アルール歴2182年 8月26日(+14分)
「人口は制限されなければ幾何級数的に増加するが生活資源は算術級数的にしか増加しないので、生活資源は必ず不足する」(マルサス「人口論」)
0911:帝都某所
——オットー上級兵長の場合——
シャレット家とオルセン家の結婚式、しかもパレードつき。
こんな大イベントを、物見高い帝都市民が見逃すはずがない。
ましてや新郎が札付きのクズ野郎で、新婦が心身ともにすっかり壊れてしまった才女となれば、下世話な興味に駆られた野次馬も多くなる。
実際、パレードが始まる前から、街路は人で鈴なりになっていた。そして案の定、迷子だの喧嘩だのといったところを皮切りに、スリだの置き引きだのの騒ぎがあちこちで起こる。そのたびに俺たち警備兵はてんてこ舞い。
だがまあ、実のところ俺も、このパレードには興味がある。
なにしろ、俺の娘はクリアモン派の医者として、新婦の主治医をしばらく務めていたのだ。どうやら表だって口にはできないあれこれが随分とあったようで、娘は一時期ひどくふさぎ込んでいた。それだけに、俺としてはチャンスがあればひとこと言ってやりたいことがあるというか、まぁなんだ、その新婦のツラなりとも拝んでみたいという気持ちは、確かにある。
そんなわけで、俺は市民の統制をとりつつ、パレードの無蓋馬車が通るのを今か今かと心待ちにしていた。
そして新婦の馬車が通りかかると——居並ぶ市民たちは、わずかにどよめいた。
確かに、新婦はえらく美人だった。化粧の出来栄えもあるんだろうが、なんのかんので素地がいいんだろう。体つきはえらく貧相(ぶっちゃけて言えば見事なまでのまな板)だなと思ったが、人間が男と女に別れる前の、なんだか無垢な綺麗さみたいな雰囲気があった。
けれど、市民どもがどよめいたのは、それが理由じゃあない。
花嫁は青い積み木をしっかりと握って、まるで赤子のように、ガジガジとその積み木に齧りついていた。
「ねえ、なんで花嫁さん、オモチャを持ってるの?」
「積み木を噛んじゃいけないんだよ!」
歩道を埋め尽くした市民に混じった子供たちが無邪気な大声をあげ、親が慌ててその口を抑えるという光景が、あちこちで展開される。
無蓋馬車がゆっくりと通り過ぎた後も、どよめきは収まらなかった。
端的に言って、あれはあまりにも痛々しい光景だった。
あるいは、ショッキングな光景だった。
だから市民どもの中には、同情と哀れみの声を漏らす者もいた。
一方で、嘲りと憤りの声を上げる者もいた。
そしてその場で言い合いを始める者もいた。
その気持ちは、わかる。
要するにあれは、直視して良いものではなかったのだ。
だから俺は、ざわめき続ける市民が道路に出ないように統制しながら、神に祈るしかなかった。
どうか、あの哀れな少女の人生に、わずかなりと幸せがありますように。
そしてどうか、俺の娘が、あの少女の無残な花嫁姿を見ませんように。
0927:帝都某所
——ローランド司祭の場合——
遠くから愚昧なる帝都市民たちの歓声が聞こえてくる。
彼ら市民たちから吸い上げたカネを使って、社会の寄生虫二匹の無意味なる結婚パレード(アル中のクズ野郎に、介助なしでは生活できない狂女の組み合わせなど、二人ともこれ以上社会に負担をかけるまえに淘汰されるべき存在だ)が開かれているというのに、それを歓呼の声で迎えるとは、まったくもって洗脳とは恐ろしいものだ。
だが、それもこれも、もうすぐ終わる。
俺たちが、この腐り果てた社会を、根底から変える。
社会に寄生し、健全なる人々から生き血を吸って生きながらえる蛆虫どもに、天誅を下すのだ。
そのためにはまずこの最初の戦いに、間違いがあってはならない。
俺はもう一度自分の装備を確認し、この日のために用意してきた秘密兵器の具合をチェックする。こういうものは、確認してしすぎということはない。
と、そんな俺の肩をポンと叩く者がいた。同志ガルドリスだ。
「同志ローランド。君に、話しておきたいことがある」
仕事の手を途中で止められた俺の心に突発的に怒りが過ぎったが、同志ガルドリスの話というならば傾聴するほかにない——いや、全霊を賭して聞かねばならぬ。
「これから言うことを、君は侮辱だと感じるかもしれない。その点については、前もって謝罪しておく。だがそれでも私は、他ならぬ君にだけは伝えておきたいのだ」
俺は居住まいを正して、彼の一言一句に集中した。
「私は君の才能を高く評価している。思想的な先駆者として、君以上の者は〈同盟〉にはいるまい。
だが、教会全体を見渡して考えると、君は必ずしも頂点とは言えない。君にとっては無念だろうが、君を凌ぐ到達点に至っている者は、けしてゼロではない」
俺は反射的に激怒しそうになったが、かろうじて自制する。同志ガルドリスは、意味もなくこんな侮辱をぶつけてくる男ではない。
「だからこそ、私は思うのだ。君が彼らに及ばないのは、何なのか、と。
答えはただ一つ。カネだ。
それ以外に、君が彼らに劣っているものは、何もない」
些か予想外の方向へと向かった同志ガルドリスの言葉に、俺は不覚にも虚を突かれてしまう。
「君がもっと経済的に恵まれていて、日々を研究と自己研鑽にのみ使うことができたなら。いや、今からでも遅くはない。そういう日々を君が送れるのであれば。君は教会全体においても、間違いなく傑出した人物となっただろうし、そうなるだろう。
だが、そうではなかった。
これから先、君はどんどん忙しくなる。たとえカネに余裕ができたとしても、今度は時間がなくなる。そうやって世事にかまけざるを得ないうちに、君はいつか、私と同じような年齢になる。そのとき君はきっと、こう思うだろう——俺はいったい何をしていたのだ、と」
同志ガルドリスの言葉は、俺の胸に切々と突き刺さった。
この嘆きはまさに、彼自身の人生の嘆きだ。彼もまた偉大な才能をその脳の内部に秘めつつも、〈同盟〉の諸事をやりくりするというつまらない雑事にその能力のほとんどを注がざるを得なかった。
その結果として今の我々があるのだから彼にはどう感謝してよいかわからないが、とはいえ彼自身に悔いがあるというのは否定できない事実だろう。
「この数ヶ月、私は何度も想像した——もし私がかつて父に薦められたように、あの荒れた田舎の農場を継ぎ、領民たちとともに泥にまみれて農園を切り盛りしつつ、農閑期にでも自分の研究を進めていたら、どんな未来があっただろうか、と」
同志ガルドリスの言葉に、俺は返す言葉がなかった。俺には俺の研究があるように、彼にも彼の研究がある。その根源的な事実を、俺は無視し続けてきたのではなかったか。
だが同志ガルドリスはそんな俺の手を、しっかりと握った。
「ローランド。私は後悔などしていない。
あの田舎の農場を継いだら、どんな未来があったか? 未来など、あるものか!
かの農場の農夫たちは、文学を解するどころか、文字すら読めない。彼らの理解できるものと言えば旅芸人が見せる下賤な芝居が精一杯で、それも旅芸人が半裸で踊るところ以外は眠りこけるような始末だ。そうやって下卑た踊りに興奮した彼らは、辺り構わず互いに交尾して劣情を発散させるか、意味のない殴り合いを始めて暴力の興奮に酔いしれる。
その上、彼らにしてみれば同性愛は汚らわしいものでしかなく、では異性愛はと言えば、女は男の所有物でしかない。あんな魂の牢獄で半年も暮らせば、私は必ずや気が狂っていただろう」
そう語る同志ガルドリスは、まばゆいばかりの笑顔だった。
俺はそんな彼の笑顔を尊いと思い、また愛しいと感じた。
「今の社会は間違っている。努力が必ず報われるべきだとは言わないが、努力するチャンスは全員に等しく与えられるべきだ。それが、人間の尊厳というものではないか。
同じ貴族の家に生まれながら、たまたま4男坊・5男坊といった恵まれぬ立場で生まれたがゆえに、一生何のチャンスもないまま家畜のように使役されるしかないというのでは、何のためにこの世に生を受けたのか分からない。これこそまさに、神が与えたもうた生命に対する最大の冒涜だ。
だからこそ——もう一度言おう。私には、後悔などない。
七転八倒しながらではあったが、私は〈同盟〉を作り、そして君や同志の力を借りて、ここまで〈同盟〉を偉大な組織に育てることができた。それでもう、十分だ。
同志ローランド。私は君を、そして同志たちを、誇りに思う。私では作り得なかった未来を、どうか、切り開いてくれ」
同志ガルドリスの言葉を聞いた〈同盟〉の同志たちは臆面もなく男泣きを始めていて、俺もまた滂沱の涙を流していた。
俺は衝動的にガルドリスをしっかりと抱擁すると、その整った唇に己の唇を重ねていた。他の同志の眼前で接吻されたのを恥じらったのか、ガルドリスはやや身を引こうとしたが、やがて熱心に俺の唇に自身の唇を重ねる。
そして同志の誰もが、この接吻を批判などしなかった。なぜならこれが俺たちにとって最期の接吻になると、誰もが知っていたから。




