平凡なる神の子たち(4)
アルール歴2182年 8月15日
——賢人会議議員・賢者イェシカの場合——
「イェシカ様。予定通り、賢者マクファーレン様がご来訪です。
賢者マクファーレン様を、応接室にお通し致します」
長年に渡って私の助手を務めるクラース司祭の案内に、私は小さな頷きを返す。
10年前の雨の日、玄関先で転倒してからというもの、私は杖を使っても立てない体になってしまった。今ではクラース司祭が押す車椅子に頼り切りの生活だ。まったく、長生きなどするものではない。
クラース司祭に押されて応接室に入ると、そこには同じく車椅子に腰掛けたマクファーレンがいた。世間的には賢者マクファーレンと言うべきだが、私達の間でそんなよそよそしい敬称は不要だろう——なにしろ私たちは夫婦なのだから。
別居して30年になる男女を夫婦と呼んでよければ、だが。
ともあれ、いつものように私たちはあまりにも老いた互いの姿に苦笑しつつ、神への祈りを唱えた。この歳になると、3日前に会った相手と生きて再会できたというのは、神に感謝すべき幸運となる。
「例のエフェドラとかいう薬はどうだ? 俺は身体に合わんのか、まるで効かん」
「あら、私には効果抜群よ? 夜中に咳が止まらなくなったときでも、すっと楽になる。でも咳以外には効かないみたいね。万能薬とかいうのは、大風呂敷もいいところ。ミョルニル派らしい言い分だとは思うけど」
「君に効果があったなら重畳。二人してカネの無駄遣いでは、目も当てられん」
定番とも言える健康談義を済ませたところで、マクファーレンは本題に入った。
「ところで今回の件、どうしたものかね。
私の読みでは、彼女は相当な確率でやらかすと見るが」
彼の見解を聞いて、私も思わず嘆息する。
「残念だけど、私も同意見。
ハルナちゃんは、ベリンゲル君を殺しちゃうと思う。
でもそれって、あなたにとっては喜ぶべきことでしょう?」
彼も私と同様、深くため息をついた。
「べリンゲル司祭——いや、ヘルメティウス10世がくたばることよりも、ハルナ君のような若き才能が無駄に浪費されるほうが、ずっと惜しい。ヘルメティウス10世は、はなからつなぎでしかないからな。
とはいえ、ベルカストロ枢機卿の盾となったと思えば、ヘルメティウス10世もいい仕事をした、と言うべきかな。ベルカストロ枢機卿が——次は確か……インノセンス16世か——? ともあれ教皇として彼が就任すれば、今の教会の腐敗と混乱も随分と収まろう」
遺憾ながら、私もそれには同意見だ。
現教皇ヘルメティウス10世(私達にしてみれば司祭名である「べリンゲル君」と呼びたいような、50歳にもならない若造だ)は、教会政治の果てに誕生してしまった、凡庸極まりない教皇だ。
賄賂をとらず、カネにも色にも淡白で(その手の欲望がないとは言わない)、血筋も申し分ないが、完全にそれだけの男。ボニサグス派が飼い殺しにしていただけのことはある。
それに比べて次期教皇に内定しているベルカストロ枢機卿は、いささか色に弱いところはあるにしても、野心的なビジョンを持っている。彼が教皇となれば、良くも悪くも教会政治は動揺する——そしてそこで発生する適者生存によって、教会内部に溜まった垢は随分と綺麗になるだろう。
「そう思えば、ハルナちゃんだからこそできる時代の転換なのかもしれないわね。
それはそうとして、ユーリーン司祭の処理はどうなってるの?」
私としては、よほどこちらのほうが気になる問題だ。
ハルナちゃんのような天才は、放っておいても湧き出てくるものだ。いちいちその死を惜しんでも仕方ないし、愚昧な教皇と相打ちになってくれるなら「さすがは天才」と言うしかない。
でもユーリーン司祭は、また別の話だ。彼女は、端的に言って、危険すぎる。
「どうかな。ジャービトンの若造どもが彼女を殺すと息巻いているが、私見として言えば成功率は1割程度だろう。なにやら熱心に鍛錬しているそうだが、そんな付け焼き刃で審問会派の肉壁は貫通できまい。
だが、あいつらはしょせん余興だろう。保険、というほどの確度はない。
そもそもユーリーン司祭の件にしても、ハルナ君がヘルメティウス10世を殺せばそれでカタがつく話だ。万が一、殺し損ねても話は変わらん。むしろ恐れるべきは、ハルナが本当に狂を発していて、木偶の坊のまま結婚式を終えることであろうよ」
確かに。ハルナちゃんが結婚式の場で教皇を殺せば(あるいは未遂でも)、師匠筋たる老マルタ派は政治的に詰む。誰か一人は詰め腹を切らねばならないだろうし、そうなれば彼らはユーリーン司祭を犠牲の羊として差し出すこともあり得る。しかるに誰が詰め腹を切ろうと、身内から教皇暗殺犯を出した連中が政治的におしまいなのは変わらない。
マクファーレンが言うとおり、ハルナちゃんが何もしないまま結婚式が終わってしまうほうが、リスクとしては高い——もっともその場合は、賢人会議とユーリーン司祭の戦いが今後も続く、というだけのことではあるのだけれど。
「——しかしまあ、ユーリーン司祭も残念なことだな。
才能だけで言えば彼女もまた稀代の才女であるのは、誰もが認める事実だと言うのに」
マクファーレンの言葉に、私はじくじくとした痛みを感じながら、頷く。
「でも、仕方ない。彼女は早すぎる。
〈アムンゼンの計画書〉によれば、彼女がサンサ教区で為したような改革は、最低でも500年は早い。そんな人間を生き残らせておけば、また大量の無辜の民が死ぬ。
神が統治するこの世界に、そういう天才は不要よ」
〈アムンゼンの計画書〉とは、賢人会議における秘中の秘だ。
大賢者アムンゼンがその最晩年に書き残したこの計画書には、様々な社会的変化や技術革新に関して、それが彼の死後何年後のあたりで起こるべきかが、事細かに書かれている。
最初、この計画書は、死を目前にした大賢者アムンゼンが狂を発した結果であり、無価値と思われていた。だが大賢者の死から100年が経過し、その1世紀でなされた技術的進歩のほとんどが、その最期の〈計画書〉に示された順序と一致しているのに気づいた賢人会議は、〈アムンゼンの計画書〉を極秘にすると同時に、要警戒リストに加えた。
そしてその後に何度か発生した大異端とそれによる甚大なる被害を、〈アムンゼンの計画書〉と比較した賢人会議は、大異端なるものは必ず、〈アムンゼンの計画書〉よりも数百年単位で早い変化を伴って世に出現するという気づきに至った。
この発見はそれ以降にも大異端の啓示が降りるたびに検証され、今では事実として理解されている。大賢者アムンゼンは、その類まれなる叡智をもって、人類が今後いかに歩んでいくかのロードマップを示したのだ。
ゆえに、審問会派やボニサグス派がときに激論を戦わせる「異端とは何か」という定義問題は、私たち賢人会議にとっては明白だ——〈アムンゼンの計画書〉から大きく外れたことを言い出す者は、異端として取り締まるべきなのだ。
それこそが、無辜の民の無為な死を避けるにあたり、最善の選択となってきたのだから。
けれどその明白な事実を、マクファーレンはあまり素直には受け入れられないようだった。
「〈計画書〉か!
我々はいったい何人の天才を、〈計画書〉からズレているという理由で葬ってきたのだろうな?」
彼は、ある意味で男らしく、とてもロマンチストだ。一人の人間が社会を根底から改革するという、一種の英雄願望がその心の奥底に眠っている。
でも私は——そして彼自身もまた——それがただの妄想に過ぎないことを、よくよく理解している。天才とはその時代に最も適合できた人間のことを指すのであり、最も適合できないがあまりランダムな成果物を生み出す人間を指すのではない。
だから私は、彼の論点を一発で壊す事例を(意地が悪いと知りつつ)口にする。
「そうは言うけど、コーイン君のことを思い出してもみなさい。
彼には、私も期待していた。でも〈計画書〉を読んだ彼は、自殺するみたいにして自分から殉教者になったじゃない。
あのとき、誰が殉教者になるべきかは、もう内々で決まってた。彼だってそのことは知っていった。でも彼は、自分から死を選んだのよ?
確かにコーイン君も、天才だったと思う。でも天才って結局、そういうものでしかないじゃない。当たり前が持つ価値を守り抜くための、くだらなくて、つまらない努力に、天才は耐えられない。でしょう?」
私の言葉を聞いて、マクファーレンは「君は実に意地が悪いな」と苦笑しつつ頷く。
「まったくだな、イェシカ。私もコーイン司祭には大いに期待した。それだけに、彼が〈計画書〉という重荷に折れたときには、失望も大きかったよ。
ともあれ君の見解は理解したし、俺も基本的には同意見だ。面倒だが結婚式の日程を繰り上げたいという希望を、叶えてやるとするかね——少しでも結婚式が早くなれば、ジャービトンの若造どもがユーリーン司祭を討ち取る可能性もまた高まろう」
そう言いながら、マクファーレンは懐から包みをひとつ、取り出した。いつもどおりの、「これで意見交換は終わり」という合図だ。
「では、そろそろ私はおいとましよう。
そうそう、これはミョルニル派とクリアモン派の共同研究で作られた、新しい薬だ。俺にはあまり効かなかったが、確かに腰と背中の痛みはちょっと楽になった。クリアモンの医者いわく冷え性にも効くというから、君にはちょうどいいかもしれん」
私はありがたく新薬を受け取りつつ、「喜んで治験役をしましょう。どうせ老い先短いんですし」と笑ってみせる。
そんな私に軽く手を降って、マクファーレンは去っていった。「イェシカ。次の賢人会議で君の訃報を聞く、なんてハメにならないことを神に祈っているよ」と言い残して。
まったく、口が減らないんだから。私は、次の賢人会議であなたの訃報を聞いたら、ざまあみろって叫んでやりますからね。そうされたくなければ、せいぜい私より長生きなさい。
そんなことを考えながらマクファーレンのお土産を手でもてあそんでいると、クラース司祭が一礼して応接室に入ってきた。私は彼に、少し庭を散歩したいと告げる。クラース司祭は「承りました」と四角四面に答えると、私の乗った車椅子を庭へと向けた。




