アルール歴2182年 8月26日(+1日)
「貴様の精神の純粋さは、いや精神の純粋さにのみ、俺は同意する。
しかし行動はしない。 貴様達だけで勝手にやれ。
どうせ明日は俺もお前も、皆死ぬんだからな」(「日本のいちばん長い日」)
0545:〈ボニサグスの図書館〉正門前
——ライザンドラ審問会派見習いの場合——
「……おかしいな」
帝都の外れにある〈ボニサグスの図書館〉の正門前に立って、私とパウル1級審問官は通用門が開く時間を待っていた。そしてパウル1級審問官が呟くまでもなく、私も異常を感じ取っていた。
「カナリスのやつ、まかり間違っても遅刻するような男じゃないんだがなあ。
そりゃまあ僕なら日がな一日、部屋に篭って酒でも飲んでそうではあるんだけど。でもあいつはこういう日だからこそ、痛々しいくらいに真面目に職務を遂行する——と思うんだが」
〈図書館〉の通用門受付が開くのが、朝6時。このため私たちは、20分前に正門で集合する予定になっていた。なのにいまだ、カナリス2級審問官は姿を見せない。
「何かあったんでしょうか?」
必然的な(そしてあまり意味のない)推測を提示してみる。
「そう考えるべきかもしれないね。
とはいえ——さて、どうしたものか」
パウル一級審問官はしばらく沈思黙考すると、やがて「仕方ないな」と呟き、指示を出した。
「とりあえずは、最低限の状況確認をしよう。
ライザンドラ君。悪いが、カナリスの様子を見てきてほしい。理屈の上で言えば、彼だって部屋で酒瓶を相手に鬱々としてる可能性はあるし、それならそれでそっとしておけばいい。
だがもしそうでないなら、まずは老マルタに連絡を。それから、本部詰めの特別行動班隊員を一人連れて、昨日のカナリスの足取りを追ってほしい。
もしあいつが辛い思いから逃れようとしているなら、酒よりも仕事に逃げる可能性のほうが、ずっと高い。そしていま彼が遅刻してるってことは、あいつは何らか危険な状況にある——かもしれない」
理路整然としたパウル1級審問官の指示に感服しつつ、それでも私はひとつだけ、疑念を提示せずにはいられない。
「ご命令どおりに、と申し上げたいところですが。
〈図書館〉にいるユーリーン司祭を護衛するという仕事は、大丈夫なのですか?」
私の問いに対して、パウル1級審問官は軽く笑って答えを返した。
「うん。ぶっちゃけると、もし何かがあったら、君がここにいても死体が一個増えるだけだ。そうだろ?」
遺憾ながら、その指摘は全面的に受け入れざるを得ない。
かくして私は、早朝の帝都へと小走りで戻ることにする。
0600:帝都某所
——ローランド司祭の場合——
時は来た。
ついに、この時が来た。
俺たちは今や、引き絞られた弓から放たれんとする矢だ。
不浄なるものを浄化するために燃え上がろうとする炎だ。
天の正義を執行するために研ぎ澄まされた、一本の剣だ。
俺たちはこの時を目指し、精神も、身体も、鍛え抜いてきた。
あとはただ、大異端ユーリーンに天誅を下すのみ。
同志ガルドリスが、皆の前に置かれた壇上に上がる。
厳しい訓練を通じてすっかり日に焼けた彼の顔は、完全に闘士の表情だった。戦う男の顔、人殺しの顔、聖なる戦いを遂行する戦士の顔だ。
「同志諸君! ついに機は満ちた!」
ガルドリスの宣言に、同志たちが一斉に喝采を上げる。
「今日、我々は帝都に巣食う大異端を討つ。
今日、我々は帝都と教会を救済する英雄となる。
今日、我々は歴史となる。
そして今日から、我々の歴史が始まる!」
ガルドリスの言葉は、俺たちの心に深々と染み渡った。
そうだ。
俺たちは歴史となる。
そして俺たちが、歴史を作る。
俺たちは今日、真の英雄となるのだ。
「同志諸君! 死を恐れるな!
きっと諸君らの幾人かは、明日の朝日を見ることができない。
きっと諸君らの幾人かは、己の手を大異端に届かせられない。
きっと諸君らの幾人かは、己の死の意味を理解できずに死ぬ。
だが、それでもなお、死を恐れるな!
諸君らの闘争は、諸君らの隣にいる同志が記憶する!
諸君らの闘争は、諸君らを見守る神が記録する!
ここにおいて我らはひとつであり、ゆえに我らは神とともに永遠である!
さあ、いざ立て、神の闘士たちよ!
我ら〈同盟〉は、大異端ユーリーンに天誅を下さん!」
ガルドリスの絶叫にあわせ、同志たちは盾を打ち鳴らし、地面を踏み鳴らし、喊声をあげた。
そして俺は確信する——この聖なる戦いに、我々は必ず勝利する、と。
0732:老マルタの執務室
——老マルタ特別顧問の場合——
軽く息を切らせたライザンドラ見習いが執務室の扉を開けたとき、儂は結婚式に列席するにあたってどのタイを締めていくかを選んでいるところだった。
短いとはいえ結婚していた時期は、この手のものはすべて妻が選んでくれた。そしてその時期だけは、スーツやタイといった衣装のセンスを褒められたものだ。ええい、いっそ審問官の第一種戦闘装備で列席できんものか。
「お忙しいところ、失礼します。
カナリス2級審問官の行方がわかりません。老マルタ特別顧問は、何か伝言を貰ってはいませんでしょうか?」
儂は少し驚いて、思わず無意味な問いを返してしまう。
「〈ボニサグスの図書館〉には姿を見せなかったのか?
あやつの執務室は? 私邸で酒でも飲んでいるのではないのか?」
言いながら、この良くできた孫弟子であれば、そのあたりはすべて確認してからここに来たのだろうと思い直す。しかるに彼女はきっぱりと頷いて、儂の推測が正しいことを裏付けた。
「失礼を承知で、カナリス2級審問官の執務机を確認させてもらいました。
ここ最近、カナリス2級審問官は帝都におけるナオキの痕跡を求めて独自の調査をしていたようですが、特にこれといった成果は上がっていないようです。全体的にメモの日付けは古く、ここ数日はほとんど何も手についていない様子が伺えます。
以上より、カナリス2級審問官が突発的に危険な捜査に手をつけて行方不明になったという線は、やや考えにくい状況にあります。とはいえ、あの方が私事を優先して任務を放棄するということもまた、考えにくい状況です」
そこは完全に同意するほかない。とはいえ審問官という仕事は、完全に予期せぬ場所、完全に予期せぬタイミングで、想像を絶する事件に巻き込まれる可能性の高い仕事だ。あやつがその手のトラブルに飛び込んで、今もなお何らかの事件が進行しているという可能性は、けして否定できない。
と、ライザンドラ見習いが突拍子もないことを言い出した。
「ひとつ伺いたいのですが、カナリス2級審問官が老マルタに直接師事していた頃、落ち込んだり打ちのめされたりした彼が逃げ込む場所はなかったでしょうか? ひどく叱られた後であるとか、大きな失敗をしでかした後であるとか……そういうとき若きカナリス審問官は、何をしてメンタルを回復させていましたか?」
……ふむ。なるほど、確かに人間はそういうときこそ、決まった逃避先に逃げ込みたがる。心的ダメージが深ければ深いほど、あまり考えずに似たような逃避行動をするものだ。
儂はしばし考え、なんとか古い記憶にたどり着いた。
「——あやつが初めて助手として得た見習いを、任務の過程で失ったときのことだ。姿が見えぬと思ったら、あやつは運河沿いを延々と走り込んでいた。ぶっ倒れるまで、な」
儂の言葉を聞いたライザンドラ見習いは深々と一礼すると、執務室を出ていこうとする。その背中に、儂は声をかけた。
「待て。運河と言っても、帝都には大きな運河が3本ある。
それに、あやつもいいトシだ。若かりし頃のように、走り疲れてどこぞの土手で倒れているというのは、あまりにも考えにくいぞ」
儂の指摘を聞いたライザンドラ見習いはくるりと振り返ると、儂の迷いを一刀両断した。
「第1運河沿いには、シャレット家の邸宅があります。今のカナリス2級審問官なら、無意識に第1運河を選んだ可能性が高いと考えます。
それに、この期に及んでカナリス2級審問官がシャレット家に殴り込んだのだとしても、私は驚きません。むしろ何らかの理由で、いまも彼はシャレット邸にいる——そう考えたほうが、状況を綺麗に説明できます」
いやはや、実に頭の切れる見習いだ。確かにその仮説は、現状に最もフィットしているように思える。だとすれば、わずかながらの援護はしてやるべきだろう。
儂は執務机の上に放置していた腕章を、ライザンドラ見習いに放り投げる。
「これを持っていけ。
シャレット家といえども、特捜審問官相手に門を閉ざすことはあり得ん。
行け、ライザンドラ特捜審問官。その肩書に相応しい結果を出してこい」
特捜審問官の紋章が入った腕章を受け取ったライザンドラ特捜審問官は、ぴしりと背筋を正すと素早く腕章を腕に巻いた。
ふむ。こうして見ると、カナリスよりも彼女のほうが、よほどこの紋章に相応しい風格がある。
「過分なご配慮、ありがとうございます。
ああ、それから。本日のタイですが、向かって右から二番目の、シルバーのタイがよろしいかと。いまお手にしている赤銅色のアスコットタイはとても素敵ですが、教皇猊下が列席する式に締めていくには格式の面から見て問題があります。
では、失礼します」
0800:シャレット邸
——シャレット卿の場合——
「お館様、定刻でございます。
ハルナお嬢様の準備も、ほぼ滞りなく完了しております」
執事の声に促されるように、私は立ち上がった。朝から一杯飲みたい気分だが、さすがに教皇が祝福を授ける結婚式で、新婦の父が酒気を帯びているというのは頂けないだろう。
もっとも飲んでいたら飲んでいたで、「シャレット卿と言えども父親だな、可愛い娘を嫁にやるとなると飲まずにはいられないようだ」とでも、適当な噂が回るだけのことだろうが。
それはそうとして執事の言葉に少し引っかかりを感じた私は、上着を着せてもらいながら、彼にその疑問を尋ねることにした。
「ハルナの準備はほぼ完了した、と言ったな?
何か問題が起こっているのか?」
フィーリア療養所にバカ高い治療費を払ったかいあって、ハルナの男性恐怖症はすっかり鳴りをひそめている。だが「なるべく安静にすることをお勧めします」とも言われている以上、今日のこの日に至って突如新しい症状が吹き出したということもあり得る。
だが執事はさして深刻ぶることもなく、簡潔に問題点を指摘した。
「シェンナがハルナお嬢様のお召し替えを致しまして、こちらには万事遺漏ございません。またハルナお嬢様の精神状態も、安定しております。
ただ、今朝になって急に、やけに積み木に執着されていらっしゃるとのこと。今も積み木をひとつ、しっかりと抱きしめておられます。シェンナによると、手放させようとすると激しくお怒りになるとのことです」
ふむ。その程度であれば、問題あるまい。
「構わん。ハルナが狂を発していることくらい、帝都に知らぬ者はおらん。
いまさら積み木の1つや2つ、気にするまでもない」
実際、積み木ごときでハルナの精神が安定するなら、それに越したことはない。
この後、朝9時から45分ほどかけて新郎と新婦は別々の無蓋馬車で帝都をパレードして周り、しかるに朝10時からはアルール大聖堂で結婚式だ。
大聖堂での結婚式は参列者を絞っているが、パレードの観客はそういうわけにはいかない。群衆の好奇の目に晒されたハルナが奇行に走って式を無茶苦茶にしてしまわないことを(ハルナの治療にあたった医者からは『3時間程度であれば問題ありません』と言われているが)祈るばかりだ。
とはいえ。
私は心のどこかで、ハルナならば何かをやってくれるのではないか、と期待している。
この腐り果てたシャレット家を。
こんな腐った我々を平然と受け入れる帝都の貴族社会を。
我々に裁きを下そうとしない教会と神を。
なにもかも無茶苦茶にしてくれるのではないかと、期待している。
だから私は、執事にひとつ、指示を出す。
新品の積み木のセットを1式、馬車に積み込んでおくように、と。
さあ、ハルナ——お前のすべてを、見せてくれ。
この凡庸なる父に、天才のすべてを、見せてくれ。




