アルール歴2182年 8月18日(+1日)
——ライザンドラ審問会派見習いの場合——
賢者イェシカと老マルタが合意に達した日の午後、私たち全員——つまりパウル1級審問官とカナリス2級審問官、そしてユーリーン司祭と私——が老マルタの執務室に集合した。
そしてその場で賢者イェシカとの合意の概要を聞いたカナリス2級審問官は、当然のように激しい怒りを表明した。
けれど彼の怒りを制したのは、あらんことか、ユーリーン司祭だった。
ユーリーン司祭は落ち着いた表情でカナリス2級審問官に語りかける。
「カナリス2級審問官。貴方はハルナ3級審問官が議題に絡むと、冷静な判断力を失う傾向があります。老マルタがなぜ彼女から審問官資格を剥奪し、審問会派から除籍することにしたのか、もっとよく考えるべきです」
そう問われたカナリス2級審問官は、不機嫌そうな表情を隠すこともなく「その手の政治に——」と言いかけて、ユーリーン司祭からのさらなる叱責を受ける。
「それが冷静さを欠いている、と指摘しているのです! 歪んだ先入観を自ら墨守し、視野を狭め、思考を停止させておいて、それでいて他者の判断は雑な類型に押し込んで批判するなど、司祭資格を持つものにあるまじき行いですよ、カナリス2級審問官! 己の直感で『政治』と区分したものなら何でも品性劣悪であると主張するなど、大人がすることではありません!
賢者イェシカが指摘したとおり、結婚式がつつがなく終わってハルナ3級審問官がその立場のまま新オルセン家における第一夫人となれば、そのことを『老マルタ派がまたしても美味しいところを独占した』と受け取られても仕方ありません。
しかも、新オルセン家当主を輔弼し、ハルナ・オルセンの身辺管理と治療計画を管理するのはライザンドラ見習いです。客観的に見ても、主観的に見ても、我々が新オルセン家におけるスーパーパワーなのは疑いようもありません。必要以上の譲歩は不要だとしても、適切な譲歩なしには、我々は今のガルシア家のような突出した存在として袋叩きにされかねません。
そしてその政治抗争の最前線で矢面に立つのは、老マルタでも、ライザンドラ・オルセンでも、パウル1級審問官でも——そしてもちろん貴方でもなく、ハルナ・オルセンなのです。そのことは、貴方こそが最も真剣に考えるべきでしょうに!」
ユーリーン司祭の叱責に、カナリス2級審問官は黙り込んだ。
実際、これは私の判断ミスでもある。賢者イェシカが指摘した通り、新オルセン家と審問会派(特に老マルタ派)との関係という視点に立つと、私たちはあまりに多くのものを得すぎている。
ユーリーン司祭はあえて指摘しなかったが、例えば私一人とってみても、ガルシア卿とその奥方にやけに気に入られているという現状があり、そう遠からず3級審問官として正式な審問官資格を得るだろうという観測がある。そうなると「新オルセン家の当主は審問会派の傀儡になるだろう」という予測は妥当性を持つし、私としても可及的速やかに新オルセン家の意志決定権を——特にハルナ3級審問官に関する決定については最優先で——自分が掌握してしまおうという気持ちを強く抱いている。これを指して「彼らは美味しいところを独占した」と評価されても、反論するのは難しい。
しかるにユーリーン司祭の説教は、その先にまで及んだ。
「それに、老マルタがハルナ3級審問官から審問官資格を剥奪し、また審問会派から除籍したことには、まったく別の思惑もあると私は判断しました。
カナリス2級審問官。老マルタのこの配慮に、真っ先に思い至らねばならないのも、貴方であるはずです」
ユーリーン司祭の言葉に、老マルタははっきりと苦笑を浮かべ、カナリス2級審問官は(パウル1級審問官ともども)困惑の極みのような顔になった。ああもう、なんでこの人達はここまでニブチンなのか。
私は大いに呆れるとともに、このままでは審問会派の沽券に関わるとも思ったので、ユーリーン司祭の言葉を引き取ることにする。
「——審問会派は世俗社会に対する捜査権を持ちません。
ですがそれだけでなく、もう一つ、我々が捜査権を持たない領域があります」
ここまで語ったところで、パウル1級審問官が「ああ」と小さく声をあげたので、私はそのから先をパウル1級審問官に譲ることにする。
「うん、まあ、なんていうか、よくこんなこと思いつきますね、師匠。いや、経験の差なのかなとも思いますが。
ともあれカナリス、確かにこれは君が真っ先に気づくべき陰謀だよ。
いいかい。僕ら審問官は、特別な許可なしには世俗社会に対する捜査権を持たない。僕らの敵はあくまで異端者であって、異端の捜査という状況以外では、世俗社会への関与が禁じられている。
で、だ。その上でもうひとつ、非常に手を出しにくい相手がいる——審問会派それ自体に対する捜査、つまり内部査察だ。
審問官が異端思想に汚染されてしまったのではないかという内部査察には専門の部署があって、彼らの権力は審問会派の中でも完全に独立している。老マルタの人脈と貸し借りを駆使したとしても、こっちの都合で内部査察をしてくれる、なんてことはあり得ない」
その通り。私自身、内部査察というシステムは知ってるが、内部査察官と会ったことはない。無意識のうちに顔を見ているくらいのことはあるだろうが、誰が内部査察官なのかは審問会派における重大な機密のひとつだ。
「つまり、だ。
ハルナ3級審問官が審問官資格を失いハルナ・シャレットになることで初めて、僕らはハルナ・シャレットが異端思想に汚染されたのではないか、という捜査を始めることができる。僕は1級審問官だから、相手が貴族だろうが『かの人物に異端の疑いあり』という緊急動議を発動する権限を持ってるしね。
で、ハルナ・シャレットを重要参考人として勾留することで、結婚式をご破産にすることだって可能になる。それどころか新オルセン家としては異端者の疑いがかけられた人物を第一夫人にすることには二の足を踏むだろうから、婚約自体を考え直させる一手ともなり得る。
老マルタは賢人会議に譲歩するという体裁を取りつつ、そういう強烈なカードを手にしたってこと。
ま、このカードを切ると、僕はいろんなことの再調整と再交渉で死ぬ思いをすることにはなるけど。でも得失を考えるとシャレット家以外からの反発はないと思うんだよねえ。政治倫理的に言えばこの選択はシャレット家に対する裏切りだけど、今のシャレット家が倫理を叫ぶだけ無駄だし。
つまりこの陰謀は、十分に実現可能性があるってことだ」
パウル1級審問官の解説が終わったところで、執務室は重たい静けさを取り戻した。老マルタは目を閉じて沈思黙考し、その一方でカナリス2級審問官はじっと己の手を見つめている。
一般的に言って、人間は今の状況に現実味が感じられないとき、自分の手を見つめる傾向にある——ナオキから教えられたノウハウが、ふと心によぎった。
のっぺりとした沈黙を最初に破ったのは、老マルタだった。
「カナリス。貴様には選択肢がある。
ハルナを拘束するなら、貴様だけに彼女の尋問を任せよう。そうすればハルナの体調を審問会派で精査することも可能となる。もしハルナが既に妊娠しているのであれば、シャレット家の腐った陰謀を木っ端微塵にすることもできる。
その上で、そこまで巨大な政治的波風を立てたくないのであれば、なるべく尋問を引き延ばすのだ。
もしハルナが既に妊娠しているのであれば、この状況下において腹の子の父親として真っ先に疑われるのは貴様ということになる。貴様は地位と名誉を失い、場合によっては見習いまで降格されることもあり得るが、それと同時に責任を取ることも求められるだろう。
儂の言わんとすることが理解できるな、カナリス? 貴様がハルナと共に泥に塗れ、それでもゼロから再起する覚悟と度胸があるならば、そうせよ。
ナオキを追討する任務は、短く見積もって3年、長ければ儂の寿命が尽きてもなお、終わらんだろう。それまでの間にもう一度、この場所まで戻ってくれば良い。場合によっては、ハルナと共に、な」
深慮遠謀とはこのことかと、私は感嘆の念を禁じ得ない。
いまこの場であえて負けることによって、最終的には誰もがすべてを手に入れる。
しかるにカナリス2級審問官がやり直しをしている間、こちらがマンパワー的に手薄になるという問題については、ユーリーン司祭を〈ボニサグスの図書館〉に避難させることで彼女の安全を確保する。
なるほど、老マルタが「老いてなお審問会派にこの人あり」と恐れられるのも理解できる。
——けれど。
私は漠然と、カナリス2級審問官は師匠の導きに乗らないだろう、と思った。これがパウル1級審問官であれば「降参です」とでも言いながら師匠が引いたルートに乗っただろうが、カナリス2級審問官はそういう人物ではない。
そして、ようやく口を開いたカナリス2級審問官が発した言葉は、私の予想通りだった。
「〈過ちをもって過ちを糺すことはできない〉——これは私が師匠から叩き込まれた、最も重要な教示であると今も思っています。
ハルナ3級審問官は、異端に汚染されてなどいません。彼女は既に一度、内部査察官によって精査され、精神的な問題こそあれ異端の浸透は起こっていないという判断を得ています。
この判断に異を唱え、審問官資格を失ったハルナを尋問し、そして結果的にハルナを姦計から救ったとしても、それは過ちをもって過ちを糺そうとする行為そのものではありませんか。
そんなことをしても、必ずどこかで我々は歪みに追いつかれる。そして事実、私はこの手の自業自得で追い詰められた異端者たちを何人も狩ってきました。
師匠——その道の先には、何もありません。あるのはただ、破滅だけです。
私はハルナの師匠として、彼女を更なる破滅へと導くことだけは、絶対にできません。たとえ彼女との間の師弟の絆が切れたとしても、それだけはできない」
カナリス2級審問官の主張は、これはこれでまっとうなものだと思う。けれど彼はひとつだけ、大きな思い違いをしている。そしてその思い違いを正すのは、もしかしたら、誰にもできないことかもしれない。
なぜならそこを正すことは、カナリス2級審問官という暴力装置の根底を損ねることになりかねないから。
それでも、誰かがそこに踏み込まねばならないのは、間違いない。
そして案の定、そこに勇猛果敢に踏み込んでいたったのは、ユーリーン司祭だった。
「カナリス2級審問官。貴方は大きな勘違いをされています。
貴方が示された道は、疑いなく、正しいものです。でもそれは、異端と戦うにあたっての正しさです。
人間が、一人の人間として、己と——そして己が手に届く範囲にいる愛する人の——幸福を求めようと思うとき。
そしてその鏡像が如く、人間が一人の人間として、己と己の手の届く範囲にいる憎しみの対象に、憎悪を投げかけようとするとき。
そんなとき、必ずしもそこに長期的展望や倫理的一貫性は介在しません。
私はそう思いますし、そのことを我が身を持って思い知りもしました」
ユーリーン司祭はそこでふと目を閉じ、軽く呼吸を整えると、さらに言葉を続けた。
「神代の古典演劇には『人は微笑み、微笑み、悪党たりうる』というセリフがありますが、私は生きるということは、そういうことなのではないかと思っています。
人は微笑みながら悪党にもなれるし、悪党でありつつ微笑むこともできる。
そういう、完璧でもなければ一貫性もない、ただ目の前の幸せだけを一心に追う心を、無下に否定してしまうことはできないのではないでしょうか。
我ら人の子は、不完全な生き物です。それゆえ、完璧な方法で実現する完璧な愛だけを『真の愛のあり方』と定義してしまえば、我々は誰も愛し得ず、誰からも愛され得ません」
ユーリーン司祭の完璧な説法を聞きながら、ふと、思う。
結局、カナリス2級審問官は一種のワーカホリックなのだろう。
彼は異端との直接闘争という過酷な仕事に対して自己を最適化してしまいすぎた結果、どこにでもいる人間の、どこにでもある曖昧な生き方を、正しく把握できないでいる。そういう人生が存在することは認めるし、それに価値があることも理解しているが、彼にとってそういう人生は庇護すべき対象であって、自分が歩むべき道ではないのだ。
だからいま、到底正しいとは言い難い手段を使って、カナリス2級審問官とハルナ3級審問官の個人的な幸せを(一時的なものであったとしても)達成するという方向性が見えてきたとき、彼はその道を選ぶことができずにいる。
そして実際、カナリス2級審問官は、最後まで自分の生き方を変えることはできなかった。
長い沈黙を破って、カナリス2級審問官はこう語ったのだ。
「ユーリーン司祭の言葉は、おそらく正しい。
だが私は、審問官だ。そしてハルナもまた、いまだ審問官だ。
であるからには、個人の欲望や感情よりも、己が何者であるかということのほうを、重んじねばならない」
そう語るカナリス2級審問官の言葉、ひとつひとつが、血にまみれていた。
「今更言うことでもないが、私は——不器用な人間だ。
審問官であることと、それ以外の私であることを、同時には実現できない。
そんな、不器用で——どうしようもなく未熟な人間だ。
だが、それゆえに……」
そう語るカナリス2級審問官の言葉、ひとつひとつが、痛みにまみれていた。
「それゆえに、私は、審問官であらねばならない。
審問官であることしか、できない。
師匠。かのごとき未熟者のために、人智を絶する策を講じて頂けたことには、感謝の言葉もありません。
ですが……」
カナリス2級審問官の言葉を聞いた老マルタは、深々とため息をつくと、頷いた。
「貴様の思いは、理解した。
貴様がいま苦しんでいる道は、儂とてかつて苦しんだ道よ。
貴様のことを未熟だの、弱いだの、批判しようとは思わん。
貴様が審問官の道のみを選ぶという判断も、だからこそ正しからざる道は選ばないという判断も、むしろ讃えられるべきものだ」
そこまで穏やかな表情で語った老マルタは、しかし、そこで改めて表情を引き締めた。
「だがひとつだけ、肝に銘じよ。
貴様は、審問官の道を選んだ。
であるならば、ハルナに対する個人的な感情のすべてを精査し、すべてを認めた上で、そのすべてを捨てよ。
それを、忘れる必要はない。だが、きちんと捨てるのだ。
さもなくば貴様は己の決意とは裏腹に、気がつけば二兎を追って、挙句、派手にしくじることになるぞ?」




