこはかとなく寒さの残る日々が続いている。もちろん、今日のような晴天に恵まれれば、昼日中はぽかぽかと暖かいのが常である。まして、隼人たちの乗るバスの車内は言うまでもない。
「なんつーか、自前のバスがあるっていう時点でもう、な」
優菜がそう言うと、横に座るるいが乗ってきた。
「しかも自分の屋敷でお花見大会だもんね」
「大会て」
と奇妙な語感に、理佐がくすくす笑い出した。つられて祐希と京子が笑い、永田やほかのスタッフにもさざ波のように広がっていった。
双子も揃って笑い、やがて呆れだした。
「それにしても、いつになったらこの塀の向こうに入れるんやろうね」
「かれこれ15分は走ってるよね? さっき通り過ぎた門からは入らへんかったし」
そう、『屋敷』に『塀』、そして『門』。隼人たち『あおぞら』西東京支部の一同は、鷹取屋敷の邸内にある桜林でのお花見に招待されたのだ。しかし本当に、なかなか邸内に入れず、バスは長大な塀の側をひた走るのみである。
その時、運転手が声を発した。
「すみませんねぇ、あと10分くらいで停留所に着きますので」
「停留所?」と横田が反応した。
「実はこれ、路線バスだったのかな?」
「いやいや、横っ腹に鷹取の家紋が入ってましたよ?」
いろいろ推測が飛び出したが、運転手は黙して語らず、きっかり10分後に正解が判明した。大型バスも進入できるくらいの大きな入り口から邸内に入ったと思ったら、複数ある車寄せの路肩にバスが止まったのだ。
「お疲れ様でした。あそこに見える、青いバスに乗り換えてください」
運転手にお礼を言って、指示されたバスに乗り換えるべく歩み寄る。
「へー! 水素で動くやつだ!」
るいの言葉に周りを見回せば、乗り換え用の車両はどれもそのようである。
「なるほど、屋敷の中を排気ガス撒き散らして走り回られては困ると」
「「警備的観点から言っても、やね」」
双子が指差すほうを見やれば、いかにも頑丈そうな黒塗りの鉄の壁と門が立ち塞がっている。それが先ほどの入り口からストレートに突入できない位置にあるのに、隼人は気づいた。
支部長に促されて青いバスに乗り込むと、
「皆さん! ご無沙汰してます!」
「おー美玖ちゃん! 霧乃ちゃん! 久しぶり!」
鷹取美玖と海原霧乃が待っていた。挨拶を交わすのもそこそこに、美玖がトランシーバーでどこかと通信を始める。
「こちら美玖です。皆様停留所から出発します。オーバー」
『了解。こちらはまだ難航中。がんばる。オーバー』
「……なにが難航中なの?」
琴音の声らしき返答に理佐が首を傾げても、美玖も霧乃も笑って説明しようとしないまま、バスはゆっくりと鉄の門に向かって滑り出した。
「……やっぱり、行かない」
「またまたご冗談を」
屋敷の居間にて、鈴香は琴音とともに沙耶を説得していた。今から始まるお花見に、沙耶が突然行かないと言い出したのだ。
「聞こえましたよね? もう皆さん来ましたよ?」
「気分が優れないって言っといて」
もう30分以上前から、この一点張りなのである。ようやく軟化の兆しを見せたと思ったら、『あおぞら』西東京支部ご一行が到着したと聞いたとたん、また態度を硬化させてしまったのだ。
総領が溜息をついた。『呆れた』と言わんばかりの顔で。
「そもそもあなたよ? 『吸収されたという感傷をあおぞらのスタッフに呼び起こさないように、鷹取の人員との交流の場を増やすべき』って言ったの。それがどうしたのよ急に?」
じっとりとうつむいてしまった沙耶とは対照的に、琴音がニヤニヤしだした。
「分かりますよ、沙耶様のお気持ち」
「あら、分かるなら早く言ってよ」
びくりと震えた沙耶が口を開こうとした。琴音を止めようというのだろう。だが、そんなことで止まるおしゃべり娘ではない。
「クリスマスイブに、隼人さんに『かわいい』って言われて照れてるんですよね?」
「な?! ななななななんで知ってるの?!」
うふふふふ、と黄色い革の手帳を取り出す親友を眺めて、鈴香は苦笑した。
苦笑いですまないのは、沙耶の母である。
「なにそれ聞いてないわよ私」
「そ、そんなこと一々母様に報告なんかしませんよ!」
そりゃそうだな、と鈴香の苦笑いは続く。
「で、なんで知ってるの? 琴音」
「ん? 知らないわよ?」
黄色い手帳をパラパラとめくりながら、琴音はしれっと答えた。
「でもあれ以来、沙耶様が西東京支部関連のイベントを全部体調不良でキャンセルしてるから。これは何か、しかもたぶん隼人さん絡みだろうなと」
「くっ……琴音ちゃんのかま掛けに引っかかるなんて……」
くやしそうな沙耶に、母の目が光った。
「さ、行くわよ沙耶」
「行きません――「総領としての命令よ」
母は強硬手段に出たようだ。厳しい表情で、同じソファに座る沙耶に詰め寄る。
「総領候補者がそんな理由で交流の場を欠席することは許しません。出なさい」
総領としての命令の意味が分からない人ではないだけに、またうつむいてしまった沙耶。その手に、母の手が重ねられた。
「もう一つ、母からのお願いよ」と。
「その人とくっつけって言ってるわけじゃないの。こういう交流が縁で、誰かいい人とつながるかもしれないじゃない。お願い、沙耶」
「……分かりました」
ようやく決心がついて、立ち上がった沙耶に続く。廊下に出ながら、
「ねぇねぇ、私のことばっかり言って囃し立てるけど――」とこちらを見つめてきた。
「あなたたちも言われてるんでしょ?」
「言われたことないですよ、わたし」
と琴音。同意を求められて、鈴香もうなずく。
そして二人は、失敗を悟った。返答2つを聞いた沙耶が、赤面とともに固まってしまったのだ。総領も加わって3人がかりで玄関まで押し出すのには、さらに時を必要とした。
満開を過ぎて、少し散り始めたかに見える桜。それが見渡すばかりに連なる林の中に、お花見会場はあった。既に赤色の毛氈がいくつも敷かれ、それの上にちらほらと桜の花びらが散っているのが和風の興趣をそそる。
――なんていう風雅を思いっきり吹き飛ばす桃色の物体が、庭師たちを掻き分けて隼人に飛びついてきた。
「はやとくーん! いらっしゃーい!」
驚いて見つめれば、薄いピンク色のスーツに身を包んだ、小柄で細身の女の子だった。そしてこの声、
「どちら様で?」とあえて逃げる。
「ひどーい! 沙良よ! あ な た の 沙 良!」
「妹は2人で間に合ってますから」
「そこをなんとか3人目にねじ込んで、って違う!」
名乗りを上げた沙良に、他のボランティアスタッフが驚きの声を上げた。
「うわぁ!」
「なに? どしたの?」
「会長のツインテールがもげてる!」
「もげてない!」
ようやく隼人から離れて、沙良はくるりと回って見せた。すると、後頭部に髪がお団子になっているのが見てとれた。
「このとおり! 明日は大学の入学式。ツインテールは卒業です!」
そこから一転、沙良はしなを作った。
「ね? 隼人くん。ご覧のとおり、もう大人ですから」
こめかみに青筋を立て始めた理佐を視界の端に捉えながら、隼人はにっこり笑ってコメントした。
「会長、よく似合ってますよ」
「本当?」
「ええ。親戚の披露宴出席でおめかしした中学生みたいです」
その場によよよと泣き崩れる沙良を放置して、三々五々に緋毛氈に上がる。落ち着いたところで優菜が話しかけてきた。口調は辛らつだが、顔は笑っている。
「お前、ほんとつれないよな。こういう時」
「ああ、血を流して得た教訓だからな。余計な気を持たせないっていう」
大げさな表現をしてみただけなのに、周囲がどっと反応した。
「血を流した……」
「きっと、相当の修羅場だったと思われ」
「圭ちゃんに照会してみようぜ」
「や め て く だ さ い」
なぜか庭師がスマホを取り出し、それを隼人が止める構図になった。
隼人の幼馴染である黒岩圭は、鷹取一族の警護や妖魔討伐の補助を勤める『庭師』への就職を目指していると聞いている。昨年10月に行われたフランクからの侵攻を撃退した際、るいとともに誘われたそうで、就職に向けて顔つなぎをしているようだ。
就職。その熟語を思い起こして、隼人はなんともやるせない気持ちになった。大学生というモラトリアムが過ぎていくという感慨だけではない。そもそも就職できるのか。あの義母に『こんななんの才能もない奴を誰が雇うのか』と言われたことが、いまだに棘として心に刺さっているのだ。
そんな隼人とは別の緋毛氈の上で、可愛らしい声が読み上げる。
「しゅらば。血みどろの激しい戦いや争いの行われる場所。しゅらじょう――」
「おーい誰だよ、おませさんにスマホ持たせたの!」
ああ、読み上げ終わってこちらを見つめてくるあの眼のキラキラも久しぶりだなぁ……というか、庭師の人の使い方って誤用なんだな、とみんなで笑い合う。
とそこへ、鷹取家の人々がやってきた。総領を先頭に、琴音と鈴香、そして、
「……沙耶さんはなんで隠れてるんですか?」
「? こら、沙耶!」
屋敷から続いている小路の並木に隠れていた沙耶が――隠れきれずにはみ出ていたが――引きずり出された。
「お久しぶりです、沙耶さん」
「あ、ど、どうも……」
こちらにおずおずと頭を下げるのもそこそこに、沙耶はわざわざ回りこんで、遠い緋毛氈にすとんと座ってしまった。
(ちょっと挙動不審だな……)
そう思う間もなく飲み物が配られて、総領の音頭で乾杯。お花見が始まった。
2.
ここは、都内のとあるビルの地下。春の陽など射さぬ暗がりは、それに代わってサーチライトの光が空間の中央を四方から照らし出していた。
中央の床、むき出しのコンクリートに描かれているのは、奇態なうねりの羅列であった。それは見る者によってはひとつの絵にも見えるだろう。あるいは賢しらだった者なら、うねりに目を凝らして、実はそれが文字の集合体であることに気づくはずである。
では、真の賢者なら、これをどう表現するか。栗本はにやりと笑うとジャケットを脱いで壁に投げると、慎重に歩を進めた。うねりの書かれていない場所を選んで。
10歩ほど進んで、うねりの中央、ちょうど彼の両足が収まる位置にある空白にたどり着いた。この半年、多忙な家業の合間を縫って立ち続けたそこは、靴裏の汚れが染み付いて薄汚れていた。
やがて栗本の口から、低く、朗々とした音が紡がれ始めた。歌というには暗すぎ、曲というには不規則なそれは、時折の息継ぎを経て30分近く続いた。大変な根気、あるいは執念と言えるだろう。
「よし……」
栗本は口の端を歪めると、また慎重にうねりの縁まで戻った。休憩ではない。これは、気が乗っているうちに一気に進めねばならないのだ。
ポケットからナイフを取り出すと屈み込み、右手の人差し指をすっと傷つける。
ぽたぽたと垂れ始める赤黒い血。それを使って、栗本はまたうねり――神代文字の呪文を追加し始めた。
「あと少しだ……」
額の脂汗を無傷な左手で拭いながら、また声も無く笑う。
あと少し。この新しきうねりに力を与えたら、一気に破るのだ。
地獄の牢穴を。
3.
お花見が始まって1時間ほど経って、場はすっかり打ち解けた雰囲気になった。みんな緋毛氈を行ったり来たりして、てんでに雑談をしている。
「へー、町内会のお花見だったんですか?」
「ええ、地域貢献の一環ってことよ」
と総領が微笑んで、コップを傾けた。鷹取宗家の偉い人ということで最初は緊張したが、朗らかな人となりでボランティアスタッフと差しつ差されつを繰り返し、すっかり気にならなくなってしまった。
昨日まで3日間、この町内に住む人たちに桜林を含む敷地の一部を開放して、宴会をしてもらったのだそうだ。もちろん総領も連日顔を出してあいさつをし、
「広い敷地を占有してるから、顔を見せておかないと『お高くとまってる』なんて言われちゃうのよ。ただでさえ、財閥っていうだけであまりいいイメージじゃないし、怪しげなこともしてるわけだしね」
支部長がそれを受けて、
「私たちもいい加減胡散臭そうに見られてますよ。公式サイトに掲載されてる活動報告書を見て、年間活動実績と出動回数が合わないって新聞記者が来た時は、冷や汗掻きました」
おまけに、浅間会病院に支払っている治療費――スタッフが戦闘で倒れた際の入院費用が主である――がやたらに多いことを突っ込まれたそうだ。
「公開義務があると大変ね」
と総領が気の毒そうな顔をした。すると隣の緋毛氈から声が飛んできた。るいが卵焼きを箸で掴んだままこちらを振り向いている。
「そういえば、このあいだカレシが株取引やってるのを見てたんですけど」
「お前、また男が替わったのかよ」
優菜のツッコミに軽くうなずいて、るいの話は続く。
「で、なんか面白い企業ないかって訊かれたから、鷹取財閥企業の株でも買えばって言ったら、上場してないって言われたんですけど」
上場、って確か株式市場で株が売買されること……でよかったっけ? 隼人が首をかしげていると、
「そうですね、してませんね」
総領の代わりに、るいと同じ場に座っている琴音が反応した。
「なんで?」
「るい先輩、そういうことをよくさらっと訊けますよね」
「怖い物知らずというか、何も考えてないというか」
スタッフたちの会話を背に、るいは重ねて問うた。
それに対する答えは、
「妖魔盗伐をしているから」であった。
それと企業活動と、どういう関係があるのだろう。隼人にはよく分からない。難しい顔をして、でもるいと違ってさらりと訊けず黙っていると、察してくれたのだろう、総領が彼を見て口を開いた。
「株主総会で報告できると思う? 『昨年度、当社から鷹取家に拠出した妖魔討伐対策費用はマルマル億円でした』なんて」
そこらへんは政府筋には話が通してあるし、経済界でも理解のある重鎮には了解をもらっているので、"ご理解いただけない"人々から時々『株式上場をしないなんて閉鎖的な経営環境はよろしくない』などと喚かれる程度なのだそうだ。
「なるほど……あ、沙耶さん、どうぞ」
「あ、あああありがと……」
ちょっと遠いが、グラスが空いていたのでビールを注いであげると、ものすごくペコペコされた。
(ほんとに戦闘の時と別人格みたいだよな……)
さっきからずっと隅のほうに座って、チビチビやっているのだ。時折琴音や鈴香が話題を振って、その時には答えるのだが、また黙って消えてしまう。
戦闘の時――といってもあの最終盤の2日間だけしか見たことはないが、あの時の沙耶は、実に堂々というかふてぶてしいくらいの押し出しの、いかにもデキる女風だったのに。
(もったいない……)
あんな沈んだ顔しなければ、もっと輝く素材だと思うんだが。隼人がそう考えながらチラ見すると、目が合った瞬間に逸らされてしまった。
(嫌われてるのか? 俺……)
美紀のわき腹が、軽く突かれる。
(なんやの? ねーやん)
囁くと、眼で示された先には、祐希の姿があった。男性庭師の一人となにやら話しこんでいる。
(おお、サクラ サク、かな?)
(な? ええ感じやろ?)
「あれ? 祐希ちゃん、飲み物――「「鈴香ちゃん、ハウス!」」
思わずユニゾンで叫んでしまった。
「わたし、犬じゃありません!」
「そうそう、鈴香はヘビだよね。う わ ば み」
琴音の揶揄どおり、今日も鈴香の周りには各種酒類の空き瓶が林立している。それをラッパ飲みすることなく、律儀に酒ごとに違うグラスに注いで呑んでいるのだ。
「毎回毎回火気厳禁だね、鈴香ちゃんの周りは」
「火花だけでアルコールに引火するんちゃう? 鈴香ちゃんから発散されてる」
むくれる鈴香をからかう一同。そのせいで、祐希と男性庭師の会話は途切れてしまった。
(ねーやん、どうしたらええやろ?)
(そっとしとき)と真紀はほくそ笑む。
(ちょっと潔癖なところがあるさかい、変に囃し立てるとわやになってまうで?)
「わー!!」
「どうしたんですか? 鈴香様」
突然の叫びに、庭師が反応する。が、すぐに同僚に止められた。
「お酒がなくなっちゃった!」
(この子っていったい……)
もしかして、アルコール分を吸収せず、全排出してるんじゃ……美紀がそう考えていると、背後から総領の声が飛んできた。
「鈴香ちゃん、お酒は自分で取ってきてね」
はーいと朗らかに、鈴香は立ち上がると母屋へ駆けていった。前もって用意してあった大きな袋に空き瓶を全て詰め込んで、ガチャガチャ言わせながら。
「るい、お酒で割り勘負けしない人、初めて見た」
「お前も大概だけどな」
「琴音ちゃんは大丈夫なの?」
首を傾げる琴音に、呑みに無理やり付き合わされて大変じゃないのかという意味だと説明すると、これも朗らかに笑われた。
「あの子、他人にお酒を勧めませんから。『そんなお酒があるなら私が呑む』って」
「よくできた子やね」
ええ、と受ける琴音がつぶやいた一言を、美紀は聞き逃さなかった。
(呑んでも呑んでも、ほろ酔いにしかなれないのよ、あいつのせいで……)
そこで見つめる、なんて真似を美紀はしない。当面必要ない他人の秘め事を聞き出す趣味がないのだ。
背後でまた、総領の声がする。
「えーと、るいさん?」
「はい?」
「また男が替わったって優菜さんがおっしゃってたけど――」
(うわ、そこを突きますか)
姉も感想を共有したらしい。2人で振り向くと、注目されても動じない天邪鬼がそこにいた。
「そうそう、こいつ、男切れの悪い女なんですよ」
と優菜が解説し、低くどよめく鷹取一同。るいはグラスをきゅっと空けると、ちょっとしどけない恰好を取りながらにっこり笑った。
「えーだって、独りでいるのつまんないじゃないですか」
(るいちゃん、それは鷹取の人たちに喧嘩を売ってるんじゃ……)
財閥のお嬢様やご子息というだけで高いハードルが、例の呪いと疫病神の工作のせいでマシマシになっているのだから。
だが、総領は笑みを崩さず、それどころか問い返してきた。
「切れ目なくお付き合いって、どうやってしてるの?」
るいは少し考えて、
「こいつ自分に気があるなって、分かるじゃないですか。で、前の男と切れたらすぐに、脈ありげな男に連絡するんですよ。遊ばないかって。それだけですよ」
「そこのハードルが高いんですけど……」と祐希がぼやいた。
「ねーやんもおおむねそんな感じだよね?」
そう姉に振ると、卵焼きをもぐもぐしたままうなずかれた。
「だそうよ。分かった? 沙耶」
「なんつー無茶振りを……」「総領様、ぶっちゃけ過ぎだと思います」
庭師たちが口々にしたフォローは、報われなかった。沙耶の姿は、さっきまでいた緋毛氈の上にはなかったのだ。
「お手洗いに行かれましたよー」
がっくりうなだれる総領。いささか気の毒になって眼を逸らした美紀が、急に影に包まれた。
「?! なにそれ?」
「へっへっへー、酒蔵からお酒を樽ごともらってきましたー」
影の正体は、一斗樽を肩に担いだ鈴香だったのだ。持ってきた台の上に樽を恭しい手つきで下ろすと、同じく持参した大きな袋の中から蛇口を取り出し、
「やあ」
可愛い掛け声とともにぶっ刺した。
「枡もいっぱい調達してきましたよー。枡酒、いかがですか?」
歓声を上げて群がる、るいを先頭にした呑み助たち。お酒が行き渡ったところで、美紀は鈴香の手に異形の物体を見出した。
「鈴香ちゃん、それは……なに?」
手にしている木製品は、縦横10センチメートルほど、高さ30センチメートルほどの直方体。上部にふたは無く、同じく木製の取っ手が付いている。
「なにって、枡酒用の枡ですよ? 私専用ですけど」
「「いやいやいやいや、大ジョッキだよねそれ?」」
何言ってるんですかー、とのたまいながらたちまち大ジョッキ風枡にお酒を注いだ鈴香は、喉音も高らかに、あっという間に飲み干してしまった。
「ぷはー、やっぱ枡酒はいいですねー」
「もう嫌や、この子の隣……」
「見てるだけで酔っ払ってきたで、うち……」
姉と二人でげんなりしていると、少し遠くで、別の異変を告げる声が上がる。ちょっとヒステリーが混じる、残念ねーやんのあの声が。
「隼人君がいない」
4.
鷹取屋敷の敷地内には、公衆便所と見まがうお手洗いが複数ある。庭師たちの巡回や訓練、居住者たちの散策、あるいは先日の町内会によるお花見のような招待客が使用するためである。
その一つに併設された水場で、沙耶は手を洗っていた。
水道の蛇口から溢れ出る水を止めることなく手にかけ続けながら、じっと見つめる。
やっぱり、出なければよかった。お花見なんて。その思いが彼女の心を暗くする。
会話に混ざっていたのも束の間、いつの間にやら彼女の周りから人が移ろってゆき、ぽつんと独り、グラスを傾ける。成人して4年、もう何回体験しただろう。
気のおけない仲間とする、小人数の宴会。それがいい。人の輪が複数できるようなのはだめなのだ。
どこの輪にもなじめず、うろうろして、ぽつん。
「琴音ちゃんはいいな……」
彼女はいたって陽性の、しかしバカ騒ぎに声を枯らすような真似はしない慎みも併せ持っている、飲み会の主役だ。会話も上手で、ちゃんと話題を均等に振る――沙耶にすら――術も心得ている。
鈴香は『大酒呑み』という掴みがあるし、陽気な酒なので嫌がられることもない。
私とは、違う。
そんな思いに浸り、気がつけば袖を水道で濡らしてしまっていた。慌てて水道の栓を閉めて、手を拭く。……このまま母屋に戻ってしまおうかな。濡れたことを言いわけにして。
「あ、沙耶さん!」
やましいことを考えていたこともあって、沙耶は思わず飛び上がってしまった。
「ごめんなさい、おどかしちゃいましたね」
隼人がすまなそうな顔で歩み寄ってきた。
「なんか、このパターン、多いっすね……このあいだ支部ですれ違った時もそうだし」
くすりと笑って、沙耶も気づいた。彼女が物思いに沈んでいると、いつの間にか彼が側にいることに。そしてそのたびに、彼女の塞いだ気分が好転し始めることに。
だからだろうか、彼のお願いを聞く気になったのは。
「あそこに建ってる洋館、なんですか?」
彼が指差す先には、平屋建ての洋館があった。あれは舞踏会場だと説明すると、お願いをされたのだ。
「見に行きたいんですけど、ついてきてもらえませんか?」
「……なんで?」
「だってあそこ、僕らの立ち入り禁止区域なんで」
「い、いいけど……」
ま、いいか。お花見に戻らない言いわけにもなるし。
そのことは隠して受諾すると、さっそく嬉しそうに大股で向かい始めた彼の後を追う。ほんの3分ほどで現地に到着すると、眼を輝かせて見入り始めた彼に解説してあげた。
「明治の頃にここで、政府関係者や華族の方々をお招きして、舞踏会が開かれたのよ。お商売を発展させるために歓心を買う必要があったから、大急ぎで建てたそうよ」
眼は洋館の壁に据えたままの隼人の声が返ってくる。
「大急ぎで、って思ってこんなの建てられるんだから、やっぱ財閥ってすげぇっすね」
素直な感想に笑いながら、
「当時は財閥って言えるほど大きくなかったのよ。だから、余計ね。借金で建てて、返済が大変だったって聞いてるわ」
感心の声を残して、洋館の周囲を回り始めた隼人。それに2歩下がって続きながら、沙耶は自然に質問を発していた。
「こういう建物、好きなの?」
「ええ。城とか神社仏閣のほうがもっと見てて楽しいですけど」
「そっか、日本史学専攻だったわね」
確か、あの双子も同じ専攻だったと思い出す。同時に、彼の両腕にぶら下がっている双子の姿を思い出した。なんとなく、胸がざわざわする。
「これ、今は使ってないんですか?」
「たまに使うわよ。一族の結婚披露宴とかに。あとは見学希望者が来たりとか」
そこまで説明して、沙耶は隼人との距離が近づいていることに気づいた。でも、ドキドキしない。なぜだろう。
(慣れたってことなのかしら?)
春のそよ風が、2人の髪や服の裾をもてあそんでは吹き抜けていく。2人の足音以外何も聞こえない、まるでこの周辺だけ現実から切り離されたような静寂。
母屋に戻る必要、なくなったな。
そんな気分に自分がなるとは、ついさっきのあのどんより加減からは想像もできなかった。
静寂は、彼が破った。
「おお! 神社発見!」
また跳ねるような声の主が指差すは、
「え、いやあれは……」
「見に言っていいですか?」
「う、いや、別にいいけど……」
ためらいながらも、彼の勢いに押されて、結局同行することになってしまった。
5.
後ろに続く沙耶を時々振り返りながら、隼人が神社に近づくと、小ぶりながらも立派な鳥居が建っていた。それをくぐり、お水場で手と口をすすいだあと、参道に戻って石畳を歩く――といっても20歩も行かないうちに本殿に着いてしまったのだが。
本殿の脇では、巫女さんが1人、道具を使って玉砂利をならしていた。屋敷内の神社に玉砂利を乱すような大勢の参拝客があったんだろうかと疑問に思ったが、
(もしかしたら午前中に誰か来たのかもしれないしな)
と思って視線を外したとたん、大きな音がした。再び視線を向けると、それは巫女さんが道具を取り落とした音だったのだが、彼女の様子がおかしい。なにか大変なものでも発見したかのように、眼を大きく見開いて固まっているのだ。
「どうしたの? 所さん」
沙耶の問いかけは無視された。ギギギ、と軋み音がしそうなぎごちなさで向こうを向くと、
「宮司様、宮司様!」
「何事だね、騒々し――」
本殿と渡り廊下でつながった社務所らしき建物の戸が開き、いかにも宮司らしき衣装の男性が顔を出し――固まってしまった。それも、持っていた電卓を取り落とし、眼を見開いて。
「沙耶さん?」
「……なに?」
「どうしたんでしょう? あの人たち」
「……分かるけど、分かんない」
意味不明なコメントを述べた沙耶の表情は、せっかくの穏やかなものからみるみる悪化した。どうしたのかと問う間もなく、
「禰宜殿! 禰宜殿!」
今度は宮司が冠を飛ばさん勢いで振り向くと、庶務所の奥に向かって絶叫し始めた。しばらくして、宮司と同じ台詞を吐きながら、これまたいかにもな風格を漂わせた初老の男性が現れ――固まった。今度は手に何も持っていなかったが、眼を見開くのはそっくり同じ。違うのは、沙耶の雰囲気がますます悪化したこと。
ああ、そういうことか。隼人はやっと理解に到達した。見開かれた6つの眼が全て、隼人に向けられていたのだから。
(沙耶さんが男を連れてきたからだな、きっと)
これまでにした鷹取家の人々との会話で判明した限りでは、沙耶は異性との交流が苦手のようだ。その彼女が異性を連れ歩いて、しかも屋敷内の神社にやってきたのだから。
(つか、驚きすぎじゃね? 怒られないのか?)
沙耶の雰囲気は視線を移すまでもなく、爆発寸前だ。破局が訪れる前にと、隼人は場の雰囲気を変えるべく努めて明るい声を発した。
「こんにちは!」
「は、はい! ようこそ!」
3人揃って、めっさ笑顔。
「なんでそれハモるのよ!」
沙耶の怒りは別方向に向いた。よしよし。
「あの、参拝してもいいですか?」
「どうぞどうぞ!」
「だからなんでハモるのよ!!」
ぷんすかしている沙耶をなだめつつ、本殿に歩み寄る。隼人も詳しいわけではないが、社殿はやや大型なのを除けば、一般的な建築様式に見てとれる。しかし、
(なんか、暗いな……)
荘厳というのも、何かが違う。時代がかっているからだろうか。そんなことを考えながら財布を取り出し、
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いや、お賽銭を入れる箱はどこかな、と」
沙耶は首を振った。
「基本的に一族しか参拝しないお社だから、賽銭箱は無いわよ」
なるほどと財布をしまい、直立不動の姿勢を取る。
(えーと、二礼、二拍手、一礼だったよな)
にこにこと眺める巫女さんたち。ようやくもとの穏やかな表情に戻った沙耶。4人に見守られているのを感じながらゆっくり二礼し、次いで隼人は拍手を打った――
るいたちが念のため捜索したお手洗いには、隼人も沙耶もいなかった。母屋にもいないらしい。携帯にかけてみるかという提案も、『こんなところでどこにも行かないでしょ』とうやむやになった。
が、うやむやですまないのが困った人なわけで。
「……出ない」
理佐がイライラしながらリダイヤルを繰り返しているのを見て、鈴香が耳に口を寄せてきた。
(怖いんですけど、あの人)
その酒臭さに心中閉口しながら、るいは鈴香をなだめざるを得ない。
(そっとしといてやってよ。ああ言い続けてないと、精神の均衡が保てなくなってるんだから)
まあ、うやむやにしようとしているのが総領な時点で、意図が見え見えなのだが。そしてそれを思うと、なぜかるいもジリジリしてきた。
「ったく、あの男は……」
思わずつぶやいて、るいは気づいてしまった。ここにいる女子の大半が、理佐ほどではないにしても、苛立ちを隠すのに失敗していることに。特に優菜は目尻がピクピクしていて、落ち着かなげに辺りに鋭い視線を走らせている。まるで敵地に踏み込んだかのようだ。
(そーいえば、優菜はどーしたいんだろ?)
理佐が自爆してから早や半年。クリスマス、新年会、バレンタインなどイベントは多々あったのに、一向に勝負をかける気配が無い。
ちょっとからかいつつ、探ってみるか。るいが邪悪な発想を実行に移そうとしたその時。
北西遥か、大きな音が聞こえてきたのだ。
いや、"音"ではない。"声"だ。それも、人が出すようなものではない。姿が見えないような遠い位置から、金切り声ではなく低く唸るような、嘆くような、泣き叫んでいるような、女の声。
恨みがましさまで多量に含んだその"声"は、るいの心を鷲掴みにして締め上げた。日頃から『空気を読まない』と言われ『天邪鬼』と呼ばれ、自分でも心臓に毛が生えてるんだよと笑っている彼女をして、苦しさに思わず胸を押さえるほど。
それで済まない人々もいる。耳を塞ぎ、しゃがみこんでしまった美玖や霧乃はガタガタと震えてむせび泣き始め、総領と琴音、沙良が青い顔をしつつ彼女たちをかばうように抱きしめていた。
鷹取一族の人々に、特にダメージがきているのはなぜか。
その答えらしきものを、鈴香がつぶやいた。彼女は独り、他の一族のようにへたりこんだりしなかったのだ。その瞳の光は、今まで見たことが無いほど妖しいものであり、
「お社だ……」
駆けつけた庭師たちを糾合すると、鈴香は声のしている方向へ走り出した。るいたちも、よろめきながらも立ち上がった鷹取家の人々を気遣いつつ、足を速めた。
たどり着いた神社には、隼人と沙耶がいた。沙耶は本殿の築地塀の前に座りこんでいたが、身体を塀に預けたままの姿勢で息が荒い。その側で寄り添うようにしていた隼人がこちらに気がつき手を上げた。
「何があったの?」
「参拝しようとしたら、いきなりあのすごい声が社殿のほうから聞こえてきてさ。沙耶さんが真っ青になってふらつき始めたから、そこに座らせて介抱してたんだよ」
左のほうから、男性のしわがれた声がした。神主の格好をしたおじいさんだ。総領の名を呼びながら駆け寄り、無事を確認するのもそこそこに、なにやら耳打ちを始めた。
それを横目に、るいの騒動屋の虫が騒ぎ始めた。
「るいもお参りしてみよーっと」
「おいバカ止めろ」
優菜たちの制止をさっくり無視して、隼人に参拝手順を教えてもらうと、るいはドキドキしながら拍手を打った。
「叫び声カモーン! ……あれ?」
声は聞こえてこない。手順が違ったのだろうかともう一度繰り返しても、やっぱり怪異は起こらないではないか。
今度はオカルトマニアが進み出た。
「じゃ、次はわたしが」
祐希も二礼のあと、拍手を打った。だが、
「……あれ? 吼えない」
「なるほどねぇ……」
という声に振り返れば、総領たちがこちらを見つめていた。先ほどまでの顔面蒼白はどこへやら、血色の戻った顔は輝いている。ただ沙耶のみが、いまだ信じられないといった顔のままであった。
6.
帰りの車中。隼人はなんだか妙に疲れて座席にもたれかかっていた。
「なーなー隼人君、沙耶さんとほんまになんもなかったん?」
「ないよ。洋館の周囲をぐるりと一回りして、神社に行って、あの叫び声」
なぜか、車内の雰囲気が重い。あの叫び声のせいだろうか。
「隼人君――」と今度は理佐。
「総領様と何を話してたの?」
「んー、勉強のこととか、バイトのこととか。なんで?」
じっとり黙ってしまった理佐に代わって、優菜が声を上げた。
「なんか、やけに熱心だったよな、総領様」
そう言われれば確かに、仕切り直してからお開きまで、ずっと側に総領がいたような気がする。
「会長もなんかワサワサしてたし」
「あの人は今日会った時からそうじゃん」
「結局、アレがなんだったのか、聞けずじまいだったね」
「まあ、鷹取さんちのお家の事情が絡んでるみたいだし、あんまり根掘り葉掘り聞くのもねぇ」
根掘り葉掘りどころか、実際はにっこりされるだけで、まったく説明が無かった。取り付く島も無いといえば語弊があるだろうか。
でも、と隼人は思う。なんだかやけに、みんなが寄って来たのは確かだ。鷹取の人たちだけでなく、庭師の人たちも。
沙耶以外は。
(やっぱ俺、避けられてるのかな……)
そこに戻って、そこはかとなく胸に痛みを覚えた隼人を乗せたバスは、夕暮れの街を走っていった。