アルール歴2182年 7月20日
——老マルタ特別顧問の場合——
執務室の扉が控えめにノックされたとき、儂はちょうどコーインの遺した最後の問答集を本棚の奥から引きずり出したところだった。ノックの音とほぼ時を同じくして、夜明けの鐘が帝都に鳴り響く。
おそらくは、ノックの主はユーリーン司祭であろう……そんな予想をしながら扉を開いたら、案の定そこにはユーリーン司祭がいた。背後にはライザンドラ見習いを伴っているが、名目上ユーリーン司祭は審問会派が勾留しているという立場なので、逃亡を防ぐ見張りは絶対に必要だ。馬鹿馬鹿しい形式主義ではあるが、こればかりは儂ですら「やむを得ない」と言うほかない。
「おはようございます、マルタ特別顧問。
早速ですがコーイン司祭の遺された本を拝見にあがりました……と、いうのは建前でして、ちょっとご相談したいことがあって伺いました。よろしければ僅かなりとお時間をいただければ、と」
儂は「おはよう、ユーリーン司祭。それからライザンドラ見習いも、おはよう」と挨拶を返してから、二人を執務室へと通す。
ユーリーン司祭は儂の仕事机の上に積み上げられた本にチラチラと視線を送りながらも昨晩と同じ椅子に着座し、ライザンドラ見習いはその背後に立った。
「こんな早朝からお部屋に押しかけてしまい、大変に申し訳ございません。
ですが至急の案件であること、昨晩そのご許可を頂いたこと、そしてライザンドラ見習い曰く、この時間には特別顧問はもう執務に就かれているということでしたので、無礼を承知で伺いました」
堅苦しいのだか堅苦しくないのだか判断に悩む状況説明を、儂は苦笑しながら聞く。そしてユーリーン司祭は骨の髄までボニサグス派なのだな、という思いを新たにする——「原因があるから結果がある」「ゆえにまずは原因を明らかにすべし」という考え方は、こんな場面でも彼女の言動の端々からにじみ出る。
「まずは、ご提案の概要を要約してお伝えします。
特別顧問以下、パウル1級審問官、カナリス2級審問官、ライザンドラ見習いによる現状のチームは、長期的な計画だけでなく、短期・中期における計画と優先順位付けも可及的速やかに行うべきであると考えます」
ほほう。
何をどう聞いても侮辱にしか聞こえない発言だが、ユーリーン司祭の表情はいつもどおり鉄のように固く、真剣で、どこまでも生真面目だ。少なくとも本人的にはこちらを侮辱する意図はない、ということだろう。ユーリーン司祭の背後でライザンドラ見習いが微妙な表情を浮かべているのも、つまりはそういうことと考えるべきだ——彼女は「もうちょっと言葉を選べませんか」とでも内心で思っているに違いない。
まぁ、仕方ない。彼女はボニサグス派なのだ。仕様と思って諦めるしかなかろう。
それより、今は彼女の真意を問うべきだろう。
「ふむ。その提案について、詳細を聞かせてもらえるだろうか?」
儂が先を促すと、ユーリーン司祭はメガネの位置を軽く直してから、解説を始めた。
「特別顧問を頂点とした現在のチームは、質においては帝都でも随一であると考えられます。しかし、量という点においては、決定的に手の数が足りません。特別行動班の一部を使えるのは事実ですが、彼らの影響力は物理的なものであり、今の政治的局面においてはあまり効果的とは言えません。
一方、今のチームが目指す目標は、極めて気宇壮大だと言わざるを得ません。自分たちが望む何者かを教皇の座に据えるというのは、帝都における政治工作のなかでもとびきりの難易度を誇る、競争者の多いチャレンジです。
それでいて、この巨大な目標と同時に、今のチームは『捜査の終了が世論のコンセンサスとなっているナオキの追跡・捕縛任務を、それに逆らって継続させる』という短期的な目標も有しています。
さらに、短期〜中期の目標として、『ハルナ3級審問官を保護し、もし彼女が内なる破滅衝動に屈しているなら、その衝動を解消させる』という目標も掲げています。
チームのクオリティ的に言えば、これら3つの目標は、すべて実現可能——長期的目標に関しては数学的に言えば可能程度かとは思いますが——可能な範囲にあると考えます。
ですが……」
なるほど。こうやって整理して指摘されてみると、ユーリーン司祭の指摘はまったくもって正しい。
我々は二兎を追うどころか三兎を追っており、どの兎も捕らえるとなると特級の難易度を持つというところには、反論の余地がない。
ユーリーン司祭が言わんとすることを理解した儂は、彼女の失礼な結論を引き取る。
「貴女の言いたいことは理解した。
いま掲げている目標に対し、我々のチームは質としては十分であっても、量としては不十分である、という指摘だな。
実に忌々しいが、その指摘は100%正しいと解答するほかないな」
まさにユーリーン司祭が語った通り、儂やカナリスを慕う特別行動班の隊員は多く、「忠誠を誓っている」というレベルの者も少なくない。
だが特別行動班は、教会の持つ暴力装置であるこの審問会派においてもなお突出するほど、完全に暴力に特化した部隊だ。朝から晩までトレーニング三昧で、休日も気を失うまで筋トレに励むのが趣味という、そういう連中でなくては特別行動班は務まらない。
それゆえ、現状の繊細な状況において彼らを活用するのは難しい。より融通のきかないカナリス——それが特別行動班なのだから。
と、なると、結局現状の我々が使える手は最大で5人、ユーリーン司祭とカナリスを除けば3人ということになる(ユーリーン司祭だって、軍師としてはともかく、政治工作の現場においてはカナリス並に役立たずだ)。
遺憾ではあるが、「やるべきことに対して手が足りていない」というユーリーン司祭の指摘は正しいと言うほかない。
儂の同意を得たところで、ユーリーン司祭は議論をさらに前に一歩進めた。
「ありがとうございます。
しかるに、以下は審問会派に対する内政干渉であると理解しつつも、それでも申し上げたいことなのですが、優先順位の策定にあたっては上から順に短期・中期・長期で並べるべきだと考えます。
また長期的目標においても、特定個人を教皇の座に送り込むのではなく、このチームの理想を実現可能な任意の個人を教皇の座に送り込む、と定義を変更すべきです。
つまり、要点だけを申し上げれば、ナオキ捕縛ミッションが継続できるのであるならば、ハルナ3級審問官を救うことも、私を教皇にすることも、一時的に棚上げすべきです。
また、仮に私が政治的ないし生物学的に危険な状況に陥ったときも、私個人を救出するのではなく、将来的により相応しい誰かを——具体的に言えばライザンドラ見習いを——教皇の座に送り込むための踏み台として、状況を活用すべきだと考えます」
なるほど……これはまた特大の「理屈では納得できるが感情が納得できない」案件だ。
儂とて、心の底から「ハルナ3級審問官に何が起ころうとも、もはや許容できる損害でしかない」とは思っていない。見習い時代の彼女に武芸を教えたこともあるし、それゆえ「あのときもっと実戦で活用できる技を教えておけば」という後悔だってある。孫弟子ではあるが、愛すべき弟子の一人であることに違いはないのだ。
同様に、ユーリーン司祭のこともまた、貴重な才能だと感じている。派閥こそ異なるが、この才能を守り、かつ、もっと磨きたいと思う。
だがそれらはすべて、感情が生み出す合理性でしかないのも、事実だ。
理性を使って考えれば、やはりハルナ3級審問官は「許容できる損害」でしかないし、むしろ彼女は潜在的な危険要素として把握すべきだ。
またユーリーン司祭が語ったとおり、我らが思い描く未来は、ライザンドラ見習いを教皇の座に送り込んだとしても、極めて近似した未来として実現されるだろう。それに、ユーリーン司祭級の異能がいまだどこかに眠っていないという保証もない。つまりユーリーン司祭は「代替可能な人材」と考えるのが、合理的だ。
しかし。
「——二兎を追えば、その両方を失う、か」
執務机の上に積み上げた、コーインの言葉を遺した問答集を見ながら、儂はそう呟く。
確かに儂は最終的に、家庭と仕事の両方を手にした。しかし、儂はこれまでずっと、「もし妻が若くして死ななかったとしたら、あの結婚生活を今でも維持できていただろうか」という問いを、自分に対して禁じてきた。それは儂にとって、究極のタブーとも言える疑念だったから。
そして、何もその疑念に踏み込むまでもなく、「二兎を得た」という儂の事例はたまたま上手くいったケースをことさらに強調しているに過ぎない。そして儂は、この偶然の成功を一般化して語れるほど、「なぜ自分は成功したのか」を追求もしてこなかった。
で、あるならば。
「ユーリーン司祭のご提案、しかと承った。
ライザンドラ見習い。すまぬが今日の昼食時に、みなをこの部屋に呼んでくれ。ユーリーン司祭の提案に則り、今後の方針を明確化しよう——具体的には、ユーリーン司祭の提案をほぼ全面的に採用するのだが。
ただ一点だけ、ハルナ3級審問官に関する調査については、優先度を上げる。彼女を中心として動いているふざけた陰謀は、短期的目標においても、長期的目標においても、その達成に大きな影響を与え得る。
それに、な——」
儂は少し渋い顔をしながら、今はなき盟友の稚気に満ちた笑顔を思い出す。
「コーインはよく言っておったよ。
『単純な事件ほど、その真相は見抜きにくい。例えば奥さんが旦那を刺し殺したなんていう事件は、一見すればドロドロした痴情のもつれだが、実は旦那と奥さんが心中しようとして旦那だけしくじった的な純愛展開だったということもあり得る——という体裁をとりつつ、旦那が持ってた刃物は玩具にすり替えられていて、実はこれは計画的な殺人でしたなんてこともまた、あり得る。
でも奇っ怪な事件であればあるほど、その背後に隠れた事実は単純だ。奥さんが旦那を刺し殺してからバラバラに解体して豚の餌に混ぜ込みましたみたいな事件のほうが、よっぽど解き明かしやすい』、とな。
ハルナ3級審問官を巡る策謀は、いまの帝都において最も醜悪な事件だ。それゆえ、その背後を解き明かし、真実を明らかにするのも、最も容易であろう。そしてそこで渦巻く汚い工作の尻尾をつかめば、審問会派をあげてナオキを追討するという目標も実現はより容易になる。
——ついでに言えば、この方針であればカナリスも、やる気を全開にして働くであろうし、な」




