アルール歴2182年 7月17日(+9日)
——ガルシア卿の場合——
「何の冗談だ?」
初めてその話を聞いたとき、俺は思わずそう呟いていた。
だが念のために様々な筋を使って確認してみたところ、どうやらこれは冗談でもなければハッタリでもなく、ガチでガチなヤツだということが分かって、俺は思わず同じ言葉を繰り返してしまった。
「何の冗談だ!?」
当惑と怒りが入り混じった罵声を浴びたパウル1級審問官は、ぱっとみたところいつもどおりのポーカーフェイスを通していたが、彼もまた俺と負けず劣らず当惑し、激怒しているのは、彼が膝上で握りしめた拳が細かく震えていることから、すぐに分かった。歴戦の審問官にしちゃあ珍しい。
ともあれ怒鳴っていても話は始まらないので、俺達は起こってしまったことの対策を練ることにして——そして結局、「俺達に打てる手はない」という結論に至るしかなかった。
油断。まあ、そう言うことは可能だろう。
だがこれを油断と言うべきなのか、どうか。
超絶ぶっちゃけると、俺個人としてはこの件に関して反吐が出そうなくらい腹を立てているが、ガルシア家当主として言えば「好きにしろ」以外に言うべき言葉がない。というかそもそも、ガルシア家当主としては、口を挟めない領域で進んでいる話なのだ。
だから俺に向かって「お前が油断したせいだ!」と言うヤツがいるなら、俺は胸を張って「お前は馬鹿だろう?」と言い返すだろう。
でもって、これはパウル1級審問官にしても、そこまで事情が変わらない。
彼だって、この件には死ぬほど腹を立てているのは間違いない(というかそういう「感想」は、彼と討議する間にもう聞いた)。けれど彼が審問会派の重鎮としてこの件に対して何か予防策を講じ得ただろうかと聞かれれば、そりゃ無理だろうな、としか言いようがない。
だから彼に向かって「お前が油断したせいだ!」と言うヤツがいるなら、俺としてはそいつを「有象無象の馬鹿野郎」として記憶することになるだろう。
とはいえ俺にしてもパウル1級審問官にしても、このまま黙って「はいそうですか」で看過してよい話というわけでもない。この件は、少なくともこの10年において、最悪のクソ手だ。せめて「お前のやっていることは人として間違っている」くらいの抗議はしなくては、ガルシア家(および審問会派)の体面としてもマズいし、なにより俺の腹の虫が収まらない。
と、いうわけで俺たちはアポイントを調整し、雁首揃えてシャレット卿のご尊顔を拝しに行くこととなった。
幸いというか何というか、ライザンドラ嬢(正確にはライザンドラ見習い、か)もパウル1級審問官についてきたので、馬車の中で俺たちは軽く挨拶してから、意見交換で相互理解を深めた——「君が心から憎む相手が一人増えたようだな」「あなたに対する憎悪は個人的なものですが、シャレット卿に対する憎悪は人類悪に対する普遍的な憎しみです」的な感じで。
でまあ、案の定、シャレット卿は俺たちを悠然と出迎えた。そりゃそうだろう。
この件について言えば、俺たちは倫理的な問題を問うくらいしかできないんだし、言っちゃ何だが俺だって追い詰められれば倫理なんて屁以下の価値しか感じないわけで、結局俺たちは同じ穴のムジナなのだ。
……いや、いやいやいや、それでも抗議するぞ。
俺は確かにクソッタレだが、いま目の前にいるクソ野郎よりはずっと、程度の良いクソだ。それくらいは言わせてくれ。
かくして通り一遍の挨拶を済ませると、まずは俺が先鋒としてシャレット卿につっかけることにした。
「さて、シャレット卿。まずは事実関係だけを確認させて頂きたい。
復興オルセン家の当主候補であるスタヴロス・オルセンと、ハルナ・シャレット嬢が婚約したという情報を耳にしたのだが、このことに事実誤認はないだろうか?」
シャレット卿は無駄に重々しく頷くと、「その通りだ」と言い放った。
「当家のハルナと、オルセン家のスタヴロス・オルセン殿は、まだ内々ではあるが、婚約を交わした。
近日中に正式な婚約の発表を行う予定だ。また当家の事情により、結婚式はなるべく早い時期に行おうと思っている。これについては、スタヴロス殿からのご承諾を頂いている。
なおスタヴロス殿以外のオルセン家の方々については、ガルシア卿に先般お渡ししたリストから変更はない。所期の合意どおり、リストにある方々のうち半数に対して、ガルシア卿が良縁を見つけて頂きたい」
……クソが。この、ド腐れ外道が。
アル中のクズ野郎であるスタヴロスが次期当主としての箔を得るためには、名家(この場合はシャレット家)に生まれた令嬢と結婚するのが一番話が早い。それに復興オルセン家がシャレット家と姻戚関係を結ぶことで、新オルセン家はガルシア家のみならず、シャレット家からも公の援助を受けられるようになる。
言うまでもなく、シャレット家としてもこれは良い話だ。当主を筆頭として、新オルセン家とシャレット家の血のつながりを強くしていけば、それだけ旧オルセン家の利権も食い漁れる。他家からも新オルセン家に嫁ぐ娘たちはたくさん出るだろうし、スタヴロスは大量の妾を持つことにも躊躇はないだろう——だが「第一夫人」の席をゲットするのはシャレット家、というわけだ。
もちろん、普通ならこんな偏った利益配分を、俺とシャレット家以外の6名家が認めるはずはない。
だがここで、「嫁ぐのがハルナだ」という配慮が効いてくる。
おそらく、ハルナが後継者を妊娠することはあるまい。漏れ聞こえる噂によればハルナは極端に男性を恐れているというし、ましてや男女の契りがまともに遂行されるとは考えにくい。
つまりシャレット家は、「形式上の第一夫人の座は貰うが、新オルセン家の後継者を生むのが誰になるかは、他の家がどれほど魅力的な側室を送り込むかによって決まるだろう」という、最低最悪な競争を持ちかけたのだ。
そしてクソッタレの極みなことに、他の6家はこのレースに乗ってきた。
ああ神よ、この腐り果てた貴族どもに、願わくば天の裁きを!
種馬がどの牝馬に最初に種付けするかで将来の利権を争うなど、それだけでもおよそ人倫を踏みにじっているというのに、それを馬ではなく人間でやるか!?
そしてこの最悪のギャンブルを「十分に公平だ」と考えて乗ってくる馬鹿が、どうしたらマジョリティを占め得るんだ!?
奴らは——いや、俺たちは、いつからこうなったんだ!?
激昂しそうになった俺を抑えたのは、ライザンドラ見習いだった。怒りのあまり立ち上がりそうになったその刹那、彼女の手が俺の肩に置かれたのだ。
それだけのことで、煮えたぎるような怒りは俺の体の中からスルリと抜け落ちた。
ああ、そうだな、ライザンドラ嬢。あんたをあの地獄に叩き落とした俺が、聖人君子ぶって怒り狂ってみせたところで、滑稽なだけだ。結局、どんなに否定したくても、やっぱり俺たちは同じ穴のムジナなのだ。
代わりに口を開いたのは、パウル1級審問官だった。
「——状況のほう、把握しました。まずはハルナ嬢のご婚約、おめでとうございます、と申し上げます。
そのうえで、ハルナ嬢はいまだ3級審問官であることは、お忘れなく。
無論、審問官は結婚を禁じられていませんし、本人が望んでいることであれば、今回の婚約に口を挟む権利も有しません。
ですが引き継ぎなどの諸事はありますので、式の日程については少し相談させていただけませんか?」
必死に食い下がったパウル1級審問官だが、これも予想通りのいなされ方をする。
「我々にハルナを審問会派から離脱させる権利はないし、ましてや3級審問官の資格を奪う権利などあろうはずもない。
審問会派のほうでハルナを追放するというなら自ずから話は変わるが、そういうことではないのだろう?
ならば当家としては、あくまで3級審問官ハルナとスタヴロス・オルセン殿の婚約であり、婚姻であると理解している。それゆえ、審問会派がそれを望むなら、婚姻後もハルナは審問官であり続けるだろう。
もとよりシャレット家には審問官として天命をまっとうした者も少なくはない。ハルナがその列に加わることに対し、当家は何ら異議を唱えるものではない」
つまり、ハルナ3級審問官は結婚しても3級審問官のままであるのだから、引き継ぎも何もないだろう、というわけだ。
彼女が今まさに進行させている任務があるならいざ知らず、現状のあの彼女を指して「引き継ぎがあるからちょっと待ってくれ」と言い張るのは、かなりの無理筋だ。パウル1級審問官はその無理を押せない立場ではないが、無理が無理であるところを覆せるほどの権力があるわけでもない——こと、相手が帝都の大貴族シャレット家ともなれば、なおさらだ。
突破口が唯一あるとすれば、「本人の意志」の部分だろう。
ハルナがいまだに審問官である以上、本人の意志に反して行動を強制されているというのであれば、審問会派は審問官に対する脅威を排除すべく動くことができる。極端なことを言えば、ある審問官がその意志に反して殺されそうだというのなら、審問会派はその審問官を救うべく救援を送り、状況によってはその場で(主に暴力を使って)問題を解決することもできる。
だが俺の読みが正しければ、シャレット卿ほどのクソ野郎が、それへの対策をしていないなどあり得ない。
——そして事実、奴は一枚の証書を取り出した。
「それから、これが今回の婚約を証明する証書となる。
ハルナはまだ上手くサインができぬゆえ、両人ともに血判で己の誓いを証明している。
念のため、ご確認頂きたい」
あからさまに渋々といった雰囲気を漂わせながら、パウル1級審問官が証書を手に取り、しばらく検分した後、「確かにハルナ3級審問官の血判です」と認めた。
そりゃね、こんな証書、どう見たって偽造というか、嫌がるハルナを押さえつけるか強い睡眠薬でも使うかして、無理矢理血判を押させて作ったシロモノだと思って絶対に間違いない。そんなのは馬鹿でも分かる。
でも、教会の人間であるパウル1級審問官は、そこに踏み込めない。なぜなら貴族の間ではこの手の無理矢理な証書が何枚も作られてきたし、それを教会はずっと黙認してきたからだ。
栄光あるアルール帝国の歴史において、泣きわめきながら望まぬ婚姻の儀に向かった花嫁は、おそらく3桁では収まらない。格下の貴族や庶民相手に略奪婚じみたことをする高級貴族は、この現代ですら存在する。
それだけに、「ハルナの件についてだけは、もっと詳しく調査します」とは、言い出せない。さすがに俺もそこまで詳しくないので断言はできないが、メリニタの魔女に頼み込めば、血判の主の真意だって分かる、の、かもしれない——がこの件についてその例外を作れば、同じように涙を流してきた女たち(そして何よりその親たち)は、それを復讐のチャンスと見做すだろう。
それがこの帝都をどれほど激しく揺るがすか、想像するだにゾッとする。いやまぁ「こんなことで揺らぐ程度なら揺らぐだけ揺らげばいい」と思いはするんだが、ガルシア家の当主としては、そうも言っていられない。
つまるところ、神が「男と女は互いに欠けたところを補いながら、このあまねく大地に満ちよ」と仰られた(らしい)神代の時代から数千年経ってなお、こと貴族社会においては、女は男の所有物と見なされ続けている(俺が他のクソよりマシなところがあるとすれば、俺は妻を一人の独立した芸術家として心底リスペクトしているってことだろう)。
そしてこのクソったれ極まりない習慣のせいで、俺たちはシャレット卿のような超弩級のクソ野郎が、超弩級のクソの山を作ろうとしていることを、止められない。
かくして不甲斐ない男ども2人が敗退したところで、いよいよ真打登場と言わんばかりにライザンドラ嬢が口を開いた。
「私の記憶によれば、スタヴロスは当主の器ではないどころか、人として問題の大きな人物です。
オルセン家の人間として、彼を当主とすることに、私は反対いたします」
いいぞ、もっと言ってやれ! 的な声援を心の中で送る。この場にはもっと、こういう正論が必要だ。
「とはいえ『オルセン家の復興に関して、ライザンドラ・オルセンは一切の意見を言わない』という諒解がなされていることは存じておりますので、独り言はこの程度にいたしましょう」
いいぞいいぞ、さすがはオルセン家きっての才媛だ! その厚顔無恥っぷりに痺れるぜ!
「しかしながら、復興後のオルセン家のことを考えますと、ひとつだけどうしても申し上げるべき提案がある、と判断しました。
復興後のオルセン家は、シャレット家からの援助なしには成り立ちますまい。オルセン家としては、シャレット家との関係を安定したものとすべく最大の努力をすべきであることに、議論の余地がありません」
そこでガルシア家の名前をチラリとも出さないところが、実にクールでいいね! そりゃまあガルシア家としてはオルセン家復興に「カネをつぎ込む」ことが目的なんだから、頼まれなくたってオルセン家にカネを突っ込むんだけどな!
「そこでご提案なのですが。
スタヴロスは酒に溺れるだけでなく、女性に手を上げる悪癖があります。女を殴って服従させる以外、彼には自慢できることがないのです。
ゆえに何の対策も講じなければ、スタヴロスはハルナ嬢にも暴力を振るうと思われます——オルセン家としては、最も避けたい事態です」
……事前にこういう筋書きで行くと聞いてはいたが、実際に彼女の弁舌でこれをやられると、まるで割って入るスキがない。いやー、彼女が敵でなくてよかった。いや、敵なんだけどさ。
「ですので、ハルナ嬢とスタヴロスの結婚後は、住居を分けることにご了承いただきたく。
もとよりシャレット卿も、ハルナ嬢がオルセン家の跡継ぎを産むことまでは計画に入れておられないのでしょう? とはいえ、何かと間違いが起こるのが男女の間柄です。その不安を諸家に抱かせないためにも、式が終わり次第、別居を始めるべきかと考えます」
——うん、まあそのなんだ、大きくスタートしたわりには小さなゴールだが、これですら本来、要求としては高すぎる。
なにせ貴族社会の常識で言えば、俺たちがこうやってシャレット卿のところに乗り込んできたことすら無理筋なのだ。挙句、「ハルナ嬢が世継ぎを産むことを100%諦めろ」なんていう要求を、あたかもそこにシャレット家にも利益があるかのように堂々と語るってのは、よほどの度胸と面の皮の厚さがなきゃ無理。
ともあれライザンドラ嬢の提案に対し、シャレット卿はしばし沈黙した。
まあ、判断としては悩みどころだろう。ライザンドラ嬢はあえて指摘しなかったが、スタヴロスがハルナ嬢を殴って殺してしまったりすると、シャレット家としては「(利権確保のため)オルセン家に支援を続けたいが、筋論としては支援は続けられない」状況に陥る。
で、さらに悪い可能性として、錯乱しているとはいえ3級審問官としての身体能力を持っているハルナ嬢がスタヴロスに反撃して殺してしまうってのがあり得て、こうなってしまうとシャレット家としては「どうするんだコレ」と呟いて棒立ちになるしかないはずだ。
つまり論理的に考えると、ハルナ嬢とスタヴロスは隔離しておくべし、なわけ。
で、そういう状況ってのは、このクソみたいな縁談において唯一あり得る「ちょっとはマシな結末」だ。
とはいえシャレット卿としては、超低確率とはいえハルナ嬢がスタヴロスの子を産み、「公正な賭けの結果としてシャレット家が総取りしました」という結末の可能性を投げ捨てるのも、面白くあるまい。
さて、どうするよ、シャレット卿?
俺がやや意地悪な気持ちを転がしながらシャレット卿の様子を伺っていると、ヤツはふっと小さく笑ってから、「さすがはライザンドラ・オルセン、か」と呟いた。
おー、すげえ、勝ちやがった! 勝ちやがったよ、ライザンドラ嬢!
「いいだろう。スタヴロス殿とハルナは、結婚式の翌朝から別居させる。
だが初夜の儀だけは、形なりとも行ってもらう。かつてジャービトン派は『初夜の儀すらなかった夫婦の間に、真の愛情が育まれていたとは考えられない』という見解を出したことがある。それを引っ張り出されては、こちらとしては堪らん。
この条件で、どうだ?」
……ふむ。パウル1級審問官とライザンドラ嬢は渋い顔をしているが、俺としては妥当なラインだと思う。初夜の儀といっても、まともに男女の契りが遂行できるとは思えないしな。それにこちらとしては、初夜の儀が始まるまでにスタヴロスを祝福の乾杯攻めにして、酔い潰してしまうという古典的な手もある。
俺たちはチラチラと視線を交わし、パウル1級審問官がやけに否定的な態度を最後まで保持したものの、結局は「ここが妥結ラインだ」という合意に至った。アレな話だがガルシア家当主として言えば、シャレット卿が「ガルシア家の有象無象をオルセン家に送り込むための空席は、当初の約束どおりの数を準備している」と保証した以上、本当に何も言うべきことがない。
かくしてライザンドラ嬢は「ではそういうことで」と言って立ち上がり、俺たちもその後を追うようにして席を立った。
ま、最悪の交渉だったが、それでも最悪の結果とは言えまい。
——と思っていたのだが、シャレット家の正門を抜けても、パウル1級審問官の額には皺が寄ったままだった。俺はライザンドラ嬢の勝利にケチをつけられたような気分がして、つい棘のある言葉をかけてしまう。
「どうした、パウル1級審問官殿!
弟子たるライザンドラ見習いが、貴君より能弁だったのが、そんなに不満かね?」
俺の安い挑発を、パウル1級審問官は肩をすくめて受け流した。ま、そんなもんだ。
でも彼がぽつりと呟いた言葉は、俺の心に棘のように刺さった。
「ライザンドラ見習いの交渉能力は、既に僕なんかより上だ。
だが彼女には——あえて言えば僕らには——共通した問題がある。僕らは、賢すぎるんだ。
シャレット卿は、間違いなく、とてつもない愚物だ。
その愚かさの底を、僕らは読み切ったと言えるのか?」




