アルール歴2182年 8月12日
——ライザンドラ見習いの場合——
「……ライザンドラ君。ちょっと、いいかな?
ああ、サンドイッチを食べながら、でもいいよ」
そろそろ遅いお昼にしようかと思いってサンドイッチの包みを広げていると、ついさっき執務室に戻ってきたパウル1級審問官から声がかかった。最近の彼は私のことを「ライザンドラ見習い」ではなく「ライザンドラ君」と呼ぶが、その真意を追求しても仕方ないと思い、放置している。問いただしたところで「君のことを見習いと連呼していると、他の見習いが萎縮するんだよ」とでも、適当な言い訳をされるだけだろうし。
ともあれのっけからお許しも出たので、私はサンドイッチ片手に席を立ち、パウル1級審問官が陣取る執務机の前に立った。
「いや、この報告書なんだけどね。
ジャービトン派青年改革期成同盟、通称〈同盟〉の面々が、ユーリーン司祭を神の敵として暗殺すべく、徹底した軍事教練を積んでいる……と書いてあるけれど、これどう見てもライザンドラ君の筆跡じゃないよね?」
事態の緊急性に(幾重の意味においても)気づいた私は、失礼を承知でサンドイッチを執務机の上に置くと、パウル1級審問官に手を差し出した。彼は無言で私に当該書類を手渡す。
——確かに、書類そのものは、午前中のうちに私が提出しておいた状況報告書だ。だがパウル1級審問官が読み上げた内容の1文が、非常に巧みに追加されている。しかも私本人をして、まるで自分の筆跡そのものとしか言いようのない文字で。
「私自身、見分けがつかないほどの酷似した筆跡です。
ですが私はこの報告書に、いま指摘された一文を書いた記憶はありません。そもそも〈同盟〉に関する調査はほぼ行われていない状況ですので、報告しようもありません。
なおこの報告書には、それ以外に書き加えられたとおぼしき箇所は見当たりません」
私はそう断定してから、報告書をパウル1級審問官に再提出する。彼は「まいったね」と呟きながら書類を受け取り、私は執務机の上のサンドイッチを再び手に取った。
「〈同盟〉と言えば、ケイラス元司祭と〈同盟〉の関係を示す文書的証拠は何かあった?
ちょっと前に調査を頼んでたのを、すっかり忘れてたよ」
パウル1級審問官の問いに、私はサンドイッチを飲み込んでから返答する。
「ひとつだけ見つけました。ケイラス元司祭が〈同盟〉における『神智者』という地位に就任することに同意した、という契約書です。
なおこの契約が結ばれた頃、ケイラス元司祭は各種勉強会や政治結社の『顧問』や『理事』といった名前がついた地位に就任するという契約書に、1ヶ月あたり50〜80通のペースでサインしています。当時の彼の帝都における人気をよく示す数字だと思います。
ただしこの時期に彼が正規の文書に残したサインと比較すると、これら大量の契約書に書かれたサインは別人のものだと判断するしかないほど、筆跡が異なっています。つまり何か問題が起きたら『そんな契約を結んだ記憶はない』と言い逃れることを前提とした、形式的な名前貸し契約ですね。
帝国法においても、教会法においても、ケイラス元司祭が〈同盟〉と結んだ契約書に実質的な効力はないと判断するほかありません」
報告を終えると、パウル1級審問官はしばし沈思黙考に入った。私はサンドイッチの残りを素早く口の中に詰め込み、左手で口元を隠しながらなるべく上品に見えるように咀嚼する。チーズの最後の欠片を飲み込んだあたりで、パウル1級審問官は再び問いを発した。
「なるほど、ご苦労。まったく、よりによって『神智者』とは腹が立つな。
ともあれ、関係がないという関係があった……止まりか。しまったなあ、君に無駄な時間を使わせた。あの〈同盟〉ってのは、ホンモノの疫病神だ」
パウル1級審問官が何に腹を立てたのかは分からないが、同盟がクソの山だという見解には同意するほかない――いけない、どうも老マルタから教えを得られるようになってから、言葉が汚くなった気がする。
私は気を取り直して、議論を前進させることにした。
「関係性の定義に関わる形而上学的な議論を交わすのは魅力的ですが、我々が至急解決すべきはお手元の書類に対する改竄行為の解明かと。さすがにこれは、冗談や余談を交えられないレベルでの異常事態です」
下品な言葉遣いを意識から追い出そうとしたら、反動で言葉が尖りすぎた気がする。自分で言っておいて何だが、もうちょっと言いようがあったはずだ。
でもパウル1級審問官は楽しそうに笑うと、逆に私に対して問いを立てた。
「君がその書類を作り始めたのは、午前中だったはずだ。確か朝10時頃だったと思う。
で、僕はこの部屋に出たり入ったりしてたけど、君はずっと執務室にいたよね? そのサンドイッチだって、朝のうちに買っておいたものじゃないか。
つまり今に至るまで、この部屋が完全に無人になったタイミングはない。
なのになぜか、君が書いていないはずの記述が、報告書に書き加えられている。
さて——この異常事態を、君はどう解釈する?」
私は必死で考えるが、すぐには答えを見いだせない。これは絶対にあり得ないことではないか。
と、簡易応接ソファのあたりから「ぐぅ」という間の抜けた音がした。読書に没頭していたユーリーン司祭が、やや表情を赤らめて本から視線を上げる。彼女の心は読書に夢中だったが、体はそうでもなかったようだ。私は自分の席に戻り、こんなこともあろうかと余分に買っておいたサンドイッチを彼女に手渡す。
深々と頭を下げてサンドイッチを受け取ったユーリーン司祭は、私達が揃って悩ましげな顔をしているのを不審に思ったのか、「何かあったんですか?」と聞いてきた。いや、同じ部屋にずっといたんだから、話くらい耳に——と思ったが、読書中の彼女にそんなことを期待してはならない。私は手短に状況を説明した。
そしてそれを聞いた彼女は、あっさりと結論を出した。
「なるほど。でしたら昼過ぎに掃除に入った清掃係が犯人ですね。
では、サンドイッチ、ありがたく頂きます」
……いやいやいや、ちょっと待って。ちょっと待ってください、ユーリーン司祭。さすがに今のは私もついていけません。
でもユーリーン司祭は慌てず騒がず、わりと上品にサンドイッチを食べながら、推理を語ってくれた。
「運が良かったんですよ。ちょうどいま読んでいるコーイン司祭の問答集に、まさにこの事態を指し示す、そのままのことが書かれておりましたので。
曰く『あり得ないことを消去していった果てにおいて、最後に残ったものがいかに奇妙なことであっても、それは真実だ』。いわゆる消去法ですね。
ライザンドラ見習いが書類を作り始めてから、この部屋にいっときでも存在した人間は合計で4人。そのうち3人は書類の改ざんを行っていない。ゆえに、その一文を書き足したのは残る1人——清掃係です」
私は「理論上はそうですが」と言いかけたが、パウル1級審問官はその説明で大いに納得したようだった。私はほんの少しだけムッとしたので、彼が何に気づいたのかを問うてみる。
しかるにその答えは、意外なものだった。
「おそらく、だけど。あの掃除係は、カーマインからのメッセンジャーだね。たしか——そう、シャル見習いだ。彼女が掃除係に化けて、僕の執務室に潜入したんだろう。
最近の見習い界隈にはハルナ見習いっていう超突出した才能がいたせいでちょっと影が薄いんだけど、シャル見習いも間違いなく一種の異才の持ち主だよ。僕の仕事には合わないタイプだから、僕もスルーしてたんだけどね。
カーマインってのは、3級審問官のカーマインだ。僕の同期だよ。未だに3級だけど、若い頃は僕やカナリスより先に出世すると思われてた。
優秀すぎるくらい優秀な男でね。僕もカナリスも、あいつには勝てないと何度も唸らされたものさ」
それほどまでに有能な方が、なぜ3級審問官なのですか? とユーリーン司祭。相変わらず、この人は空気をまるで読まない人だ。確実に、ものすごく微妙な話になるのは間違いないだろうに。
そして実際、パウル1級審問官はひどい渋面になった。
「……お答えしたいところではあるんだけど、すべては言えない。
まあでも、最も重要なところだけ言えば、あいつは優秀すぎたんだよ。優秀すぎたせいで、この50年くらい形式上の存在でしかなかった、とある部局を復活させてしまった。そしてその部局でバリバリと成果を上げ続けたんだ。
結果——あるとき、あいつは壊れてしまった。人間が直視していいものの、限界を超えてしまったんだ。
幸い命に別状はなかったけれど、あいつはひどい酒浸りになった。なんとか彼を立ち直らせようとした師匠とも大喧嘩して、結局は売り言葉に買い言葉で老マルタはあいつと師弟の縁を切った。プチ破門みたいなものだ。
それからずっと、あいつは師匠を転々としながら、後進の指導をしてみたり、現場でアドバイザー役をしてみたり、部屋で呑んだくれたりと、まあ、そんな感じだ。階級が3級ってのも、あいつにはカナリス同様に特別の称号が与えられてたんだけど、降格されて3級に落ち着いたってところだ」
パウル1級審問官の説明を聞いたユーリーン司祭は何度か頷くと、「つまりカーマイン3級審問官は非常に優秀な方であり、そのお弟子であるシャル見習いもまた異才の持ち主である。であれば、このような情報を、このように特殊な手段で伝えてきたということにも、特に不自然なところはありません。あ、サンドイッチ、ごちそうさまでした」と言い、再び本の世界に舞い戻った。
一方で、現世に取り残された私たちは、互いに顔を見合わせるほかなかった。
気まずい沈黙が漂うなか、まずは私から意見を陳述する。
「——ユーリーン司祭の護衛を増強したほうがよい、と判断します」
この当然の提案に、パウル1級審問官も強く頷いた。
「特別行動班には老マルタのシンパが多い。僕からも少し、声をかけておく。
しかしまあ、ここにきて〈同盟〉か。これは一度、カーマインにこっそり会いに行くべきだな。
なにせカーマインがわざわざ僕らに情報を伝えようと思うくらいだ。〈同盟〉は相当、行動をエスカレートさせていると考えるほかない。それこそ異端として摘発可能なくらいに、ね」
的確な状況判断に、適切な戦術選択だと思う。
でも残念なことに、これはいささか現実的ではない。私は少し眉をひそめつつ、問題点を指摘する。
「その方針には私も総論で賛成なのですが、各論において問題があります。
今日の夜から明後日の深夜まで、パウル1級審問官のアポイントは完全に埋まっています。特にこの2日は、食事時間にもすべてミーティングが入っています。老マルタ及びカナリス2級審問官も、状況的には近似です。
ですのでカーマイン3級審問官と面会するのでしたら、3日後以降ということになるかと」
私の指摘を聞いて、パウル1級審問官はまたしても渋面を浮かべた。こういうペンディングをすれば、大抵の場合、予定が噛み合うことなどない——神の奇跡でも起きない限りは。
もっとも、こんな指摘をしておいて言うのも何だが、私も〈同盟〉とかいう愚連隊には危険性を感じている。
だが危険と言うなら、私たちはもっと危険なプレイヤーと渡り合い続けているのも事実だ。
シャレット卿やシャレット家の面々はその筆頭だし、ジャービトン派やボニサグス派の重鎮たちだって根回しをひとつ間違えればサドンデスがある相手だ。審問会派の上層部はけして協力的ではないし、最大の支援者であるガルシア家だって全体が現当主の意向に賛成しているわけではない。
パウル1級審問官らのスケジュールは超過密状態だが、これでも優先順位を慎重に測定し、取捨選択をした結果なのだ。
「——なら、今からカーマインに会いに行こう。
あいつのことだから、きっと執務室で飲んだくれてるはずだ。次の予定に30分ほど遅刻する前提で動けば、なんとかなる」
私はひとつ頷いて、それがいいかもしれませんね、と返事する。
でもそこで——あろうことか——ユーリーン司祭が割って入った。読書中の彼女がこっちに戻ってくるなんて、普通はあり得ないことだ。
「それはいけません。それは老マルタが指示した優先順位に反します。
〈同盟〉が狙っているのは、しょせんは私の命。彼らに為し得ることがあったとしても、私を殺すので精一杯でしょう。
いま何よりも優先すべきは、ナオキ追討の体制を作ることです。ハルナ3級審問官を巡る陰謀を解き明かし、これを妨害することがその目標達成においてプラスとなる、ないし最も適切な端緒となるというのは理解できますが、それならばそれだけを追うべきです。
二兎追うものは一兎をも得ずと言いますが、あれかそれかを選ぶことは、政治の基本中の基本でしょう。あれもそれもと無制限にリソースを分散すれば、それだけすべてを失うリスクも高まります。
実際問題、現状の警備状況において私を暗殺できるチャンスがあるとすれば、帝都でハルナ3級審問官の結婚式が行われる当日だけでしょう。当日は帝都の警備全体に大きな偏りが発生しますし、いま私の護衛についてくださっている審問会派の特別行動班の方々も教皇の警護に重点を置かざるを得なくなりますから。
ですので極論言えば、もし私の安全を確保したいと思うのであれば、ハルナ3級審問官を巡る陰謀を完全に解き明かし、それを公衆の目に晒すに足る証拠を確保して、結婚式をご破産にするという手もあり得ます。そうなれば、〈同盟〉が目的を達成するチャンスも大幅に損なわれます。
どうか、理性ある選択を。悔いのない政治をされることを、願います」
ユーリーン司祭の言葉に、パウル1級審問官は絶句した。
そしてたっぷりと時間をかけてから——彼が本心では望んでいない選択をする。
「ご忠告、感謝します。確かに、僕は道を間違えるところでした。
ユーリーン司祭に対する警備の増強は行います。
ですがカーマインとの面会は、優先順位を下げます。
ライザンドラ君、そういう方針で今後のスケジュールの管理も頼むよ」




