アルール歴2177年 6月1日(+15日)
――ザリナの場合――
けだるい体を起こし、ベッドサイドに置いた盃を手に取る。
中身に入っているのは、このあたりで手に入るうちじゃあ一番キツイ酒だ。とはいえ、あたしの生まれ故郷に比べると「食事前の一杯に女が嗜むのならいいかもね」程度の強さでしかない。
天を仰いで盃の中身をキュッと煽ると、酒精よりも先に甘みが口の中に充満した。まったくもって、女向けの酒だ。
そうやって酒を飲みながら、あたしはナオキのほうに目をやる。
彼はいつもどおり、少し開いた窓にもたれてタバコを吸っていた。ベッドからは、その表情を伺うことはできない。ただこれまたいつもと同じくズボンだけを穿いた姿で背中を丸めてタバコを吸うその姿は、どこにでもいそうな商人見習いとでもいったところか――いや、上半身(特に背中)にまるで筋肉がついていないあたり、どこぞの貧乏貴族のボンボンのほうが近いか。
あたしがナオキに雇われて、もうすぐ1年になろうとしている。
最初は賭場での護衛として日雇いで用心棒役をしていたが、最初は1晩だけだった契約は、次の月には1週間に伸び、その次の月には1ヶ月に伸びた。
で、3ヶ月ほど彼の用心棒として働いていたら、あるときちょっとばかりヤバイ状況に追い込まれて、あたしは彼を背負ってほとんど一晩、夜の街を逃げ続けることになった。
いやね、正直あのときにしたって、本気で殺し合いするっていうなら最後に立ってたのはあたしだったと確信してる。ただ雇い主たるナオキが「殺すな」と言うもんだから、逃げるしかなかった。
そうやって必死で走って、隠れて、また走って、隠れてを繰り返して、夜が明けるころには、さすがにあたしもへばりきってた。
そう。へばりきってたんだが――その、なんだ、「生き延びたな」「生き延びたね」みたいなことを話してるうちに、ムラムラっとしてきて、あたしはベッドの上にナオキを押し倒してた。
その次の月も、ナオキはあたしと用心棒の契約をした。で、「用心棒として雇うんだからな」「あたしもそのつもりだよ」みたいなことを話しながら飲んでるうちに、またなんとなく彼と寝てた。
そんな感じで、彼とは今もダラダラと関係が続いている。もちろん、用心棒としても契約は更新中だ。
だから――というのもなんだけど、そんな関係だから、タバコを吸い終わった彼があたしの隣に腰を下ろして、「本当はもっとマシなタイミングで言うつもりだったんだが」と言い出したとき、あたしは「まぁそうだよね」みたいな気持ちでそれを聞いていた。
「ザリナ。用心棒としての契約は、今月も更新したい。
だがお前と寝るのは、これを最後にしたいんだ」
そりゃね、あたしだってプロだ。依頼人と用心棒が男女の仲だってのは、はっきり言って褒められたことじゃあない。実際、彼が言い出さないんだったら、そろそろあたしから言わなきゃいけないな、とも思ってた。
でもね、彼から先に言われてしまうと、あたしもちょっとだけカチンと来た。
つうかさ、ヤるだけヤってから「最後にしよう」はないだろ、普通?
そういうのは、ヤる前に言わねえか?
――なーんてことを、この小悪党のクズ野郎に言っても仕方ない。
だからあたしは、別方向から彼の弱みをつつくことにした。
「だろうと思ったよ。噂は聞いてる。
賭博王ナオキが、〈緋色の煉獄〉亭から娘を一人、身請けしたってね。
なんだい、ついにあんたも所帯を持つ気になったかい?」
でもナオキは、ゆっくりと首を横に降る。
それから急に真面目な顔になって、あたしの膝に手を置いた。
「ザリナ。お前には何度も命を救われているし、俺はお前の能力を高く買ってる。だからできれば、これからもお前に用心棒を――いや、俺の剣にして盾であってほしいと思ってる」
彼の言葉を聞いて、あたしは思わず失笑してしまう。「剣にして盾」とはまた大げさな。所詮、用心棒は用心棒。騎士なんかとは、ワケが違う。
でも、彼の表情はまったくの本気だった。あたしはちょっと困惑して、ニヤニヤ笑いを引っ込める。
「だから俺は、お前には正直に話しておきたい。
これから俺は、大きな勝負に出る。
勝てば世界が手に入るが、負ければ命以上のものを失う」
勝てば世界! これはまた大きく出たものだ。
あたしは半分呆れながら、肝心なところを問いただす。
「勝算はあるのかい?」
あたしの問いを予想していたのか、彼は即答した
「ゼロじゃないさ」
あたしは大げさに嘆息してみせてから、空になっていた盃に酒を注ぎ直した。
酒瓶からふわりと、蜂蜜の香りが立ち上がる。
「〈緋色の煉獄〉亭の娘は、その大勝負の切り札ってとこかい?」
盃を一気に干してから、そこも問いただす。彼が何を企んでいるのか、この場で問いただすほど、あたしは素人じゃあない。でもプロの用心棒として、守るべき対象が増えるのかどうかだけは、聞かなきゃならない。
「その通りだ。だからこれから先、俺は新しい組織を作って、まずは傭兵を何人か雇う。お前はその部隊の隊長になってほしい。要はお前には用心棒じゃあなく、俺の私兵を率いる、指揮官を任せたい。
もちろん、給料は最低でも倍払う。特別な経費が必要になったら、相談してくれ。可能な限り、対応する。現場の采配に俺がいちいち細かく口を出すこともないと思ってほしい。
それから――むぐっ!?」
必死の表情で言葉を重ねるナオキの唇を、あたしは自分の唇で塞いだ。短く見積もって30秒、彼の唇と、呼吸を、奪い続ける。奇襲に屈した彼の肩をトンと右手で突くと、彼の上体はあっさりとベッドに倒れた。
「……だから、これは、そんな――」
なおも何かを言おうとする彼に、あたしはニンマリとした笑みを送る。
「面倒くさいことは抜きだ。受けるよ、その仕事。
あんたの剣と盾にはなれねえが、棍棒とナイフくらいにはなってやる。
ナオキ。信じろよ、あたしを。あたしがあんたに、世界を盗らせてやるよ」
彼は目を閉じ、口の中で何かをモゴモゴと言おうとして、それからふっと息を吐くと、「わかった」と頷いた。あたしはそんな彼のズボンのベルトに、手をかける。
けれど、いよいよあたしがナオキの上にのしかかろうとしたとき、彼はふと思い出したと言わんばかりに疑問を投げかけてきた。
「ひとつ、聞きたい。
お前は俺の、何を信じた?」
あたしはクツクツと笑う。
「あたしはね、人の匂いを嗅ぐのが得意なのさ。
今のあんたからは、目の前の大勝負にどうしようもなくビビってるくせに、内臓から筋肉から骨から脳みそから、全身の何もかもが沸き立つようにワクワクするのが止められない、そんな男の匂いがする。
小便とクソとゲロと臓物と血と汗の匂いが入り混じった、男の匂いがする。
だから――」
あたしは彼を物理的に支配しながら、その耳元で囁いた。
「あたしに、それを食わせろ」
ナオキは呆れたと言わんばかりの笑みを浮かべると、今度は彼のほうからあたしの唇を捉えにきた。
夜明けはまだまだ先で、ナオキの口からはまだほんの少しだけ、甘ったるいタバコの匂いがした。