アルール歴2182年 6月29日(+2日)
――ガルシア卿の場合――
ガルシア家の家訓は、「滅びのみが敗北」だ。なんとも非の打ち所のない、見事な家訓だと思っている。無論それは、俺がガルシア家の当主としてガルシア卿を襲名したからということもある。が、「家」ということを考えたとき、その敗北は何かと考えれば家の断絶に他ならないということに、いかなる異議を唱えられようか?
多くの家は、いかにして勝つかを考える。
だがガルシア家が目指すのは、負けないことだ。
「滅びのみが敗北」という家訓は、つまりはそういうことだと俺は考えている。
それだけに、俺の目から見ると、先代のガルシア卿は頭が悪かった。親父は負けないことではなく、勝つことを目指したのだ。
そしてなんとも間の悪いことに、幾つかの偶然が噛み合って、先代が当主を務めた約30年間に、ガルシア家は急激に発展した。最後は長年の宿敵だったオルセン家を叩き潰し、帝都の九名家を八名家にしてしまうくらい、何もかもが完璧に噛み合った。
けれど先代は、やりすぎた。
オルセン家を潰したのは、まあ、許容範囲内だ。所詮俺たちはこの帝都で食うか食われるかの野蛮な戦いを繰り広げる、着飾った獣たちなのだから。
だがオルセン家が持っていた利権その他の半分以上をガルシア家が持っていったのは、あからさまに悪手だった。おかげでガルシア家は経済力においても政治力においても諸家を圧倒する存在(さすがに皇帝陛下には届かない)となったが、つまりそれは貴族社会全体を敵に回したということでもある。
そのうえ、ガルシア家の最盛期をもたらした先代は、風呂場でポックリと逝った。暗殺だの陰謀だのが騒がれたが、息子であるこの俺が保証しよう――あれはただの事故だ。
……こんなことを言うと「当代は先代を暗殺して今の地位についた」と言い出すヤツが出るが、誰が好き好んでこんなヤバイ状況で当主を継ぎたいと思うか。それに俺だって当主なんかじゃなく、もっと他にやりたいことがあった。こう見えても俺は元ヴァイオリニストで、帝国陸軍オーケストラに就職を決めたばかりだったんだぞ? くそ、バカ親父め、だからあれほど風呂場で酒は飲むなと言ったのに!
ともあれ、腹違いや妾腹も含めた息子と娘たちが雁首揃えて心温まる家族会議を開いた結果、俺は見事に当主を押し付けられた。俺としてはハメられたという思いで一杯だったが、決まった以上は覚悟を決めるしかない。いろいろとおぼつかないなりに、無節操に膨れ上がった肥満体のようになったガルシア家を切り盛りし、政敵たちと渡り合い、懐柔し、ときには実力行使に出たりもしながら、なんとか最初の5年、ガルシア家を守り続けた。
で、守ったら守ったで、今度は「現状のガルシア家こそが本来のガルシア家のあるべき姿だ」とか思い込んだ馬鹿な身内が量産され始めたので、今度はそいつらをぶん殴ったり宥めすかしたりする仕事もバカスカ増えた。今じゃあ俺は、ガルシア家の敵――つまり帝都の貴族社会全部――だけでなく、ガルシア家の身内からも蛇蝎のように嫌われてる。
そろそろ風呂場で暗殺されるんじゃねえかな、俺。
そんなこんなであがき続けてきたわけだが、当主になって10年、46歳の誕生日を迎えた夜、俺はようやく「このままじゃあもう持たない」ってことを思い知らされた。せっかくの誕生日の夜なんだから、長年連れ添った最愛の妻(帝国陸軍オーケストラ声楽隊の元主席ソプラノだ)と二人で軽く飲んで、それから久しぶりに愛の営みを――と思ったのに、その計画は見事なまでの企画倒れに終わったのだ。それも100%、俺の体の問題で。
心配した妻が翌日こっそり医者を呼んでくれたのだが、医者の見立てによれば、「身体的な疲労と精神的な疲労が限界を迎えている」のだという。要は、もういろいろ無理だから、引退しろということだ。
これは、堪えた。いろいろな意味で。実に。
だが愛する妻のためにも、親父のような突然死は避けたい。家庭人としての親父はろくな人間じゃあなかったが、それでも親父が急死して、俺の母親はめっきり元気をなくした。一時はそのまま死ぬかもしれないと医者に言われたくらいだ(ちなみに母親はいまも超元気で、バラ園の手入れに余念がない)。
それにいま俺が死んだら、ガルシア家はかなりヤバイ。なにせ俺は身内にも厳しく接してきたから、当主という地位に対するガルシア・ファミリーのヘイトはめっちゃ高い。ここで俺が突然死したら、次代の当主にファミリー内部の統制が取れるとは思えない。
つまりここらで、バカが次代当主になってもガルシア家がぶっ潰れないような、とびっきりの工夫が必要なのだ。
その「とびっきりの工夫」を求めて、俺はこの3年ほど試行錯誤を繰り返した。だがやはり、これにはいろいろ無理がある。
目指すべき条件その1は簡単だ。つまり、ガルシア家を適度にスリム化すること。
今のガルシア家は、あまりにも巨大すぎる。分家だのなんだのが無節操に増え続けているし、地方では勝手に「ガルシア家の陪臣」を名乗る木っ端貴族もいる(報告を受けては潰しているが、呆れるほどきりがない)。
この手の連中はガルシア家が本当にヤバくなったら一斉に逃げ出すつもりなくせに、今現在のガルシア家の政治力としてはカウントされてしまうという、「勝ちすぎていることが最大の問題」な当家にとっては最悪の小判鮫だ。なんとかして切り落としたい。
しかるに目指すべき目標その2も簡単だ。つまり、ガルシア家の権勢を維持すること。
恐怖政治で押さえつけてきたとはいえ、ガルシア家の連中のほとんどは「八名家最強のガルシア家」を前提として思考し、行動し、生活している。つまりガルシア・ファミリーの多くは傲慢で、尊大で、贅沢が好きだ。最近何かと話題のライザンドラ・オルセンを、虐待した挙句に強姦したクソ野郎はその典型と言っていい。あの件は未だに思い出しても腹が立つ――なんで俺があんなクソハゲデブを弁護した挙句、インチキ魔女裁判まで仕立てなきゃいけなかったんだ。ライザンドラ嬢を気に入っていた妻はあれからまる1年、まともに口を利いてくれなかったんだぞ? ああクソめ。だがあのときはそれが必要だったのだから仕方ない。ガルシア家に忠誠を誓う者たちに、それだけの見返りを提供するのが当主の仕事なのだ。
で。
それぞれ単体で見ればわりと簡単な2つの目標は、同時に満たそうとすると一瞬で破綻する。当たり前だ。「小さくなるべき」だが「小さくなってはならない」のだから、根本的に矛盾している。
かくしていろいろ考え、考え、ひたすら考え抜いた結果、俺はだいぶ諦めモードに入っていた。いやだってこれ、無理だろ? 無理だよな?
ところが世の中、馬鹿と天才には事欠かない。
とある大馬鹿野郎が持ち込んできたアイデアは、確かに不可能を可能にするものだったのだ。いや、とてつもなく馬鹿げたアイデアではあるのだが。
しかしながら、そのアイデアが優れているのは間違いない。
けして楽勝なプランではないが、実現可能性も高いし、妨害されることも考えにくい。ガルシア家をスリム化しつつ、実態としての既得権益は損なわれない。そして何より、俺の妻が喜ぶ。
ううむ、やはり最後のがデカイな。
かくしてパウル1級審問官という名前の大馬鹿はテキパキと手続きを進め、そしてなんとも因果なことに、いま俺の前にはライザンドラ・オルセンが座っている(普段はこういう場には絶対に出てこない俺の妻も、嬉しそうに隣に座っている)。
やれやれ。パウル1級審問官にいいように使われている気もするが、ガルシア家の存続に寄与し、かつ妻の笑顔が見れるとなれば、ここはひとつ、やるべきことをしよう。
そう決意した俺は、ライザンドラ嬢の目をまっすぐに見て、重々しく宣言する。
「本日はご来訪頂き、まことに感謝する。
本来であれば、本件は私こそが出向くべき案件である。
まずその点について、貴女の寛容に謝意を示したい」
審問会派見習いの僧服を身にまとったライザンドラ嬢は、俺の視線と言葉を真っ向から受け止めると、悠然と「来て頂く家もございませんから、むしろこの場をお借りできたことに私こそが感謝すべきでしょう」と返してきた。
やれやれ。これだけ綺麗に礼儀と皮肉を混ぜ合わせた受け答えが即座にできる人物にこそガルシア家を継いでほしいものだが、なかなか世の中、上手くいかん。
俺はため息を押し殺しながら、本題に入る。
「では本題を。
ガルシア家は、オルセン家の復興に、全面的に協力する準備がある。
オルセン家の家人は散り散りになっているものの、まだ存命の方も多い。
ガルシア家としては、一時的に貴女を中心としてオルセン家を復興させ、そののち、当主としてオルセン卿を名乗るのが誰になるかという点については、オルセン家に一任したいと思っている。
なおオルセン家復興から10年間は、ガルシア家が無利子の資金援助を行う。具体的な金額については後ほど詳しく交渉したいが、オルセン家に恥をかかせるようなことはしないと約束しよう」
そう。パウル1級審問官が持ち込んだアイデアが、これだ。
ガルシア家が、オルセン家を復興させる。そしてそれにかかる一時的な費用を、ガルシア家が支払う(無利子での貸与と言ったが、これはオルセン家のメンツを立てた言い方であってつまりは「くれてやる」ということだ)。
大貴族の家を復興させるのだから、必要となる現金は想像を絶するものとなる。また、明言はしないものの、ガルシア家がオルセン家に対して非を認めたということでもあるから、これを期にガルシア家から離れていく木っ端貴族たちも多いだろう。
一方で、オルセン家はガルシア家に対し、なんのかんので大きな借りを作ることになる。「お前らが滅ぼしておいて貸しも借りもないだろう」と言われると弱いが、復興オルセン家が大貴族としての名誉を重んじるなら、ガルシア家に対して借りができたと考えざるを得ない。
つまり長期的に見れば、ガルシア家はオルセン家という味方を得る。ガルシア家とオルセン家との婚姻を進め、これに伴いガルシア家の持つ利権をオルセン家に移譲していけば、ガルシア家は「失うことなく小さくなる」ことが可能だ。
ここまでが、パウル1級審問官の描いた絵図だ。
なんとも壮大で馬鹿げた絵図だが、いちいち理に叶っているのは否定できない。
けれど、それだけでは、乗れない。
この帝都でガルシア家の当主として10年ちょっとやってきて、一つ学んだことがある。
それは、「最後は人が決める」という、どうしようもない現実だ。
どんなに論理的な計画であっても、あるいはどんなに正しい意図であっても、関わっている人間が駄目なら、どこかで破綻する。けして大声では言えないが、人間の愚かさに果てはない――それこそ神のご意思を完膚なきまでに破壊してしまえる程度には、人は愚かであれるのだ。
だから俺は、この計画の要となるライザンドラ・オルセンを、再び真正面から見つめ、そして、ゆっくりと頭を下げる。
「これから先は、ガルシア家当主としての言葉ではない。
あくまで一人の男として、ライザンドラ・オルセン、貴女に謝罪する。
俺は貴女の運命が歪むところを救えなかったどころか、この手で貴女を苦海へと突き落とした。
人として、許されることではない。
だから、貴女の許しは請わぬ。だが、謝罪させてほしい。すまなかった」
普通に考えれば、こんな言葉を聞けば、激怒する。それが人間というものだ。
しかし俺の謝罪を聞いたライザンドラ・オルセンからは、なんら気配の変化が伝わってこなかった。怒りも、驚きも、戸惑いもなく、彼女はただ、頭を下げたままの俺を見ているようだった。
――やがて、ライザンドラ・オルセンは静かに語り始めた。
「ガルシア様の謝罪、受け取ることはできません。
貴方は私の名誉を汚しました。父母の名誉を、先祖の名誉を、兄弟姉妹の名誉を、あるいはオルセン家に仕えたあまねく人々の名誉を汚しました」
言葉だけを聞けば、烈火の如き批判。
だが彼女の言葉には、まるで熱が篭っていなかった。
ただ事実だけを淡々と語る。それだけだ。
「――私を苦海から救い出した詐欺師のことは、ガルシア様も聞いているかと思います。
彼は稀代の詐欺師であり、その言葉はすべて疑ってかかるべきだと理解しておりますが、それでもなお、傾聴すべき言葉があります。
『人は心の痛みも、体の痛みも、いつしか忘れ去る。
体を抉られた激痛も、家族や恋人を殺された苦しみも、いつか過去のものになる。
だが名誉に受けた痛みだけは、死ぬまで忘れない』
私も、オルセン家の汚された名誉のことを、死ぬまで忘れることはないと確信しています。
そしてこの痛みをもたらしたガルシア家のことを、けして許さないと確信しています」
ガルシア家を断罪し、決別の意思を伝えるその言葉にも、不思議なくらい、熱はなかった。
さすがに少し不審に感じた俺は、ゆっくりと頭を上げる。
視界の中に戻ってきたライザンドラ・オルセンの顔は、澄み切った井戸水のように、どこまでも平静で、透明だった。アイスブルーの瞳と、雪のような白い肌が、寒気すら感じさせる。
そして俺は――そんな彼女が、美しいと思った。
妻以外の女を美しいと感じたのは、これが初めてだ。
やや動揺する俺を冷静に見つめながら、ライザンドラ・オルセンはその右手を差し出した。
「ですから私、ライザンドラ・オルセンは、ガルシア卿に協力する意思があります。
少なくとも今のオルセン家の世代が生きている間、オルセン家がガルシア家を許すことはありません。謝罪を受け入れることもありません。私たちは、私たちの名誉を汚した貴方がたを、憎みます。そう、ご理解ください。
つまりガルシア卿は、私が内心でガルシア家をどう思っているか、推測する必要などありません。
その一点において、ご信頼ください。
そしてその一点における絶対的かつ揺るがざる信頼こそ、今のオルセン家がガルシア家に提示できる見返りです。
ガルシア卿――この取引に、乗っていただけますか?」
思わず、俺は低く笑ってしまう。
なるほど。今のこの帝都において、100%確実にガルシア家を心底憎む人物であるというのは、おそろしく貴重だ。
誰もがガルシア家を憎み、怯え、へつらい、媚び、そして騙そうとするこの帝都で、少なくとも彼女は何の揺るぎもなく、ガルシア家をただひたすら憎んでいる。ここから先に待ち構えているであろう難局を乗り切っていくパートナーとして、これほど頼りになる者が他にいるだろうか?
いやはや。これが、親父があれほどまでに恐れたライザンドラ・オルセンか。「私はあなたのことを命ある限り憎む」という言葉だけを担保に、ガルシア家と対等の取引相手として立とうとするとは! まったく、彼女という人間を試すつもりで、俺のほうが試されたような気分だ。
俺は右手を差し出し、彼女の手をしっかりと握った。
そして俺たちが握手するのとほとんど同時に、妻がそっとその手を握手の上に重ねる。ライザンドラ嬢が少し驚いたような顔をして、それで場の緊張感が一気にほぐれた。
こうなると、そこからは我が愛しの妻の独壇場だ。
「男の相談は、これで決着ね!
さあさあ、お茶にしましょう。クッキーも焼いたのよ? 今度こそ、お口にあうといいけど。私ね、ライザンドラちゃんがこんな小さいころに、手作りのクッキーをプレゼントしたことがあるのよ。覚えてる? あのときあなた、私のクッキーを食べて、『あまり良い味ではありません。それに奥様はお菓子を自分で作るより、ガルシア家のために成すべきことがあるはずです』って言ったのよ? 本当だって! さ、今度こそ美味しいって言わせますからね? ほら、あなたも早く。クッキーが冷めますよ!」




