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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
悲しみをわかちあおう。苦しみをわかちあおう。
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アルール歴2182年 8月25日(+3日)

——ライザンドラ審問会派見習いの場合——

 各種書類の決裁を貰うために1時間ほど放浪してからパウル1級審問官の執務室に戻ってきてみると、肝心の部屋の主がいなかった。急いで決済が必要になると言われたので超特急で稟議書を持って各部署を回ってきたというのに……という愚痴が喉の奥にせり上がってきたけれど、テーブルの上に残された書き置きを見て気持ちを切り替える。


師匠(老マルタ)の部屋にいる」


 ——簡潔明瞭に書かれたその一言に、私は内心で「ああ、そうか」と納得してから、それはそうとして稟議書を完成させるために老マルタの執務室へと向かった。


 書類を持って老マルタの執務室に入ると、ほのかにアルコールの香りを感じた。戸口まで臭ってくるということは、相当強い酒をきこしめしているということだろう。実際、私が入室してきたのに気づいてこちらを向いた二人の顔は、やや赤くなっている。


「ご苦労様、ライザンドラ君。その書類は僕が引き取るよ。

 それから、特に急ぎの用事がないなら、君も座り給え」


 急ぎの用事はいくつも思いつくけれど、いまここで彼らと話をする以上に緊急性がある要件は思いつかない。そう判断した私は、小さく頷いてからパウル1級審問官の隣の椅子に腰をおろした。

 執務机の上に伏せて置いてあったグラスを手に取った私は、恐れ多くも老マルタ手づからの酌を受ける。ツン、と強いアルコールの匂いが立ち上がってくるが、それと同時にどこか甘く濃厚な、森の香りとでも言うべき香りが鼻腔をくすぐった。かつて〈緋色の煉獄〉亭で働いていた頃の記憶を参照すれば、グラス1杯で私たちの1日分の稼ぎが吹っ飛ぶような、そんな逸品。


「——いよいよ、明日よな」


 特に乾杯の音頭があるわけでもなく、ただポツリと老マルタがそう呟くのを聞きながら、私はグラスに口をつけた。案の定、強い。喉と舌が焼けるような感覚がする。けれどその一種の痛みのようなものをやりすごと、自分の呼気が深い森の奥にひっそりと差し込む木漏れ日のような香りに包まれているのが感じられた。


「明日、ですね」


 グラスの酒を舐めるように飲みつつ、パウル1級審問官もそう答える。


 そう——明日はいよいよ、ハルナさんの結婚式だ。

 識者の観測によれば、ハルナさんは結婚式の場において極めて高い確率で教皇の暗殺を試み、そして成功させる。この観測は審問会派のごく一部と賢人会議のみが共有する見解であり、例えばこれによって大ダメージを受けるジャービトン派(特にイッケルト大司祭)に対しては完璧な情報管制が敷かれている。

 もっともジャービトン派の最高意思決定機関である〈評議会〉においては、本件はすでに了承済み(・・・・)の事案となっているという——つまりイッケルト大司祭は捨て駒となったというわけだ。

 「()審問官が教皇を暗殺した」という事件(・・)の責任は審問会派まで及ぶことはなく、イッケルト大司祭が詰め腹を切ることで責任問題は決着する。そんな筋書きはもう完成していて、いまや関係者にとって最大の関心事は「ハルナ・シャレットが暗殺に成功するか否か」に絞られていると言える。


 けれどそれはつまり、ハルナさんの未来はほぼ完全に閉ざされた、ということでもある。


 教皇の暗殺は、成功すればもちろん、未遂でも重罪だ。「狂気に侵されていた」ことで免責される犯罪ではない。ハルナさんは、どんなに良くても一生の幽閉、普通に考えれば死罪が適用されるだろう。

 無論、シャレット家もこれに連座することになる。ハルナさんを使ったシャレット家の陰謀はすべて公開され、シャレット家からも死罪や幽閉といった罪を問われる者が大量に出るだろう。シャレット家は事実上崩壊するが、現状ではその資産は新オルセン家が継ぐことになっている。ジャービトン派では既に、還俗して新オルセン家に婿入り(ないし嫁入り)する英才たちのリストが作られているという。

 かくして帝都における癌とも言えるシャレット家は粛清され、深刻な人材不足に喘ぐ新オルセン家には()が詰まっているために世に出られずにいる俊英が集い、審問会派は改めてナオキを追討する体制を構築し、次の教皇の座にはよりふさわしい(・・・・・)人物が座り、これらすべてのスポンサーとなるガルシア家は大きな名誉こそ得れども大金を失うことで帝都政界のパワーバランスは保たれる。


 実に、見事な采配。

 その過程ですり潰される、何人かの命と思い(・・)にさえ、目をつぶれば。

 イッケルト=クソジジイ=大司祭に降りかかる災厄ですら、「自業自得」と切って捨てて良いのか悪いのか、今の私には判断できない。〈緋色の煉獄〉亭にいた頃の私が彼の身に落ちた報いの物語を耳にしたなら、「神様は(TheGods)正しく(are)裁かれる(just)」くらいのことは即答できただろうに。


「——小を殺して、大を生かす。理屈の上では、理解しているつもりです。

 ただ、納得するのは難しい。それを改めて実感します」


 ハルナさんの知性のきらめきを、笑顔を、涙を、叫びを、そして幼子のようになってしまった今の姿を思い出しながら、私はそんなどうにもならないこと(・・・・・・・・・・)を口にする。


「審問官とは、そういう仕事よ。

 善男善女が目の前で異端に汚染されようとしているとき、我ら審問官はときに、異端の思うがままにさせねばならぬことがある。さもなくば異端者どもは再び地下深くに隠れ潜み、長い時間をかけて、ゆっくりと汚染を広げ続けることになるからな。

 だがその決断をするということは、目の前で異端に汚染される善男善女の人生を小さいもの(・・・・・)として殺すことに他ならん」


 老マルタの言葉には、一点の嘘も誇張もない。

 そうやって異端に汚染された市民の行き先は、火刑台なのだから。


「コーインは、そういう(・・・・)やり口をいたく嫌っておったよ。

 『愛に大小貴賎がないように、人生にも大小貴賎などありはしない』と、な。

 だがその一方で、2人死ねば3人助かる道と、3人死ねば2人助かる道の、どちらかしか選び得ぬという状況には、どこかで必ず遭遇する。5人全員を助けようとすれば、5人全員が命を失う——そんな極限状況は、審問官という仕事にはつきものだ」


 おそらくは何度もそういった修羅場をくぐってきたであろう老マルタの言葉は、とてつもなく重かった。老マルタは「2人死ねば3人助かる選択」も「3人死ねば2人助かる選択」も選んだことがあるし、「5人全員を助けようとして誰一人助けられなかった」こともあるのだろう。それも、けして一度や二度ではなく。


 けれどそこで、パウル1級審問官が口を挟んだ。


「僕はこれまでずっと、そこにおける正解は『可能な限り5人全員を助けることを前提として行動し、その上で2人死ぬことで3人助かる道しか残っていないなら、そのとき初めて2人の命を諦める』だと思ってきました——そしてそのように選択し、行動してきたつもりです」


 彼の言葉に、老マルタが軽く苦笑しながら頷く。


「そうよな。貴様は儂よりも、その手の勘定(・・)に長けておる」


 師匠からの賞賛とも批判ともつかない言葉を聞いて、パウル1級審問官もまた苦笑いした。


「それが取り柄ですので。

 でも——このところ、その方針に疑念というか、不安を感じるようになりました。

 何か僕は、重大な見落としをしているのではないか——そんなことを思うようになったんです」


 思わず、といった風情で老マルタが「ほう?」と先を促した。私も興味を惹かれて、パウル一級審問官の言葉を待つ。ある意味で教会政治の申し子とも言える彼が、この手の計算(・・)に疑念を感じるとは。


「僕の疑念は、コーイン司祭のお言葉と同じことかもしれません。

 人間は、数でカウントできます。でも人生って、数でカウントできるものなのでしょうか?

 もし人生は数でカウントできないとなれば、議論の大前提が変わってきます」


 ——なるほど。確かに、人生には想像を絶するバリエーションが存在する。それらすべては等しく偉大な人生なのであると仮定しても、いやむしろそれであればこそ、ある人の人生を「1つ」と数え、別の人の人生を「1つ」と数える……つまりその2つの人生が同じものである(・・・・・・・)と考えることには、無理がある、ような、気がする。


「僕はこれまで、()を最優先にして決断し、行動してきました。

 だからハルナ君をここで切り捨てるという判断も、甘んじて受け入れるしかないと思ったんです。それにただ切り捨てるだけじゃなくて、救済のチャンスもあってのことですしね。

 でもここ数日のカナリスを見ていて、これはそんなに簡単な問題なのか、と思うようになりました。

 人は理のみならず、情でも動きます。つまり人は、()によって判断を下すことも多々あります。それを『理にかなっていない』と批判するのであれば、理にかなった判断に対して『それは情にかなっていない』と批判することもまた、極めて正当と言うべきでしょう。

 まあそのこれってなんていうか、師匠に『お前はガキか』と怒られそうな悩みというか、何で自分が今更こんなことで思い悩んでいるのか分からないというか、理と情の相克を利用した交渉は僕の得意技のはずじゃなかったのかとか、なんだか——その、上手く言葉にできない感じではあるんですが……」


 途中から派手に迷走し始めたパウル1級審問官の述懐を聞きながら、私は内心でやや呆れていた。

 理と情という問題はナオキもしばしば口にしたことがあって、彼はそれを「人間はその手のモノサシ(・・・・)を大量に持っていて、それを目まぐるしく入れ替えながら判断(・・)している」と語っていた。そして私が相対してきたパウル1級審問官は、まさにそういう人間の判断のアヤを知り尽くした人物であったはずだ。

 彼の迷走についてコメントするとすれば、彼が言うとおり、「何を今更」という言葉が最もフィットするだろう。


 けれど、老マルタは破顔すると、まったく別の見解を示した。


「貴様もようやく、そこ(・・)まで届いたか。

 貴様の迷いは、我ら審問官が見失ってはならぬ迷い、そのものよ。

 我らは、我ら自身のことすら語り得ぬし、完全に理解することもできん。

 であれば、ましてや他者のことを語り、完全に理解することなどできようか?

 他者が群れなす社会(・・)のことを語り、理解することなどできようか?」


 ——思わず、ぐっと言葉が詰まる。私自身、「自分のことは存外分からない」と、かつてハルナさんに語ったではないか。


「つまりこれは、他者の人生を数えられる、数えられないなどというところで留まる問題ではない。

 畢竟、人は、人を知る(・・・・)ことなど、できん。

 人は、人を分かる(・・・・・)ことなど、できん。

 他者とはすなわち、圧倒的なる不可知(・・・)なのだ。

 そこが審問官という階段の最初の一段であり、おそらくは最後まで登りきれぬ一段よ。

 パウル——どうやら貴様は、その階段(・・)が存在することに、ようやっと気づいたようだな」


 他者とはすなわち、圧倒的なる不可知。


 思わず私は(ユーリーン司祭のように)、老マルタの言葉を繰り返していた。

 そして直感的に、その言葉が真に何を意味するのか私はまだ理解できない、と思った。

 おそらくこれは、私が生涯を賭して理解しなくてはならない言葉だ。


 けれど私の師匠たちは、「他者とは圧倒的なる不可知」という言葉の、その先へと軽々と進んでいく。


「師匠。それでも疑問が残ります。

 ならば僕は人を知るために、何をすればよいのでしょうか?

 ほんの少しでもいい。不可知のベールのその先を見るために、何ができるのでしょう?」


 既にもう、ついていけない疑問。

 この問いに、老マルタもまた軽やかに答えを返した。


「何をすべきかは、もう貴様にも分かっておろう。

 英雄になるのだ。

 それ以外に、手はない」


 英雄に、なる?

 まるで話についていけない。

 けれどそこはパウル1級審問官も同じだったようだ。オウム返しにように、老マルタに向かって問いを発する。


「英雄とはいったい、何なのですか?」


 ——いや、私の疑問とは少し違うし、これはオウム返しではない。

 そして老マルタもまた、「良い問いだ」と言って酒盃を傾けつつ、弟子の成長を喜ぶような顔で答えを返した。


「英雄とはすなわち、物語である」


 ダメだ。いよいよ本格的に、議論についていけない。


 もしこの場にユーリーン司祭がいれば。

 あるいはこの場にハルナさんがいれば。


 彼女らであれば、老マルタの言葉が理解できたのだろうか?


 思い悩む私の顔にちらりと視線を向けつつ、老マルタはぐいっと酒盃を呷った。


「これ以上は、貴様らが考えるがよい。

 さあ、明日は長い一日になる。今日は大人しく、とっとと休むことだ」

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