アルール歴2182年 7月19日(+5秒)
——パウル1級審問官の場合——
その場の勢いでライザンドラ見習いに告白めいたことをしてみたり、それを華麗にスルーされてみたり、あるいは夜間行軍演習の集合時刻まであと2時間くらいだよなというあたりを心配したりしていると、ライザンドラ見習いが爆弾めいた疑念を提示し、執務室に漂っていた穏やかな空気は一瞬で吹き飛んだ。
老マルタは改めて厳しい表情に戻り、僕とユーリーン司祭もライザンドラ見習いの発言の真意が見えずに困惑した表情。
でもそんななか、ライザンドラ見習いは悠揚と指摘を続けた。
「私はかつて、ハルナ3級審問官と個人的なお喋りをしたことがあります。文字通りお喋りとしか言いようのない、他愛もない雑談です。
ですがその雑談のなかで、私は彼女から、こう聞かれました。
『ライザンドラさんは今でも、死にたいと思うことがありますか?
何もかもを無茶苦茶にして、終わりにしてしまいたいと思うことがありますか?』
私は『それに対してはいと答えることはあり得ない』という当たり障りのない解答をしましたが、同時にこの問いは、彼女の内側で長年に渡ってわだかまっている問いなのかもしれない、と感じたのです」
——なるほど。
ハルナ3級審問官は見習い時代から殊更に明るく、ときに道化じみていると感じるほどはっちゃけた言動が多かった。
そしてこの傾向に対し、中央神学校審問院の学長からは、「彼女には強い破滅願望があり、かつ、その破滅を何としても避けたいという健全な欲求があって、その2つが彼女の内部で激しい葛藤を起こしている。彼女の特徴的な言動は、その葛藤を外に漏らさないための、本能的なカモフラージュと考えられる」というレポートが上がってもいた。
ライザンドラ見習いもまた、ハルナ3級審問官のあの大げさなまでに明朗快活な言動に対し、同じことを感じていたというわけだ。
「それで、私は小細工を弄することなく、正面からその問いを彼女にぶつけてみることにしました。
結果、彼女は自分がシャレット家のために名誉の死を遂げんとして審問官になったこと、それでも死にたくないと強く願っていることを、語ってくれました。
そして、ユーリーン司祭やコーイン司祭、あるいは私のような人間が帝都から追い出されたり排斥されたりする世情を批判しました。
『教会と帝国は、自分たち自身の手で、問題解決能力を積極的に損なっている。
そんなおかしな世界で、私はおかしな人間として、自分の死に場所を探すしかない。
これって、私がおかしいからですか?
それとも、世界がおかしいからなんですか!?』
深夜でしたから大声ではありませんでしたが、その言葉は間違いなく、彼女の悲鳴だと感じました」
……なんてことだ。
僕は——そしておそらくはカナリスですら——彼女がここまでの闇を心の奥底に抱えていただなんて、気づかなかった。
けれど、いまのこの世界が彼女にとって地獄であっただろうというのは、僕にも想像できる。
老マルタが語ったように、僕もまた若い(正確に言えば幼い)頃には世界のすべてが愚かに見えたし、誰も彼もがろくに勉強せず適当なことを語っているようにも思えた。本当に彼らが不勉強なのかどうか、確認しようとすることもなく。
しょせんはギリギリ秀才程度でしかない僕ですら、その程度の疎外感と不適合感は感じていたのだ。
本物の天才であるハルナ3級審問官が感じていた孤独と焦燥は、いかほどのものであったのか。
そして、もしかしたらハルナ3級審問官すら上回るかもしれない天与の才を抱え込んだライザンドラ見習いが胸に秘める思いは、いかほどのものであるのか。
彼女らが閉じ込められている圧倒的な孤独という牢獄を思うと、身震いしかできない。
「それからハルナ3級審問官は、改めて私が発した『あなたは世界を壊したいのですか?』という問いにも、答えてくれました。
要約すれば、答えはノーでした。
『壊せるものなら壊したいという気持ちは、あります。
でもたぶん、私には無理です。私だって伊達に神童と呼ばれちゃいません。自分の限界だって、薄ぼんやりとわかってます。
私には、世界は壊せない。
だって私は、それでもやっぱり、家族のみんなを愛しているから。
あの人達は、いまのおかしな世界が壊れたら、無残に死ぬしかないから。
その思いが私の中にある以上、私は世界を壊す最後の最後で、やっぱり壊さないことを選ぶと思います。
そこが、私の果てなんです』
そう語った彼女は、さらに発言を続けようとしましたが、私はそれを遮りました。もうそろそろ、誰かに漏れ聞かれたときに、言い訳ができない領域に入ったと感じたからです。また、彼女が私に対して『もしあなたが世界を壊してくれるなら、私はあなたを手助けしてしまうと思います』と言い出そうとしていたのも、手に取るようにわかりましたから。
いずれにしても、これは彼女の、真実の言葉であったと考えます。この告白の間、彼女はずっと泣いていました」
もう、この執務室にいる人間はみな、ライザンドラ見習いが何を懸念しているのか、理解していた。僕はひりつく喉をシードルで潤し、ユーリーン司祭は険しい顔のまま腕組みし、師匠は異端者と相対したかのような目になっている。
そんななかを、ライザンドラ見習いの柔らかで理知的な声が、駆け抜けていく。
「以上が、私がハルナ3級審問官が危険だ、と主張する根拠です。
彼女は、紛れもない、天才です。
彼女が『自分には世界を壊せない』と語ったのは、それが達成不可能だからではなく、それを達成してしまうと家族が死ぬからでした。
つまり彼女には、最低でも名門シャレット家が崩壊する程度には世界が混乱する、そのための具体的な道筋が見えているのです。しかもその道筋は、彼女個人の力で実行可能なのだと考えるべきです。
そしていま、彼女が『世界を壊さない』理由はなくなったと思われます。
彼女は、自分が家族を愛するほどに、家族が自分を愛してはいない——それどころか家族にとって自分は災厄であることを、自覚していました。でも、ただ遠ざけられるのを通り越し、己の尊厳すべてを踏みにじられたとなれば、もう彼女を止める倫理的規範は存在しないと思われます。
つまり——彼女は遠からず、世界を壊します」
しばらくの間、重たい沈黙が落ちた。
確かに、ライザンドラ見習いの懸念は、至急検討すべき懸念だ。
けれど彼女の説にはいくつか、致命的な穴があるとも思った。
と、まずは、といった風情で、師匠が口火を切った。
「報告ご苦労、ライザンドラ見習い。実に重要な情報が多数含まれる報告であったと言える。
だが2つ、言わねばならぬことがあるな。
まず1つめ。儂を試すようなことを、するな。
ハルナ3級審問官が遠からず世界を壊す可能性があるという、それだけの理由で、彼女を審問会派から追放することなどあり得ぬ。審問会派はときに非情な組織だが、けして薄情ではないし、薄情であってはならん。
もしこの件でハルナ3級審問官を審問会派から追放することがあるとすれば、彼女が世界を壊してから、だ」
老マルタの指摘に、ライザンドラ見習いは深く恥じ入ったような表情を浮かべ、慌てて頭を下げた。そんな彼女に、老マルタは厳しい言葉をかける。
「……してみると、貴様は儂を試したわけではない、か。
ならば、もっと悪い。これほどまでに明晰な頭脳を持った貴様が、こんな基礎的なところで躓くとは。
よいか、ライザンドラ見習い。災厄が迫るとき、頭を低くし、体を小さく丸めて、災厄の通過を待ったところで、何の意味もないのだ。
嘘だと思うなら、窓外を見よ」
そういって、師匠は薄墨色に染まった窓の外を指差した。師匠が指し示す先には、暗闇に飲み込まれつつある尖塔が見える。
「今の教会も、帝国も、あの尖塔の最上部にしつらえられた望楼が世界のすべてだと信じ、そのわずかな隙間を奪い合うような愚行を繰り返している。
だが、かの望楼が大きく揺れたとき、なすべきことは何だ? 頭を低くし、体を小さく丸めたところで、尖塔が崩れんとする事態にあって、それが何の役に立とうか!
今宵の教示その4となるな、ライザンドラ見習いよ。
こちらに飛んでくる矢羽の音が聞こえたら、最も賢いのは遮蔽を取ることだ。だが遮蔽が見つからないなら、その場にしゃがみ込んだところで、遅かれ早かれ死ぬ。姿の見えぬ射手に背を向けて逃げても、やはり死ぬ。
一番生き残る可能性が高いのは、腹の底から大声を出して、矢が飛んできたと思しき方向に向かって走ることだ。それでも死ぬことはあるが、そのときは運がなかったと思って諦めよ。
繰り返すぞ。その場に踏みとどまるために遮蔽を探すのは構わん。むしろ決死の覚悟で探せ。だが初手から逃げ道を探そうとしてはならん。どんなときであっても、己を殺そうとするものを、最高の効率で殺す方法を考えよ。それが審問官という生き方だ」
確かに、ライザンドラ見習いは類稀な闘争心を持ちながらも、いざ実際に困難と対峙するという段階になると微妙に腰が引けたり、より理知的な(理知的に見える)選択肢を選ぼうとする傾向は、これまでも見て取れた。
とはいえこれはごく普通の反応で、特別な訓練を受けていない(あるいは喧嘩慣れするような環境で生きてこなかった)人間にとって、それはそんなものだとしか言いようがない。
けれど彼女が老マルタの示す喧嘩の基礎を体得すれば、彼女はキレッキレの審問官へと成長するだろう……というか、あの闘争心と喧嘩のノウハウがセットになったら、彼女を言い負かせる相手なんて地上からいなくなるんじゃないだろうか?
「さて。説教はここまでにしよう。ここから先は、儂の反論だ。
ハルナ3級審問官が世界を壊すだけの力を持っているという主張は、納得できる。だがそれは、今の彼女にも可能なのか?
彼女の専属医となっているクリアモンの修道士が書く所見は、儂も日々確認しておる。これを踏まえる限り、彼女の知性はほぼ幼児段階にまで退行しており、薬物の過剰摂取による後遺症によって身体機能も大幅に低下していると判断するほかない。
つまり今の彼女は、体のサイズが大きいだけの、幼児だ。そんなハルナ3級審問官に、世界を壊すことが可能なのか?
そしてまた、それが可能だとして、どのようにして世界を壊す?」
老マルタが示した反論は、僕の目からは、完璧な反論に見えた。事実上の幼女にまで退行したハルナ3級審問官が世界を壊せるなら、そこらの幼女にだってうっかり世界を壊せてしまうということになる。いくらなんでもそれは非現実的だ。
でもライザンドラ見習いは、いたって平静な表情のまま再反論を開始した。
「最初に申し上げるべきは、これは理論上の可能性でしかない、ということです。
その上で、まずハルナ3級審問官の現在の病状ですが、報告書通りではない可能性があります。
これは私がダーヴの街の特殊な娼館で働いていたころの体験なのですが、同僚の女性に一人、夜になると幼児退行する人がいました。彼女いわく『自分は心の病気らしくて、夜になると別の自分が出てくる』のだそうです。
このように一人の人間の内部に複数の人格が発生するというケースは、これまでもいくつか報告があります。具体的に言えば、拷問された異端者のケースです。
想像を絶する激痛と絶望のなかで異端者はときに本来の自分を心の奥底へと避難させ、いま自分に起きていることは誰か別の人間に対して起こっていることだと納得する。そして、これによって自分の正気を保とうとする。
実を言うと、ダーヴ時代の同僚は、幼いころから家族に性的虐待を受けていたということです。つまり彼女もまた、己の正気を守るために、架空の誰かを作り出した可能性があります」
う、うーん。そりゃまあ僕もそういうケースは知ってるし、可能性としてはあり得るとも思う。ハルナ3級審問官がそういう症状を引き起こすにぴったりの状況にかつてあり、今もあるというのは、間違いないのだから。
でも「なるほど、ならば即対策だ!」と賛同するには、根拠としてあまりに弱い。
「また、ハルナ3級審問官がどのようにすれば世界を壊せると考えているのかは、選択肢の幅が広すぎて、特定が不可能困難です。
ただ、これはカナリス2級審問官が示唆してくださった可能性ですが、例えばハルナ3級審問官が教皇を暗殺すれば、少なくともシャレット家にとっての世界は終わると断言できます。
とはいえ、10年、20年とかかる、長期的な計画である可能性も否定はできません。それを危惧しましたので、結婚式が終わった段階で可及的速やかにオルセン家が——いえ、私がハルナ3級審問官を保護できるよう、手立てを打ったつもりではあるのですが……」
う、う、うーん。教皇暗殺、ねえ……そりゃまあ、理論上はあり得るけど……。
「最後になりますが、ナオキの動向も懸念材料です。
ナオキは真剣に『神を殺す』ことを目論んでいます。ハルナ3級審問官が具体的に何を狙っているかはともかく、『世界を壊す』という点で2人の目的が一致している以上、誰にとっても完全に想定外の相互作用が発生する可能性は捨てきれません。
実のところ、私が最も懸念しているのは、これです。
ナオキという規格外の異能と、ハルナ3級審問官という壊れた天才が、おそらくは近似するゴールを、もしかしたら同じ場所で目指している。たとえ危機が理論上のレベルであったとしても、警戒するに値する状況であると、強く主張します」
う、う、う、うーん。さすがにそれは「幽霊に見える枯れすすき恐怖症」ではないかなあ。
そもそもこの主張には、大前提としてハルナ3級審問官はスイッチを入れると完全復活するという、わりと無理筋な仮定がある。そこがあやふやなまま議論を進めても、あまり建設的な方向には向かわないだろう。
……と、思っていたら、まさにその通りのことをユーリーン司祭が口にした。
「私としては、原則的にライザンドラ見習いの説を支持します。
ただしこの説の何もかもは、ハルナ3級審問官は佯狂である、という大前提に立っています。それゆえに、本当に彼女は佯狂なのか、というのが最大の論点にならざるを得ません。
加えて、本当に佯狂であるなら、なぜ審問会派に正式な救援要請をしないのか、という疑問も残ります。カナリス2級審問官が定期的に彼女のもとを訪問しているのですから、その場で自分の窮状を訴えればよい——それが不可能なら、なんらかの手段で自分の現状を審問会派に伝えればよいのに、現実にはそういった兆候はありません。
ゆえに、現状ではハルナ佯狂説は、ハルナ3級審問官は審問会派に対して強い敵意を抱いているのではないか、という仮定を伴わざる得なくなります。つまり彼女はいまや、審問会派もろとも世界を壊してやろうと企んでいる、という仮定です。
とはいえ、これらの難点を認めた上で、私はライザンドラ見習いの危惧に一定の正当性を感じます。それを危惧すべきほどに、ハルナ3級審問官の才能は本物だからです。
ですので、私としてはまず、ハルナ3級審問官の正確な容態測定を提案します。
その結果を見てからでも、具体的な対策を進めるのは遅くはないかと」
実に理路整然としたユーリーン司祭らしい見解に、ライザンドラ見習いも「その通りです」以上の反論はできなかった。とはいえ、ハルナ3級審問官の正確な現状を把握しておくのは、けして無益なことではないだろう。ただ、シャレット家はハルナの健康診断を、全力で妨害するだろうが……
シャレット卿との陰鬱な交渉の予感に僕がややうんざりしていると、師匠がおもむろに口を開き——そしてそこで語られた言葉に、僕らは沈黙するほかなかった。
「儂も、ライザンドラ見習いの危惧を支持する。
これはまだ教会のごく内々にしか回っておらん情報だが、シャレット卿はスタヴロス・オルセンとハルナ・シャレットの結婚式における祝福を、教皇に授けてもらえるよう手回ししている。
実際、シャレット家とオルセン家の結婚式ともなれば、教皇が祝福するに相応しい家格でもあるから、ジャービトン派はむしろ喜び勇んでシャレット卿の後押しをしておるよ。ほぼ疑いなく、かの結婚式には、教皇が来るだろう」
……なんてことだ。
別段、それぞれの可能性や疑念が一本の線に収まったわけでは、ない。
けれど相互に無関係だと言い張るには、いくらなんでもこの状況は気持ち悪い。
「やむを得んな。貴様らは各人、まずは現状の究明を進めよ。
最優先は、ハルナ3級審問官の正確な容態の測定だ。シャレット家の強固な抵抗が予想されるゆえ、場合によっては儂の名前を使ってでも、横車を押し通せ。
それに、ハルナ3級審問官が男性恐怖症を患っているというのに、なぜ男の教皇が新郎新婦を祝福する結婚式を挙式できると考えたのかも、探りを入れよ。存外、こちら方面から攻めたほうが簡単に状況を変えられる可能性もある。
それからユーリーン司祭は、少しでも気になったことがあれば、いかなる時刻、いかなる状況であっても、儂にそのことを直接伝えてほしい。深夜、寝入りばなに何か思いついたとしても、夜明けを待つ必要はない。
ただし、忘れるなよパウル——それからライザンドラも——貴様らはこの一件が落ち着き次第、指定通りに夜間行軍演習に参加してもらうからな!」




