アルール歴2182年 8月26日(+11分)
「二つに一つなんだ、レースに勝つか、それともただ走るだけ走るか。
おれにはその二つともできることがわかっていた」(「長距離ランナーの孤独」)
0811:〈ボニサグスの図書館〉
——ユーリーン司祭の場合——
「そうですか。カナリス2級審問官が行方不明、と」
パウル1級審問官からの報告を聞いて、私は思わず眉をひそめていた。どんな事情であれ、行方不明というのは断じて良い状態ではない。
「ライザンドラ君が捜索しています。
僕としては、自分の部屋で飲んだくれていることに期待したいんですが……まだライザンドラ君が戻らないということは、そういう穏当な状況ではないようですね」
私はため息をついて、周囲をぐるりと見渡す。
壁面という壁面には本棚が置かれ、大量の本がみっしりと詰まっている。カナリス2級審問官が危機的状況にある可能性が高いというのに、思わず頬が緩みそうになる。いやはや、私を俗世から隔絶した場に島流しにするにあたって、確かにここ以上の場所はないだろう。
「ま、そうそう簡単に死ぬ男じゃありませんから、あいつは。
あいつを殺そうと思ったら、ちょっとした軍隊が必要でしょう。
それだけに、今日はここを守って欲しかったんですがねえ」
カナリス2級審問官を殺すためには軍隊が必要というのは、やや大げさではあっても、ひどく大げさではないなと思う。帝都においてはいまひとつ活躍の場を得られていないが、それは暴力を駆使できないからに過ぎない。それこそサンサ教区のような土地においては、彼は高度に訓練された知性と筋肉を兼ね備えた、完璧なワンマンアーミーだった。
……と、いうことは。逆に言えばパウル1級審問官は、この〈ボニサグスの図書館〉を——正確に言えば私を守るために、あの「人間の形をした軍隊」が必要だと判断した、ということでもある。
「パウル1級審問官は、それほどまでに熾烈な攻撃がこの図書館に対して行われる——そう予測されているのですね?」
念のため言葉にして確認してみると、パウル1級審問官は重々しく首を縦に振った。
「あなたを狙う相手は、あのカーマイン3級審問官がわざわざ警告をよこしてくるような連中です。
あいつがヤバイと判断するってのは、滅多にないんですよ。どんな修羅場でもまだイケるとかヘラヘラ笑って切り抜けるあの男が『ヤバイ』なんて言い出すんですから、相当ヤバイと思わなきゃいけない」
軽口でも叩くような口調でパウル1級審問官は事態の深刻さを語ったが、私としてはどうにもしっくりこないところがある。
「その——確かに、ローランド司祭の異常性は、私もよく知っています。今でも、思い出すと体の奥底が震えるくらいに。
ですがそれだけに、私は彼の——あるいは彼らの限界も理解しているつもりです。言ってはなんですが、この事実上の城塞をなんとかできるような、そんな組織力を持ちうる人たちではないかな、と」
私の見解を聞いたパウル一級審問官は、深々とため息をついた。
「いやはや、まあ、そこなんですよ。ええ、そこなんです。
僕もそれとおんなじ見解を、この図書館の警備主任からさんざん聞かされましてね。言っちゃ何だが貴族のボンボンが多少訓練した程度で、どうにかなる場所じゃあない、と。
常識的に言えば、その見解は正しいと思いますよ。秘密の抜け道とか、秘伝の脱出路とか、そういうのは全部チェックもしてます。正門から堂々と入ってくる以外、この図書館に入る方法はない。いやまったく、その通りなんです」
そう言いながら、パウル一級審問官は不愉快そうに表情を歪めた。
「ただ、ですね。この図書館が城塞だったのは、1200年も前のことです。その頃には既にこの図書館は、防衛施設としては新品かつ旧式でした。そりゃそうですよね、帝都のこんな近くにある城塞がバリバリ活用されてたなんてことは、ありえません。
つまりですね、この城塞って、実戦を越えてないんですよ。ただの一度も。
更に言えば、この1200年間で人間は戦争の技術を大いに高めています。なるほど1200年前であれば、この城塞はかろうじて城塞たり得たでしょう。でも現代的な攻城兵器を持ち出されたら、ここは城塞じゃなくて、ただの図書館ですよ。
しかもこの図書館は構造上、正門を破られたが最後、守る側には逃げ場がなくなってしまう。防衛拠点としては、かなり劣悪なんです」
ううん。でもやはりそれは、パウル一級審問官の杞憂ではないだろうか。どんなに「起こりうることは、起こること」と言ってみても、仮にも帝都の一部であるこの図書館の前に現代的な攻城兵器を持ち込める可能性は絶無だ。そんなことがあり得るとしたら、それはもう私を暗殺するというレベルの話ではなく、完全な戦争状態だとしか言いようがない。
だから私は逆に、パウル一級審問官に聞いてみることにする。
「でしたら伺いますが、仮にパウル一級審問官がこの図書館を攻め落とすとしたら——しかも審問官としての権力をまったく利用できないとしたら、どうしますか?」
私の問に対し、パウル一級審問官は憮然とした表情で黙り込んだ。
そしてしばらくしてから、ぽつりと答えを返す。
「ひとつだけ、方法があると思ってます。
でもねえ、それをやると、僕は確実に死ぬんですよ」
0857:シャレット邸
——ライザンドラ特捜審問官の場合——
結婚祝いのパレードを待つ人波をかきわけるようにしてシャレット邸にたどり着いた私は、特捜審問官の紋章ひとつで門番を黙らせると、シャレット邸に踏み込んだ。私の護衛についてくれた特別行動班のブレンダ武装審問官は「これで空振りだったら不味くないですか?」と心配げだが、今はそんなことを考えている場合ではない。
2級審問官が行方不明になっていて、特捜審問官たる私は行方不明の審問官がこの館の中にいると判断した——それで十分だ。
シャレット家の主だったメンバーは既にパレードの開始地点に移動しているようで、館の中は異様なくらいに静かだった。ごくわずか、留守番を命じられたメイドたちがお互いに我が身の不運を嘆きながらダラダラ仕事をしている程度。
私たちは早足で、ハルナさんが監禁されていた部屋へと急ぐ。コーイン司祭が書斎にしていた部屋にハルナさんは閉じ込められていたという情報は、カナリス2級審問官から報告を受けている。
書斎のドアに手をかけると、扉には鍵がかかっていた。案内してくれたメイドが「この部屋の鍵はシェンナさんが管理していまして……」とかゴニョゴニョ言い出したが、時間が惜しい。私は目線でブレンダ武装審問官に合図をし、彼女は軽く肩を竦めると、扉に体当りした。その一発で鍵は弾け飛び、ドアが開く。「ちょっと……!」と何やら文句を言いたげなメイドを捨て置き、室内に突入する。
ちょっとした図書館のようになっている部屋の中央、天窓の下には、人影があった——天井からぶら下げたロープを首にかけた、おそらくは、死体だ。
ゆらり、ゆらりと小さく揺れるその人影を見たメイドは、「シェンナさん! 嘘、嘘でしょう!?」と悲鳴をあげ、その場にへたりこんだ。ブレンダ武装審問官がダッシュしてシェンナ老嬢の体を抱え上げ、慎重に床に下ろしたが、脈その他をチェックしてから、彼女は静かに首を横に振る。手遅れ、ということだ。
私は床にへたったままのメイドに「この部屋を封鎖します。捜査が完了するまで、申し訳ないですが貴女も拘束します」と告げてから、ブレンダ武装審問官と手分けして部屋を捜索する。
と、ブレンダ武装審問官がすぐに「カナリス2級審問官を発見しました! 意識はありませんが、無事です!」と声をあげた。カナリス2級審問官は、あろうことかベッドの下の小さな空間に押し込まれ、そこでいまなお眠っていた。
ともあれ、彼を起こしていいのかどうか、すぐには判断できない。こんな大騒ぎになっているのに目が覚めないということは、薬物によって眠らされているので間違いない。それだけに、無理に起こすと危険かもしれない。
それより何より、この状況をどう判断し、そしてどうすべきかが、大きな問題となる。
2級審問官が薬物で眠らされ、老いた侍女が死に、そして部屋の主は結婚式へと向かった。これをどう読み解く? そして、どう対応する?
選択肢A。何もかもを見なかったことにする。つまり、カナリス2級審問官を〈ボニサグスの図書館〉に運び、パウル1級審問官の指示を乞う。
選択肢B。異常な事件が起こったことを口実に、重要参考人であるハルナ・シャレットを拘束するべく動く。審問官が薬物を用いて危害を加えられた以上、これは審問会派が対処すべき事件となった。もちろん特捜審問官がこんなことをしたら、その政治的余波はどれほど大きなものになるか想像もできない。けれどすべてを上手くやれれば、あの腐り果てた結婚式を真正面から潰せる、かも、しれない。
選択肢C。私はまだ何かを見落としている。この部屋にはまだ、私が知るべき何かが隠れている。
ひとつ、深呼吸をする。それから私は第3の道を選んだ。
部屋をぐるりと見渡すと、庭に面した窓際に大きな机があり、その周辺には大量の積み木が散乱していた。私も幼いころに遊んだことがある、有名な玩具職人が作った積み木だ。
一面に散らばった積み木を睨みつけていると、ブレンダ武装審問官がやってきて、「懐かしいですね。これ、あたしも小さい頃、誕生日のプレゼントに買ってもらいました」と呟く。
そう。確かにこれは高級品だが、貴族階級なら「何かの記念日に買い与えられる」程度のものだ。実際、我が家にはこれが大量にあって、私はかなり巨大な建物を作って遊んだ記憶がある。
つまりこれは、私が違和感を抱かねばならないようなものでは、ない。
なのになぜか、私はこの積木に引っかかりを感じた。
なぜ?
じっと、散らばった積み木を睨みつける。
そして突然、私はあることに気づいた。
天啓に打たれるがままに、コーイン司祭が使っていた机の引き出しを片っ端から開ける。私の記憶が正しければ、コーイン司祭は確か……そして私の推測が正しいなら、コーイン司祭が愛用したそれは、この机には残されていないはずだ。
そして案の定、それのケースこそ引き出しには残っていたが、内容物は入っていなかった。
だとすれば、答えは、ひとつ。
私は未だに床に座り込んだままのメイドに、問いただす。
「ハルナさんは、積み木に異様なこだわりを見せませんでしたか?
形状としては、青い円筒形のものです」
メイドはおどおどしながらも、しっかりと頷いた。やはり、か。
でも、だったらどうする?
これを私は、どうすればいい?
審問官見習いであれば、やるべきことは1つ。パウル1級審問官に報告し、指示を待つ。さもなくば老マルタでもいい。
でも今の私は、特捜審問官だ。老マルタは、私が前線で自分の判断を下すことを期待している。実際、今から〈図書館〉に向かっても何にもならないし、教皇がいるアルール大聖堂に許可なく入るのは(そこに老マルタがいるはずだ)、たとえ特捜審問官の腕章があっても、いささか難しい。
で、あれば。
——で、あれば。
そのとき背後で、カナリス2級審問官が小さく呻いた。
「いいんだ、もう、それは、いいんだ、ハルナ。
お前はもう、そんなことをしなくて、いいんだ」
目を覚ましたのかと思って急いで振り返ったが、まだ彼は眠りに囚われていた。
けれどその呻きは、私にひとつの決意を定めさせた。
ハルナさんを、止める。
捜査を理由に結婚式を潰すのは、正直いって現実的ではない。「ハルナ・シャレットを拘束するのは結婚式の後でもいいだろう、常識をわきまえろ」と言われてしまえば、悪いのはこっちということになりかねない。
でもハルナさんの計画をピンポイントで潰すことなら、できる。
しかも、ハルナさんに罪を犯させない形で。
私はブレンダ武装審問官に現場の保全(要は「屋敷の者を脅して現場に入らせないようにする」)、及び現場を見てしまったメイド(+カナリス2級審問官)の護送を頼むと、アルール大聖堂へと向かうことにした。パレードで混雑する道を大きく迂回して、全力で走れば、ギリギリ9時40分には大聖堂前にたどり着けるはずだ。
……なるほど「審問官という仕事は、不屈の体力があってはじめて、それ以外を議論できる」とは、よく言ったものだ。もし途中で息があがって9時45分までに間に合わなければ、ハルナさんの計画を潰すという私の計画は、ご破産になる。
私は気合いを入れ直すと、暑くなり始めた帝都を走り始めた。




