アルール歴2182年 6月27日(+3日)
――イッケルト大司祭の場合――
「……さてさて。実に珍しいお客様をお迎えすることになったわけじゃが、相変わらず壮健なようでなによりじゃな。
まずは座りなされ。貴殿とは互いによく知った間柄ではないか!」
適当な社交辞令を口にしながら、私はパウル1級審問官に着席を促す。
世間的な評価として言うならば、彼はコウモリ野郎の二つ名にふさわしい、弁舌と政治工作の化物だ。審問会派とは思えぬほどに軽薄な佇まいで、実際に女性関係においては華やかとしか言いようのない経歴を残し続けている優男だが、甘く見れば大火傷をさせられる。
実際、私も審問会派時代には、彼を相手に何度か手痛い敗北を喫している。まかり間違っても油断の許されぬ、危険な交渉相手なのだ。
「この度はお忙しい中、貴重なお時間を頂きましてありがとうございます、大司祭殿。
ああそうだ、順番は逆になりましたが、ご昇進おめでとうございます。ジャービトン派に鞍替えしただけの価値はあった、というところですかね――ああ、これは嫌味とかそういうのではなく、純粋な賛辞です。
大司祭だろうが司祭だろうが等しく神の下僕に過ぎぬと師匠あたりは言いますが、まぁそれはちと理想論に過ぎる。己が見据えた天命を果たすためには、ときに大司祭という椅子が必要となることもありましょう。
ま、僕としてはイッケルト1級審問官として、そのお力を審問会派に最後までお貸し頂けていれば、とは思いますが。こればかりは何を言っても愚痴でしかありますまい」
――まったく、相変わらずよく回る舌だ。どう考えても嫌味でしかない一言が、気がつけば玄人好みの賛辞として落着している。実に腹立たしい。
「世辞はその程度で結構じゃよ。貴殿に褒められるほどの人間でもない。
じゃが確かに、大司祭という肩書なしには成し得ぬこともある。
さて、世間話はこの程度にしようではないか。審問会派を裏切ったこの老体に、若き1級審問官が何の御用かな?」
パウル1級審問官のペースに乗せられては、事をしくじる。ここはあくまで、飾りのない言葉で戦っていくべきであろう。美辞麗句を連ねたところで時間の無駄でしかないというのもあるが。
その思いはパウル1級審問官も同じだったようで、彼は一息で本題に飛び込んできた。
「いえなに、審問会派としては少々看過できない問題が発生していましてね。
具体的に言えば、ケイラス元司祭について、です」
さて、そう来たか!
私は遠慮なく不愉快な表情を浮かべることにした。
サンサ教区における異端狩りは、ジャービトン派にとってみれば大失態の極みと言うべき事態に発展した。異端教団の中心人物として派閥の司祭が関与しているというだけでもジャービトン派としては誰かが詰め腹を切るべきレベルの失態なのに、ケイラスの阿呆はエミルまで巻き込んでいたのだ。
確かに事件の段階ではエミルはデリク家から追放されていたが、状況証拠から見てエミルを異端教団に引きずり込んだのはケイラス以外に考えられない。今のところデリク家から公式な非難は出されていないが、彼らが「我が家の次男はジャービトン派が育てたケイラスによって道を誤らされたのであるから、何らかの謝罪があるべきではないか」と言い出せば、こちらとしては全力で頭を下げる以外の選択肢がない。
貴族社会との接点が多い(というか教会における貴族社会そのものである)ジャービトン派にとってみれば、特定の貴族の家に全面的な謝罪をするなど、文字通り最悪の事態だ。
だからこそ私はパウル1級審問官とカナリス特捜審問官を英雄に仕立て上げ、ジャービトン派の責任問題よりも、審問会派の歴史的偉業のほうに世論が集中するように操作した。
幸いハルナ・シャレットが最悪の方法で貞操を汚され廃人となったという醜聞も一緒に転がり込んだので、世に渦巻く「反撃できない相手を思う存分にぶん殴りたい」という欲求は、ハルナに対する誹謗中傷という形で解消させることにも成功した。
ハルナという藁人形がなければ、彼らの卑しき欲望はエミルを悪様に罵るという方向で発散され、その流れは必然的に、デリク家からジャービトン派に対する謝罪請求という結末にたどり着いていただろう。一方で万が一、シャレット家が自家の令嬢を傷物にされたことに対して謝罪請求をすることがあったとしても(極めて考えにくい請求だが)、彼らが第一に訴えるべき先は審問会派なのだから問題ない。
ケイラスの件でジャービトン派が何らかの責任を取らねばならないのは事実だが、それでも最悪の事態――つまりこの事件にはより深い闇が潜んでいて、それを審問会派が掘り起こし続けるという事態は、今のところ回避できそうな機運にある。カナリスの肩書は特捜審問官から二級審問官に戻っているのだから、審問会派としても、もうそのつもりなのだ。
無論、ケイラスの背後にどれほど巨大な腐敗が眠っているのか(あるいはいないのか)については、精査されねばならない。それはあまりにも当然のことだ。
だがその徹底的な調査は、審問会派の手によってではなく、ジャービトン派の手によってなされねばならない。審問官などという野良犬風情に、高貴なるジャービトン派の家を荒らされるわけにはいかないのだ。
この利害得失すべてをひっくるめて、審問会派の上層部は大筋で私の書いた筋書きに乗ってきた。だからもしここでパウル1級審問官がケイラスに関しての話を蒸し返すというなら、横紙破りも甚だしい。本来ならば即座に喝破して退室を命じるレベルであって、不愉快な表情で済ませてやったのは大いなる譲歩だ。
――が、続くパウルの言葉は、完全に私の予想を越えていた。
「実はですね、ケイラス元司祭について、ちょっと調べさせて頂いたんですよ。
特に彼が若い頃、〈ジャービトンの若き改革の獅子〉とかいうあだ名で呼ばれていた時代のことについて、なんですがね。
長い話を端折って結論から申し上げますと、ケイラス元司祭は、サンサの地に下ってからもなお、異端者ではなかった可能性が浮上してきたんです」
思わず「なんじゃと!?」と口走ってしまう。
そんな馬鹿な。ケイラスが麻薬に手を染めていたのは、揺るぎのない事実だ。これをもって異端と呼ばなかったら、何が異端であろうか。
だがパウル1級審問官は私の困惑をよそに、飄々と言葉を続ける。
「ま、確かに麻薬の件は、こちらとしてもまったく看過できない話です。
それどころか彼は、ダーヴの街に巣食っていた古い古い異端教団を事実上私物化して、好き放題していた。どこを切り取っても、弁護の余地なんてありません。
でもですね、こうなると大きな疑問が出てくるわけですよ。
一体誰が、ケイラス元司祭に、こんなことを吹き込んだのか?
そしてケイラス元司祭以外に、同じようなことを吹き込まれた司祭はいないと断言できるのか?」
だからその点についてはジャービトン派が厳正な調査を――と言いかけて、私は押し黙った。
パウル1級審問官は、ケイラスがサンサに流された段階では「異端者ではなかった可能性がある」と言っている。
つまりケイラスはサンサの地において堕落したのであり、ジャービトン派の中枢は彼の悪行と直接の関係を有さない――つまり、せいぜい管理責任が問われる程度でしかない――という見解を示しているのだ。
なるほど……そういうことか。
そこに思い至れば、彼が議論をどこに持っていきたがっているかは明確だ。そしてこの彼が成すであろう提案は、傾聴に値する。
私は慎重に考えをまとめながら、まずは共通の認識を固めることにした。
「つまり貴殿は、サンサにはいまだ未知の邪悪が眠っていて、ケイラスはその邪悪の被害者である、と言いたいのじゃな。ゆえに、貴殿らが勾留しているユーリーン司祭も、審問会派自身で尋問する必要がある、と。
しかしそうなると、貴殿らの歴史的な偉業には、大いに傷がつくことにならんかの? 貴殿らや老マルタ殿はともかく、貴殿らの上は、そんな誠実さを許してくれるのかな?」
私が広めた「審問会派の英雄たちが古の異端教団を掃滅した」という神話は、彼ら自身が「サンサの地に巣食う異端を完全に掃滅できていない疑いがあるどころか、ケイラスやエミルという、真の邪悪に至る手がかりを自ら破壊してしまった」と告白すれば、まるで台無しになる。彼ら自身はともかく、審問会派としては、そんな失態は、けして認められまい。
そして事実、私の問いに対し、パウルはあっさりと首を横に振った。
「現状では無理でしょうね。
イッケルト大司祭の作られたお話は、実に見事です。あんな英雄譚を審問会派の歴史として教会史に刻む機会を逸するなど、審問会派の上層部は絶対に許さないでしょう。
それにユーリーン司祭の件にしても、審問会派はボニサグス派と強固な協力関係にありますから、ボニサグス派の影響が強い賢人会議がユーリーン司祭の引き渡しを要求すれば、普通は断れない。
ですがそれでも僕は、勝算はあると思っているんですよ。だから今日、大司祭の貴重なお時間を頂いたわけでして」
ふむ。なるほど――なるほど。
やはりパウル・ザ・バットマンは、油断のならない男だ。
この明らかな不可能を可能とする道筋は、確かに存在する。
そのことは、彼が最近行なっている政治工作をそういう視点から見れば、透けて見えてくる。
無論、これは実にか細い、危険極まりない道だ。
それでもすべてが上手くいけば、審問会派にとってもジャービトン派にとっても巨大な利益をもたらす。
だから私は、いよいよ真剣に計算を巡らせる。
彼の賭けに乗るなら、速度がすべてだ。今この場で彼と手を組み、必要な根回しを始めねばならない。その上で賭けにしくじれば、私も彼も、教会における未来は閉ざされる。
一方で彼の賭けに乗らないなら、話は運試しになる。彼が賭けに勝てば、下手するとジャービトン派は歴史に残る痛手を被る。これを回避するには彼を全力で妨害するしかないが、それでもなお、彼が賭けに勝つ可能性は残る。
であれば、選択肢は1つだ。私は彼に手を差し伸べる。
「――いいじゃろう、パウル1級審問官。貴殿の賭けに、この老体も一口乗るとしよう。
で、あるならば、簡単な役割分担はこの場で決めてしまうべきじゃろうな」
私が差し出した手を柔らかく握りつつ、パウル1級審問官は頷いた。
「僕はガルシア家との折衝を進めます。折衝といっても、あちらはほぼ僕の言いなりですから、来週末には彼らからイッケルト大司祭に相談が行くかと。
むしろ僕としては、ガルシア家以外の動きが気になります。それしか選択肢がなかったとはいえ、真っ先にガルシア家にコンタクトせざるを得なかったですから、他家との関係がほぼ最悪なんですよね」
いやはや、なんとも面倒なことを言い出す男だ。
だが確かに、それが合理的な役割分担となるだろう。
「わかった。ではガルシア家以外との折衝は、この老体が受け持とう。
貴殿も薄々感づいてはいるじゃろうが、どうやらシャレット家が勝負に出ようとしておる。彼らは審問会派に貸しを作ったと信じておるからの。なんとも愚かな連中じゃが、影響力は馬鹿にできん。
あとは賢人会議じゃが……あの老人どもは口うるさいだけじゃ。無視しておけばよかろう」
パウル1級審問官の作戦は、帝都の政治全体を巻き込んだ、実に壮大なものだ。
まず最初に彼は、ガルシア家に接触した。
八名家の中でも最も力を持つガルシア家だが、それゆえに彼らは八方塞がりになっている――簡単にいえば、八名家の関係はいま、ガルシア家vsそれ以外の七家という、絶望的な状況なのだ。ガルシア家と他家との間で全面的な政争が始まればガルシア家の負けは確実だし、そうなれば八名家は七名家になるだろう。当然、その7つの家の中に、ガルシア家の名前は残らない。
このガルシア家に対し、パウル1級審問官は抜け道を提供した。具体的に何をどうするかは知らないが、要は彼はガルシア家に「上手く負ける」手段を提示したのだろう。そしてその見返りとして、ガルシア家はパウル1級審問官を支援するという関係が生まれた。
パウル1級審問官がガルシア家のバックアップを受けたというのは、審問会派から見ると非常に大きな意味がある。審問会派は崇高な理念を掲げる組織だが、同時に世俗勢力との関係も無碍にできないという課題を抱えているからだ。
つまり、帝都における最大の政治勢力であるガルシア家がパウル1級審問官を擁護するとなった以上、審問会派としても猪口才な若造をぶん殴って話にケリをつけるというわけにはいかなくなる。
その一方でパウル1級審問官としては、「審問会派はサンサ教区における伝説を失うが、代わりにガルシア家に対して大きな貸しを作る」という取り引きを、審問会派上層部に対して突きつけることができる。
上層部としては悩ましいところだろうが、最も大きな被害を受けるのがパウルとカナリスという英雄当人たちであるとなれば、最終的にはガルシア家との協力関係強化を選ぶ――かも、しれない。
そしてここまで状況をお膳立てしたところで、パウル1級審問官は私に協力を要請しにやってきた。
ジャービトン派としては、パウル1級審問官に協力すれば審問会派がジャービトン派の内部査察に入ってこないという確約が得られる。そのうえ審問会派が公式に「ケイラス元司祭は確かに道を誤ったが、それはサンサという地に眠っていた人知を越える邪悪の餌食となったからである」と認めるのだから、これぞ理想の解決と言える。欲を言えば、「エミルもまた加害者にして被害者でもある」というところまで言質を取れれば、デリク家に対し恩を売ることも可能だ。
無論、パウル1級審問官がしくじれば、鎮火しつつあるケイラス問題は再び炎上し、ジャービトン派は今まさに回避しつつあるダメージを、数倍の規模で被ることになる。
だが私とパウル1級審問官が協力体制を維持できれば勝算は十分だし、勝ったときの報酬は負けたときのダメージを遥かに上回る。そして私にはそれが計算できると知っているから、パウル1級審問官は私を選んで面会に来たのだ。
もっとも、不確定要素は多い。
最大の謎は、パウル1級審問官は(そして確実にその背後にいる老マルタは)なぜ、ここまでの危険を犯してでも、捜査の継続とユーリーン司祭の確保に拘るのか、という点だ。
とはいえ正直、ここについては知ったことかの一言に尽きる。
ユーリーン司祭を擁した審問会派がサンサ教区の捜査を継続することによって、ジャービトン派に直接的な被害が発生する可能性は、ゼロではない。
しかし、もしそれがパウル1級審問官の真の狙いであり、かつその狙いが実現したら、審問会派はお終いだ。「協力関係を持ちかけましたが、実はそれは裏切るためでした」という筋書きは、卓上の遊戯であればあり得るが、実際の政治でそんなことをすれば、裏切った側は長期に渡って決定的に信頼を失う。貴族社会と深いつながりをもつジャービトン派を絶対的な敵に回せば、審問会派はまともに捜査などできなくなる――そして何も審問会派でなくとも、異端を狩る猟犬たることは可能だ。
むしろ憂慮すべきは、シャレット家だろう。
シャレット家は、令嬢であるハルナ・シャレットが最悪の形で失われたことについて、「審問会は自分たちに借りを作った」と理解している。
実際には、これはまったくの妄想だ。
男であれ女であれ、審問官とはときに犯され、拷問され、陵辱の限りを尽くされた末、死ぬものなのだ。狂気が支配する異端教団の手に落ちれば、「尊厳ある死」などけしてあり得ない。そして万が一、ハルナのように生き残ってしまえば、なぜあのとき死ななかったのかという思いを抱えて死ぬまで生きねばならなくなる。
審問官とは、そういうものだ。
だから、まっとうな教育を受けた者であれば、ハルナ・シャレットの現状は「運がいいね、わりと綺麗に残ったじゃないか」と言うべき状況だということを、理解している。当然、審問会派が負うべき負債など、ありはしない。
だが悲しいかな、世の中にはまっとうな教育を受けてもなお、そのことが理解できない愚物にあふれている。
そしてさらに悲しむべきことに、シャレット家には誰一人として、そのことを理解できている人間がいない。
――などと今後の方針を思案する私によそに、パウル1級審問官は席を立った。相談の時間は終わり、いざ行動開始ということだろう。まったく、若者は性急に過ぎる。
だが彼は部屋を出ようとしてふと立ち止まると、振り返って一言、忠告めいた言葉を残していった。彼の声は普段と変わらぬ、すこしおどけたような声色だったが、その目の真剣さが、私の心に小さな引っかき傷を作る。
「イッケルト大司祭。老婆心ながら、けしてシャレット家を侮られぬよう。
彼らは歴史と伝統にあぐらをかいた愚物ですが、愚者はときに、こちらの予想を越えてきます。
歴史上、何人もの英雄が、様々な愚者によって討ち取られてきたことを、ゆめお忘れなく」




