アルール歴2182年 7月19日(+2日)
——ローランド司祭の場合——
まったくもって腹立たしい。何もかもが腹立たしい。
帝都は、帝国は、そして教会は、そのすべてがおかしくなってしまった。
人間の社会とは実に玄妙かつ精緻に作られたシステムであり、まさに神の御業と言うべきものだ。そこらの野獣や禽獣の群れと見比べれば一目瞭然だが、人間の群れと動物の群れは、抜本的に異なる。
人間の群れ——すなわち社会は、高度な文化と技術、そして秩序を育んでいる。それゆえ、我々は獣のようにただ今を生き延びることに集中するのではなく、明日、明後日、そして遠い未来まで想像しながら生きられる。そしてこの想像力があればこそ、我々は神の世を脳裏に思い描き、この世に神の栄光を知らしめることができるのだ。
そしてこの人間社会の基盤となる文化・技術・秩序を作り上げているのは、伝統だ。
人間の生は、短い。どんな偉大な人物であっても、生きてせいぜい100年。しかも100年も生きようものなら、その晩年は往々にして曖昧な状態で生きることになる。
しかもいかなる神童と言えども、生まれて20年ほどはその才能を成熟させるための時間に使わねばならないのだから、精力的に活動できる期間は50年もあれば長いほうだろう。
その一方で人間の社会は、既に3000年を越える年月に耐えている。この年月の中で磨かれ、鍛えられ、ときに淘汰されてきたもの——すなわち伝統と、せいぜい50年程度しか活動できない人間個人の才能と、どちらが優れているかなど考えるまでもあるまい。
それゆえ、人類が懸命に維持してきた伝統を守る我ら貴族は、あらゆる犠牲を払ってでも、この人類の至宝を守り抜かねばならない。貴族は貴族であるから尊敬されるのではなく、この義務を果たしているから尊敬されるのだ。
そしてこんな簡単なことを、世のバカどもは理解できない。
世の愚者どもは、新しければそれで良いと言わんばかりに、ただ新奇なものにばかり飛びつく。鬼面人を驚かすとはよく言ったもので、そんなものには何の価値もないというのに、連中は自分が驚いたことに価値があると信じてしまう。
ボニサグスの雌犬、ユーリーン司祭などはその最たるものだ。あの女は神学の歴史を口にしながら、学問という伝統を真に成り立たせている相互理解と対話をまったく無視している。基礎ができていない上に無駄に知識を積み重ねたところで、それはただの衒学趣味でしかない。
にも関わらず、最近では帝都でもあの女の名を聞くようになった——しかも、世紀の賢者などという、実態からかけ離れた二つ名と共に。
原因はわかっている。審問会派の策謀だ。
パウル1級審問官は、何かとてつもないことを企んでいる——とてつもなく悪しきことを。そしてその企みの隠れ蓑として、ボニサグスの雌犬を派手に飾り付け、衆目に晒している。そんなことは、ほんの少しでも頭が回る人間であれば、すぐに理解できることだ。
にも関わらず! ここにおいても、帝都の愚物どもは目の前で進もうとしている陰謀に気づかない。このままでは帝国と教会をかくあらしめている伝統が脅かされるかもしれないというのに!
だが、大衆とはそんなものなのだ。
愚かなる大衆は、自らを抑圧する者を賞賛し、己の首にかけられた鎖を自慢し、己がこんなにも抑圧されているという事実を絶賛する。しょせん、連中はその程度の知能しか持たぬ、どちらかと言えば動物に近い生物だ。
それゆえ伝統の持つ意味も、彼らにはまったく理解できない。己が日々を豊かに生きていられるのは伝統あればこそであり、伝統によって守られている社会が失われれば真っ先に修羅の世界に飲まれるのは彼ら自身であるというのに、彼らはときに「伝統になど価値はない」とまで言い出す。これを愚者と言わずして何というべきか!
この状況を、我々は変えねばならない。
教会すらもが飲み込まれようとしている、この獣じみた愚者どもの行進から、人が人であり続けられる世界を守るため、戦わねばならない。正しい伝統を取り戻し、再建するための改革を始めねばならない。
いや、分かっている。これが苦しい戦いになるであろうことは。
我々の聖なる戦いは、けして愚民どもには理解されないだろう。
我々の聖なる戦いは、愚民どもに阿る教会上層部や帝国の腐敗貴族たちからは、弾圧されるであろう。
なぜなら我々は、正義であるから。
いかなる世においても、正義は常に弾圧されてきたのだ。
俺は決意を新たにしながら、酒盃を煽る。ふむ……これはシャトー・アルマンの1級だな。2180年というところか。あそこの白は若いうちに飲むほうが美味い。
と、そこにガルドリスがやってきた。
「待たせたな、ローランド。
サヨコの手が空いたぞ」
俺は軽く頷くと、酒盃を持ったまま席を立つ。
サヨコというのは、ガルドリスが見つけてきた女占い師の名前だ。どこの生まれなのか、本人はけして語らないが、目元以外をほとんどすっぽりと隠すベールの隙間から垣間見える範囲で言えば、かなり混血が進んだ雑種だろう。占い師などという下賤な仕事で食っていかねばならない理由も、よくわかる。
だが彼女はけして、頭の悪い女ではない。
占い師というのは、メリニタの魔女どもでもない限り(あるいはメリニタの魔女どもであっても)、イカサマ師となんら変わらない。
連中はこちらの話を巧みに誘導し、話の端々から集めた情報を総合し、しかるにおそろしく曖昧な物言いで占いの結果を語る。ゆえに、連中が言うことはいつだって「明日の天気は晴れ、さもなくば嵐、あるいはその間の何か」といった程度の妄言に過ぎない。
しかし、サヨコのように腕の良いイカサマ師は、自分の考えをまとめる鏡として使うぶんには、とても使い勝手がいい。
彼女に対し問いを立て、答えを聞き、その答えを解釈して、さらに問いを立てるというプロセスを繰り返すことで、己がいま何に悩んでいて、何を解決すべきで、そのためにはどんな手段があり得て、それぞれの手段にはどのようなリスクとベネフィットがあり、そしてその先にどんな未来があり得るかを、より正確に思考できる。サヨコ自身は無学の徒だが、その天性の嗅覚をこちらが利用することで、彼女を一時的にもう一人の自分にしつらえて、対話が可能になるのだ。
実際、ガルドリスもまた、俺と同じような利便性をサヨコに見出したようだ。パウル1級審問官にやり込められたときの彼は無残なものだったが、最近の彼はかつてのような才気煥発さと勇敢さを取り戻している。サヨコを己に見立てて対話することで、彼もまた本来の自分を取り戻したのだ。
似たようなことは他の〈同盟〉のメンバーもやっているようで、このところの定例会では以前のようなただの酒盛りではなく、なかなかに意気軒昂で刺激的な議論が交わされるようになっている。大変に好ましい変化と言えるだろう。
……もっともなかには馬鹿もいて、サヨコが定例会から帰る、その帰り道を下男たちに襲わせて拉致しようとした者もいる。下賤な女で遊ぶというのは、けして上等な趣味とは言えないが、そういう楽しみが存在することまで否定はしない。
だが襲撃は失敗し、下男たちは死体で見つかったそうだ。まあ、ガルドリスはサヨコに結構な金額を払っているから、サヨコはサヨコで腕の立つ用心棒でも雇っているのだろう。
そのあたりのサヨコの抜け目のなさも、俺としては大いに評価している点ではある。嗅覚のみを頼りに生きる野良猫である以上、己の身に降りかかる災難は自力でなんとかするというのも、才覚のうちだ。
そんなことを考えながら、最近ではサヨコ専用になっている小部屋に入る。
部屋の窓は閉め切れられていて、なにやらエキゾチックな匂いのする香が焚かれている。こういう雰囲気作りの上手さは、なにごとにつけプロというものは存在するのだな、と感心する他ない。
ともあれ俺は、緊急の案件から順番に対話を始めることにした。
「パウル1級審問官が進める陰謀に、シャレット家は全面的に協力するようだ。
シャレット卿は令嬢であるハルナ3級審問官を、復興オルセン家の当主候補の第一夫人としてあてがおうとしている。もはやシャレット家はパウル派に取り込まれたと考えるべきだし、復興したオルセン家がパウル派によって支配されるのも時間の問題だ。なにせパウル派は、あのライザンドラ・オルセンまで身内に引き込んでいるからな。
だが問題はそこではない。忌々しいことに、我々はパウルがいったい最終的に何を企んでいるのか、把握できていない。これが最大の問題だ。ここがはっきりしない限り、我々が〈同盟〉としていかに動くべきかを、決定しきれない」
ワインで喉を湿しながら、現状分析を語る。と、サヨコはしばらく沈黙してから、老婆のようなしゃがれ声で語り始めた。
「ローランド様の、100年の大計は、何でございましたか?」
そう。そうだ。現状分析にかまけるあまり、俺が最終的に何を果たさねばならないかを、見落としていた。
「俺は、教会と帝国を、改革しなくてはならない。
正しい伝統を守る高貴なる者たちの、知恵と理性による統治を取り戻さねばならない。
そこが俺の目指すゴールだ」
そうやって言葉にしてみると、俺は思考をいささか前のめりにさせすぎていたことに気がついた。
パウル1級審問官が何を企んでいるかは、分からない。だが彼の目的が〈同盟〉の目的とまったく一致しないと、決めてかかることもまた、できない。
パウル派の面々は、それこそ新入りであるライザンドラ・オルセンに至るまで、なんのかんので帝都で教会を守る大貴族の血脈を引いているのだ。彼らを抜き差しならない敵だと認識する前に、もう一度、交渉の機会を与えてみるのも悪くない。
だが——
「ローランド様の大計の実現には、けして相容れぬ者が、おりませんか?」
その通り。ど田舎の教会から這い出てきて、〈同盟〉の名誉に傷をつけ、俺の人生を狂わせた、ユーリーン。あの女をパウルが匿っている以上、やはりパウル派は絶対的な敵と認識するほかない。
だが……〈同盟〉はけして、大きな組織ではない。パウル派と正面きって政治闘争を始めたとして、果たして彼らに勝てるだろうか? 善戦はするだろうが、ライザンドラ・オルセンという隠し玉を手に入れた彼らの潜在能力は、計り知れないものがある。
俺はその不安を、鏡に向かってぶつける。
「——戦うとして、勝てる相手だという保証はない。
特に、ライザンドラ・オルセンが不確定要素として大きすぎる。
それに万が一、荒事になろうものなら、向こうにはカナリス2級審問官もいる。
そこらの傭兵風情を集めた程度では、カナリス1人に殲滅されるだろう」
自分で言っていて情けなくなるが、こればかりは正確な認識が必要だ。なにしろ審問官は社会的地位が高いというだけでなく、暴力装置としても性能が高い。先程は愚民どもを動物に喩えたが、異端者などという野獣未満の生物と直接渡り合うような連中を相手に武力闘争など、非常識も甚だしい。
けれどサヨコの一言は、この問題に思わぬ側面があり得ることを思い出させてくれた。
「ローランド様の大計の実現には、そのすべての敵を倒さねば、ならないのですか?」
……考えてみれば、話が難しくなっているのは、パウル派すべてを敵と考えるからだ。我ら〈同盟〉が為すべき改革の実現における目下最大の敵は、ユーリーンではないか。つまり、あの雌犬だけを排除するのであっても、我々は前進できる。
いや——いや、待てよ。
そもそも、パウルはバットマンのあだ名に相応しいクソ野郎だが、けして無能な人間ではない。事実、彼はこれまで何度も貴族の名誉と伝統を守るような判決を出してきたではないか。
そんな人間が、なぜあの雌犬を飼うようになったのか?
答えはひとつだ。パウル1級審問官は、あの雌犬に、誑かされたのだ。そういえばパウル・ザ・バットマンは「女にだらしない」ことでも有名だった。
……と、いうことは。
これは——
これは、つまり——
俺は神が降臨したかのような、圧倒的な気づきの衝撃を受けていた。
天使の喇叭が鳴り響き、戦乙女の喊声が響き渡るような、甘美なまでの衝撃。
ああ——そういう、ことだったのか……!
冷静に考えてみれば、前の教皇が「大異端が現れた」という啓示を得て天に還ったとき、あの雌犬は既にサンサの地にあった。
つまり、啓示が示す大異端とは、ユーリーンだったのだ。
そしてかの異端の雌犬は、現地を訪れた審問官たちを誘導し、自らの手下である異端教団を餌として壊滅させ、自分は審問官の協力者としてパウルを籠絡して、帝都に戻ってきた。
この一連の邪悪な企みを看破し得る存在であった神童ハルナ・シャレットを、薬物を使って排除したのも、あの雌犬らしい策略だ。我らが同志ケイラス司祭がダーヴの街で死んだことにも、ユーリーンの計略が絡んでいるに違いない。
となれば、こうしてはいられない。
まずは審問会派のツテをあたって、パウル1級審問官を隔離しなくてはなるまい。それから、急いでユーリーンを逮捕し、尋問する必要がある。
だが……だが、待て。焦るな、ローランド。
ここで焦って動けば、大魚を逸する可能性がある。
なにしろ相手は天啓が示す大異端、ユーリーンだ。どんな姦計が仕掛けられているか、油断はできない。実際、ちょっと考えれば誰の目にも明らかなこの陰謀が、ここに至るまで明るみに出なかったということには、注意が必要だ——つまりあの女は、陰謀が露見しそうになる前に、巧みにその可能性を潰してきたということだ。
それに、別の角度からも考えねばならない。
この隠された真実は、もっと上手く使うこともできる。
パウル1級審問官が異端者と親密な仲になっていたというのは、審問会派にとってはとてつもないスキャンダルだ。なにせ派閥の頂点付近にいる人間が、異端者の言うがままになっていたのだから。
であるならば、これは〈同盟〉にとって強いカードになり得る。
審問会派に大打撃を与えられる情報を得たということは、審問会派に対してはもちろん、長年に渡って審問会派と争っているジャービトン派上層部に対しても切り札を得たということだ。我ら〈同盟〉の政治的地位を強化するにあたっては、最高のカードと言える。
いや、それどころではない。
啓示が示す大異端を〈同盟〉が暴いたとなれば、これこそまさに「教会史に刻まれるべき偉業」そのものだ。
教皇の椅子は〈同盟〉のリーダーであるガルドリスに譲り、俺は帝国神学院で「教皇の椅子を辞退した賢者」として教鞭をとる——そんな未来は、今まさに俺の目の前にある。
その未来はただ、あの異端の雌犬の首を獲るだけで、手に入るのだ。
俺は酒盃に残ったワインを一息に煽ると、薄暗い部屋に座る鏡に背を向け、輝かしい未来に向かって一歩を踏み出した。




