アルール歴2182年 7月19日(+5秒)
——ユーリーン司祭の場合——
老マルタがライザンドラ見習いに問いを立てたのを聞いて、一番慌てたのはパウル1級審問官だった。「師匠、それは……!」という、半ば悲鳴のような声は、老マルタのひと睨みで封殺される。
「もう一度聞くぞ、ライザンドラ見習いよ。
貴様はなぜ、審問官としての未来をすべて失いかねないような決断を、かくも気軽に行ったのだ?」
「それは……そうすることで——パウル1級審問官が進めておられる計画が、より……」
「貴様の計画に貴様の生命を賭けるなら、理解できる。だがパウルの計画を前進させることに対し、なぜ貴様がそこまで賭けねばならないのだ?」
「——パウル1級審問官は……その——私の、直接の師ですので……」
「師の計画だから、それがどうしたというのだ?
貴様はパウルに『そうせよ』と命令されたのか?」
「そんなことは……ええと、その——私自身、パウル1級審問官に示して頂いた計画の最終到達点は、素晴らしいものだと思いました。ですから、その実現に——」
「ならば最初からそう言えばいい。
身命を賭したい計画があり、貴様はそれに身命を賭けた。いたって単純な話だ。
だがここで最も重要なのは、計画そのものではないのか? つまり、貴様にとって最も高いプライオリティを持った人物は、ユーリーン司祭ではないのか?
あるいは、それほどまでに貴様が師なるものを大切に思うのであれば、パウルの師である儂の名はなぜ出てこない?
答えよ、ライザンドラ見習い。貴様はなぜ、『パウルが進める計画だから』と言ったのだ?」
「——そ、れは……」
「頭の回転が追いつかなくなったか、ライザンドラ見習い?
ならば質問を単純化しよう。貴様にとって重要なのは、パウルなのか? それとも奴が実現せんとする未来なのか?
今度こそ質問に答えよ、ライザンドラ見習い!」
老マルタの火を吹くような詰問に、あのライザンドラ見習いがみるみる追い詰められていく。
サンサ教区を出てからこのかた、私は傍観者的な立場にいるせいか、ライザンドラ見習いがなぜ言葉に詰まったのかが理解できる。
サンサ教区にいた頃の彼女は、なにかしら、ナオキに洗脳されていた。
そしておそらくその洗脳を、パウル1級審問官が解くことに成功し——そして即座に彼女を再洗脳したのだ。
だからあれほどまでにロジカルな頭脳を持つ彼女をして、「自分はなぜパウル1級審問官に尽くしたいと思っているのか」が説明できない。それは彼女の内側にあった思いではなく、外から無理矢理押し付けられたものだから。
けれど老マルタの詰問を手がかりとして、明敏なる彼女は自分がパウル1級審問官に再洗脳されていたことに、もう気づいたのだろう。
その端正な顔が泣き笑いのような表情にくしゃりと歪み、救いを求めるようにパウル1級審問官のほうを見て——そして心底恥じ入るばかりの彼の視線と交わり、彼女は自分がパウル1級審問官に寄せている信仰が、作られたものにすぎないことを理解した。
痛々しい沈黙が落ちた執務室に、老マルタの険しい声が満ちる。
「すべてを明らかにする前に、まずはライザンドラ見習いに対して成されていた洗脳を解いた。なぜなら、一度は看過してしまったものの、この洗脳は審問会派にとって負の効果しかもたらさぬからだ。
儂自身、一度は黙認したものであるから、本件についてパウルの罪は問わぬ。
代わりに、儂がライザンドラ見習いに謝罪しよう。不肖の弟子が、愚かなことをした。すまぬ」
老マルタがライザンドラ見習いに頭を下げたのを見て、カナリス2級審問官が「信じられないものを見た」と言わんばかりの顔になった。当然だろう。審問会派にこの人ありと言われる、重鎮中の重鎮である老マルタが、たかが見習いに頭を下げたのだ。驚天動地とはこのことだろう。
でもその風景は、私にしてみると、とても自然なものだった。一時代を築いたエース審問官である老マルタが、次世代のエースとなるライザンドラ見習いに、バトンを託したのだ。歴史学は専門ではないが、私はまさに時代の節目というものを見ているのだなと思うと、胸が熱くなる。
ライザンドラ見習いへの謝罪を終えた老マルタは、ひとつ咳払いをすると、「では語るべきことを語るとしよう」と言い、全員に着座を求めた。言われるがまま、私たちは近くにあった椅子に腰を下ろす。
「現状の我々が共有すべき推論とは——つまり、ユーリーン司祭が可能性を否定し、ライザンドラ見習いがあえて口を閉ざした推論とは、ハルナ3級審問官は極めて高い確率で妊娠している、ということだ。
しかも、身ごもったのは彼女が帝都に帰還してからだ」
老マルタの宣言を聞いたパウル1級審問官は、その途端にすべてを悟ったようだった。声にならないうめき声をあげると、彼は椅子から滑り落ち、がっくりと床に膝をつく。
それとほとんど同時にカナリス2級審問官は席を蹴って立ち上がり、それからしばらく呆けたような顔で立ち尽くしていた。
「何を驚いておる。シャレット家の蛆虫どもがどう動くかをきちんと考えれば、こんなことは誰にでも分かるはずだ。
シャレット家にとって、傷物になったうえ、審問官としての能力も失ったハルナは、純然たるお荷物だ。であれば、彼女に形式的な結婚相手をあてがい、シャレット家の閨閥を広げるコマとして使うことは、かなり早い段階から考えただろう。
だが——いや、だからこそその前にシャレット家の愚物どもにはやるべきことがある。
言うてみろ、カナリス。普段の貴様なら、その可能性など脊髄が見抜いたはずだぞ?」
カナリス2級審問官は呆然とした顔のまま、熱に浮かされたように見解を語った。
「……ハルナは、シャレット家において——いえ、この帝都において——突出した才能の持ち主でした。シャレット家が排出した高徳の聖職者である故コーイン司祭の秘蔵っ子として、あるいはシャレット家の神童として、その名に恥じぬ才覚を幼い頃から示し続けてきました。それは彼女が審問会派の見習いとなってからも同様で、彼女は記録的な速度で3級審問官の地位を得ています。
ですが——ですがシャレット家の面々は、老若男女問わず、そんな飛び抜けた天才と日々比較され続けてきたことになります。学問、神学、果てはダンスや演劇に至るまで、ハルナは高い能力を発揮し続けました。もちろん、武術においても」
少し、息苦しさを感じた。
私は、神学以外はからっきしな人間だ。神学にしたって、ボニサグス派が積み重ねてきた知見と思索の厚みの果てにたどり着くのは、一生かけても無理かもしれないという思いがある。
それでも、少なくとも神学は私にとって、誇りだ。我ながら浅ましい話だが、奨学金を勝ち取るための厳しい競争に生き残り、書いた論文がいくつもの賞を取ってきたという思い出は、サンサ教区に追放されたばかりの頃の絶望に満ちた日々において、私の精神的支柱になっていたことは否めない。
そしてこの「神学ならば負けない」「神学においては評価されてきた」という自負があればこそ、他がまるで駄目な人間であることを日々思い知らされたとしても、自分を見失うことなく生きてこれた。
でももし、自分がシャレット家に生まれていたら、どうだっただろう。
そこにおいても、神学しか誇るべきものがない私がいるとして。
その神学において、後から学び始めた妹が軽々と自分を追い抜き、しかも帝都の誰もがその名を知るようなおじいちゃんに溺愛されるようになったら。
神学では勝負できないと悟って芸術の世界に手を出してみたら、そこではすでに妹が地平線の遥か彼方にまで到達していたら。
思い余って武術に手を出したら、今度は妹の才覚と鍛錬にまったく及ばないことを、身体に刻み込まれたとしたら。
あまりのことに絶望したら、妹から優しく「姉さんにはこういう良いところがあるのだから、こんな感じで頑張れば、すごく伸びるよ」的な、人格的に完成されきった助言をもらってしまうとしたら。
そしてその一方で、「シャレット家の連中は、ハルナ以外はまるで話にならんな」と、帝都のあらゆる住人から影で嘲笑され続けたとしたら。
私はきっと——ハルナという妹を、憎んだだろう。
私のすべてを無茶苦茶にした人間として、心の底から憎んだだろう。
苦い思いがこみ上げるなか、カナリス2級審問官の言葉は続いた。
「劣等感に苛まれ続けたシャレット家の面々にとって、ハルナが壊れたことは、天からの祝福も同然だったと考えられます。
そしてその昏い歓喜の先で、彼らがハルナに対して復讐と支配を試みたとしても、なんら不自然ではありません」
復讐と、支配。
この2つの欲求が重なったとき、それがどこまで下卑たものになり得るか、私はよく知っている。
カナリス2級審問官の解答が終わったところで、老マルタがその続きを引き取った。
「貴様の推理は、ほぼ疑いなく正しい。
彼らはハルナ3級審問官を身体的に屈服させ、自分たちが彼女に勝ったことを確認しただろう。
このことだけでも、確たる証拠を掴めさえすれば、審問会派が正式にシャレット家を告発できる罪だ。
証拠を掴めさえすれば、な」
老マルタが示唆したとおり、この犯罪の証拠を掴むのは、ほとんど不可能と言っていい。
シャレット家の家族はともかく、召使いを始めとした下働きの人々にとってみればハルナさんは「愛すべき主人」だろうから、彼らの証言を集めることは可能だし、それをもとに起訴することもできるだろう。
けれど大貴族相手に起こした裁判を、平民の証言だけで勝ち抜くのは事実上不可能だ。しかも審問会派は教会側の組織であり、世俗権力に対する捜査権は異端の捜査に限られる。「ハルナ3級審問官に対する危害の発生」を立証できればシャレット家の家宅捜索だって可能になるが、それを立証するにはシャレット家に踏み込まなくてはならない——つまり理論上、成立しない。
早い話が、ハルナさんをシャレット家に帰した段階で、我々は詰んでいた。そして審問会派としては、ハルナさんの家族からの「自宅で療養させたい」という要求を拒否できる理由など、どこにもなかった。
静まり返った室内に向かって、老マルタは淡々と問いを発した。
「さて、シャレット家の蛆虫どもが腐れ果てた我欲を満たすなか、彼らのもとには別のチャンスが訪れた。
そこで何が起き、彼らはどう判断した? パウル、答えよ」
指名されたパウル1級審問官は、震える声で、自分の分析を語る。
「——僕は彼らに、オルセン家復興という事業を持ちかけました。
そして彼らは、スタヴロス・オルセンという手駒と、ハルナ・シャレットという手駒、そして僕との交渉の結果が、噛み合うことに気づいた。
帝都の誰もが、スタヴロスとハルナ3級審問官の結婚が完全な政略結婚、しかも形式だけのものである、という理解をしています。この僕も、です。
でもそれは、認識の隙間でした。
シャレット家の人々がハルナ3級審問官を前もって妊娠させておいて、スタヴロスとの初夜の儀においてはハルナ3級審問官をベッドに縛り付けてでも——彼らはそれに慣れているはずです——一度は性交渉を行わせる。
その後、ハルナ3級審問官の妊娠が判明したとなれば、『第一夫人が当主の子供を身ごもった』という事実を作ることができます」
これこそが、私が理論上の可能性として想起し、そして「いくらなんでもあり得ない」と思って放棄した仮説、そのものだ。
でも、正しいのは老マルタだ。理論上起こり得ることは、起こることなのだ。
ただ、それでも私には懸念があった。何も私は「そんな非倫理的なことはあり得ない」と思ったというだけで、この仮説を捨てたわけではない。
なので、いささか見苦しい反論だなと自覚はしつつ、私はその懸念を口にすることにした。胸に抱いた仮説は、口にする——それはついさっき老マルタと交わした約束だ。
「待ってください。その仮説は、私がかつて捨てた仮説と完全に一致します。あえて精密化すれば、ハルナ3級審問官を彼らが妊娠させてしまっていたことが状況に利したのか、それともそうすると決めたので目下必死で妊娠させようとしているのか、という部分が残りますが、ここはそこまで重要な論点にはなり得ません。
というのも、この仮説には重大な弱点があるからです。
つまり『こんなバカげた陰謀が、上手くいくはずがない』という、巨大な欠陥です。
例えばですが、ハルナさんが出産した後、メリニタ派の修道士を呼んで父親が誰であるのかを判別させるべきだという意見は、必ずや出てくるかと思われます。少なくともシャレット家とガルシア家以外は——あるいはガルシア家すら——そう主張する、正当な理由があります。
そしてメリニタ派修道士の手によって子供の父親がスタヴロスではないことが明らかにされれば、何もかもがおしまいです。
こんな穴だらけの陰謀、いくらなんでも辻褄が合いません」
厳しい表情をした老マルタは私の指摘を最後まで聞くと、何度も頷いた。そして自分ではなく、弟子を回答者として指名する。
「良い反論だ。パウルやカナリスでは、答えられんかもしれんな。
ではライザンドラ見習い。審問会派の名誉にかけて、ボニサグス派からの糾弾に反問せよ」
指名されたライザンドラ見習いは、小さく頷くと、シンプルな答えを語った。
「ユーリーン司祭。話はもっと簡単なんです。
私も、こんなバカげた陰謀が最後まで上手く行くとは、思っていません。私自身、この陰謀を完膚なきまでに叩き潰すために隙を伺っている状況ですし、おそらくは今頃ガルシア卿も我々と同じ推測に到達していると思います。ガルシア卿はやや人が良すぎるところがありますが、奥方は底の知れない方ですから。
つまり、これは上手くいかない陰謀なのです。
言葉を換えれば、シャレット卿とその仲間たちの脳内でのみ成就し得る陰謀なんです。
だから彼らは、勝負に出ました。自分たちは勝てると、確信して。
その上で申し上げれば、シャレット卿の策は、見た目よりもフェイルセーフがしっかりしています。
例えばユーリーン司祭のご指摘のような問題が発生すれば、事故死なり病死なりを装って赤子を殺してしまえばいいのです。確かにこれによってシャレット家が新オルセン家の利権を総取りするという野望は果たせなくなりますが、既得権は残ります。
実のところ、シャレット卿にとってみれば、失うものなんてないんです」
——なるほど。「馬鹿が仕組んだ陰謀は、馬鹿げた陰謀である」というロジックは、無矛盾だ。
それにライザンドラ見習いが指摘したフェイルセーフも、胸が悪くなるような話だが、理にかなっている。シャレット卿にとってみればハルナさんを使ったこの陰謀は「上手く行けば儲けもの」程度の話であって、どの段階においてでもなかったことにできるというわけだ。
まさに「満点ですね」としか言いようのない、しかしどこまでも胸が悪くなる解答に、私は軽く両手を上げて降参の意志を示す。私はこの陰謀の構造を考察するうち気分が悪くなって途中で思考を放棄したが、彼女は最後まで諦めなかった。老マルタがライザンドラ見習いに「たいしたものだ」とでも言いたげな表情で頷いてみせたが、私もまったく同感だ。
それから老マルタは、精神的にほぼほぼグロッキー状態になっているパウル1級審問官に、その厳しい目を向ける。
「パウル。これで思い知っただろう。
貴様が浅はかにもライザンドラ見習いを再洗脳したせいで、貴様は彼女の頭脳を活用し損ねたのだ。こうやってフラットな状態に彼女を置いてやれば、彼女は貴様らの何倍も素早く、そして正確に状況を見抜くではないか。
ライザンドラ見習いに己を崇拝させるような感情を刷り込んだ貴様は、この才能を曇らせたのだ。ゆえに、貴様の未熟な洗脳を、解いた。
よいか、パウル。再洗脳という捜査技法は、人倫にもとるがゆえに違法となったのではない。再洗脳による浸透捜査が最も盛んだった時代、多くの元異端者はこちらが期待するほどの働きができず、逆に異端側に再々洗脳され、自爆工作員となって審問会派を危機に陥れたことすらあった。それゆえに、禁じ手となったのだ。
そしてときのボニサグス派は、洗脳というプロセスが、人間の判断力を大きく歪めるという研究を示してくれた。知的活動に対し、洗脳は悪しき影響を及ぼすのだ。
パウルよ。儂は貴様の政治操作における才能を、評価しておる。その貴様が、再洗脳による捜査が必要だと判断したのであれば、迷わずに再洗脳せよ。だが、それがその相手の能力を低下させることは、肝に銘じておけ。
つまり、敵の本拠地に送り込む自爆工作員として再洗脳するのでなければ、貴様に教えたその技を迂闊に使おうとするな。女を口説くために使うなど、論外だ」
……パウル1級審問官は、そんなことのために、審問会派に伝わる洗脳技術を使っていたのか! なんのかんので彼は誠実な人間だと思っていたけれど、少し評価を改めたほうがいいのかもしれない。
などという冗談を心のなかで弄んでいると、地の底から湧き上がってくるかのような声がした。
「——待て。いや、待ってください、師匠……!」
カナリス2級審問官のその言葉に、執務室に集まった皆が目を向ける。




