アルール歴2182年 8月17日(+5秒)
——賢人会議議員・賢者イェシカの場合——
〈計画書〉の件では老マルタには酷く驚かされたけれど、大筋としては予定通りの交渉が進んでいる。
老マルタ派と協力関係を締結できれば、賢人会議からナオキ容疑者の捕縛命令を出すのもかなり楽になる。老マルタが指摘するように「誤認逮捕は賢人会議にとって責任問題になる」というのは大きな障害だが、現状ではこれに加えて「捕縛に失敗しても賢人会議のメンツは大いに潰れる」という懸念もある。
審問会派において最も攻撃的な派閥である老マルタ派が全面的に協力してくれるというのであれば、後者を理由にしてナオキ容疑者追討令に反対している議員たちは考えを変えると思っていいだろう。
けれどここで老マルタと握手するためには、2つ条件がある。
「勇気ある握手、ですか——的確な表現ですね。私としても、それが我々にとって最も賢明な選択であると思います。
とはいえ、ここで貴方と握手するには、2つほど条件があります」
私の言葉を聞いた老マルタの表情が、再び険しくなる。
「1つめ。ハルナ3級審問官の、審問会派からの除籍。
これは別段、特別な措置ではありません。結婚した女性審問官が審問官を引退するというのは、そこまで珍しいケースでもないでしょう。
それにハルナ3級審問官は、たとえお飾りであったとしても、復興オルセン家を支えていく重要な立場です。彼女に対して審問会派が絶対的な影響力を持っているというのは、政治を著しく難しくします」
老マルタは激発しそうな表情になったが、かろうじてそれを押さえ込んだようだ。私はすかさず、彼らが無意識のうちにスルーしていた問題点を繰り返す。
「もう一度、申し上げます。
ハルナ3級審問官は、ハルナ・オルセンとして新オルセン家の第一夫人となります。
そしてご存知のとおり、新オルセン家は帝都の八名家が利権を争う、まさに修羅の庭です。
ここにおいて『第一夫人が審問官である』ということが、八名家に対しどれほど大きなインパクトを持っているのか、考えたことがありますか?
確かに、今現在のハルナ3級審問官は、正常な判断や反応ができずにいるように見えます。ですが今後の治療によって、症状が改善されたら——そしてそのときに彼女がなお審問官であれば、それはすなわち、審問会派が新オルセン家の第一夫人を保有しているということになります。
そのような状況は、誰にとっても望ましくありません。ハルナ3級審問官にとっても、です」
そう。これこそが彼らの大きな見落としだ。
「ハルナ・オルセンは正気を取り戻すかもしれない」
「彼女が正気に戻ったら、新オルセン家はハルナ・オルセンとライザンドラ・オルセンによって完全に支配されるだろう」
「しかもハルナもライザンドラも審問会派の、さらに言えば老マルタ派の人間だ」
……この、もはや下衆の勘繰りとしか言いようのない不安は、しかしながら、少なからぬ貴族たちが共有する不安でもあり、審問会派と距離が近い貴族にとっては期待でもある。
そしてその不安と期待は、貴族社会以外にも広まっている。
「新オルセン家の第一夫人が審問官であるという事実が成立すれば、審問会派の上層部はこれを政治に積極的に使おうとするでしょう。
実際、野心的な審問官の中には、ハルナ3級審問官を昇格させ、独立した地位——つまり老マルタ派の影響が及びにくい地位を与えて、新オルセン家に対する影響力を獲得しようと目論んでいる者もいると聞きます。
審問会派だって、けしてこの手の政治とは無関係ではない。そうでしょう? そしてそんな政治がハルナ3級審問官の幸せに寄与する可能性は、ほぼ皆無です」
老マルタはしばらく無言で考えた後、慎重に口を開いた。
「なんとも、実に明察というほかないな。
だがそれは建前だ。
実に強力な建前だが、建前であることに違いはない。
貴女自身、ハルナ3級審問官が何かしら重大なトラブルを起こすと考えられるから、彼女を切れと提案したではないか。
賢人会議はいったい、何を目論んでいる?」
私は内心で喝采の声を上げた。彼は「ハルナ3級審問官を除籍する」という選択肢を、あり得る選択肢として考慮し始めている。これはつまり、彼は内心でほぼほぼそう決定したということだ。
人間は、その本性として、「選択を変更した挙句、間違った結果を得る」ことを極度に恐れる。その一方で「選択を変更する合理的な可能性」を自分から発見してしまうと——そしてその変更によって獲得し得る最終的な利益が十分に大きいと判断したが最後——むしろ積極的に選択を変更するのだ。
「その通り、先程述べたのは建前です。ですから、言葉を飾らずに本音も申し上げましょう。
ハルナ3級審問官は、極めて高い確率で、結婚式の場において現教皇ヘルメティウス10世を殺すでしょう。またそのついでに、その場にいるお歴々も殺すと考えられます。
これは賢人会議の本音とお考えください」
老マルタの渋面に刻まれた皺が、より一層深くなる。
「——つまり賢人会議は、ヘルメティウス10世の崩御を望んでいるということか。実に汚いやり口だな」
私は軽く肩をすくめて、肯定の意を示す。
「彼が教皇の椅子にふわさしい人物ではないのは、誰の目にも明らかでしょう。
彼の偶然の死を演出すべく策動しているのは、私達だけではありません。
それに私達と言えど、ハルナ3級審問官が教皇を暗殺するように仕向けたりはしていません。あくまで彼女が教皇に刃を届かせる、そのチャンスを高めているだけのこと。
正直なところ、私達のこんなあやふやな策謀よりも、もっと堅実な策を打っている人たちもいますよ? 先月行われたアルール大聖堂の補修工事で、教皇が平民たちに説法するために作られている演壇がより高くなり、手すりがより低くなり、階段がやけに急になっていることに、老マルタはお気づきですか?」
老マルタは苦々しげに表情を歪めた。彼もまた、あの小さな準備に気づいていたのだ。見る者が見ればあそこまではっきりと分かるくらいに、ヘルメティウス10世の周辺には死の罠がさり気なく張り巡らされている。
やがて老マルタは深々とため息をつくと、「いいだろう」と頷いた。
「ハルナ3級審問官を、審問官から除籍する手続きを始める。
結婚式の当日には、彼女はハルナ3級審問官ではなく、ハルナ・シャレットとなる。そして式が終われば、ハルナ・オルセンだ。
しかるに、もしハルナ・シャレットないしハルナ・オルセンが教皇を暗殺した場合、賢人会議は彼女と審問会派の縁が切れていることを保証し、彼女の狼藉の責任がこちらにないことを立証する。
この条件でいいか?」
想定よりずっと素早く老マルタが折れたことに内心で驚きつつ、私はもう1つの条件を提示する。
「提案を受け入れていただき、感謝します。無論、私たち賢人会議は、たとえハルナ・シャレットがトラブルを起こしたとしても、審問会派および老マルタ派を全力で擁護すると誓います。ナオキ容疑者を追討するにあたって、皆様にはあらゆる側面において全力を発揮していただかなくてはなりませんから。
さて、ではもう1つの条件を。ユーリーン司祭の処遇について、です」
老マルタの表情が再び険しさを増す。
けれど私も馬鹿ではない。ただこちらの要求を押し続けるだけで、交渉がまとまったりはしないのだ。
「先ほど申し上げた通り、ユーリーン司祭は危険です。
必ずや、彼女は隔離されねばなりません。
また、その前にどうしても彼女にやってもらわねばならない仕事もあります——ニリアン領の領民たちに、彼女自身が『自分が行っていたことはすべて間違っていた』と宣言させねばなりません」
私の要求を聞いた老マルタは、ついに堪忍袋の緒が切れたのか、机を強く叩くと語気荒く私に噛み付いてきた。
「ふざけるな! ハルナ3級審問官の処遇については、儂も可能な限り譲歩した!
貴様は儂に、更なる譲歩をせよと言うのか?」
老マルタは大声で怒鳴っているが、いささか芝居臭い。
ここは彼が怒るべき場面ではある——だから怒ってみせた。そんな怒り方だ。もちろん、内心でも相当怒っているだろうが。
だから私は、すかさず譲歩案を提示する。
「譲歩、ですか。そもそもハルナ3級審問官の件は譲歩でもなんでもなく、合意だと思うのですが。それに、ハルナ3級審問官による教皇暗殺を防ぐための努力をあなた方が行ったとしても、私達はなんらそれを妨害する予定はありませんし。
とはいえユーリーン司祭の処遇については、こちらにも具体的な別案があります。賢人会議で形式的な聞き取り調査を行ったのち、〈ボニサグスの図書館〉で司書として働いて頂くというプランです。
一応、賢人会議の議員としてお引き受けすることも考えているのですが、老マルタはきっと反対なさるのでしょう?」
〈ボニサグスの図書館〉とは、ボニサグス派がこれまで集めてきた様々な文献をすべて収蔵した大図書館だ。ユーリーン司祭が一生を投じても、そのすべての蔵書を読み終えることは叶うまい。
また〈ボニサグスの図書館〉は、保安上の理由により、幾重にも許可を受けた者しか入れない。世間から彼女を隔離するにはもってこいだ。
ちなみに賢人会議で引き受けた場合は、責任問題が発生した時に真っ先に殉教してもらうリストのトップに彼女の名前が乗ることになる。
案の定、老マルタは再び深々と考え込んだ。
そして今度は相当長時間の沈黙の末、「〈ボニサグスの図書館〉での、期限付きの司書業務であれば、賛同できる」と切り出してきた。まあ、妥当なところだろう。私は「10年」と期限を設定し、老マルタは「3年」と言い返す。私が「5年、ただし本人が望むなら5年を1期として延長」と妥協したところで、「妥結だ」と老マルタは頷いた。
5年もあれば、ユーリーン司祭と正面切って論戦できる論客を育てることも可能だろう。それにあのユーリーン司祭が自ら望んで〈図書館〉から出てくるとは思えない。知の独房に自らの意志で篭ることで、世事に煩わされることなく最高に充実した毎日を送れるとなれば、わざわざ面倒な外界に降りてくることなどあるまい。
私は老マルタに手を差し伸べ、老マルタは机の上に乗り出すようにして私の手を握る。相互の利益を最大にする形で交渉をまとめきれたのは、相手が老いてなお鋭敏な老マルタ特別顧問だからとしか言いようがない。
けれどクラース司祭に車椅子を押されて老マルタの執務室から出ようとした私の背中に、老マルタの険しい声が飛んできた。
「ユーリーン司祭の暗殺を狙う愚者どもがいる。
儂が〈ボニサグスの図書館〉に彼女を預けるのは、儂らの元にいるよりも、〈図書館〉のほうがより安全を確保できると考えたからだ。
それゆえ、注意することだ——馬鹿は、馬鹿だから、馬鹿なのだ。標的が〈図書館〉の奥深くに篭ってもなお、馬鹿どもは必ずやユーリーン司祭の命を狙って押し寄せてくる。
いいか。必ず、だ。ゆめ、油断せぬようにすることだ」
私は軽く肩をすくめて、「ご忠告感謝します」と返答し、執務室を出た。
馬鹿馬鹿しい。〈ボニサグスの図書館〉は、古い城塞を改造して作られたものだ。そしてまた、城塞を守る兵士たちが〈図書館〉を守っている。〈図書館〉への侵入を許すとしたら、それこそ攻城兵器が必要となるだろう。
……でも。
老マルタが警戒せよと言うからには、何かがあるのかもしれない。
ああ、まったく。ほんとうに食えない男だ。
譲歩したり、させられたりした演技をしながら、結局はユーリーン司祭の護衛という仕事を押し付けられてしまった。しかもこちらとしては彼女を守るのではなく、〈図書館〉を守る必要性があるから、一定以上のコストを投ずるしかない。想定内の妥結点とはいえ、持って行かれるだけ持って行かれた気分は否めない。
とはいえ、ユーリーン司祭の命を狙っている連中は、しょせん馬鹿の群れだ。クラース司祭に警備の強化を手配したら、私は結婚式関係の手配と、ナオキ容疑者追討令の発行に向けた工作を、本格的に始めるとしよう。




