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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
悲しみをわかちあおう。苦しみをわかちあおう。
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アルール歴2182年 8月25日(同日)

——カナリス2級審問官の場合——

 夏の帝都の夕べは長い。


 夕刻の鐘が鳴る頃、太陽はまだ空を明るく照らしている。夜の鐘が鳴ってもなお空は青く、それから夕と夜が交錯するほんの一瞬の時間、白亜の帝都は薔薇色に染まる。夕焼けの朱とも、夜明けのオレンジとも異なる、幻想的な色。


 私はひとり、運河沿いに置かれたベンチに腰掛けて、魔法の色彩が運河沿いに広がる瀟洒な邸宅群を染めていくのを、漠然と見ていた。

 無力感と焦燥感。怒りと諦念。絶望と願望。そんなどうにもならない思いを心の中でこね回しながら、ただ、明日という決定的な1日が近づきつつあるのを、見ていた。ハルナが教皇を暗殺するなどという大それたことをするはずがないと思い、しかしハルナであればきっとやる(・・)だろうと思い、なんとかして止めねばならないと思い、今更止めて何になると思い、明日になれば突然ハルナが回復して結婚式のその場でシャレット家を告発しすべては丸く収まるかもしれないと思い、そしてそんな子供じみた幻想を一瞬たりと抱いた自分に絶望していた。


 だからそれ(・・)がふと耳に届いたときも、私は特に気にもとめなかった。


 それ(・・)は幼子が歌う、童謡のように思えた。シンプルなメロディの繰り返しに、たどたどしい歌詞。私はこの手の唄には詳しくないし、どんな唄が流行っているかに至っては気にしたことすらない。それゆえ、意識の外にその歌声を締め出していた。

 けれどやがて私の中の何か(・・)が、その唄に注意を向けるべきだと訴えた。おそらくは審問官として長年鍛えられた、カンのようなものなのだろう。


 そうして歌声に意識を向けた私は、思わず顔色を失っていた。


♪野の獣は ぽつぽつ歩く

 一人で歩く ぽくぽく歩く

 いつから いつから 野の獣は

 のけものになったの?


 野の獣は ほろほろ歩く

 二人で歩く ぼろぼろ歩く

 いつまで いつまで 野の獣は

 のけもののままなの?


 野の獣は ぽとぽと歩く

 三人で歩く ほとほと歩く

 どうして どうして 野の獣は

 のけものとよばれるの?


 さあ祈りましょう あなたに祈りましょう

 さあ祈りましょう わたしに祈りましょう


 日々であるために 省かれた時と

 100であるために みなされた1つ


 皆であるために 無視された人と

 獣であるための のけものたちを


 さあ祈りましょう あなたに祈りましょう

 さあ祈りましょう わたしに祈りましょう


 天に自由を 地に希望を

 我らの魂に 平穏のあらんことを♪


 気がつくと私は全力で走って、この童謡を歌っている()を探していた。


 この歌は、危険だ。


 歌詞は全般に不穏だが、なかでも最後の一節がマズい。最も基本的な祈りの言葉である「天に栄光を、地に繁栄を。人の魂に平穏あれ」を、意図的に改変している。けして直接的な悪意の感じられる改変ではないが、考えようによっては「天に必要なのは栄光ではなく自由であり、地に必要なのは繁栄ではなく希望である」という批判としても捉え得る。

 さらに過激な解釈(・・)をすれば「天に自由を、地に希望を」とは「天に栄光なく、地に繁栄なし」とも読めるだろう。また「天に自由を」とは、「教会は神を私物化している」という古典的な異端思想にも通底する。「地に希望を」に至っては「今の現世は繁栄を祈るなどおこがましく、そもそも希望を持てる状態にない」という、直球の政権批判だ。


 数分も走り回ったところで、私はこの危険な唄を歌っている歌い手へとたどり着いた。まだ10歳にも満たないその童女は、軽石で地面に何やら絵を描きながら、その唄を小声で歌い続けていた。


 私は呼吸を落ち着けると、その童女に声をかける。童女は地面から顔を上げると「お客様? 一夜、それともちょんの間(・・・・・)です?」と幼い声で聞いてきた。私は帝都がその内に抱える腐敗した暗部に吐き気をこらえつつ、童女にいくばくかの(おそらくは彼女の1日の稼ぎより多い)カネを押し付けつつ、その唄をどこで習ったのかと聞いた。

 童女は私の切迫した様子に怯えたのかしばらく口を閉ざしていたが、手の中に押し付けられたカネを見て、それから私の顔を見て、もう一度手の中のカネを見てから、運河沿いの屋敷を指差した。


「あそこのお屋敷のお姫様が、教えてくれたの」


 そんな馬鹿な——そう思いつつ、私は同時に「やはりそうか」というドス黒い絶望を感じていた。


 私は千々に乱れそうになる心の平静を必死で保ちながら、「あの屋敷のお姫様は、君とは会えないはずだ。どうやって会った?」と確認する。童女は小首を傾げたが、時間が惜しい。私は彼女の手に、さらに倍ほどのカネを押し付ける。この年令にして必要以上に世故長けた(あるいは世故長けるしかなかった)彼女は、ひとつ大きく頷くと、私の手を引いて走り始めた。


 彼女の足で走って2分ほどで、美しい生け垣が並ぶあたりにたどり着いた。彼女は生け垣が破れている部分を指差すと、「ここでお姫様に会って、お庭に呼ばれて、一緒に遊んだの。他にも私みたいな子(・・・・・・)が何人かいたよ。お菓子がすごく美味しかった。でも、大声を出しちゃいけないよって、それだけはすごく注意されたの。最近はお姫様、いなくなっちゃってたけど、3日前からまた一緒に遊んでくれたよ」と語った。私は童女に礼を言い、これで自分の仕事(・・)は終わったと理解した彼女はそそくさとその場を去っていった。


 それから私は改めて、生け垣を見上げる。

 この生け垣の向こうは、帝都におけるシャレット家の邸宅だ。童女の言葉が正しいなら、おそらくはハルナが幽閉されている、あの部屋に隣接しているのだろう。この一ヶ月弱、ハルナはフィーリア療養所に移されていたが、結婚式を間近に控え、3日前にシャレット家の館に戻されている。「最近はいなかったが3日前からまた一緒に遊んでくれた」という証言は、状況に合致する。


 さて。


 「恋には翼があり、それは人が作る壁などで押しとどめることはできない」と書かれていたのは、アリア書の外伝であったか。「こんな塀など、恋の軽い翼で飛び越えました。石垣などで、どうして恋を諦められるでしょう?」という古典詩劇『アストラーダのから騒ぎ』の一節は、アリア書外伝のこの言葉を踏まえてのセリフであろう。

 ああ——そういえば老マルタからは『アストラーダのから騒ぎ』を視写せよという課題を受けていた。まったく、我が師匠はどれほどの千里眼をお持ちなのやら。


 私は運河の淵ギリギリまで下がって助走距離を確保すると全力でダッシュし、タイミングを測ってジャンプする。生け垣は高く、かなりしっかりとした板塀で補強されているが、板塀の天辺に手が届かないほど高くはない。

 伸ばした手がかろうじて板塀の縁に届き、私は無言で気合いを入れながら片足を板塀の上へと引っ掛けた。そのまま手足の力を使って、身体を板塀の上へと引き上げる。生け垣の樹木と板塀がミシミシと嫌な音をさせた。やれやれ、恋は軽い翼を授けてくれるのではなかったのか?

 壊れるなよと祈りつつ私は板塀を乗り越え、ずり落ちるように庭の中へと入る。結構な高さを落下したが、転がって受け身を取ったので痛みはない。ともあれ不法侵入を見咎める者はいなかったようだ。それだけでも今は良しとしよう。


 シャレット家への侵入を果たした私は、まずは手近な茂みに身を隠す。この季節、日が落ちるのは遅いが、あの薔薇色の時間を過ぎてしまえば一瞬で真っ暗になる。我ながら「自分は何をしているんだ」という思いがこみ上げるが、兎にも角にも言い訳のできない不法行為に手を染めた以上、ここで屋敷の守衛に捕まるような愚は犯したくない。

 そして案の定、10分もしないうちに周囲は一気に暗くなり、30分ほどで空は完全に真っ暗になった。これにあわせるように、ハルナがいる(はずの)部屋にも明かりが入る。


 私は足音を殺しながら、そっと件の部屋へと接近していく。たくさん設えられた窓には薄手のレースカーテンがかけられているが、中の様子が伺えないほどではない。時間をかけて内部の様子を探る——老侍女が食事の世話をし、それから着替えをさせて、「おやすみなさいませ」と声をかけて去っていくのが分かった。厚いカーテンが引かれ、ランプの明かりが消される。静かに、扉が閉められた音がした。


 ひとつ、深呼吸をする。


 それから私は、老マルタに仕込まれた——そしてハルナにも教えた——審問会派独自の呼びかけ(・・・・)をする。鳥の鳴き声を模したこの符丁は、ときに審問会派の仲間内でも理解できないくらい、チームごとのパーソナライズが進んでいる。実際、この呼びかけにしても、ハルナしか正確には理解できないはずだ。


 そしてハルナは、私の呼びかけを、理解した。


 衣擦れの音がすると、カーテンがそっと開かれ、ドアの鍵が外される音がする。

 私は今更ながら意を決して、ドアノブに手をかけた。ノブを回し、扉を引く。完璧に手入れされた丁番はきしみ音ひとつ立てることなく、扉はどこまでも静かに開いた。


 室内には、天窓から月の光が差し込んでいた。

 分厚いガラス越しに届く弱々しい光の下で、シンプルかつ質素な白いワンピースを着たハルナが、どことなくおぼつかなげに立っている。彼女が手を添えているテーブルの上には、大量の積み木で作られた奇妙な形をした塔が、高々と積み上がっていた。


 私は何かを言おうとして、何も言えずにいた。


 ハルナは何かを言おうとして、口を閉じた。


 そうやって二人でしばらく、黙って突っ立っていた。

 天窓から入ってくる月光は、ときに揺らめき、ときに陰り、私たちは永遠に沈滞した時に絡め取られた水槽の中にいるのではないかとすら思えた。ガラス越しに歪んで濁ったその光はどこか冷たく超然としていて、それでいてここではないどこか(・・・・・・・・・)を脳裏に過ぎらせる。

 コーイン司祭が集めた大量の本とともに時の隙間に落ち込んだかのような私たちは、そうして、ただ無言で立っていた。


 言うべきことは、いくらもであった。

 言わねばならぬことも、いくらでもあった。

 言いたいことも、言い尽くせぬほどあった。

 そしてそのすべてをたった一言に凝縮できるということも、分かっていた。


 そんなことは、分かっていた。


 けれどその一言は、どうしても出てこなかった。


 頭のなかでぐるぐると「貴様は審問官の道を選んだ。であるならば、ハルナに対する個人的な感情のすべてを精査し、すべてを認めた上で、そのすべてを捨てよ」という老マルタの忠告が駆け巡る。


 ハルナが口を開きかけ、また、閉じた。


 脳の内で老マルタが「それ(・・)を、忘れる必要はない」と語りかける。


 ハルナがゆっくりと口を開き、閉じかけてから、ぽつりと、「師匠」と、呟いた。


    「カナリス師匠——」


 『だが、きちんと捨てるのだ』と告げる老マルタの声が、聞こえる。


    「カナリス師匠は——私のことを——」


 『さもなくば貴様は己の決意とは裏腹に、気がつけば二兎を追って、挙句、派手にしくじることになるぞ?』


 老マルタの声に押されるように、私はハルナの言葉を遮る。


「ハルナ。君が童女たちに教えていた唄について、聞きたいことがある」


 その言葉を聞いたハルナは雷に打たれたかのように体をビクリと震わせると、ばったりと床にうずくまった。私は反射的に彼女のもとに駆け寄り、その体を支える。ハルナは小さな体を痙攣させるようにして、激しく頭を振った。その口元から「うるさい」と呪文のように何度も呟く声が聴こえる。


「ハルナ——しっかりしろ。ハルナ。しっかりするんだ」


 意味のない呼びかけかもしれないと思いながら、私は彼女の背をさすりつつ、そう声をかけ続けた。ハルナは何度も何度も首を横に振り、「うるさい」と呟く声は次第に大きくなっていく。これは、マズいかもしれない。じきに騒ぎを聞きつけた老侍女が、そして家の者がこの部屋に押しかけてくるだろう。


 だがその不安は、意外な形で払拭された。


「うるさい! ——いえ、師匠。大丈夫。大丈夫です。

 私がこうなっちゃうの、みんな慣れっこですし。

 どんなに私が叫んでも、誰も、来ませんから。ええ。誰も。

 だから大丈夫。大丈夫です」


 私はなんともいたたまれない気持ちになりながら、ハルナの背中を撫で続けた。彼女の呼気はひどく荒く、この数分で玉のような汗が額に浮かんでいる。彼女が一定レベルでの理性を取り戻しているのは間違いないが、かといって「回復した」と言える状況からは程遠いのもまた疑いようがなかった。


 やがて少し落ち着きを取り戻したのか、ハルナはゆっくりと立ち上がると、近くにあった椅子に腰をおろした。


「私が何をしたのか、何をしようとしてるのか、師匠はお分かりですよね。

 でも教会(・・)は私を利用しようとしていて、師匠にはもう手が出せない。

 だから、もうこれでお終いなんです。

 お終いだから——ああ、そうだ、師匠。わたし、どうしても、師匠に飲んでほしいお茶があるんです。師匠がお茶の味、わからなくても、これを飲めば変わるはずだって、ずっと、ずっと思ってたんです。

 いま、シェンナを呼びます。ああ、大丈夫。大丈夫ですよ。彼女は私の味方です。彼女だけは私の味方です。彼女は何もかも知ってますから。だから大丈夫。シェンナ。こんな時間に悪いんだけど、例のお茶を淹れてください」


 シェンナというのは、あの老侍女か。なるほど、彼女はすべてを知っていて、最高の共犯者(・・・)としてハルナを支えていたというわけだ。


 それからしばらく、ハルナは椅子の上で上半身をフラフラさせながら、特に意味もないことを喋っていた。何か言っては「大丈夫ですよ」「大丈夫」を繰り返す彼女はとても大丈夫には見えないが、私はただその言葉に頷くことしかできなかった。


 やがて、老侍女がティーポットを持って部屋に入ってきた。その途端、素晴らしく芳しい香りが部屋の中に立ち込める。


「ね、素晴らしいでしょう? お茶だって馬鹿にしたものじゃないでしょう?

 お茶なんて何でも一緒だなんて、これを飲んだらもう二度と言わせませんよ?

 大丈夫、さあ、飲みましょう。お茶菓子がないのが残念ですけど、大丈夫。最後のお茶会です」


 白磁のカップに、老侍女が茶を注いだ。華やかな香りはより一層強く立ち上がり、思わず目眩を感じるほどだ。花畑の只中にいたとしても、ここまで強い香りはするまい。


「さあ、ほら、大丈夫ですよ。飲みましょう。

 ええと、審問会派に、乾杯、みたいな。あ、でも私はもう審問会派じゃないですね。まあいいや。じゃあ先に、飲みます。いただきます」


 ハルナは薄いカップを手に取ると、くいっと茶を飲んだ。細い喉がコクリと動き、ため息をつくかのような嘆息が漏れる。

 釣られるように私もカップを取って、茶を口に含んでみた。口の中に香りが充満し、呼吸をすると濃厚な花の香りと同時に、どこか爽やかなミントのような香気を感じる。


「——なるほど。茶など何でも一緒だと言った言葉は、撤回する。

 これは単体で作品(・・)として完成した、一種の芸術品だ。

 考えてみれば当然ではある、か……茶を作ることに身命を注いでいる職人たちもいるのであれば、『茶など何でも一緒』とは無礼ですらある」


 私の評価を聞いて、ハルナは昔のようにクスリと笑うと「師匠って、どこまで行っても、やっぱり師匠ですねえ」と呟き、一気に茶を飲み干した。私もそれに併せてカップを干し、それを見た老侍女が新たな茶をカップに注ぐ。


 そうやって私たちはしばらく、水底にある図書館のような部屋の中で、無言で茶を飲んだ。相変わらずハルナは上半身をフラフラとさせていたし、時折激しく首を横に振って「うるさい」と呟くけれど、それ以外にはこれといって異常とも思えなかった。

 

 と、いうことは。


 つまり彼女は、相当に入念な計画と、異様なまでの忍耐力をもって、自分の親族が己に為した非道の数々を耐えたのだ。強烈な復讐の思いを心の奥底に刻み込みながら、ものの分からぬ狂人を演じ続けたのだ。

 彼女がどの段階でここまではっきりとした理性を回復させたのかは、分からない。だが彼女を帝都に移送している間には、こんなちゃんとした受け答えができる気配すらなかった。おそらくは帝都に戻ってから、下手すると親族に非道を為されているそのときに、報復を願う闘士(・・)としての彼女が——つまり厳しい訓練を通じて身体に刻み込まれた審問官(・・・)としての彼女が——目を覚ました。そういうことではないだろうか。


 そんな、今更どうにもならない思いを弄ぶ私の前で、ハルナはぽつりと呟いた。


「どうして、こうなっちゃったんでしょう。

 なにが、わるかったんでしょう。

 わたし、どうしたらよかったんでしょう」


 私は反射的に「今からでも遅くはない」と言おうとして、その言葉を飲み込んだ。教皇の暗殺を思いとどまらせたとしても、彼女が幼い街娼たちに吹き込んだ(・・・・・)異端思想については、もう取り返しがつかない。審問官として、彼女がやらかした(・・・・・)ことを、見なかったことにはできない。


 だからといって。

 だからと、いって。


 がっくりとうなだれたハルナの手はあまりに頼りなく膝の上に投げ出され、いつの間にか長く伸びた髪が手首のあたりにまとわりついていた。

 それはまったくの、子供の姿だった。

 はるか異郷の地で一人迷子になった、子供の姿だった。


 そんなハルナの姿を見て、私は発作的にその小さな手に己の手を重ねようとして——そしてバランスを失って、椅子から滑り落ちるように床に倒れ込んだ。体が、動かない。強烈な眠気がこみ上げてくる。


 まさか——薬を、盛られた!?

 だが私が飲んだ茶と同じものを、ハルナも飲んだはずだ!


 そんな私に覆いかぶさるように、ハルナが床に膝をついた。


「やっと効いた(・・・)みたいですね。

 このお茶に入れた薬を飲んだら、ちょっとやそっとじゃ目が覚めないそうです。私があんまり暴れるんで、特別に処方してもらった薬だとか。まあ、私はサンサで変な薬を飲みすぎたせいで、その『特別な薬』も効かなかったんですけどね。

 でも効いたふりをしておいて、良かったです。何事も保険ですね。おかげでシェンナはこの秘密兵器(・・・・)を常備できるようになりました」


 私の顔を覗き込むようにして、ハルナが謎解き(・・・)をする。


「師匠は、ここで寝ていてください。

 明日起こることに、師匠を巻き込みたくないんですよ。

 特捜審問官を拝命するような男が現場にいたのに、どうして阻止できなかったんだ、なんてことになるの、避けたいんです。

 あ、師匠がガチで私を阻止しに来たら絶対勝てないなー、ってのもあるんですが」


 闇に転落しそうになる意識の片隅で、私は思わずハルナを賞賛していた。完璧だ。あまりにも、完璧だ。自分の計画を阻害し得る敵を、前もって各個撃破しておく。さすがはハルナ・シャレットと言うほかない。


「何が悪かった? そんなの簡単です。私が悪かったんです。

 私はみんな(・・・)を救うなんてことに、命を懸けられなかった。

 私はただ、救うんじゃなくて、救われたかった(・・・・・・・)んです。

 天に栄光を。地に繁栄を。人の魂の平穏を。

 でも『毎日』と言うためにないこと(・・・・)にされた時間、『全部』と言うためにないこと(・・・・)にされた作品、『みんな』と言うためにいないこと(・・・・・)にされた人間が、あちこちに散らばっているじゃないですか。

 それなのに天って何なんです? 地って何なんです? 人って何なんです?」


 歪んだ月明かりの差す天窓の下、茫漠とした水底に、ぽたり、ぽたりと、雨が降ってくる。

 それは、ハルナの涙。


「——師匠。ハルナ、頑張って踊ります(・・・・)

 この欺瞞に満ちた帝都と教会を、私が支配します。

 私が世界を揺るがせば、異端者は必ずどこかで尻尾を出すでしょう」


 いいんだ、ハルナ。

 それはもう、いいんだ、ハルナ。

 だから——もう……


「さようなら、カナリス師匠。

 私、師匠のことが、好きでした」


 ハルナの顔が、ぼやけてきた視界を埋め尽くす。

 そして唇に残った微かな感触を最後に、私の意識は途切れる。


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