平凡なる神の子たち(1)
アルール歴2182年 7月21日
——オットー上級兵長の場合——
夜の当直を終えた俺は、なるべく音を立てないようにして自宅の鍵を開けると、足音を忍ばせてキッチンに向かった。
そっと椅子を引いて、慎重に腰を下ろす。
それからテーブルの上に乗ったままになっていた酒瓶を手にとって、そこらに転がっていた銅の器に中身を注ぐと、一息でぐっと呷った。
酸味ばかり感じるワインだが、やはり、夜勤あけの酒は最高だ。
——と、居間のほうで小さな物音がした。
しまった、と思う間もなくキッチンの扉が開いて、娘が顔を見せる。
「やっぱり帰ってきてたのね、父さん。
お酒はダメとは言わないけど、そうやって一気に飲むのは身体に悪いから謹んでって、何度も言ってるでしょ?」
へいへい。俺はしかめっ面で頭をかきながら、カップに酒を注いだ。
そんな俺を見て、娘は呆れたと言わんばかりの顔になる。夜勤明けのように疲れ切っている場合、お酒は一杯だけにしておいて、なるべく体を休めるのを優先すること……というのが、娘の定番のお小言だ。
だが、今日の娘は少し違っていた。
向かいの席に腰をおろすと、俺の手元にあったカップを奪い取り、その中身を一気に飲み干す。おいおい、そういう飲み方は——と言いかけて、俺は改めて娘の顔をよく見てみた。目元には濃いクマが目立ち、頬もこけているように感じる。このところ何か随分と思い詰めてようだとは思っていたが、これは尋常ではない。
俺は心配になって、娘にそっと語りかける。
「おい。悩みがあるなら、言ってみろ。
俺だって、上級兵長だぞ? たくさんの部下から相談もされるし、そうすりゃ『こいつは絶対に秘密にしてやらにゃいかん話だな』ってネタを聞くこともある。
だから、お前を部下だと思って、聞いてやるよ。壁に向かって話すと思って、悩み事をぶちまけちまえ」
こういっちゃなんだが、娘は天才だ。本人は全力で否定するけれど、俺にしてみれば天才としか思えない。ちっちゃい頃から勉強が大好きだったけれど(この段階で俺としては未知の生物を見る思いだった)、いまじゃクリアモン修道会でバリバリ働いている立派な立派なお医者様だ。
しかもこの天才児は上司の覚えもめでたいようで、先月あたりは泊まり込みで、でっかい貴族様のお館に、24時間体制で詰めていた。親としては「大貴族様の御曹司に手篭めにされるんじゃないか」と心配したが、娘は笑って「クリアモン派に不埒なことをする馬鹿はいないわよ、父さん」と俺の心配を一蹴した。そりゃそうだ。あらゆるまっとうな医者が所属してるクリアモン修道会を敵に回そうものなら、病気になったが最後、惨めに死ぬしかないのだから。
でも、その仕事が終わってからというもの、娘はふさぎ込みがちになった。
いよいよこれは俺の心配が的中したのかと思ったが、そういうことではないらしい。じゃあなんなんだよと問い詰めたら、「医者には守秘義務があるから」の一言で黙り込んでしまった。
そのときは俺も、お医者様ってのはつくづく大変な仕事なんだなと思ったし、娘ももういい大人なんだから俺がいつまでも父親ヅラしてドカドカとプライベートに踏み込んじゃいかんだろうとも思ったが、こんな今にも死にそうなくらい青い顔をした娘を前にすると、「そんなことを言ってられっか」と思う。むしろ俺はもっと早く、娘とサシでちゃんと話をすべきだったんじゃないか、と。
俺はちょいと席を立つと、キッチンの奥深くにある小さな棚の、さらにその奥に隠してある箱を引っ張り出した。中身は言うまでもなく酒瓶だ。30年ものの、蒸留酒の逸品。
娘が手元に抱え込んだままのカップに、芳醇な香りを漂わせる蒸留酒を、ちょっぴり注いだ。強い酒だから、ワインみたいにガブガブとはいかん。娘も酒の飲み方はよく知っているので(考えてみれば、別の意味での本職だ)、たっぷり時間をかけて香りを楽しんでから、舌先に乗せるようにして刺激と味を楽しむ。
アルコールが緊張を溶かしたのか、娘はゆっくりと、語り始めた。
「私が詰めてたお館で、酷い——虐待を、受けた、患者さんと向き合ってきたの。その家の人達は、患者さんは完全に正気を失ってて、もう元に戻ることはないと考えてた。そもそも、その患者さんは今の自分がどんな状況にあるかすら理解できていない、って。
でも前任者が残してきた書類を見ると、恢復の可能性はあるように思えた。事実、毎日診察するうち、この患者さんは狂気を装っている可能性がある、と感じたの。厳密に言えば、装っているというのとも違うんだけど。
いずれにしても、患者さんは自分が置かれた状況を、ある程度まで正確に把握できていたと思う。だから私は慌てて上司にそのことを連絡したし、その家のご当主様にも報告した。
でも——その二人から、『そのことは報告書に書かなくていい』って」
娘の話を聞きながら、俺はひどい悪寒に取り憑かれていた。
俺は、頭が悪い。だから具体的に何が起こっているのかは、まるで分からない。というか娘の話を半分も理解できない。
だが俺のカンは、娘がとんでもなく危険な陰謀に巻き込まれた、と告げていた。
「そんなのっておかしい。絶対に。そうでしょ、父さん?
だから私、報告書では、読む人が読めば状況がおぼろげに推測できるような、そんな言葉遣いをたくさん使うようにした。誰かがきっと、これに気づいてくれるはずだと思って。
でも、誰も気づいてはくれなかった。当たり前よね。そんな物語みたいなこと、起こるはずもないもの。
結局、私は契約通りの期間のお勤めを終えて、その家のお館様からは個人的なご褒美までもらっちゃった。断りたかったけど、そんなの怖くて断れないもの。今でもそのときにもらった金貨の袋、私のベッドの下に隠してある。だから私、ベッドで寝るのが怖い。馬鹿みたいだよね。最近ずっと、居間で寝てるの。
そのうえ、上司からも『君の優れた勤務成績に対して、クリアモン派から表彰状が出る予定だ』って言われて。『1ヶ月間大変だっただろうから、2週間ほどゆっくり休んで、嫌なことは何もかも忘れてしまいなさいって』」
間違いない。娘はカネを積まれて沈黙を要求され、クリアモン派の名誉を足かせにして忘却を求められた。でも正義感の強い娘は、そのカネも名誉も、つまるところ自分の患者を犠牲にして得られた報酬だということが、納得できない。だからこうやって、思い詰めている。
「お父さん——私、怖い。すごく怖い。
ちょっと前にね、お昼を食べに外に出たとき、審問会派の人に会ったの。偶然、って言ってたけど、そんなことあるはずないよね。だって1級審問官様なんだもん。街で偶然会う、なんて人じゃないよ。
それで、その人と一緒にランチっていうことになった。1級審問官様が相手じゃ断れないじゃない。そのご飯の席で、あの患者さんのことを、根掘り葉掘り聞かれたの。守秘義務があるから、って必死で断ったんだけど、でもそうやっていろいろ聞かれて、患者さんの身の上なんかも聞いてるうちに、やっぱり話した方がいい、話さなきゃいけないって、でも、話しちゃダメだ、話したら——たぶん私も、お父さんも、殺されちゃうって……」
涙ながらに恐怖と怒りを訴える娘の声を聞くうち、俺の中で猛然と怒りの炎が燃え上がり始めた。クソどもが。この、クソ野郎どもが。
だがそれと同時に、兵士としての冷静な俺が、脳の中で生き残れと囁く。生き残るために何をすべきか、必死に考えろ、と。
だから俺は、怒りで震える手で膝を強く握りしめながら、娘に聞いた。
「その審問官に、何かを喋ったのか?」
娘は激しく首を横に振り、それから、小さく縦に振った。
「報告書に書いた、どうしても気づいてほしかった部分だけ、『こんなふうに書きました』って、言った。でもそれ以外は、守秘義務がありますって」
俺は嘆息し、やはり娘は天才児だなと改めて感服した。「自分は報告書にこのように書いた」と伝えるだけであれば、それを表立って咎められることはあるまい。なにせその報告書が閲覧できる人間なら、誰でもそれを確認できるのだから。
その上で、それ以外は守秘義務を貫いたなら、少なくともこの戦いに負けはない。貴族どもが最も重視するのは「黙っているべき人間が黙っていること」であり、娘はその一線を越えはしなかったのだ。
だから俺は、もう完全に泣きべそをかいている娘を、やさしく諭す。こんな娘を見るのは、もう15年ぶりくらいかもしれないなと思いつつ。
「いいか。俺が言えることは、2つだけだ。
まず1つめ。英雄になろうと、するな。絶対にだ。お前の母さんは、そりゃあ勇敢な兵士だった。腕っ節も強くて、模擬戦では俺もなかなか勝てなかった。それでも、そんな母さんでも、丸腰で凶悪犯と戦うのは——しかもちっちゃな子供たちを守りながら戦うのは、無理だった」
俺の妻は、同僚だった。いわゆる職場恋愛ってやつだ。
だが彼女は娘を産んですぐに、死んだ。俺が彼女を「赤ん坊の世話ばかりじゃ疲れるだろうから、ちょっと買い物にでも行ってこいよ」と家の外に追い出し、そして彼女は公園に逃げ込んだ凶悪犯から、その公園で遊んでいた子供たちを守ろうとして、死んだ。
「母さんは、俺たち帝都警備兵の誇りだ。母さんの名前を知らないヤツなんて、帝都を守ってる兵隊には誰一人としていない。
でも、それがなんだってんだ? 俺は英雄の遺族になんか、なりたくなかった。強くて、勇ましくて、可愛らしくて、ちょぴりドジなあいつに、生きていてほしかった。あいつと、お前と、一緒に手を繋いで、ずっと生きていきたかった。
だからな——英雄になんて、なろうとするな。英雄になれば、もしかしたら10万人を幸せにできるかもしれない。でも、英雄ってのは、死ぬんだ。その死がぶち壊す幸せがあるってことを、忘れないでくれ」
グズグズと泣きながら、娘は何度も頷く。
「それから、もう1つ。
俺たちも仕事柄、どうしてもその手の腐ったカネを引き受けなきゃいけないことは、ある。大貴族様のご長男が酒場の女中をぶん殴ったとして、俺たちがそこに割って入った場合、翌朝になればまず間違いなく大貴族様から俺たち宛に酒代が届く。要は、このカネをくれてやるから、何もかもなかったことにしろってわけだ。
俺たちもやっぱり、このカネを突っ返すことなんてできない。そんなことをしたら、大貴族様に喧嘩を売るも同然だからな。
だからそういう場合、受け取ったカネをどうするかってのは、内々のルールがある」
小さな声で、「どうするの?」と、娘。
「その夜のうちにみんなで飲んで使い切る——いや、待て待て、冗談だ! 冗談だって! そんなに怒るな!
真面目な話をすれば、クリアモン派が運営してる孤児院に全額寄付してる。さもなきゃボニサグス派が運営してる市民学校とかだな。これがいちばん後腐れのないやり方だ。この手の悪銭は、神様に浄財にして頂くに限る」
俺の言葉に、娘はいたく感心したようだった。「父さん、さすが頭いいね」と呟くと、少し表情に明るさが戻ってくる。と、それで緊張の糸もだいぶ緩んだのか、娘は大きなあくびをした。
「納得したか? なら、その酒を飲んで、さっさと寝ろ。ベッドが嫌なら、居間で寝ればいい。
それより、例のカネはお前の部屋のベッドの下、なんだな? お前が寝てる間に、俺が寄付してきてやるよ。俺の部隊を通せば、誰の寄付かなんて分からなくなる。ボニサグス派の市民学校に寄付、でいいか? ああいや、お前がお世話になったボニサグス派の市民図書館にしとくか」
娘は素直に頷いて、カップの中に残った酒を舐め、それからへにゃりと食卓の上につっぷした。すぐに、静かな寝息がその愛らしい唇の間から漏れ始める。かわいそうに、こんなに追い詰められていたとは。まったく、貴族どもはクソの群れだ。
俺は娘の軽い体を抱きあげると、居間のソファに横たえ、上から毛布をかけた。
それから、なるべく物音をたてないように階段を登り、娘の部屋へと向かう。
娘が大貴族様から受け取ったとかいうカネは、俺がいったん預かって、信頼できる貸金業者に託すとしよう。こうやって溜め込んできたカネは結構な額になるし、今回の件でもしかしたらその桁が1桁上がるかもしれないが、それでもまだ十分とは言えない。
娘に良縁ができ、いざ結婚ということになったとき。この天才児に相応しい結婚式をあげ、そこで誰もが羨むドレスを着せてやるには、カネはあるだけあったほうがいい。それに、娘に子供が生まれたならば、その子には最初から不自由なく教育の機会を与えたい。
娘は幼い頃から片道6kmを歩いてボニサグス派の図書館まで通い、そこで読み書きから始まってこむつかしい神学に至るまで、いわゆる学問の基礎というやつを自学自習した。クリアモン派に進んだのも、クリアモン派で医者になるための勉強をするというのが、もっとも容易に奨学金を得られるルートだからだ。孫には、そんな苦労はさせたくない。
寄付するといったカネを俺が着服していたと知ったら、まっすぐに育った娘は怒るかもしれない。だが、たとえ娘に激怒されたとしても、もうこれ以上、あいつに——そしてあいつの未来の家族に、カネで苦労をさせたくない。カネの苦労で人生が歪むところを、俺たち帝都警備兵は山ほど見てきたのだから。
だから俺はただ、神に祈る。
どうか娘に幸せがありますよう。
娘の未来が平穏でありますよう。
ただ俺は、神に祈る。




