アルール歴2182年 8月9日
——イッケルト大司祭の場合——
「——人の魂の崇高さに果てはなく、かくしてその愚かさにも底はなし、か」
間諜からの報告を聞いた私は、思わずそう呟いていた。故コーイン司祭の遺した言葉は実に多様だが、同時代の審問官たちが最も好んで口にしたのはこの一節だ。かく言う私も、審問会派時代には何度もこの言葉を引用している。
いやしかし、仮にも司祭資格を取った人間が——しかもそれが複数人いるというのに——ここまで堕落するか? 〈評議会〉の場では「申し分なく異端の徒となった」と報告したが、最近の〈同盟〉は第一級の緊急事態として特別行動班を動かし現行犯で殲滅すべき異端だ……と、審問会派時代の私なら机を叩いて主張しただろう。そして私の仇敵である老マルタであっても、「こればかりはお前が完全に正しい」と認めるはずだ。
「状況は極めて深刻じゃな。
貴様の報告が悪かったわけではないが、念のため確認させてもらうとしよう。
まず、連中の軍事教練の質が変化した——それも極めて実戦的な方向に。それで間違いないな?」
私の言葉に、間諜は静かに頷いた。
「はい。これまでの無為無策な訓練から、ユーリーン司祭暗殺と、その護衛の撃破に完全に特化した訓練に変化しました。
訓練の方針としては、パラディンスタン傭兵とスヴェンツ傭兵の兵法をミックスさせたようなものです。ただし指導者はバラディスタン人でもスヴェンツ人でもありませんでした。また、その指導者を〈同盟〉に紹介したのは件の占い師だということです。
なお、彼らにその戦い方を指導した人物は3日前に姿を消し、以後消息は不明です」
ふむ! これは実に、厄介だ。
もちろん、ユーリーン司祭の暗殺——彼らの言葉で言えば天誅——が成功する確率が上がることは、こちらとしては望ましい。
だが暴力というものは、どうしてもそれ単体で暴走しがちだ。彼らが天誅の前に実戦経験を積みたい(要は「腕試ししたい」)と考えることは、十分にあり得る。この場合、あの馬鹿どものことだから、近隣の村を襲って住人を皆殺しくらいのことはしでかしかねない。そうなったらさすがに、帝国の軍隊が動く——つまりぞっとするほど、話が拗れる。
「もうひとつ。連中は秘薬なるものを手に入れたそうじゃな?
それについて、もっと詳しく報告してもらえんかの」
私の要求を聞いた間諜は、非常に珍しいことだが、軽くその表情を歪めた。
「大変に申し訳ございませんが、先程の報告が、現状で自分が把握できているすべてです。
かの秘薬は、大司祭殿もご存知の占い師が持ち込んだものです。元はミョルニル派が持っていた秘薬だという噂ですが、これ以上はわかりません。効果としては、意識の覚醒、持久力の増加、感覚の鋭敏化などがあるとのことですが、今のところ〈同盟〉でも極めて限られた人物しか使っていないようです」
ふうむ。いわゆるアッパー系の薬物、か。なるほど、そんな薬物を大量摂取して天誅の現場に向かえば、途中で多少の死人が出た程度では怯むまい。軍事教練の指導といい、薬物といい、あのサヨコなる占い師には、改めて話を聞かねばならん、か。
だがそれはそうとして、もうひとつ、問いただしておくべきことがある。私はなるべく穏やかな口調を維持したまま、間諜を詰問した。
「貴様ほどの腕利きが、なぜあんな馬鹿の群れに浸透できんのだ?
普段の貴様なら、その秘薬とやらを手にしてから、報告に戻ってくるじゃろうに!」
事実上の叱責に、間諜はかしこまって姿勢を正すと、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。ですが、これが自分の限界でした。
あの組織は、腐敗した集団と言うより、もはや完全なる異端教団です。それも、悪魔崇拝者だって思いつかないようなことを、呼吸をするかのごとく実行する、最悪の異端者どもです。
軟弱者と謗られることを覚悟で申し上げますが、自分は昨晩、久しぶりに帝都での平穏な夜を迎えました。ですが、度重なる悪夢に、一睡もできなかったのです。
あそこに浸透し、かつ彼らの狂気と腐敗に飲み込まれないようにするのは、実に口惜しいですが、自分では不可能だと判断しました。おそらくは審問会派の潜入捜査官でもなければ、ミイラ取りがミイラになるだけかと」
なんと、そこまでか!
驚きを超えて、事態の異常性に恐怖すら覚える。なにせ、様々な犯罪組織に浸透しては言語道断な非道を見てきた彼が、「悪夢で眠れなかった」というのだ! これはいよいよ、審問会派に通達して緊急出動すべき事態と言えよう。
だがそれでも、腑に落ちないことは多い。いや、多すぎる。
「よい。貴様ほどの男が無理だというのであれば、審問会派であっても潜入捜査は危険視するじゃろう。
それより、もうひとつ確認させてもらえぬか。〈同盟〉が天誅なる不遜なスローガンを掲げているのはさておくとして、彼らはもともと貴族社会の伝統を重んじる……否、そこに決死で縋り付くような者どもじゃった。
しかし貴様の報告を聞く限り、もはや彼らからは伝統を重んじる姿勢すら感じられぬ。何が起こったのじゃ?」
あまり筋の良い質問ではない(一般的に言って「わかりません」「判断いたしかねます」という答えが返ってくるべき問いだ)と知りつつ、私は〈同盟〉に感じる気持ちが悪いとしか言い難い違和感にたまりかねて、そんな問を発していた。
だがこの問いに対する答えは、完全に予想を裏切っていた。
「……これはあくまで私見ですが、自分は彼らが作った掲示板が諸悪の根源だと感じました。あれは——あれは、悪魔の発明です」
は? 掲示板?
そんなもので、何が変わるというのだ?
私の困惑をよそに、間諜は熱に浮かされたかのように喋り続けた。
「はじめは、ただの掲示板だったのです。相互に連絡を取り合うための、どこにでもある、普通の掲示板でした。
ですがある日、ローランド司祭が『この掲示板を利用して〈同盟〉の同志相互の連携をより深めよう』と言い出したのです。
彼は掲示板にただチョークで伝言を書くのではなく、小さな羊皮紙に様々なアイデアや意見を書いて、掲示板に張り出すようにしよう、と言いました。普通の大きさの文字で書けば、だいたい150文字くらいなんとか書ける程度の小さなスペースです。
それからローランド司祭は、『そうやって張り出された言葉のなかに、これは良いと感じるものがあったなら、マークを入れよう。1日毎に、マークの多い言葉はより高い位置に再掲示し、3日経ってもマークがつかなかった言葉は——それが書かれた羊皮紙は、言葉を削って再利用する』と語りました」
——なん、だと?
いや……確かにそれは、優れたシステムだ。非常に優れている、と言ってもいい。
だがそれが本来期待されているような効果を発揮するには、そのシステムだけでは不十分だ。
内心の動揺を抑えつつ、私は間諜の言葉に耳を傾け続ける。
「最初の2日ほどは、さしてこの掲示板は盛り上がりませんでした。やはり、皆どこか萎縮していたのです。
ですが2日目の夜、業を煮やしたローランド司祭がその場にいた同志全員に言葉を書かせ、それを横並びで掲示したあたりから、状況が変わりました。同志のうち数名が、取り憑かれたかのように言葉を大量に張り出すようになったのです。
最初、なぜ彼らがこんな遊びに夢中になるのか、わかりませんでした。
ですが他の同志に促されるがままに自分もいくつかの言葉を——『帝都の皇帝通りに新しくできたカフェは、昼間はパッとしないが、夜に行くととても雰囲気の良いバーとして営業している』程度のものですが——書いたところ、翌朝にはその言葉に大量のマークがついていたのです。『貴重な情報に感謝する』という添え書きすら、数点ありました。
それを見て自分は——自分は、その……」
言葉に詰まった間諜に、私は優しい顔で頷いてみせる。
「貴様はそれを見て、何かが著しく満たされた気持ちになったのじゃな。
それは何ら、おかしな心の働きではない。貴様のもたらした情報が感謝をもって受け取られ、そしてそんな素晴らしい情報を提供した貴様という存在そのものが評価され、承認された——貴様がそう感じたとしたら、それは実に自然なことじゃて。
貴様は類まれなる間諜じゃが、それゆえに貴様は、困難な目標であっても『任務を達成して当たり前』として評価されることが多かろう。貴様自身、プロとして、そのように己を律しておるはずじゃ。
だがそれだけに、この手の野放図な賞賛は、心に響いたじゃろうよ」
私の指摘に、間諜は歯を食いしばりながら、何度も頷く。超一流のプロフェッショナルである彼にとって、任務の最中にここまで深く心を動かされた——しかもこんな他愛もない方法で——のは、屈辱ですらあったに違いない。
「……ご指摘のとおりです。自分は激しく動揺し、それからはなるべく掲示板に近寄らぬようにしていました。
ですが——」
その先を聞く必要はない。
私は彼を手で制しつつ、続く言葉を引き取る。
「かの掲示板を中心として、〈同盟〉の思想は先鋭化、かつ、離散化していったのじゃろう?
当然よな。短い文字数で、より多くのマークを得られる言葉を書こうと思えば、どぎつい表現を使い、事実を針小棒大に歪め、全体のうち例外的に劣悪なる部分があたかも全体を占めているかのように定義し、己らを陰謀の犠牲者として描き、仮想敵を邪悪なる愚者として誹謗する——そういった手管を使うのが最も楽じゃからの。
そして、そんな歪んだ言葉を毎日のように交換しておれば、貴様が報告したようなことも起ころうものよ」
もちろん、このシステムは上手く使えば極めて良い結果を産むであろうし、コーイン司祭が生きていた頃の審問会派では似たような方法で少人数による意見交換とブラッシュアップが行われていたこともある。
だが、少なくとも今のこの世に、何の準備もせずにこのシステムだけを放り出せば、そこで何が起こるかは自明だ。
いみじくも間諜が指摘したとおり、これは本質的には遊びであり、しかも文字さえ書ければ(読めなくともよい!)自分がスターになれる可能性を有している。帝都で浴びるように娯楽を享受している連中と言えども、この新しい遊びには、麻薬に溺れるがごとき悦楽を感じたに違いない。
しかし、こうなるともう1つ、確認すべきことが増えた。
「して——この新しい掲示板じゃが、やはりこれもまたサヨコとやらが持ち込んだ、と考えて良いのかの?」
私の問いに、間諜は強く頷いた。
「間違いありません。発表したのはローランド司祭でしたが、その前日にローランド司祭は占い師サヨコと接触しています。
そして自分が把握する限り、これが占い師サヨコが彼らの農場に姿を見せた、最後となります」
やはり、か。
私は最悪の予想が的中したことに内心で恐れおののきつつ、間諜に特別報奨と休暇を与えた。普段であれば比較的素直に喜びを示す彼は、神妙な顔で「必ずや戻して参ります」と宣言すると、静かに去っていった。彼をして心身のバランスを「戻す」必要を感じるほど、過酷な任務だったということだろう。
さて。
こうなるといよいよ、サヨコは危険だ。
確かに彼女には、〈同盟〉がユーリーン司祭の暗殺を断行するよう操作せよと依頼したし、そして彼女はこれ以上はあり得ぬほど完璧にその任務を達成している。
だがここまでしろとは、言っていない。ことここに至っては、〈同盟〉に所属していた連中は、彼らがことを為した後、ことごとく火刑にするか、幽閉するしかない。もとより〈同盟〉に関する情報のコントロールには最大限の注意を払っているが、ほんの少し間違っただけで、彼らはジャービトン派の歴史に残る大いなる汚点として記録されかねない——これぞまさに、最悪の結末だ。
——〈同盟〉を、今のうちに切るべき、か。
そう、思った。連中がもたらす利益とリスクを天秤にかけると、もはやリスクのほうが圧倒的に高い。今すぐにでも〈評議会〉に上申して(あるいは事後報告でも構わないから)審問会派と連携し、〈同盟〉を一斉検挙する。それが最適手なのは、ほぼ自明だ。
しかし、それが最適手なのは、私という人間を除外した場合の話だ。
〈評議会〉において、評議員の一人は「〈同盟〉がコントロール不可能になるのではないか」という危惧を表明している。そしてこの危機感に対し私は、「対策は万全だ」と解答した。しかも「問題があるとすればユーリーン司祭を彼らに殺させるかどうかだ」と、一歩進んだ論点へと話を進めてもいる。
で、ある以上、対策は万全であらねばならない。よもや今になって「〈同盟〉が暴走しましたから、今すぐ暴力に訴えて鎮圧します」などとは、口が裂けても言えない。ジャービトン派の宿敵とも言える審問会派から移籍してきた私は、ただでさえ派閥内での立場は弱い。ここでこんな無様な失敗をしようものなら、ジャービトン派における私の政治生命は終わってしまう。
——で、ある以上、もう一度サヨコと接触し、〈同盟〉を軌道修正させる。
これも良い案ではあるが、やはり現実的ではない。サヨコには既に、ジャービトン派が擁する暗殺者が送り込まれている。サヨコを暗殺するのは今だと暗殺者が決意したとき、もし万が一にでも私が彼女と面会していたなら、今度は私の生物学的な生命が終わる。
ならば、選択肢は1つだけだ。
「結婚式を、急がせるしかなかろうな」
〈同盟〉の馬鹿どもは、教皇が臨席する結婚式が帝都で挙式されるとなれば、そのタイミングこそがユーリーン司祭を殺すべきときだと判断するだろう。
結婚式にあわせて帝都の警備が強化されると言っても、それはあくまで結婚式が行われる教会周辺の話に過ぎない。つまり逆に言えば、帝都の中心からやや離れたところにある、ユーリーン司祭が勾留されている審問会派管理下の施設は、警備が手薄になる。審問会派の特別行動班も、その主力は教会の警備に駆り出されるのだから。
しかるに〈同盟〉がユーリーン司祭暗殺を完遂したところで、ジャービトン派が指揮する教会付き治安維持隊が彼らを逮捕、拘束し——そして連中には、二度と日の目を拝ませない。
あの馬鹿どもがこれ以上の愚行に走る前に、息の根を止めるためには、これが最も望ましい。
幸い、私は現教皇にはちょっとした貸しがある。私も彼もいまだ中央神学校の学生だった時代、彼好みの黒髪でやや肉付きの良い体型の熟女を何人も紹介してやった、という貸しが。
今の彼の奥方(都合3人目の妻になる)は政略結婚であてがわれた20代の美しきブロンドの女性だが、このネタを彼女が知ればどうなるかね、というあたりで攻めればスケジュールをゴリ押しすることも可能だろう。
となれば、善は急げ、だろう。
2つの名家が血縁を結ぶ結婚式といっても、メインキャストが札付きのクソ野郎に心が壊れた少女という、あまり長時間は持たないイベントだ。しかも新オルセン家はもちろん、シャレット家もまた、ジャービトン派の意向には逆らえない。「多少簡素化したとしても、予定を前倒しする」という方針に反対する者はおるまい。
ジャービトン派の〈評議会〉に対しては、ハルナの体調がどうのこうのと、適当に辻褄をあわせておけば良い。彼らは私が話の辻褄をあわせただけだということにその場で気づくだろうが、結果さえ良ければその過程は問わぬというのは我がジャービトン派最大の美徳だ。
さあて——では、動くとしよう。




