アルール歴2182年 4月1日(+77日)
――ライザンドラの場合――
4月1日は、ダーヴの街が一年で一番慌ただしくなる日だ。
冬の間、氷に閉ざされていたエロナ港の運用が正式に再開され、外の世界との大規模な交易が再開されるこの日。長く過酷な冬を生き延びた幸運を祝い、開放感と期待感でいっぱいになった思いが爆発するこの日は、同時に、大規模な積み荷の移動が始まる初日でもあり、またエロナ港から早駆けで届く宝飾品や珍味といった贅沢品の市が立つ日でもある。
つまり元ナオキ商会を預かる身としては、1年で一番忙しい1日の幕開けとなる。
……なのだが、この大事な日の早朝、私は優雅にお茶など飲んでいる。
私の差し向いにはパウル1級審問官が座っていて、私と同じく、高級なフレーバーティの香りを楽しんでいた。
カナリス特捜審問官がハルナ3級審問官をサルヴァージュの街に搬送したその日、私が審問会派の見習いとして正式に採用されることが発表された。寝耳に水とはこのことだが、私にこの命令を拒否する権利などなく、それからというもの審問会派特別行動班の面々が私の師匠となって、厳しいトレーニングの日々が幕をあけた。
もっとも、毎日トレーニング尽くしだったわけではない。なんでも身体的な訓練は間に数日開けて継続するほうが効率が良いそうで、結果として私は地獄の教練でヘトヘトになった翌日には再建会議の事務関係を必死になって処理し、しかるにその翌日にはまた地獄のトレーニングという、自分でもよく生き延びたなと思わざるを得ないハードな毎日をくぐり抜けることになった。
そして今、私は夜明け間際にパウル1級審問官に呼び出され、それから特にこれといった話もないまま、彼が秘蔵していたというお茶をご馳走になっている。
私はこのなんとも言い難い時間を、とてつもなく居心地の悪い気持ちを弄びながら、ただ何事もなく過ぎ去ってくれと(久々に)祈っていた。けれどあのパウル1級審問官が、何の目的もなくお茶に誘うはずもない。いまはただ、できる限り心を鎮めて、彼が切り出してくる言葉を待つしかない。
そうやって5分も黙っていると、ふいにパウル1級審問官が口を開いた。
「いやまあ、君が身構えるのはすごくよく分かるんだけど、もうちょっとリラックスしてもらえると嬉しい。ぶっちゃけるとね、僕としては、君とゆっくりお茶を飲む時間を、一度くらいは持ってみたかっただけだから。
いやほんと、それ以外に意味も目的もないんだ。だからまあ、理想的に言えば、天気の話題くらいから入るのが望ましい」
私はいささか呆れながら「今日は一日、よく晴れるそうですね」と返事する。それを聞いたパウル1級審問官は小さく笑うと「実に結構」と呟き、お茶を口にした。
このあまりにも茶番めいた展開に軽く苛ついた私は、おそらくは彼の本命であろう話題を、こちらから切り出すことにする。
「――今の私は、審問会派の見習いという立場です。
だからこそ、師の一人であるパウル1級審問官に伺いたいことがあります」
私の言葉を聞いたパウル1級審問官は、ティーカップをソーサーに戻すと、私の言葉を遮るようにして、話を先回りしてきた。
「それはつまり、僕がなぜ君を異端者として告発しないのか、ということだね?」
簡にして要を得た彼の言葉に、私はただうなずきをもって解答とする。
「ふむ――念のために聞きたいのだけれど、君は本当にその理由がわかってない、のかな? それともこれって、僕には想像もできない、ものすごい駆け引きの入り口になってたりする?」
私は苦笑しながら、首を横に振る。しばしば天才扱いされる私だが、私にだってわからないものはある。こと、パウル1級審問官のようなトリッキーな人物の思考を推し量るのは、あまりにも困難だ。
「そうかい。なるほど……なるほどねえ。
じゃあ、まずは理由を話そう。
理由は2つで、1つは君が異端ではないからだ。〈審問の儀〉によれば、君の信仰には悪魔による汚染の形跡は見られない。以上」
彼の示した見解に、私は困惑の念を深めるしかなかった。というか――この公式見解が真実だとすれば、それはつまり……
悩みを深める私に向かって、パウル1級審問官は言葉を続ける。
「もう1つの理由。
僕は〈審問の儀〉を通じて、君が神を殺したいという強い意思を持っていることを知った。そのことは、君も気がついている。なのに僕は君のことを異端者だとして告発しない。君の悩みは、ここに矛盾を感じるから、だよね?」
素直に、頷く。神殺しの意思が異端思想でなかったら、何が異端思想だというのだろう?
「それなんだけどねえ。まあ、さすがに世紀の才女ライザンドラ・オルセンといえども、届かぬ境地はある――ってことだね。
こっちも簡単に説明しよう。神を殺したいっていう強い意思を持つ人間は、そりゃもちろん多数派じゃないけど、そこまで珍しい人間ってわけでもないんだよ。
例えばだけど、『この人を見よ』っていう古典戯曲を知ってるかい?」
私は思い切り困惑しながら、首を横に振った。それから唐突にそのタイトルだけは思い出した――お父様が「まだお前が読むべきではない」と遠ざけた書棚に収められていた本の中に、そんなタイトルの作品があったはずだ。
「ああ、さすがに君でも読んでないか。てか子供に読ませる戯曲じゃないし、当然っちゃあ当然だね。
『この人を見よ』は、神代の英雄アーカッシィの一生を綴った戯曲だ。〈神智者〉とまで呼ばれた賢者であった彼が、己の力と叡智と世間の風評に振り回されながら、その放浪の先々で様々な女性と奔放な関係を持ちつつ、最後はごく普通の市民たちによって公開処刑されるっていう、古典的な悲劇だね。
『様々な女性と奔放な関係を持ちつつ』の部分を問題視する頭の固い連中が多いせいで滅多に上演されないけれど、教会が公認している神代の叙事詩の一つに含まれている。
お察しの通り、僕は英雄アーカッシィが好きでね。帝都で30年ぶりに公演がかかったときは、神学校を抜け出して観に行ったよ。後で師匠に折檻されたけど、悔いはなかったね!」
英雄アーカッシィの物語――なるほど、それならだいたい想像がつく。英雄アーカッシィは強さと弱さが渾然一体となった英雄であり、その強さゆえに幾度にも渡る挫折を味わい、不道徳な行いに手を染め、そしてその弱さゆえに何度もどん底から立ち上がり、余人に成し得ぬ正義を貫いた。
パウル1級審問官は、そんな悲劇の英雄の最期を滔々と語る。
「さて、そんな英雄アーカッシィがいよいよ最期を迎えるとなったとき、彼は有名な言葉を叫んでいる。
Eli, Eli, Lema Sabachthani――主よ、主よ、なぜあなたはわたしを見捨てられたのか。
意外と知られてないけれど、これは英雄アーカッシィの、末期の言葉なのさ。
つまり、そういうことなんだよ。
神に対して怒りを覚えたり、ときには神に対して殺意すら抱くというのは、そこまで珍しいことじゃないんだ。そして教会は、その感情を公式に認めている。じゃなきゃいくら英雄アーカッシィの言葉であっても、教会公認の叙事詩にこんなセリフを許したりはしないって」
パウル1級審問官の言葉に、私は強い――どこまでも強い衝撃を受けていた。
「神を殺したい」という思いは、ずっと、ずっと、私を突き動かしてきた。
そしてナオキは「お前が神を殺したいなら」と語り、私が進むべき道を指し示した。
だから私は、彼が最後の一歩を踏み出せずに立ちすくんだときは、横に並んで戦う戦友として、彼を奮い立たせたいと思った。
でも、まさか。
まさかその道が――どこにでもある道だっただなんて。
だとしたら。
だとしたら、ナオキが私に示したのは――
「……気づいたようだね。
どうやらナオキは君に、妙な暗示をかけることに成功した。
『神を殺したい』と願う気持ちが極めて特別なものだという思い込みと、『すべてを賭してでも神を殺す』という強烈な方向付けだ。
君に暗示をかけることで、ナオキが何をしたかったのかは、分からない。
でも君がこの数年ずっと抱きしめてきたその思いは、君の特別な何か、なんかじゃあない。
どこにでもある、ありふれた、平凡な不満だよ。
だから僕は、君にこう告げたかったのさ――『そんなのは、くだらないよ』ってね」
――呼吸が、苦しい。
動悸が、収まらない。
まるで嵐で渦巻く海にいるかのように、私のなにもかもが押しつぶされ、砕け散り、ひしゃげ、かしぎ、渦を巻き、押し流され、分解され、そして撹拌されていく。
苦しい。息ができない。
嘘だ、と必死で叫ぶ私がいる。でもその声は圧倒的なまでの嵐に吹き散らされ、飲み込まれていく。嘘だ。何度も叫ぶ。
それでもその逆側で、醒めきった私が、激流に翻弄される私を、冷ややかな目で見ていた。何が嘘なものか。私はつまり、騙されたのだ。神を殺すなんていう大げさな言葉に幻惑され、そして実際に人の手によって信仰の在り方が変わっていくところを見せられた私は、このままナオキについていけば、ナオキが命じることを成し遂げていけば、神を殺せると思い込んだ。
でも結局、現実を見てみれば、起こったことはシンプル極まりない。ナオキはとんでもないレベルの大金持ちになって、そして事態に収拾がつかなくなると、ザリナさんと逃げた。どこにでもいる、ちっぽけな悪党だ。
つまり私は、騙されて、利用されて、捨てられた。
ただ、それだけ。
笑ってしまうくらいに、どこにでもいる、ちっぽけな女の、ちっぽけな物語。
そしてちっぽけな私は、小さく呻くことしかできない。
「――私は……私、は――」
ぽたり、と、生暖かい水滴が、手の甲に落ちた。
その手の甲に、そっと、暖かくて大きな手が重ねられる。
パウル1級審問官の手だ。
武器を握るその手は、想像よりずっと硬く鍛え抜かれていた。
「ライザンドラ・オルセン。
いや、ライザンドラ審問官見習い。
僕には、成し遂げたい野望がある。
どこぞの詐欺師が君に囁いた、『神を殺す』なんて、そんなチンケな野望じゃあない」
ハッとして、彼の顔を見つめた。
彼の顔は真剣そのもので、その目には底知れぬ力が宿っていた。
「僕は、ユーリーン司祭を必ずや教皇の座に送り込む。
彼女こそ、いささか建付けが怪しくなってきた神の家を、土台から建て直すだけの力を持った、現代の英雄だ。
なにしろ彼女は、『たとえ神が存在していないとしても、神を信じる心は、神の存在を証しだてる』と言ってのける、一種の狂人だからね。
教皇となった彼女が見せてくれるであろう世界のために、あらゆる力を尽くす――それって『神を殺す』ことなんかより、ずっと面白いと思わないか?」
――なんと、まあ。
あのユーリーン司祭が、神はいないかもしれないなどという思索を進めていただなんて。とびきり危険で、とびきりぶっ飛んだ、文字通り世界をひっくり返すだけの力を持った、強靭な思惟。
そしてパウル1級審問官の企みは、彼が言うとおり、神殺しなんて話の比ではない――神を殺すもなにも、「そもそも神はいないかもしれないけど、それでも何ら問題はありませんよ」と言っている人を、よりによって教皇にしようというのだ。
「正直言えば、勝ち目の薄い賭けだ。
勝率はせいぜい、ゼロじゃない、っていう程度に過ぎない。
でも君が力を貸してくれれば、1%くらいの可能性は生まれると思う。
どうだい――僕の野望に、賭けてくれないか?」
聞かれるまでもなく、答えは決まっている。
でも無言で頷くその一歩手前で、ちょっとだけナオキのことを思い出し、それから後世の人々が自分をどのように評価するだろうかと思った。
そう――私は、どう呼ばれるのだろう? 「世間知らずで意志薄弱な女」? 「あたまでっかちなだけで、現実に対して身を処する能力を欠いた人間」? 「一度は信じた男をあっさりと裏切って、次の男に乗り換えた尻軽」?
馬鹿馬鹿しい。尻軽と思われようが、愚者と罵られようが、臆するまい。
こんな面白い野望を聞いて、それを部外者としてただ見ているだなんて、無理だ。
だから私はパウル1級審問官の目を見て、強く頷く。
私の、本当の戦いを、始めるために。




