アルール歴2182年 7月19日(+8秒)
——ライザンドラ審問会派見習いの場合——
「師匠——なぜ……なぜ、今なのです……!
気づいて……気づいていたのなら——なぜ、もっと……もっと早く——!」
カナリス2級審問官の声は、細かく震えていた。もしこの世に静かなる慟哭なるものがあり得るとしたら、これ以上に相応しいものはないだろう。
けれど老マルタは、そんな彼に厳しい声をかけた。
「痴れ者めが! この推測を知れば貴様がそのように取り乱し、正常な判断力を失うと確信すればこそ、ライザンドラ見習いが口を閉ざしたことに、なぜ気づかぬ! せめて弟子の前では師匠らしく、堂々とせんか!
それでもなお、心の昂りが抑えられぬというならば、教えてやろう。
審問官とは、審問会派とは、そのようなものだからだ!
我らは異端に対する防壁にして、異端を駆り出す猟犬として、その心身を神に捧げると誓った聖なる戦士であろう。しかるに異端との戦いの果てで何が起こり得るかは、貴様もよく知っているはずだ。
そのような不運に巡り合わせた審問官の余生を、審問会派は可能な限りバックアップする。だがそれが安楽な余生を保証するものではなく、あくまで後列の戦士としての待遇であることを、忘れたとは言わせぬ。
目を潰され、耳をえぐられ、舌を引き抜かれ、皮膚を焼かれ、両の手足を千切られてなお生き延びてしまった審問官であったとしても、審問官はその生命ある限り、審問会派の審問官だ。ゆえに我らはその不幸なる戦士に対し、最後まで戦士であることを求める!
ハルナ3級審問官もまた、その例外ではない。薬物により心身を壊され、穢されたとしてもなお、彼女は審問官だ。それゆえ彼女は、己の窮地において、まず何よりも己自身の手で己を救わねばならぬ。それができぬなら、死ぬしかない。いかに残酷に思えようとも、それが我ら審問会派ではないか!」
老マルタの言葉は苛烈ではあったが、真実でもあった。
要するに今のハルナ3級審問官に何が起ころうとも、審問会派の理論に則って言えば、それは「許容できる損害」でしかないのだ。
残酷な見解であるのは、私も理解している。けれど異端がどこに潜んでいるか分からない以上、審問官は文字通り常在戦場であらねばならない。そしてこの戦場において、身動きできなくなった負傷兵を救護する優先度は、けして高くはない。
そしてこんなことは、私よりもカナリス2級審問官のほうが、よほどよく知っている。むしろ今の審問会派において、彼以上にこのことを骨身に染みて知り抜いている人物はいないはずだ。
それでもなお、カナリス2級審問官は、己を納得させることができないようだった。
そんな彼に対し、老マルタはさらに厳しい言葉を与える。
「ハルナ3級審問官を窮地から救出するとして、その救出コストにみあった成果はあるのか?
狂女一人に平穏な暮らしを取り戻してやったとして、それによって審問会派にはどのようなメリットがある? 異端者どもに対し、どのような攻撃となる?
あるいは衆生を異端から守るにあたり、どのような意味を持つ?
答えよ、カナリス! 儂を説得してみせよ!」
残酷なまでの正論に追い詰められたカナリス2級審問官は、絶望と怒りと苦悩をごちゃ混ぜにした表情を浮かべたまま、かろうじて「わかりません」と呻くと、私たちに背を向け、執務室を出ようとした。
その背中に、老マルタが声をかける。
「カナリス。まだ説教は終わっておらんぞ。
どこに逃げるつもりだ?」
カナリス2級審問官は振り返ることもなく、こう答えた。
「少し——頭を冷やしてきます。
貴重なご教示は、その後で、また」
そうして彼は扉を開けると、執務室を去った。残されたのは、「あやつはガキか」と呟く呆れ顔の老マルタと、いたたまれない気持ちで一杯の私達3人だけ。
何とも言えない空気を最初に破ったのは、ユーリーン司祭だった。
「あの——ええと。さすがに私でも……と言いますか、私が気づくのだから分かってない人なんていないと思うのですが、カナリス2級審問官は、ハルナ3級審問官に恋してらっしゃいますよね? 同じことはハルナ3級審問官にも言えたと思います。いわゆる、相思相愛であった、と。それも、かなり熱烈な。
旅の特捜審問官とその助手が深い仲というのは、確かにあまり良くないことだとは思います。任務の途中で妊娠などということになったら、不祥事では済みませんし。職業倫理的にも、疑問は残ります。
とはいえ今の老マルタの仰られようは、さすがに厳しすぎるのではないか、と——」
この実にまっとう極まりない指摘に対し、老マルタとパウル1級審問官は同時に天を仰いだ。私も思わず、天を仰ぎそうになる。
でもそれをするとユーリーン司祭を戸惑わせてしまうので、ぐっとこらえて、私は短い解説をすることにした。
「ユーリーン司祭のお言葉はごもっともなのですが、カナリス2級審問官はほぼ疑いなく、ご自分の気持ちに気づいていません。
ついでにこれは私見ですが、ハルナ3級審問官もご自分の気持ちに気づいていなかったと思います。おそらく彼女は、現実には得られなかった『尊敬できる父』の姿を、カナリス2級審問官に対して見ていたのではないか、と。無論その内実は、まごうことなき乙女の恋心ですが。
ですので、お二人の間に肉体関係はなかったと思われます。実際、サンサ教区でハルナ3級審問官と何度か話をするうち、彼女が乙女であるのはほぼ疑いないな、とも感じましたし」
私の説明を聞いて、ユーリーン司祭はぽつりと「私は常々、『人間の心が分からない』ということを気に病んできたのですが、特定領域に限れば私以下の人もいるんですね」と呟く。それを聞いた老マルタは、たまらず吹き出した。
「これは手痛いご指摘だな、ユーリーン司祭よ! だがこればかりは儂も、弟子を育て損なったと認めざるを得ぬ。
——やれやれ、シラフで話すのはしんどい話になってきたな。ライザンドラ見習いよ、そこのキャビネットにシードルが入っておる。適当にグラスを見繕って、皆に振る舞ってくれまいか」
老マルタの指示に従い、私はキャビネットからシードルの瓶を取り出し(スヴェンツ産の高級品だ)、ミニキッチンでグラスを4つ選ぶと、執務室の中央に置かれたテーブルの上に並べた。グラスにシードルを注ぐと、華やかな林檎の香りが立ち上がる。
「さて——神の栄光と、地上の繁栄に、乾杯といこう」
老マルタの声にあわせて、私達も短く祈りを捧げ、シードルを口に含む。香りを裏切らぬ、上品な甘みと酸味があいまった絶妙の熟成具合だ。
皆で酒盃を傾けていると、ぽつり、ぽつりと、老マルタが語り始めた。
「厳しすぎる、か。そうだな。そうかもしれん。
だが審問官とは、厳しい仕事だ。
かつ、愛されるよりは、憎まれることのほうが多い仕事でもある。
魂を賭ける危険多くして、報われることの少ない、実に割に合わぬ派閥よ」
それを聞いたユーリーン司祭は、真面目な顔で「私もかつては審問会派を恐れ、皆様のつかの間の休息を奢侈だと批判していました。ですがこうして間近で皆様の任務を目にしてきた今では、審問会派の皆様のことを心から尊敬しております」と宣言した。それを聞いて、老マルタの厳しい顔が、少し和らぐ。
「そう言ってもらえると、嬉しいものだ。存外、我らが危険な最前線で踏ん張れるのは、そういったちょっとした敬意や謝意の記憶があればこそ、でもある。
ま、審問官になどなろうという者は、そういう、ちょっとおだてられれば気を良くする程度の、単純な頭をした馬鹿者が多いということよな。
だがそれだけに——時折、カナリスのような特大級の馬鹿を排出してしまうというのは、実になんともはや、だ。
ん? おいパウル、なぜそこで頷く! 儂はいま『カナリスのような』と言っただろうが。ようなには、貴様も含まれておるわ、この馬鹿者が」
鋭い一撃を食らったパウル1級審問官は「うへ」と呟いて顔をしかめ、ユーリーン司祭と私はそのやりとりに思わず笑ってしまっていた。言葉こそ厳しいが老マルタは弟子たちを深く案じているし、弟子たちもまた師匠を心から尊敬しているのが分かる。
「……少し、昔話をしよう。
儂がまだ若い頃——そうだな、今のライザンドラ見習い程度であったか——儂は審問会派期待の若手として、有り体にいえば自惚れておった。敵も味方も、誰も彼もが、儂の目には愚か者に見えた。
だがそんなとき、考えを改めさせられる人物に出会った。ハルナの祖父、コーイン・シャレットだ」
コーイン司祭の名前は、私も聞いたことがある。彼が残した様々な問答集は、言葉遣いが平易なこともあって、今も庶民の間で人気だ。
「コーインは、天才だったよ。おそろしく頭が切れた。
儂はしばしば『暴力の詰将棋』と陰口を叩かれたが、コーインは堂々と『安楽椅子審問官』と罵られた。あやつはけして現場に出ず、それでいて、普通なら10年かかりかねない難問を1ヶ月ほどで解決してしまうのだ。
最初、儂は奴を軽蔑した。耐久走をすれば見習いより先に脱落し、武器の扱いは下の下、それどころか『異端者を自分の手で殺すと考えただけで吐き気がする』とまで言い放つ、軟弱者だったからな。
だが、やがて儂は奴に対抗意識を燃やすようになった。儂では手に負えなくなりつつあった事件を、あやつは執務室から一歩も出ずに、収まるところに収めてみせたのだ。今思い出しても腹立たしい一件であったよ!
そしていつしか儂は、奴に嫉妬していた。あやつの柔軟な発想、独創的な視点、深遠なる知識と、穏やかな知性、そのすべてに嫉妬した。
けれど、一緒に事案を担当するようになると、いつしかあやつのことを心の底から信頼するようになっていた。奴が後ろを守ってくれているなら、地の果てまで異端を追っても足元を掬われることはないという安心感は、それまで感じたことがないものだった——そうだな、ここに至ってようやく儂は、『人は一人では生きていけない』ことを思い知ったというわけだ」
……「暴力の詰将棋」というあだ名を帯びた若き日の老マルタと、「安楽椅子審問官」と呼ばれたコーイン司祭。なるほど、審問会派の歴史に残る活躍をするに相応しいコンビだ。
「そんなある日、儂は大きな岐路に立った。
過ぎ越しのミサでたまたま隣の席に座った女性に、一目惚れしたのだ。
ええい、そう大仰に驚くな、パウル! 儂にだってそういう時代はあった」
いやいや、パウル1級審問官でなくとも驚きます……。
「儂は無い知恵絞って彼女にアプローチし、幾度か無様な失敗をしながらも、次第に彼女との関係を深めていった。それはもう、必死だったさ! 夜間行軍訓練の帰路、早朝のカフェで偶然にも彼女と会うべく、規定の1.5倍の速度で行軍したこともある。我ながら、よく死ななかったものだと感心する。
だが——関係の親密さが増していくにつれて、実に月並みな問題にぶつかった。仕事か、パートナーかという、恋する仕事人間なら誰もが遭遇する問題だ。
言うまでもなく、審問官はけして安定した勤務時間の仕事ではない。危険には事欠かず、急な出動も頻繁にある。そしていったん地方に出れば、1年以上帝都に帰らぬことも珍しくない。恋を育むには、最悪の仕事と言えよう」
遠い日のことを思い出しているのか、老マルタはゆったりと酒盃を傾けた。
「容易に想像できようが、若き日の儂は極度の完璧症で、自信過剰な人間だった。
それゆえ、自分ならばこの一世一代の恋と、審問官という仕事を、両立できると考えた。
だが結論から言えば、その試みは瞬く間に破綻した。睡眠時間を削るしかなくなった儂は仕事で細かいミスを連発するようになり、あわやコーインですらカバーしきれないような致命的な失敗をしでかす寸前まで行った——この眉間の傷は、そのときの名残りだ」
思いがけない老マルタの一面を聞いたパウル1級審問官は、前のめりになって話に集中している。ユーリーン司祭も興味津々といった様子だ。もちろん、私もこの話がどこに向かうのか、集中して耳をそばだてる。
「病院のベッドで意識を取り戻した儂に向かって、コーインは言ったよ。
『二兎追うものは一兎をも得ず、と言う。審問官としての己か、それとも恋する男としての己か——君はそのどちらを追うのか、決めたほうがいい。さもなくば、両方を失うぞ』とな」
そこまで語って、老マルタは再び酒盃を煽った。パウル1級審問官が空になったグラスに新たな一杯を注ぎながら、「師匠はどちらを選んだのですか?」と尋ねる。
答えがわかりきった問いでも、ときに問わねばならぬことはある——これはまさに、そういう問いだった。老マルタは苦笑すると酒盃を傾け、再び語り始めた。
「審問官の道を取ったさ。
彼女とは、時間をかけて話し合った。両立する道はないものかと、互いに知恵を絞りあった。けれど彼女には彼女で家の事情があり、儂は儂で審問官という仕事を辞めることなどできなかった。
ゆえに、まずは今宵の教示、その1と2だ。
その1。審問官という人生と、まっとうかつ幸福な人生は、普通は両立せん。貴様らがまことの恋を選ぶのであれば、審問官を辞めよ。さもなくば、二兎を失うことになるだろう。
それから、その2だ。審問官と、まことの恋が両立しないからといって、そこで必ずまことの恋を捨ててしまうべきだと断定できるほど、恋する心は軽んじ得るものではない。
コーインの語りて曰く、審問官としての道も、恋する男としての道も、人として能う限りの情熱を燃やす道である、という。自分が惚れた相手を幸せにし、己も幸せになり、生涯の伴侶と見定めた相手と添い遂げることは、審問官としてひたすら異端と戦い抜く人生に比べ、なんら劣る生き様ではない」
一息ついた老マルタが、再び酒盃を傾ける。そこに、ユーリーン司祭が言葉を挟んだ。
「理解しました。だから老マルタはカナリス2級審問官をあれほどまでに強く叱責したのですね。
彼はもっと早く、きちんと自らの恋心と向かい合い、決断しておくべきだった、と」
ユーリーン司祭の指摘に、老マルタは深々と頷いた。
「その通りだ。あの阿呆には、いくらでもチャンスがあった。
そして今なお、まだまだチャンスはある。審問官などという肩書を投げ捨て、一人の男としてシャレット家に乗り込み、ハルナと駆け落ちすればいいのだ。その程度の暴力が駆使できぬ男ではあるまい!
そして仮にあやつがそういう選択をしたとして、そんなカナリスとハルナの人生を、誰が笑おう? 誰に否定できよう?」
老マルタの情熱的な見解を聞いたパウル1級審問官は、小さく呻くと、一息に手元の酒盃を呷った。
「ご指摘のとおりです。まったくもって、ご指摘のとおりです。
そしてまた、僕も愚かでした。『ハルナを見つけたら殺せ』という賢しげな忠告では、彼の心に届くはずがなかった。彼の長年の友として、『お前はハルナの恋人であろうとするのか、それとも特捜審問官であろうとするのか』という踏み込んだ問いから、僕は逃げるべきではなかった」
そう自嘲気味に語るパウル1級審問官の姿は、やけに小さく見えた。
そしてそんな弟子に対し、老マルタは厳しい言葉をかける。
「手遅れになってから『こうすればよかった』と言い出すのは、幼年学校の頃からの貴様の得意技よな。
だが、それを気に病む必要はない。
貴様の美点は、同じ『こうすればよかった』を二度繰り返さない、ということにある。それを忘れるな。貴様は、最初から間違いを回避できるほど、立派なオツムを持ってはおらんのだ」
師匠の的確な指導に、パウル1級審問官は深々と頭を下げる。
そんな弟子の姿を見て、老マルタは軽くため息をつくと、さらに話を続けた。
「それから、貴様らには今宵、もう1つ教えるべきことがある。
それは、愛の偉大さについて、だ」
急に大きくなった話のテーマに一瞬ついていけず、私は思わず老マルタの顔をまじまじと見てしまう。けれど老マルタは悠然と酒盃を傾けると、訓話を再開した。
「愛には大小などなく、その価値に差などない。卑小な愛など存在せず、ありふれた愛もまた存在しない。そしてその様相がすべて異なるといえど、あらゆる愛は等しく偉大であり、それゆえに我らはこの困難な世界を生きていける。
——というのは、まるっきりコーインの受け売りだが、儂もこの見解には同意するほかない。そしてこのシンプルな考え方を見失ったことが、今の教会と帝国を混乱させているのだろう、とも思う。
事実、シャレット家にせよ、デリク家にせよ、まさにこれが問題となった。
例えば絵画を愛し、その技術を磨くとしよう。その技術を習得する過程で誰かと競争し、勝てないことは、ある。『こいつには勝てない』と絶望することもまた、あるだろう。あるいは『お前など誰それに比べればゴミクズだ』と嘲笑されることも、あるかもしれぬ。
だがそれらすべてが事実であったとしても、それは技術の優劣という問題に過ぎん。
絵画に対する愛に優劣などなく、また卑しい愛などなく、ただ、すべての愛は等しく偉大なのだ。そこが分かっていれば、なすべきこともまた明白ではないか——自信をもって絵画を愛し続けるのみ、よ」
老マルタの説法は、特にユーリーン司祭に鋭く刺さったようだった。彼女は興奮しきった顔で何度も「あらゆる愛は等しく偉大」と呟くと、やがて「あらゆる愛は等しく偉大——とても美しい理論です。もしコーイン司祭が残された文書などがまとまって読めるようでしたら、お借りできませんか?」と早口でまくし立てた。
そんな、いかにもボニサグス派的な反応に、老マルタははっきりと苦笑しつつも、軽く頷いてみせる。
「構わんよ。明日の朝には届けさせよう。だが今は、儂の話を聞いてもらえるかな? ——ふむ、ありがとう、では先を続けよう。といっても、もう話すべきことはほぼ尽きたがな。
最後に言っておきたいのは、今宵の訓話3題には、ことごとく例外があるということだ。ボニサグス派お墨付きの美しい理論と言えど、やはりこの奇っ怪なる浮世のすべてを語りきってはおらんからな。
例えば、あらゆる愛は等しく偉大であるという概念は素晴らしいものであるが、一方で、人の世にはこの愛を歪めてしまう思いもまた存在することに、我ら審問会派は留意せねばならん。愛に限りがないように、悪意にもまた限りはないのだ。
そしてまた、審問官として生きるということと、恋をまっとうするべく生きるということは、両立してしまうこともある。
事実、儂は初恋を諦めてからおよそ20年後、巡り巡ってその相手と結婚した。彼女の人生も紆余曲折が多く、再会したときには彼女は未亡人だった。儂は無理を承知で二兎を追い、今度は二兎とも捕まえたさ。結婚して3年で妻は病を得て天に召されたが、儂は己の全力をもって妻を愛したという自負がある。
つまり、パウルよ。貴様が愛に対して真摯であれば、いつか貴様も二兎を手にできるやもしれぬ。それくらいには、神も我らにご褒美をくださるものだ。
明日をも知れぬ審問官だからといって、ありふれた幸せを手にする可能性を完全に否定する必要はないと、心に刻んでおけ——つまり、次は出会い頭に洗脳するのではなく、『自分の手をとってはくれまいか』と頼むことから始めてみるがいい。
今宵、儂から言うべきことは、これがすべてだ」
その言葉を聞いて、私はパウル1級審問官のほうを見てしまう。彼は私の視線を受け止め、困ったなという表情で頭を掻いてから、「とりあえずお友達からお願いできますかね」と口にする。失礼きわまりないことに私は思わず笑ってしまったが、とりあえずはこれまでの経緯を様々に足し引きした上で、「師匠と弟子というところがスタートライン、それでしたら喜んで」と返しておく。
実際、パウル1級審問官もまた、カナリス2級審問官と同じで、私に対する感情が一般的な好意なのか、それとももっと別のものなのか、判断つきかねているというところなのだろう。
それは私にしても同じことで、彼のことは(自分を洗脳していたという事実があってもなお)けして嫌いではない——でも特別な感情があるかと聞かれるとなんとも言えないし、でももしかしたらいま「お友達として」ではなく「恋人になってください」と言われていたら、「喜んで」と答えていたかもしれない。
まあ、このあたりのことは、おいおい考えるとしよう。カナリス2級審問官とハルナ3級審問官のように拗らせてしまう前に結論を出せればいい、くらいの感じで。
それよりも私としては、この穏やかな空気の中で幕を閉じようとしている訓話に水を差してでも、今のうちに指摘しておかねばならない疑念がある。
だから私は空気を読むことをやめて、思い切ってその疑念を議論の俎上に載せることにした。
「貴重なご教示、ありがとうございました。
ですが私としては一点だけ、どうしても今この場で議論すべき課題がまだ残っていると感じています。
この発言が、場の空気をわきまえないものであるのは、理解しています。ですが私はこれまで、場に波風を立てないことを優先するあまり、あえて話を切り出さなかったということが多すぎたと反省しています。
発言の許可を頂けますでしょうか?」
執務室にいた全員が一斉に、私のほうを見た。さすがに少し緊張を感じたけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。
しかるに老マルタは、とても寛容、かつ明敏だった。
「発言を許可する、ライザンドラ見習い。
儂は今宵、語り得ることはすべて語ったと確信しておった。
だが貴様がそうでないと言うのであれば、その言葉に耳を傾けねばならん。コーインはよく、若者の感じる疑念こそが、最も対処を急ぐべき疑念だと言っておったしな」
発言の許可を得た私はグラスをテーブルに戻してから、立ち上がって一礼し、それから疑念の焦点を口にする。
「私は、現状のハルナ3級審問官は、極めて危険だと考えます。
卑劣な提案をお許し頂けるなら、あらゆる手段を用いて、可及的速やかに彼女の審問官資格を剥奪、審問会派から除名すべきです。無論、表向きは穏当な理由を見繕って、ですが」




