アルール歴2182年 8月26日(+8分)
「夢を拒絶されると、死が最後の救いとなる。(中略)人間の狂気が行きつく先は二つしかない。おのれの無力を思い知るか、他人の脆さを認識するかだ」(ヤスミナ・カドラ「テロル」)
0935:アルール大聖堂前
――シャレット卿の場合――
ハルナの結婚記念パレードは無事終わった。人によっては到底無事ではないと評価するかもしれないが、十分に許容範囲内であろう。少なくともハルナが奇声を上げて逃げ出そうとしたり、花婿であるスタヴロス・オルセンがちょっと見目よい町娘を馬車に引っ張り上げたりはしなかったのだから、これをもって無事と言わねば神への感謝が足りぬというものだ。
ともあれパレードは無事終わり、我々はアルール大聖堂前に用意された休憩所に入った。
パレードに参加した我々はここで軽く衣装を整え、しかるに10時の鐘をもって新郎新婦を先頭にして一族郎党が並んで大聖堂へと入るという手はずだ。
だが私としては、この状況をもって万事上手く進行していると断じることはできない。
ほぼ疑いなく、ハルナは何か途方もないことを企んでいる。
だがその企みが絶対に成功すると言い切るには、不安材料が残りすぎているからだ。
最も大きな不安材料は、審問会派のライザンドラ・オルセンだ。
彼女の才能は、ハルナに勝るとも劣らない。
しかもハルナは事実上孤立無援であるのに対し、ライザンドラ・オルセンには老マルタをはじめとした審問会派選りすぐりのエリートたちによる支援がある。
となるとハルナにとって不測の事態は起こり得ると考えるべきだし、そうである以上、私は何らかの手を打っておくべきだろう。
だから私は周囲で談笑する有象無象に一礼すると、「父親と娘の、最後の語らいの時間を与えてほしい」と申し出た。
私達の護衛についているジャービトン派の神殿騎士団も、審問会派の特別行動班も、この申し出には否と言えず、かくして私はハルナと二人きりになれる機会を得た。
相変わらず、心ここにあらずという表情で青い円筒形の積み木を齧るハルナに、私は呼びかける。
「これからの段取りを説明しよう。
まずこれから、最終的な衣装の確認と、最後のボディチェックが行われる。なにしろ教皇猊下が列席されるからね。許可を受けた者以外は一切の武装が許されない。
その後、10時になったらここを出て、大聖堂に入る。
といっても、緊張する必要はない。大聖堂に入ったら、まずは一度、家族ごとに別々の部屋へと通される。それから改めて君を先頭にして部屋を出て、バージンロードでスタヴロス君と合流し、しかるに結婚の祝福を授けてもらうべく教皇猊下のもとへと向かう。
教皇猊下からの祝福を受けたら、その足で大聖堂の外に出て、帝都の皆に二人が夫婦になったことを宣言して、それで式は終わりだ。
どうだい、簡単だろう?」
私の説明に、ハルナはまるで反応を示すこともなく、ただ虚ろな目で積み木をかじっている。
上体がフラフラと不安定に揺れ、ときおり前後に大きく傾ぐが、倒れてしまうことはなさそうだ。
そうやって、1分ほど沈黙の時間が続いただろうか。
突然、ハルナがピタリと上体を静止させると、ゆっくりと積み木から口を離した。
「お父様は、死にたいと思うことがありますか?
何もかもを無茶苦茶にして、終わりにしてしまいたいと思うことがありますか?」
シャレット家の家格にしてはシンプルすぎるほどシンプルな白いドレスを着たハルナは、まったくの無表情を保ったまま、私にそう告げた。
そしてその言葉は、氷でできた鋭いナイフのように、私の心臓を一撃で串刺しにし、凍りつかせた。
ああ。
ああ、これこそが天才というものだ。
私は酸素を求めて数回慌ただしく呼吸してから、反射的に答えを返しかけ、そして決死の思いでその言葉を飲み込んだ。
私はけして、天才ではない。
天才どころか、秀才と呼ばれるラインにも達していない。
けれどあの父を間近で見てきた私は、天才とはどのようなものであるかということだけは、誰よりも知っているつもりだ。
だから私は、目の前に座る無垢なる天才に、慎重に慎重を重ねて言葉を返す。
「いいや。私は死にたいと思ったことはないし、世界は今後とも平穏であるべきだと考えている。
シャレット家はこれからも栄華を重ね、アルール帝国はさらなる繁栄を迎え、教会は神の永遠の輝きを地上にもたらし続け、そして神の栄光は久遠であると、心の底から願っているよ」
0947:〈ボニサグスの図書館〉
――パウル1級審問官の場合――
僕がいささか神経質になりながら胸壁の上を見回ったり、城門のチェックをしたりしている間も、ユーリーン司祭は図書目録を片手に書架を調べてまわり、あるべき場所に収まっていない本をあるべき場所へと移動させ、また著しく状態が悪化している本を要修理の棚に持っていったりと、実に楽しげに司書としての仕事に邁進していた。
その仕事っぷりを見ると、これが彼女の天職なのだろうな……と、迂闊にも思ってしまいたくなる。事実、ユーリーン司祭曰く「前任者は仕事っぷりが甘すぎた」そうで、この〈図書館〉で彼女が成すべき仕事は年単位で存在するという。賢人会議との協定では、ユーリーン司祭は最低5年間はこの〈図書館〉に篭って働くことになっているが、このぶんだと5年どころか10年くらいは余裕で篭っていそうな勢いだ。
……いやいや、僕としては彼女には、教皇の椅子から衆生を導いてほしいのだが。
そんなこんなであれこれと仕事をしたり確認をしたりユーリーン司祭の仕事を眺めたりしているうち、10時の鐘までもう少しという時間になった。
〈ボニサグスの図書館〉は一種の修道院でもあるので、日々のお祈りの時間は厳格に定められている。かくして10時(=祈りの時間)が近づいてきた段階で、ここで働く司祭や修道士たちは一旦作業の手を止める。無論、それはユーリーン司祭もまた例外ではない――彼女が本を前にして時間を忘れないとは、また不思議なこともあるものだと思わなくもないが。
かくして小休止に入ったユーリーン司祭は、必然的に、どうしようもなくイライラしながら遠くを見ている僕と出会うことになった。
「――まだ悩まれているようですね」
あまり声をかけたくないけれど声をかけないのもどうかと思う、くらいの風情を漂わせながら、ユーリーン司祭が僕に話しかけてくる。うーん、いけない。女性に気を使わせたとあっては、パウル・ザ・バットマンの名折れだ。いやまあ、最近はライザンドラ君に(公的な面に限っては)めっちゃ気を使わせてるけど。
「まあ……もしかしたら審問会派が最も恐れていることが起こるかもしれないな、とね。そんなことを、漠然と考えていたもので。
起きなきゃ起きないで万々歳なんですが、どうも起きるんじゃないかっていう悪い予感がしてならないんですよ。で、じゃあそれが起きたとき、僕はどう対処すべきかな、とか、そういう面倒くさいことを考えてます」
僕の回りくどい弁明に、ユーリーン司祭はすぐさま食いついてきた。
「審問会派が最も恐れること?
それはつまり、異端の跳梁ですか?」
ふむ。一般的に言えば、そういうことになるだろう。でも実を言うとこのあたりは些か関係性が入り組んでいてめんどくさい……まぁユーリーン司祭なら端折り気味に説明しても理解してもらえるか。
「半分はそれで正解です。でも我々が異端と戦っているのは、異端が跋扈することによって、我々が最も恐れる事態が、最も発生しやすくなるからなんですよ。
つまり異端の跳梁は、我々が恐れる状況の主たる原因であって、我々が恐れる状況そのものではない――このあたりは是非ご内密にして頂きたい打ち明け話ですけどね」
僕のぶっちゃけ話を聞いて、ユーリーン司祭の表情が厳しくなる。いやま、審問会派が本当に防ぎたいと思っているのは異端の跳梁跋扈ではありませんなんて話は、他派の人間にとってみれば「なるはやで忘れるべき事実」だろう。
でもユーリーン司祭はそこで退こうとはしなかった。
「確かにジャービトン派にも対異端に特化した内部組織はありますし、審問会派でなくては異端と戦ってはならないというルールは教会法上には存在しません。
そういう面から見れば、審問会派が真に憂慮するのは異端そのものではない、という主張にも納得できます。
では審問会派が最も恐れるのは、何なのですか?」
ここまで真っ直ぐに聞かれたからには、ちゃんと答えないのは不誠実というものだろう。
「審問会派の開祖が最も恐れたのは、破滅的な暴力の無制限な拡大です。
暴力ってのはいろいろ面倒かつ便利なものですが、思うほど効果を発揮しないことがあります――それはすなわち、自分が持つ暴力よりも大きな暴力に出会ったとき、です。ここまでは簡単ですよね?」
僕の言葉に、ユーリーン司祭はきっぱりと頷く。
「ところがこれはあくまで、自分が生きて目的を達成するために暴力を行使する場合に限られます。
自分は死んでもいいから目的を達成できればいいというのであれば、暴力の効率は一気に上がるんです。
例えば、ある一人を殺せるなら自分は死んでも構わない――そういう覚悟を決めた暗殺者というのは、『旅の商人を殺して金品を奪おう』と考える野盗より、ずっと厄介です」
僕が示した陰惨な構図を、ユーリーン司祭はすぐに理解した。彼女の表情が一気に曇り、「理解しました」と苦々しげに呟く。
「異端者は、己の歪んだ信仰を『正しい信仰』であると証明するためであれば、己の命を実に簡単に投げ出しがちです。よって異端が跳梁跋扈するような事態になると、己の命を意に介さない暗殺者が群れなして横行する可能性が高い。
そうなったが最後、あとはただひたすらに復讐が連鎖し、膨大な量の死体の上に更なる死体が積み上がっていきます。
これこそが、審問会派が最も恐れる事態なんです」
ユーリーン司祭は表情を曇らせたまましばし沈黙していたが、やがて「十分に妥当な論です」と呟くように口にした。
そして僕は、実に嫌な話だよなと思いつつ、その先を語る。
「で、僕が今回のケースについて最も強く懸念しているのは、仮にローランド司祭の一党が死を顧みずにこの〈図書館〉に押し寄せてくるとして、彼らはどこまで異端であるのか、ということなんですよ。
連中がまったくの異端に染まっていて、挙句馬鹿なことをしでかすというなら、それは審問会派が想定している範囲の問題です。でも本当に彼らは異端に染まりきっているのか? もし彼らの行動の根源が異常な宗教的情熱ではなく、ありきたりな不満だった場合、これに対して審問会派はどう対応できるのか?
それから、あんまり直視したくない問題なんですが、ハルナ君が己の破滅的な欲望を極限まで破裂させた場合、審問会派はこれをどう定義すればいいのか? それってのは『個人が己の死を顧みずに暴力を爆発させて願望を叶える』という、まさに審問会派が最も恐れている事態ではないのか?
ま、実に今更ですけど、審問会派はボニサグス派と協力して、この『自己破滅的な暴力の横行』を踏まえての異端の定義について、しっかり検討すべきだったんでしょうね。
異端の定義問題が両派にとって政治的問題となり続けてきたがゆえに、僕らは『現実』というやつに追い抜かれたかもしれません」




