アルール歴2182年 7月22日
——カナリス2級審問官の場合——
夕闇の先へとゆっくり走り去っていく馬車をパウルと二人で見守りながら、私はただひたすら敗北感を噛み締めていた。
私は、無力だ。あまりにも。
と、パウルがぽん、と私の肩に手を置いた。どうせ奴のことだ。適当におどけたことでも言って、私を慰めようとでもするのだろう。そういう心遣いを否定したいわけではないが、いま奴のふざけた言い回しを聞いたら、私は奴の頭をメイスで叩き割ってしまうかもしれない。
そんなことを思いながら振り返り——率直に言って、私は大いに驚いた。
そこに立っているパウルの顔は、まさに今から死地に挑まんとする審問官の顔、それそのものだったから。
「カナリス。共有すべき情報がある。
ちょっとばかり、近所で一杯ひっかけないか?」
その口調はいつもどおりだったが、奴の目はけしてこれが慰めなどではないことを語っている。気がつくと私は、パウルの気合いに飲まれるように、素直に頷いていた。
15分ほど歩いたところで、パウルは小さなバーに入った。日暮れの鐘が鳴るこの時間、飲み屋はまさに稼ぎ時であろうに、客は私達以外に誰もいない。パウルに誘われるがまま個室に入り、店のマスターとおぼしき男が持ってきたワインのボトルを受け取ると、異様なまでの静けさの中で彼は話し始めた。
「安心してほしい。この店は前もって借り切ってある。
この周辺の隣接する飲み屋も、だいたい抑えた。そっちには特別行動班の連中が客として入ってる。
つまりいまここは、帝都でも飛び抜けて安全だってこと」
……なるほど。審問会派本部の執務室においてすら話せないようなネタを、ここで話そうというわけか。
「まあ、まずは分かりきってることを確認する。
本日、先程の時刻をもって、ハルナ3級審問官はフィーリア癲狂院——もとい療養所に搬送された。クリアモン派の牙城とも言えるかの療養所には、教皇ですら許可なく入ることはできない。
つまり僕らは、連中がそれを望むまで、ハルナ3級審問官と接触不可能になったというわけだ」
私は苦い思いを飲み込みながら、頷く。
パウルはワインのボトルを弄びながら、言葉を続けた。
「さて。ここでまずは僕から、とびっきりの大ネタだ。
ハルナ3級審問官の専属医をしていたクリアモン派修道士に、接触することに成功した。彼女いわく——クリアモン派らしく、実に守秘義務に誠実だったけど——ともあれ診断書や報告書には『ハルナ・シャレットは強度の男性恐怖症を患っている可能性がある』と書いたそうだよ。
ところが師匠の手元にある報告書の写しを見ると、『ハルナ・シャレットは強度の男性恐怖症を患っている』と書いてある。『可能性がある』の部分が、どこかに消えてしまったというわけだ。
ハルナ直属の召使いたちを辿って、シャレット家内部においてはこれがどう把握されているか調べてみたところ、シャレット家内部では『可能性がある』っていう理解だそうだ。そりゃまあ例の専属医は、シャレット卿に口頭でも報告するだろうからね。
つまり、報告書がシャレット家から外に出ていく段階で、誰かが内容を改ざんしてる。
その上で、問題は2つある。
1つめ。誰が、なぜ、報告書を改ざんしているのか?
2つめ。ハルナ3級審問官は、本当に強度の男性恐怖症なのか?」
パウルの報告は、なるほどこれだけ入念なセキュリティ対策をしただけのことはある、と思わせるものだ。我々が議論の前提としていた報告書が偽造されていたとなれば、非常に多くのことを調べ直す必要が発生する。
とはいえ、奴の報告には致命的な問題がある。ハルナが強い男性恐怖症を患っているというのは、私もこの目で確認したことなのだ。
私が素直にそのことを告げると、パウルはなんとも言えない表情になって、「まあ——まあ、いいんだけどね」とぶつくさいいながらワインを抜栓し、用意されていたグラスになみなみと注ぐ。とてもではないが上品な注ぎ方とは言えない量だ。
「覚えてるかい、カナリス? 『シーリャ母さんの店』を、さ。
昔はさ、僕らはとにかくカネがなかったから、あの店に行っては安ワインを呷ったよな。マザー・シーリャはそんな僕らに、いつもこんな感じでなみなみとワインを注いでくれた。
ま、あとで聞いたら、あのワインって水で3倍くらいに薄めてあるから、普通の3倍注いでも原価は一緒だったそうなんだけど。
でも、あれは嬉しかったよな。特に、マルタ師匠に徹底的にしごかれた後は」
パウルらしからぬ、意味のない昔話。
だがその話を聞いて、私もふと、若い頃の日々を思い出していた。あの頃はまだ現役で最前線に立っていたマルタ1級審問官にさんざんぶん殴られ、いつかこのクソジジイを殺してやると心の奥底で誓いながら、汗と泥にまみれて鍛錬を繰り返した日々。
あの毎日があればこそ、今の自分はある。
「昔話はこの程度にしておこう。
そうだな——まあ、仮に、だ。君はいま、特捜審問官として異端の捜査をしている、とする。
しかるに、男Aと女Xが保護対象として浮かんできた。男Aと女Xは相思相愛の、熱烈な恋仲だ。君は最善を尽くしたが、女Xは異端者たちに誘拐され、慰み者にされてしまった。だが君の活躍によって、女Xはなんとか一命をとりとめた——と、しよう。
さて、女Xを救助した君は、彼女を男Aに会わせに行くかい?」
パウルはワインをすするように飲みながら、空虚な仮定論を並べ立てる。
そういえば昔から、奴はこの手の例え話が好きだった。「君はいまトロッコに乗っているとしよう」とかいう話を、安ワインで酔ったパウルからは何度も聞いた記憶がある。
だがまあ、ちょっとくらいは付き合ってやってもいいだろう。私もグラスからワインをすすりつつ、彼の問いに答える。
「難しいな。心情としては、男Aのところまで女Xを連れて行ってやりたい。
だが、ある程度の時間は必要かもしれん。女Xとしては、男Aに合わせる顔がない、という迷いもあるだろう。そんなものは、実際に逢って抱擁しあえば溶けてしまう迷いだと分かっていても、一定の恐怖は残るし、混乱もするだろう。
これらを踏まえ、私であればまず女Xを女子修道院に預け、精神的な落ち着きを取り戻させてから、男Aのほうから女Xのもとを尋ねるように説得する。『お前が彼女をしっかり抱きしめてやれば、すべては解決することだ』と、な。
これが異端者から受けた痛みを、もっとも適切に癒やす手順になるだろう」
私の言葉を聞いたパウルは、なぜか派手にため息をつくと、ワインをぐいっと呷った。
「——君はそこまで分かっていながら……まったく、君ってやつは……いや——いや、まあ……いいさ。今は、まあ、それでいいとしよう。
ともあれ、だ。君は気づいていないんだろうが、ハルナ3級審問官は——いや、ハルナ・シャレットは、女として、男である君に、ぞっこん惚れてるんだよ。ま、ハルナ君も、自分の気持に気付いてなかっただろうけどね」
何を馬鹿な。パウル、お前はたったそれだけのワインで泥酔するほど、疲れているのか?
……と、言おうとして、その言葉は喉の奥に詰まった。
「つまり、だ。
帝都に戻ったハルナ・シャレットが、君を避けよう、君から逃げようとしていたのは、君を恐れていたからじゃあない——かもしれない。
彼女は汚れてしまった自分を、君に見られたくないんだよ——多分。
ま、この仮説の辛いところは、クリアモン修道士が可能性を示唆したとおり『やっぱり強度の男性恐怖症でした』ってラインが十分に残ることなんだけどね。そもそも今のハルナ・シャレットが、本当に君のことを認識できてるのか、ってところもあるし。
だからこれは、僕が連日の捜査や交渉でひどく疲れていて、このワイン1杯で前後不覚に酔っ払った、その挙句のたわごとだと思ってもらっても構わない。むしろそれくらいの気持ちで聞いてもらったほうがいい、かな」
私は激しく混乱しながら、ほとんど機械的に手元のワインを飲んでいた。呆れたように、パウルが私のグラスにワインを注ぎ足す——今度は、それなりに控えめの量で。
「で、ここから先は仮定も仮定、それこそ懐かしのトロッコの話みたいな、屋上屋を架すがごとき推理なんだけどさ。
僕としては、ハルナ3級審問官が本当に男性恐怖症なのかどうかってところよりも、彼女が本当に男性恐怖症なんだと信じさせたがってる誰かがいる、ってところが、一番気になったんだよ。
その誰かは、診断書を改ざんしただけじゃなく、『ハルナ・シャレットは強い男性恐怖症を患っている』という風説を流布させることにも熱心だった。
僕らは彼女のことを君伝いに聞いているし、診断書も見てるから当然知ってるんだけど、よくよく考えてみればこんな醜聞、シャレット家としては何が何でも隠したいネタのはずだ——だって彼女を使って閨閥を拡大するにしても、男性恐怖症の娘をわが家の息子の嫁にもらいます、って人は滅多にいないだろうから。
だのに、ガルシア卿はハルナの症状のことを噂に聞いていたんだよねえ」
混乱する頭の中で、ゆっくりと1つの像が焦点を結んでいく。
確かに、パウルが言うことはひとつひとつ、もっともだ。ハルナがなぜ私を避けたのかは分からないが(パウルの仮説どおりの可能性もあるが、私を見るとサンサ教区での記憶がよみがえるからという、より妥当な可能性もある)、ハルナが「実際に避けた相手」が本当に男性全員なのか、それとも彼女の父親や兄弟、そして私だけなのか、確たる情報は存在しない。ハルナに仕えていた老侍女は「男性を恐れている」と私に言ったけれど、彼女だってハルナがシャレット家で働く男全員を恐れているかどうかのチェックなどしていまい。
もしかするとハルナは、特定の男性だけを避けようとしていたのかもしれない。そしてハルナの専属医たるクリアモン修道士の所見は、それを暗示しているようにも読める——だからこそ、パウルが指摘する誰かは、その所見を書き換えねばならなかった。
「と、なると、だ。
果たして誰が、なぜ、『ハルナ・シャレットは男性恐怖症である』という事実を捏造したのか——あるいは誇張して流布させたのかが、いよいよ気になる。
個人的な見解として言えば、『誰が』ってのは、ほぼほぼイッケルト大司祭で確定じゃないかな、とは思ってるよ。なにせハルナ・シャレットをスキャンダルの中心に据えたお話を帝都に流布させて、大異端ケイラスがジャービトン派の司祭だったことを大衆の目から隠そうとしたのは、イッケルト大司祭だからね。
イッケルト大司祭以外がハルナ男性恐怖症説の流布に尽力してるのであれば、縄張りを荒らされた彼は黙っちゃいないだろう。彼が予定していないお話が入り込んでくることは、彼にとっては絶対に許せないはずだ。
となると、問題は『なぜ』なんだ、が……」
パウルはそこまで語ると、またグラスからぐっとワインを飲んだ。どうやら彼の捜査(および推理)は、そこで行き詰ったらしい。
なるほど。それで、あの話と、この話が、こうやってつながるわけか。
私は内心でパウルの弟子の才能と深慮遠謀に舌をまきつつ、ここ最近調べを進めていた資料を懐から取り出した。
「パウル、これを見てくれ。なかなか面白い数字だ」
私が差し出した羊皮紙を一瞥したパウルは、口に含んでいたワインを吹き出しそうになった。それくらいには、なかなか刺激的な数字だ。
「見ての通り、これはフィーリア診療所の個室1日あたりの利用料だ。
最高の医師たちによって最高のケアがなされ、帝都最高級のホテルを越える手厚いもてなしが用意されているだけあって、私でも貯金と裏金の全部をぶち込んで、かろうじて3日間宿泊できるか、というレベルだな。
シャレット家がハルナにどれくらいの期間そこで治療を受けさせるかは分からんが、たとえ日帰りだったとしても、これはなかなか心臓に来る金額だ。
だが、教皇が祝福を授ける結婚式に、男性恐怖症のハルナを出席させるためには、適切な治療が絶対に必要になる——であるならば、シャレット家としてはこの金額を毎日払うしかなかろう」
パウルは手酌でワインをグラスに注ぎ足すと、一口含んでから、「ああ——なるほど、イッケルト大司祭らしいやり口だ」と呟いた。
「貴様の推理で正しかろう。
つまりイッケルト大司祭は、ハルナが男性恐怖症であるという事実を捏造し、その上で教皇が祝福を授ける結婚式を約束することで、シャレット家にこの大金を使わせることを強要した。
だが、この推理にはさらに先がある。特別行動班の隊員をシャレット家に張り付かせておいたのだが、この数日の間に御用商人がシャレット家に出入りした形跡はないそうだ。
つまりシャレット家は、このカネをすんなり手持ちのキャッシュで払ってみせたということになる。これは絶対にあり得ん話だ」
シャレット家の財政状況がかなりヤバイ状態にあるという情報は、ライザンドラ見習いがガルシア卿から(正確にはその奥方から)聞き出している。なんでも「女はそういうのに目ざといのよ」だ、そうだ。ガルシア卿も苦笑してそれを認めたというからには、かなり確度の高い情報だろう。
となると、イッケルト大司祭の策も見えてくる。私はグラスに残ったワインをぐっと飲み干すと、自分の推理を語った。
「イッケルト=クソジジイ=元1級審問官は、シャレット家から徹底的に吸い上げようとしている。ハルナの入院ひとつとっても、これだけでシャレット家を干上がらせることが可能だ。
だがシャレット家は、もう後には引けない。なにせ教皇まで動くのだから、いまさら『やっぱりこの策には乗れません、もう勘弁してください』と泣きわめいても、降りることはできん。
かくしてシャレット卿は、ジャービトン派に対し膨大な借金を重ね続けることになる。カネにとどまらず、恩義も、人脈も、果ては貴族としての名誉をも、ジャービトン派に負い続ける——それが、イッケルトの策略だろう。
それで何がしたいかまでは、分からんが」
私の結論を聞いて、パウルは薄く笑う。
「君の推理は、99点ってところかな。
減点1は、イッケルト大司祭の目的だけど——僕の見解を言うなら、彼はきっと、世界を救いたいんだよ。彼なりの方法で、ね。
今回の策がこのまま進めば、ジャービトン派はやがてシャレット家のすべてを握るだろう。そうしたら、ハルナ以外のシャレット家の娘さんと、ジャービトン派の男を結婚させて、そいつにシャレット家を継がせる。シャレット家でのたくってるクソどもには適宜隠居してもらい、ジャービトン派の余剰人員がシャレット家のあちこちに入っていく。
ほら、少なくともこれで、シャレット家は確実にいまよりずっとマシになる。確かにこんな荒業、審問会派には無理だね」
パウルの感想を聞いて、私は強くテーブルを叩く。
「人倫に反した方法で不正を糺したとしても、それはしょせん、不正に不正を重ねたに過ぎん! イッケルトのやり方は、まるで間違いだ。あいつが審問官だった時期があるというだけで、吐き気がする」
激発する私を見て、パウルは頼もしそうに笑った。まだともに見習いだった頃からの、変わらぬ役割分担——パウルが現実論を吐き、私が理想論でそれを叩く——だ。そうやって振り返ってみると、こうして20年近く一緒に仕事をし、ときに憎しみあったり、ときに嫌々ながら協力したりしながらも、私たちは良き友であり続けられたのだなと、改めて思う。
そんな私を見て、パウルは小賢しい笑みを浮かべた。
「ところでカナリス。君はずいぶん効率的な捜査をしてくれたけれど、本当にそれって君が考えたことなのか?
僕の目には、君の背後にライザンドラ見習いの助言——というか、命令が、ちらついて見えるんだけど?」
ええい、このコウモリ野郎め。そういうのを「余計な一言」というのだ。
だが彼の指摘通り、私がこの数日で為した捜査は、すべてライザンドラ見習いの提案に乗っただけのことだ。
腹いせに私はボトルに残っていた最後の一杯をグラスに注ぐと、パウルに獰猛な笑みを浮かべてみせた。
「貴様の弟子は、貴様よりも優秀だな、パウル。
審問会派の栄光ある未来に、乾杯だ」




