アルール歴2182年 6月29日(+0日)
――ローランド司祭の場合――
定例会の会場に顔を出すと、相変わらずそこは酔っぱらいどもの坩堝になっていた。むせ返るようなタバコと酒と香水の濃厚な匂いの渦(そしてそれらをもってしても抑えきれていない、吐瀉物のわずかな悪臭)にうんざりしながら、俺は部屋の奥で一人、盃を傾けている男に挨拶をする。
「遅れてすまない。親父の長口上を振り切るのに時間がかかった。
ともあれ、今日も盛会なようで、何よりだ」
俺の言葉を聞いたガルドリス司祭は苦い表情で頷くと、俺に新しい盃を勧めた。青を基調とした、美しいカットグラス。盃の内部に一筋差し込まれた銀のラインが印象的だ。
無論、これはデザインというだけでなく、ワインに混ぜられた毒をすばやく検知するための仕掛けでもある。我ら貴族とはすなわち教会と帝国の持つ最高の財産であり、それがゆえに、己の身の安全を守ることは我らにとって最大の義務だ。
俺はガルドリス司祭が手ずから注いだワインを少し口に含む。ふむ――これはおそらく……
「シャトー・クレオリスの1級、2176年……いや、2174年か?」
ガルドリス司祭はにやりと笑顔を浮かべると、小さく手を叩いた。
「お見事、2176年で正解だ。
年代まで的中させるとは、相変わらず君の舌は冴え渡っているな」
お褒めに預かり光栄だが、俺にしてみればこの程度は分かって当然と言いたいところだ。ワインは神と教会にとって重要な意味を持つ酒であり、それゆえに、優れたワインの味を知ることは信仰を深める一助となる。酔うために飲むなら、そこらの貧民が飲んでいる雑酒でも飲めばいい。
そんなことを考えながらちびちびとシャトー・クレオリスを飲んでいると、再び表情を暗くしたガルドリス司祭が話しかけてきた。
「――良い知らせが1つ、悪い知らせが1つある。
どちらから聞きたい?」
いやはや、実に古典に忠実な男だ。だが俺はそんなガルドリス司祭のことが嫌いではない。我ら真の貴族が伝統を重んじなければ、この世界はあっというまに軽佻浮薄の波に押し流されてしまうだろう。
それゆえ、俺もまた「ならば悪い知らせを先に」と返答する。これぞ古典というものだ。
案の定、ガルドリス司祭は口元だけで薄く笑うと、悪い知らせとやらを語り始めた。
「ボニサグス派のユーリーン司祭を審問会派が拘束している件だが、あれは拘束ではなく庇護とみて間違いないという情報が入った。実に今更な話ではあるが、最悪の事態が確定したというのは、やはり悪い知らせと言うほかない。
実に、実に、この上なく忌々しい話だ。私にとっても、君にとっても、我らがジャービトン派青年改革期成同盟にとっても」
ガルドリス司祭の言葉は、ある程度まで予期していたとはいえ、俺の心に突き刺さった。神の教えの本質を理解しようとせず、ただ枝葉末節の屁理屈ばかりをこね回すような女を、審問会派が庇護しているとは! まったく、教会の秩序と栄光はどこに行ってしまったのだろう?
ガルドリス司祭が言う通り、彼も、俺も、そしていまこの場に集まっている〈同盟〉の同志たちも、あの女には煮え湯を飲まされてきた。
ガルドリス司祭が教会の腐敗と硬直性を憂いて〈同盟〉を立ち上げたとき、あの女はガルドリス司祭の高邁な思想を完全に否定するに留まらず、〈同盟〉には厳重な監視が必要となるだろうと言い立てた。「彼らはやがて酒食と色欲に溺れるか、あるいは冒険主義的な改革を旗印に無基軸な暴力に走るか、さもなくばその両方に手を染めることになる」と言い放ったその言葉を、我ら〈同盟〉の同志たちは何世代先までも忘れないだろう。
それからもあの女は、ことあるたびに〈同盟〉の同志たちに言及し、誹謗中傷を繰り返した。
幼い頃から幼年学校で切磋琢磨し、神学校においても類稀な成績を残して学位を修得、上級神学校でも数多くの優れた論文を残している同志たちの業績を、あの女は重箱の隅を突くが如き態度で否定したのだ。ど田舎から這い出てきた、典雅も礼節も持ち合わせぬ、やたら態度と胸ばかりデカイあの女が!
俺個人としても、あの女には浅からぬ因縁がある。
上級神学校でも飛び抜けた成績と実績を残してきた俺は、〈同盟〉のホープとして、帝国神学院に進むはずだった。俺は構造的な問題を抱え込んでいる教会を根底から改革した革命の闘士として、帝国神学院にその名を刻むはずだったのだ。
だがその最終諮問の席で、あの女はまたしてもくだらない屁理屈を振りかざし、司祭の序列も階級も何もかもを無視して俺の弁論を妨害した。この妨害のせいで弁論の調子を崩した俺は帝国神学院への道を断たれ、それがきっかけとなって、俺の転落の人生が始まった。俺が歴史的栄誉を掴み損なったのは、何もかも、あの女のせいなのだ。
無論、あの女には、相応の報復も下している。
下男どもに命じてあの女を拉致し、後生大事にしていたとおぼしき純潔を、その生まれに相応しい方法で汚してやったときのことは、いま思い出しても溜飲が降りる。
畜生どもに尊厳を踏みにじられ、涙と鼻水と涎でドロドロになった顔で許しを請う言葉を繰り返した、あの浅ましい姿! 貴族であればその場で舌を噛んで自決したであろうに、生き意地汚く己が命にすがりついたあたり、あの雌犬の地金が出たと言うべきであろう。
なのに!
あの女はサンサの辺境を生き延びたどころか、そこで審問会派の援護を得て、帝都に帰ってきた。
聞くところによれば、サンサの地ではついに淫らな異端に手を染めるところにまで至ったらしいというのに、審問会派はいったい何を考えているのか?
怒りのあまりテーブルに酒杯を叩きつけそうになったが、そこでかろうじて俺は自制を取り戻す。
そうだ。どんなに口が回ろうと、あるいは審問会派が庇護しようと、あの女の本性は所詮、野良犬となんら変わらない。もしあの雌犬が神聖なる神の家に上がり込もうというのなら、そのときはまた躾けてやればいいだけのこと。
そんなことより、もっと重要なことがある――あのガルドリス司祭が勿体つけて後回しにした「良い知らせ」を聞き、検討しなくては。
だから俺は表情を引き締めるとワインを一口飲み、ガルドリス司祭の言葉を待った。
「悪い知らせはそれだけだ。では、良い知らせの話をしよう。
ケイラス元司祭に対する異端の疑いだが、サンサに左遷される以前の段階においては異端に汚染されていないのではないか、という見解を審問会派が示している。
つまり、我らが偉大なる同志としてのケイラス司祭は、シロということだ」
その知らせは、俺にとってみれば、あまりにも自明だった。そもそもあのケイラス司祭が異端だなど、絶対にあり得ないのだから。
とはいえ、俺だって世論全体の風向きが〈同盟〉にとって逆風になっているのは分かっている。
そして今回示された審問会派の見解が、〈同盟〉にとって大きくプラスになるのも、理解できる。
愚か者どもの中にはケイラス司祭を異端と決めつけるに留まらず、かつてケイラス司祭を我ら全員の師と仰いだ〈同盟〉もまた精査が必要ではないかという妄言を吐く者すらいるらしい。まったくもって論外と言うべき愚かさだが、愚かな者ほど――あの雌犬のように――俺たちのような選良を嫉妬し、妨害し、誹謗中傷することで快楽を得ようとするものだ。
だからここにきて審問会派自らが「帝都にいた頃のケイラス司祭は異端ではなかった」という見解を出してきたのは正直、ありがたい限りだ。これで馬鹿げた勘繰りも絶え、〈同盟〉は改革運動を再開できるだろう。
だがそれだけに、よく考えねばならない。
審問会派が、暗黙のうちに〈同盟〉に対し取り引きを持ちかけたのは、間違いない。
連中はあの雌犬を帝都で飼う代償として、少なくともケイラス司祭の過去については吟味しないことと、我ら〈同盟〉を風評被害から守ることを申し出てきた。
取り引きの材料として示された内容は、けして悪くない。
だがこの取り引きが理にかなっているかとなると、断じてノーだ。
そもそもケイラス司祭は異端ではないし、俺たちだって異端などであるはずがない。
にも関わらず「ケイラス司祭が異端ではないこと」「〈同盟〉は異端に汚染されていないこと」を材料として俺たちから妥協を引き出そうというのは、いくらなんでも舐めた態度としか言いようがない。
ゆっくりと思考をまとめながら、俺はガルドリス司祭に向かって理論を展開する。
「ケイラス司祭が語った愛という思想に、異端性はなかった。
ケイラス司祭が左遷されたのは忌々しい教会政治の結果であって、ケイラス司祭の正しさを、わざわざ審問会派ごときに保証してもらう筋合いはない。
無論、俺たち〈同盟〉の正統性についても、同じことが言える。俺たちはただ堂々としていればいいだけであって、審問会派につけ込まれる隙を見せるべきではない」
俺の見解に対し、ガルドリス司祭は重々しく頷く。彼だってこの程度のことは分かっていたのだろう。ただ、この峻烈な判断を下すにあたり、自分の正しさを認めてくれる同志が欲しかったのだ。
その気持ちは、よく分かる。真実に立ち向かうとき、人はどうしようもなく孤独だから。
しかしながら、ここで話を終えるわけにはいかない。さもなくば世間知らずなガルドリス司祭は、審問会派からのオファーを完全に突っぱねるだけで交渉を終わらせてしまうだろうから。
だから俺は、無難な落としどころとも言える着地点を提示して見せた。
「とはいえ、〈同盟〉の置かれた状況が良くないのは事実だ。現状の一時的な苦境を最小限のダメージで切り抜けるには、審問会派との協力も必要だろう。
そこで、だ。〈同盟〉として、審問会派に対しシャレット家との交渉のチャンネルを提供する、というのはどうだ?
審問会派は現在、シャレット家との関係が悪化している。そして我が〈同盟〉の同志には、シャレット家の五男である俊英、アガノ・シャレットがいる。彼を仲介役として紹介することで、俺たちはけしてユーリーン司祭のことを認めない、という姿勢を示すことができるだろう。
つまり、あくまで取り引き材料はシャレット家との交渉窓口提供であって、ユーリーン司祭を帝都で飼うことを俺たちが認めることをもって、審問会派が示す報酬を得るわけではない、という構図だ」
ガルドリス司祭は俺のアイデアにいたく感じ入ったようで、俺の手を取ると「さすがは〈同盟〉きっての天才だ。風雲児ローランドここにあり、だな」と興奮したようにまくしたてた。
そして、そうやって瞳を潤ませて熱く語るガルドリス司祭を見ていると、俺も胸の中で情熱が昂ぶってくるのを感じる。
だから俺はガルドリス司祭の手を柔らかく握り返し、その綺麗な指に俺の指を絡めた。ガルドリス司祭――いや、ガルドリスの顔がより一層、紅潮する。
俺たちは手に手を取ったまま席を立つと、鍵のかかる私室へと向かった。〈同盟〉の同志たちはもう完全に泥酔していて、そこらの床や庭先で化粧の濃い娼婦と一戦おっぱじめている奴らさえいる。このぶんなら、俺たちがメインホールから姿を消したことを気にする奴など一人もいるまい。
だがそのときふと、妙な人の輪ができていることに気づいた。誰かを中心にして、酒宴とも色事とも違う盛り上がり方をしているグループができている。
出入りの娼婦や芸人はガルドリスが手配しているので、何かを疑うというわけでもないのだが、さすがに少し気になると言えば、気になる。
なので俺は足を止めて、ガルドリスに「あの人の輪は何だ? 新しい芸人か?」と聞いてみた。
ガルドリスの答えは、予想の斜め上を行っていた。
「新しい芸人だな。女占い師を雇ってみた。
カードを使うようだが、なかなかよく当たる。少し前に君のことを占ってもらったが、『遅刻はしても必ず姿を見せる』と言ってのけたぞ?」
おいおい、なんてことだ。厳密に言えば占いは異端の行いとして、教会法で禁止されている。占いを頼んだ方は最高で鞭打ち、占った方は最高で火刑まである。
とはいえ貴族社会では占い師も占術もわりと横行しているし、無知蒙昧な平民どもは実に気楽に街角の占い師にお伺い立てたりもする。
そしてこの手の気休め的な娯楽を禁じたところで、意味はない。
厳罰をもって処すれば「占いには意味がある」と思い込む馬鹿の数は逆に増えるし、そうやって信徒を得た占い師が地下に潜って異端教団めいたものを作るケースも報告されている。適度に緩くやるのもまた、神の愛を世に広めるためには必要なのだ――いま我らが同志たちが酒と色を楽しみ、俺たちが互いの愛を確かめあう、そんな時間が必要なように。
だから俺はガルドリスの手をしっかりと握ると、その女占い師とやらを囲む人垣に背を向け、個室へと向かった。




