アルール歴2178年 8月15日(+441日)
――ライザンドラの場合――
ナオキに身請けされてから、私の生活は何もかもが変化した。
ナオキはダーヴの賭博王と呼ばれているだけあって、お金持ちだ。
だからその生活は、私が「お嬢様」として暮らしていた頃には及ばなくとも、そこらの貴族には負けないほど豪華――かと思っていたのだが、ナオキの家はちょっと驚くほど質素だった。
彼が「安全ならそれでいい」と言うだけあって防犯対策はかなりしっかりしているものの、家具は作りつけそのままだし、庭は手入れされた形跡がない。台所も「竈に蜘蛛の巣が張る」という表現そのままの姿をしていて、恐る恐る聞いてみたら「俺が料理人を雇うような人間に見えるか?」と呆れられてしまった。ナオキくらい稼いでる人なら、専属の料理人くらいは持たないと侮られると思うのだが……。
一方で、これまたまったくの非常識と言うしかないほど贅を凝らした部分もあった。
その筆頭が、お風呂だ。アルール帝国の重鎮でも、こんな常識外れなお風呂を持っている人はいないと思う。ナオキは「ただのゴエモンブロじゃないか、なにをポカンと見てる」とか言うけれど、そのただのと言われたゴエモンブロというのは、贅沢の上に贅沢を積み重ねたような構造になっている。
だいたい、お風呂というのは公衆浴場を使うというのが常識だ(地位に応じた浴場がある)。それなのに、個人専用のお風呂! 確かにサイズは小さいけれど、昔の我が家でもこんな贅沢は想像すらしなかった。
挙句、一度使った水は、その日のうちに捨ててしまう。「この街は綺麗な水が潤沢に手に入るから、ありがたいね」とはナオキの言葉だが、だからってゴエモンブロのためだけに荷運びの少年を毎日雇って大量の薪と水を買い上げるというのは、なんだか経済観念に差がありすぎて頭がクラクラする。
そう。そしてこれが最後の驚きだ。ナオキは毎日ゴエモンブロに入る。仕事が立て込んで、「朝には帰る」という約束が昼過ぎの帰宅になってもなお、寝る前にお風呂に入るのだ。
もう一つ、仰天したのがベッドと毛布だ。ベッドは飾りこそ質素だが、大きくてふかふか――ではなく、なんだかちょっと硬い。高級なベッドといえば、倒れ込んだ途端に全身を包み込むほど柔らかいというのが常識なのに、ナオキが用意してくれたベッドは、はっきり言って「これって床に寝てるのと一緒なんじゃ?」と思うようなものだった。
なのに不思議なことに、朝になるとパッチリ目が覚めて、体から疲れが完全に抜けている。ナオキは神様の奇跡が使えるんじゃないかと思ったけれど、そんな人が「神が間違える」だなんて言い出す筈もないわけで、今でもこのベッドは、私にとっては、魔法のベッドだ。
ちなみに毛布のほうは、ベッドとは真逆で、あり得ないくらいにフワフワな素材で出来ていた。ナオキ曰く「毛布じゃなくてウモウブトンだ」ということらしいけど、もう深く考えないほうが良さそうだ。
私も必然的に、ナオキの生活習慣の内側で生活することになった。つまり、毎日ゴエモンブロに入り、魔法のベッドとウモウブトンで寝る生活だ。
食事は全部出前で、とにかく毎日大量の野菜と果物を食べる。お肉が出るときは、ほぼ常に鶏肉。
ナオキと私の生活で違うところがあるとすれば、生活時間帯だ。
彼は夕方になると起き出して、用心棒(ザリナさんという、砂色の目に褐色の肌をした、すごく肉感的な美女)に出迎えられて夜の街に向かう。明け方には帰ってきて、お風呂に入って、夕方まで眠る。
私は夜明け頃に起きて、掃除と洗濯を済ましたら、ナオキが用意してくれた本(ほとんど全部、神学の本)を読み、合間合間にナオキに教えてもらった体操をする。そして夜になったらお風呂に入って、朝まで眠る。
言うまでもなく、ナオキが私を抱くことはない。というか、それが可能なタイミングがどこにもない。
うーん、それはそれで、その、なんだかちょっと、気後れというか、不安になるところがないでもない。一度だけそれとなく提案してみたら「お前はバカか?」と冷たい目で見られてしまったのも、ちょっと辛い。
ともあれ、そんな感じの日々を1ヶ月ほど送るうち、だんだん私もこの生活に慣れてきた。
ナオキが鍛冶屋に頼んで作ってもらったという特別製の石鹸――なんで鍛冶屋で石鹸なのだろう――でいつも体を身綺麗にしていると、それだけで気持ちが上向くというのも、理解できるようになった。
そうそう、ナオキスペシャルの石鹸で洗濯した下着を着るのも、すごく大事だ。一日を最初から最後まで清潔に暮らすということが、こんなにも心を安らかに、前向きにするだなんて、考えたこともなかったし、教えられたこともなかった。
だから、身請けから1年ほどたったある朝、家に帰ってきたナオキが私をしげしげと見て、「戦う準備ができたな」と言ったときも、その言葉は私の心にストンと落ちた。
戦う身体を養うためには、それにふさわしい食事が必要になる。
同じように、戦う心を養うためには、それにふさわしい「魂の精錬」とでも言うべき時間が必要なのだ。
そしてその日は、忙しい一日になった。
ナオキは家に仕立て屋を呼び、改めて私の体を採寸させた。仕立て屋は感心しながらいくつも数字を書き留め、「これならお仕立て直しはほぼ不要ですね」と言い残して去っていった――そういえば私がこの家に来た直後に、今の仕立て屋に採寸されたんだった。
仕立て屋が去ると、次は床屋が来た。床屋はナオキが語る髪型の説明に目を白黒させていたが、やがて納得したようで、「やりましょう」とハサミを手にとった。
私自身はと言うと、実は髪型にはあまり拘りはない。緋色の煉獄亭ではプレイに必要な長さを維持することしか考えなかったし、それ以前の時期は下女として髪型が決まっていた。幼い頃の淡い記憶の中にしか、「素敵な髪型」の記憶はない。
とはいえ床屋が私の髪をバッサリと切り始めたときは、ちょっと驚いた。今の流行においては――というか今も昔も変わりなく――長い髪を高々と結い上げるというのが、女性の美の象徴とされているのだから。
私の不安が伝わったのか、床屋はその意図を説明してくれた。
「お嬢様の髪は、この1年ほどの間に、とても美しくなりました。
申し上げにくいですが、それ以前の髪は枝毛も酷いし、髪がそもそも痩せているしで、本来の美しさが損なわれているのです。ですので、髪が健康を取り戻す前の部分を、カットさせて頂いております。
ご不安はわかりますし、私自身もちょっと心配でしたが、ご安心ください。
いまのお嬢様は、ハサミ1回ごとに、女の私ですらドキドキするほどお美しくなっておられます」
なるほどそんなものかと納得して、床屋の仕事とナオキの判断を信頼することにする。1時間ほどでカットは終わり、床屋は「この髪型は流行りますよ」と断言して、去っていった。
夕方になって、仕立て屋が服を持って来た。
白い絹のシンプルなブラウスに、足首まである黒のロングスカート。
スカートは生地が二重になっていて、足首のあたりはシフォン生地だけがふんわりとカバーしている。
それから、これからのシーズンに向けて、グレイのコート。ウェストのあたりの曲線が、実に艶かしい。貞節の象徴である灰色の生地とあいまって、なんとも言えない緊張感を生み出している。
「着てみろ」
いつの間にか起きてきたナオキが、短く私に命じる。
私は軽く頷くと、自分の部屋に戻って素早く着替えを済ませた。女性の着替えは従者に手伝ってもらうのが常識だが、ナオキの家には従者などいない。
着替えてから戻ってみると、仕立て屋は大きな鏡を持ち込んでいた。歪が少ない、かなりの高級品だ。そんなものを持ち運ばせるだなんて、ナオキはいったいこの仕立て屋にいくら払ったのだろう?
でもナオキの意図は、すぐに分かった。
鏡の中には、思わず息を飲むような、印象的な美女が立っていた。
それが自分だということを、自分でも信じられない。
その美女が、ところどころ非常識な格好をしているのは、事実だった。
短めに揃えられた髪。
高級な生地を惜しみなく使っているのに、黒と白と灰色という地味な色のとりあわせ。
シフォン生地で隠しているとはいえ、完全に隠れているわけではない足首。
けれど、短く切り揃えられた髪は、すらりと伸びる首筋の曲線を綺麗に見せている。
生地の色は地味かつ社会の求める規範を体現したかのような取り合わせだが、そのスタイルは扇情的なまでに女性的。
足首に絡みつかない長さのスカートはとても歩きやすくて、そのことは破廉恥さよりも活力と躍動感を演出する。
なるほど。
これは、戦うためのコーディネイトだ。
社会と戦い、世界と戦い、神と戦って、勝つためのファッションだ。
「これから先、いつでも最高のコンディションを維持できるとは限らない。
だから今のこの姿を、目に焼き付けておけ。
これが、お前の真の姿だ。その自負と自覚を、どんなときも忘れるな」
私は、強く頷く。
でもそれは、ナオキの言葉に対してだけではなかった。
だって、鏡の中の女が、私に問いかけてくるのだ。
「お前は戦えるのか?」
「お前は勝つつもりがあるのか?」
「お前は最後まで矜持を持って立ち続けることができるのか?」
だから私は、もう一度強く頷く。
必ずや、勝利をこの手に。そう、心の中で誓いながら。
そんな私に向かって、鏡の中の女もまた、強く頷き返した。