アルール歴2182年 7月8日(+6秒)
——ライザンドラ審問会派見習いの場合——
「まず最初に、議論のスタート地点に立ちましょう。
つまりカナリス2級審問官の分析を総合すると、審問会派はナオキ容疑者の捕縛というミッションにおいては、敗北した。
この認識に、誤りはありますか?」
大胆かつ迷いのない指摘に、カナリス2級審問官は怒るどころか、思わずといった風情で苦笑いしていた。「審問会派は敗北した」という言葉を、ボニサグス派が語る――場所が場所ならそれだけで巨大な政治闘争が始まりかねない一言だ。
でも私たちはユーリーン司祭のその言葉に、素直に頷けた。確かに、議論のスタート地点とすべきはそこだ。
「その上で申し上げますが、審問会派がダーヴの市民にもたらした平穏と正しき信仰については、1000年後にも語り継がれるべき偉業です。
これもまた正しく評価しなくては、判断を誤ります。差し出がましい説教となりますが、カナリス2級審問官が思考の迷路に陥った原因のひとつは、ここにもあるかと」
なるほど。相変わらず、鋭い着眼点だ。
カナリス2級審問官はあまり得心がいっていないようだったが、その怪訝な顔も、続くユーリーン司祭の言葉で吹き飛ばされていった。
「整理します。
1つ、ナオキは勝利した。
1つ、ダーヴの街の隠れ異端は駆逐された。
以上より、ダーヴの街における隠れ異端は、ナオキにとって敵対者ないし無関係、どんなに彼の味方よりに解釈しても『許容できる損失』であったと言える。
ここまで、よろしいですか?」
そう。様々な情報や条件によって目隠しされていたけれど、起こったことだけに目を向ければ、そう判断するのが最も妥当だ。
ザリナさんと赤牙団を動かし強硬手段を使って逃げるのでよければ、ナオキはいつでもあそこから逃げられた。「ナオキなる男は、ダーヴの隠れ異端や薬物カルトを盾にして命からがら逃げ出した、コソドロに過ぎない」という説は、帝都の教会関係者の間ではしばしば口にされるけれど、状況とはまるで一致しない。むしろ「隠れ異端を掃滅する」というゴールに限って言えば、彼は協力的ですらあった。
「ダーヴの街の隠れ異端を駆逐し、薬物カルトを殲滅したことは、何を語るよりも先に、ダーヴ市民に神の平穏をもたらす偉業であったことを、まず我々こそが真正面から認めねばなりません。
そのうえで、ナオキと隠れ異端の関係性をある程度まで定義できたことは、ナオキ追跡に対し確実に有益な機能を果たします。これはナオキの意図や行動方針を絞り込んでいく、重要な手がかりとして利用できるからです。
事実、捜査の素人である私ですら『ケイラスが今なおナオキを密かに操っているということはあり得ません』と断言できるくらい、状況の複雑性を縮減できているではありませんか。
ですから、ハルナ3級審問官のことも、特別行動班の皆様の犠牲も、断じて無駄ではありません」
ユーリーン司祭の言葉に、カナリス2級審問官は深く心を動かされたようだった。
おそらく彼は、今の言葉を、誰かに言ってほしかったのだろう。
「彼らの犠牲は無駄ではなかった」と、腹蔵なく認めてほしかったのだ。
確かにカナリス2級審問官の判断は、間違っていたかもしれない。だがハルナさんや特別行動班のメンバーが味わった苦痛と恐怖、そして支払った代償は間違いではなかったと、誰かに評価してほしいーーその秘めたる願いを、誰が笑えようか。
「それから、ニリアン領で私が行っていた事業を凍結することは、まったくもって合理的な判断です。ライザンドラ見習いを疑ったこともまた。
ナオキにどんな意図があったかは判然としませんが、彼がハルナ3級審問官を陥れようとしていたのは、ほぼ疑いがありません。
彼はハルナ3級審問官に対し、エミルを警戒するように何度も誘導しています。ほとんど洗脳といってもいいでしょう。あの誘導がなければ、ハルナ3級審問官はあそこまでエミルに拘らなかったと考えられます。
つまり、ナオキには審問官を陥れようとする意図があった。それも、非常に巧妙かつ婉曲的な方法で、です。
そういう人間が持ち込んだ改革に対しては慎重であってありすぎということはありませんし、長らくそういう人間の助手だった才媛を徹底してマークするのもいたって合理的です。
もしいまカナリス2級審問官が自責の念からニリアン領における改革を再開させようとするなら、私はそれに反対します。
ああ、でもライザンドラ見習いに謝罪するというのであれば、それはそれで良いのではないでしょうか」
それを聞いて、思わず苦笑してしまう。少し目尻に涙を浮かべていたカナリス2級審問官も、なんとも言えない顔で苦笑いしている。
ユーリーン司祭は、位階も年齢もずっと上のカナリス2級審問官を、その知恵に満ちた言葉をもって暖かく包容したかと思ったら、その勢いのまま「手前勝手な甘えで馬鹿なことをするんじゃありません」と叱責したのだ。
まったく。パウル1級審問官が、ユーリーン教皇を立てることを夢見る気持ちが、よくわかる。彼女が教皇として教会全体を指揮する世界はきっと、誰もが見たことのない、それでいて誰もが心のどこかで望んでいる世界になるはずだ。
その思いはカナリス2級審問官も同じだったようで、彼はとても穏やかな表情のまま、私に向き直った。
「なるほど、ではユーリーン司祭のお言葉に従おう。
ライザンドラ見習い――いや、ライザンドラ・オルセン嬢。任務とはいえ、すまなかった。だが願わくば君はもっと、人を信じすぎない心を養ってほしい」
今の私から見れば天上界に住む偉大な審問官の謝罪に、私は神妙な顔で頷く。カナリス2級審問官の謝罪は、説教含みではあるけれど、誠意のある謝罪とはこのようなものなのだなと素直に納得できる言葉だった。
そんな私達の様子を見てユーリーン司祭もまた何度か頷くと、さらに分析を続けた。
「ではいよいよ、問題の本質に迫りましょう。
果たしてナオキはいまどこにいて、何をしようとしているのか? あるいは何をしているのか?
これについては、ライザンドラ見習いの見解を伺いたいところです」
突然水を向けられて、私は思わずきょとんとしてしまう。
でも確かに、これは本来、私が考えるべきことだ。
しばらく、沈思黙考する。
ナオキの思考や行動をトレースできる自信は、まったくない。
だからそこから解き明かそうとしては、いけない。
そうではなく、もっと広い視点で、考えるべきだ。
「――難しい、ですね。
ですが……まずは私もユーリーン司祭に習って、困難を分割してみます」
ユーリーン司祭が真面目な顔で強く頷く。
「まず――所与の状況に立ち戻ると、ナオキは勝利しました。
つまり考えるべきは、『勝利した人間として、次に彼はどう振る舞うか』ということかと思います」
ナオキだって、人間であることには違いない。
そして人間である以上、どうしても限界はある。
「勝利の後にできることは、理論上、3つに別れます。
1つ、勝ち逃げする。この場合、今回の勝利で得たプラスをゆっくりと溶かしながら、どこかで天寿をまっとうするのが目的となります。
2つ、勝利をただただ喜ぶ。一般的に言って最も採用される行動方針ですが、ナオキがこれを選ぶかと言うと、かなり違和感があります。
3つ、勝利を拡大すべく動く。この場合、今回の勝利で得たリソースを種銭として、より大きな勝負を仕掛けるべく動くことになります」
ユーリーン司祭を見習ってのシンプルな分類に基づく分析は、司祭じきじきに「良いスタートですね」という評価を頂けるものとなった。とりあえず議論の導入には合格、というところか。
と、思案げなカナリス2級審問官が、私の分析を引き継ぐ。
「だが勝ち逃げは考えにくい。
彼が持ち出した資金は相当な規模だが、それでも一生安泰という金額ではない。彼と行動を共にしている連中にも食わせるとなれば、なおさら無理だ。
どこか別の辺境で新しく事業を起こして、ひっそり生きるという可能性はあるが、それなら赤牙団の精鋭部隊まで連れて行く必要がない。ザリナだけ連れていけば十分だったはずだ」
その通り。それにこの、事実上の引退でしかない選択を、あのザリナさんが支持するとは思えない。私が知る彼女なら、ナオキがそんな選択をほのめかしただけでも、その場で頬を張って決別しているだろう。
ザリナさんのあっけらかんとした笑顔を思い出しながら、私はカナリス2級審問官の推論をさらに先に進めた。
「同意します。それにナオキは常々、『勝っているときこそが、もっと勝負すべきときだ』と語っていました。こちらが勝ったということは相手は弱っているのだから、回復の間を与えずに攻め続けるべきだ、と。
そしてこの『こちらが勝ったということは相手は弱っている』という状況は、ナオキ追跡という一点に限って言えば、いまの審問会派の状況と綺麗に一致します」
私の推論に対し、カナリス2級審問官が小さく「そうか」と呟いた。
私自身、この発想に至れたのは、今この場でのことだ。ユーリーン司祭の指し示した最初の一歩がなければ、こんな可能性はまだまだずっと先になるまで思いつかなかっただろう。
しかるに当のユーリーン司祭は「よくできました」とでも言わんばかりの顔でゆったりと頷くと、私達の分析を総合して語った。
「そうですね。今回サンサ教区で起きた事件の中でも、ナオキが最終的に逃亡したという点に限って言えば、教会組織全体はもちろん、審問会派だって、そこまで大きな痛手になったわけではありません。
ですからたとえナオキであっても、教会組織全体や審問会派全体を相手とする限りにおいては、『弱ったところにつけこむ』ことは不可能でしょう。どんなに奸智に長けていたとしても、個人でなんとかできる規模の相手ではないと断定できます。
でも彼を追うことを目標とした審問会派——つまり今の私たち——に限って言えば、初期の分析どおり、あまり良くない立場にいます。具体的に言えば、ナオキ個人の力でも『勝ちの拡大』を狙える程度には、劣勢と考えて良いかと」
つまりナオキは、ユーリーン司祭がまさに「困難を分割する」と語ったように、審問会派という困難を分割することに成功しているのだ。
確かに彼が全力を投じたところで、今の教会組織全体はもちろん、審問会派を相手取って戦うことなど、まるで不可能だろう。でも「ナオキを最後まで追い詰めねばならない」と考えている私達少数派が相手であれば、彼ならばやりきってしまう可能性がある。
あまり性質の良くない不安に取り憑かれた私をよそに、カナリス2級審問官はむしろ闘争心を燃え上がらせたようだった。今すぐにでも立ち上がって、戦鎚を手にナオキの頭をかち割りに行こうとする、そんな気迫を感じる。
でもそれだけに、彼の抱く疑問もまた、根源的な問題を指し示していた。
「ナオキはいま、自分の勝ちを拡大しようと動いていると考えて、ほぼ間違いあるまい。
だがいったい、そのために何をする?」
そう、問題はそこだ。
そして、商売人としてのナオキの助手として働いていた経験から言うと、彼の強みはまさにここにある。
いついかなるときも、彼は自分が何を目標とし、何をしようとしているのか、交渉相手に決して悟らせなかった——あるいは交渉相手が自分から「ナオキの手の内はすべて読めた」と誤解するように仕向けていた。
つまり、彼の真意を読むのは余人には不可能だと言っていいし、それでも無理を押すとあらぬ方向に思考を誘導される危険性すらある。
でも私は、ナオキという人間が、シンプルな言葉で高い理想と情熱を語る側面をもあわせ持つことを、よく知っている。
そしておそらく、あの情熱的な姿もまた、彼の本質のひとつなのだ。
だから私は、「彼はいったい何をするつもりなのか?」という問いのスタート地点として、そこを選ぶことにする。
「私にも、ナオキのことはまるで理解できていません。
ただ最初に会ったとき、彼は私にこう言いました。
『お前が神を殺したいなら、俺はその道程を示してやる。
遠からず、お前は必ずや神を殺すだろう』
今の私は、彼が詐欺師の類であることを、理解しています。
ですがもし。
もし、万が一。
彼が本当に神を殺すつもりであるのなら。
そしてそれが可能だと彼が確信していて、かつその方法も知っているなら。
ナオキはいま――神を殺すべく、動いているはずです」
かつてあんなにも魅了された、最初の言葉。
諦めることを辞め、命がけで戦うことを決意した、聖なる言葉。
あらゆる意味において、私の再スタート地点となった言葉。
今にして考えてみれば、あの言葉は、彼にとってもスタート地点だったのではないだろうか?
彼はあのとき、私に呪いをかけるのと同時に、彼自身にも呪いをかけたのでは?
客観的に言って、ナオキには才能がある。
彼はまず、たった数年のうちに、普通の人間では一生かけても築き得ぬ資産を積み上げた。
そして、それを元手としてカネがカネを生む状態に持ち込んだ。
社会的に見ても、辺境の地方都市とはいえ、名士と呼ばれるレベルにまで到達してみせた。
だからこそ、改めて、思う。
もし、あのとき彼が私を抱いていたら。
私は彼の愛人か、さもなくば妻という肩書を得て、成功者のトロフィーとしての人生を送っていただろう。
私にとってそれは十分に幸福な日々になっただろうし、そして彼はそうすることも選べたはずだ。
にも関わらず、彼はただ私の手を取り、「お前が神を殺したいなら」と囁いた。
零落した元貴族令嬢を隣に侍らせ、成功した商売人として安穏とした一生を終えるのではなく。
あたかも彼が、自分自身を、二度と後戻りできない旅へと投げ込むかのように、そう囁いたのだ。
——この、いわば私の信仰告白とも言える告白に、ユーリーン司祭は大いに興味を抱いたようだった。
「ただの罵倒としての神殺しではなく、本気で神殺し、ですか……異端などというレベルの騒ぎではありませんね、それは。
とはいえ、ナオキがニリアン領でやっていたことは、『神を殺す』こととは真逆でしたよね? むしろ人々に神をより深く信仰させようとしていました。
もちろん、あれをもって『聖職者ならざる人の手によってでも、人の信仰は深化させ得ることを示した』と解釈することは可能です。つまり、聖職者と教会の否定ですね。
でもそれを言うなら、例えば聖職者ならざる親が己の子供に向かって『食事に前には神様に感謝の祈りを捧げなさい』と教え導くことにより、子供の信仰が深化するということは、一千年以上も前から起こっていることです。
そして教会は、親が子を導くことを禁じていません。そうした導きの根元には、教会がもたらした正しい信仰があるからです。逆に言えば、そういったところから異端が入り込むことを防ぐため、あらゆる地域には教会があって、司祭たちが日々の信仰を守っています。そのことは、二リアン領でも同じでした」
ユーリーン司祭の指摘は、まったくもって正しい。
手段のレベルで言えばナオキの改革は斬新かつ大胆だったが、思想的なレベルで見れば「金持ちが私財を投じて貧しき人々の信仰を扶助する」という、実によくある慈善活動でしかなかった。
そしてそのことは、長らく私の悩みでもあった。
「ええ。ですから私は彼の仕事を手伝いながら、いつしか内心で、ナオキは本当に神を殺すつもりがあるのか、実のところ彼は神を殺す方法など知らないのではないかと、疑いを強めていました。
そして今では、彼は結局ただの詐欺師で、神殺しというのは壮大な嘘だった可能性も考慮すべきだ——というか常識的に考えれば口からでまかせだったと考えるべきだ、とも思っています。
でも、彼の言葉を嘘だと断定しようとすると、上手く説明できなくなるものが出てきます——ハルナ3級審問官を陥れるために、ナオキが仕組んだ暗示です。彼がなぜそんなことをしたのかが、説明できません」
ここまで喋って、私は一度、深く息を吐いた。
そして、ハルナさんのクルクルと変わる表情、世界にあふれる知識にいつでも興奮しているかのように輝く瞳、心の奥底に秘めた闇と、燃え盛るような愛のことを、思い出す。
あの頃の私にとって彼女は「なんとかして出し抜く相手」だったけれど、それでもやはり、私は彼女のことが好きだった。生きようとすることを決して諦めない彼女の強さを、眩しく思った。能うならば共に手をとって、同じゴールを目指してみたいと願った。
でも私は彼女に対し、決定的な罪を犯した。
その痛みと羞恥をこらえながら、私は己の罪もまた、告白する。
「――告白すれば、私はナオキが神殺しから手を引くのではないか、ないしそもそもそんな意図などないのではないかと疑って、ハルナ3級審問官の目の前で、彼に圧力をかけたことがあります。
そしてそれによって、ナオキがハルナ3級審問官に対するさらなる暗示となる一言を叫んだのは、事実です。ハルナ3級審問官がああなったことには、私の浅はかな行動が、一定以上の影響を与えています」
私の告白を聞いても、カナリス2級審問官は表情を変えなかった。
そもそもこの罪は、私がこれをしでかした段階で、ハルナさんの手によってカナリス2級審問官に伝えられている。
だからきっと、今でもカナリス2級審問官は心のどこかで私を憎んでいるだろう。
そしてその憎しみに負けず劣らず、ハルナさんからの報告を受けた段階でもっと効果的な予防策が打てなかったかと後悔している。
その何もかもがわかっているから、今まで私はこの話題を避けてきた。カナリス2級審問官の奥深くで煮えたぎっている怒りを刺激し、かつ、慙愧の念を蘇らせるような話題を選ぶ勇気は、私にはなかったから。
でも、それではこの先に進めない。
だから私たちは、これを踏み越えて行かねばならない。
私はもう一度、深呼吸をすると、その先に言及する。
「もう一度、繰り返します。
ナオキがただの詐欺師であるなら、ハルナさんに暗示をかける必要なんてなかった。審問会派を決定的な敵とするようなことをしても、彼には何の得もありません。
彼が商売人として傑出した能力を持っているのは間違いないのに、その彼が、まるで利益に反することをしているんです」
ハルナさんが失われたことを得失で語ると、実に落ち着かない気持ちになる。
けれどナオキと同じものを見ようとするなら、この視点で考えねばならない。
「ですが彼が神殺しを目論む異端者であるとすれば、考えねばならない問題が新たに生まれます。
つまり、彼はなぜハルナさんだけを狙ったのか、という問いです」
私が口を閉じると、重たい沈黙が降りた。
ユーリーン司祭は何か言いたげだったけれど、その言葉はカナリス2級審問官が言うべき言葉だと判断したのか、ティーカップを片手に黙り込んでいる。
たっぷり2分ほど無言の時間が過ぎた後、カナリス2級審問官が口を開いた。
「――ハルナが再起不能になったことは、我々がいまの窮地に追い込まれるにあたり、大きな原因のひとつとなっている。
ナオキが何をゴールとしているにせよ、彼が来たるべく次の戦いの序盤を制するためハルナを攻撃したというのは、十分にあり得る。
そこで私を狙わなかったのは、ハルナのほうが与し易かったからだ」
実を言えば私自身、その可能性は、考えていた。
けれど「ハルナさんは弱かったから狙われたのだろう」という部分に踏み込んでいいのは、彼女の師匠たるカナリス2級審問官だけだということは、揺るがせないと思った。
やがて、部屋に充満した重々しい空気を断ち切るように、カナリス2級審問官が再び口を開いた。
「だがそれでも——ナオキが何を企んでいるかは、わからんな。
いや、ライザンドラ見習いの説によれば、彼が目論むのは神殺し、か。
だがそれは、異端というよりは、狂人に近い発想だ。
神話の時代ですら、そんなことは不可能だったというのに」
カナリス2級審問官の評価はもっともだ。
そしてユーリーン司祭もまた、彼女ならではの表現で、その評価に同意した。
「理論を話すと長くなるので、そこを省略してお話させて頂ければ、神殺しという概念には、大きな矛盾があります。
端的に言えば、神が殺せるということは、神に等しい力を持っているということです。つまり神が殺せるなら、この地上で動き回る必要などないはずなんです。
ですがそれでも、ナオキが神殺しを目論んでいるというのは、重要な手がかりかと思います。彼がダーヴの異端教団を駆逐するにあたって我々を手助けしたのも、神殺しというゴールとは矛盾しません。辺境の隠れ異端の1つや2つ、神を殺すという目標の前には誤差もいいところでしょうから。
だからこそ逆に私は『神殺し』というヒントそのものが、彼の残した暗示ないし誘導なのではないか、と疑いたいところですが――」
いやはや、実にユーリーン司祭らしい発想だ。
でも言われてみればその通りで、神を殺す手段を知っている人間が、商人として辺境の地で毎日あくせく働いていたというのは、やはり根源的に矛盾を感じる。
けれどユーリーン司祭の言葉を聞いたカナリス2級審問官は、逆に何かの決心がついたようだった。手に持っていたクッキーを皿に戻し、カップに残っていたお茶を一息で飲み干すと、席を立つ。
「それでも私はその筋を追おう。あくまでもカンだが、神殺しが何を意味するのか、可能性の一端が見えたようにも思えるのだ。
もし、これがナオキの残した罠だというなら、今度こそ私が正面から踏み破ってみせる。
だからけして、ユーリーン司祭も、ライザンドラ見習いも、この件には手を出すな。私はもう、あんな思いをしたくはない」
……なるほど。カナリス2級審問官らしい、強い答えだ。
ナオキがどんな罠を張っていようとも、そのすべてを破壊して一気に喉元に食らいつこうという姿勢は、十分に機能し得る。なにせカナリス2級審問官は、その手法で数々の異端を討ち取ってきたのだから。
でもそうなると、私としては出来る限りの後方支援はしておきたい。
そしてそのためには、カナリス2級審問官が思い至ったであろう神殺しの正体を聞いておく必要がある。
「――一つだけ、聞かせてください。
カナリス2級審問官は、いったいナオキが何をしようとしていると考えたのですか?」
私のシンプルな問いに対し、カナリス2級審問官の答えは謎掛けめいたものだった。
「ユーリーン司祭が言うとおり、人が神を殺すことなど不可能だ。
だが、人に殺せる神なら、存在するではないか」
一瞬、何を言われたのか、理解できなくなる。
でも次の瞬間、私もまた、カナリス2級審問官に降りてきたカンが指し示すものを、理解した。
人に殺せる神。
確かに、いる。
この帝都に、存在する。
私は震える声で、自分の直感が正しいかどうかを、尋ねてみた。
「まさか……教皇を暗殺する、と?」
私の言葉に対し強く頷いたカナリス2級審問官の顔は、完全に戦士の顔へと変わっていた。
「そうだ。教皇が異端者の手によって暗殺されたとなれば、教会の権威は地に落ちる。神を殺したとまでは言えなくとも、神を殺したに等しい、修羅の世界の幕開けになるだろう。
だがこの仮説が正しいとすれば、これはナオキの息の根を止める機会でもある。
私の審問官としてのカンが正しいなら、彼はいま帝都に潜んでいるはずだ。
教皇を殺す仕込みをするなら、帝都で蠢くしかない。そして彼を追う我々が後手を踏んでいるいまが、その仕込みを完成させる、最大のチャンスだ」




