アルール歴2182年 1月14日(+15日)
——シーニーの場合——
あれからも、慌ただしい毎日が、慌ただしく過ぎていった。
赤牙団及びナオキ商会をもとに、新たに設立されたダーヴ再建会議は、順調に機能している――事実上、組織の看板を架け替えただけなのだから、順調に機能して当然と言えば当然ではある。
ライザンドラさんが審問会派に徹底した尋問を受けたり、私が何かと仕事の取りこぼしをするようになったとはいえ、もともと赤牙団もナオキ商会も、事務方がかなりしっかりした組織だ。これまでと似たような業務を回すだけなら、特に大きな問題は発生しない。
そしてまた、ライザンドラさんに対する異端の疑いも、新年のミサの直後に行われた〈審問の儀〉によって、正式に払拭された。パウル1級審問官は儀式の終了後「ライザンドラ・オルセンは異端ではない」と簡潔な声明を出し、これによって今も再建会議で活動している旧ナオキ商会員および赤牙団団員全員がクリーンであることが確認されたこととなった。
ライザンドラさんが再建会議の経営・運営当事者として職場復帰した影響は大きく、後回しにされていた面倒くさい案件もみるみる片付いている。
とはいえ、すべてが元通りというわけではない。
再建会議傘下で活動する臨時警備隊(=赤牙団)の隊長として言えば、赤牙団伝令隊を再建する目処がまるで見えないのが、最も大きな変化だ。自業自得としか言いようのない案件だが、とにかくこれは痛い。
伝令隊への志願者を急募してみたものの、なにせ季節が季節だけに、「現状では無職だが、能力はある」人間など、どこを探しても出てこない。ダーヴの街にあって冬を無事に越せる者は、雪に閉ざされたこの街において自分の為すべきことがあり、それを為すことに価値を認められている者だけだ。能力がある人間はとうに何らかの仕事をしているし、無能なものは――なるようになるだろう。
ともあれ、現状では元赤牙団正規メンバーの一部を伝令隊へと一時的に編入している。けして良い状態ではないが、背に腹は代えられないというところだ。
一方、再建会議の中枢――つまり審問会側――に目をやると、ハルナさんが精神を病んだまま一向に回復の兆しが見えないというのが、とても大きな問題になっている。ハルナさんはエミルたちによって短時間で大量の麻薬を投与されていたようで、間欠的にかなり酷い禁断症状を示しているとも聞く(伝聞になっている理由はお察し頂きたい。私自身、今の彼女を直視する勇気は、ない)。
ハルナさんについては、橇を仕立ててサルヴァージュの街へと搬送すべきだ、という意見がユーリーン司祭から示されている。私もそれには同感だ。けれどカナリス特捜審問官は何が何でもこの街から動かない姿勢を見せていて、結果的にハルナさんを搬送するプランは安全面における問題から否定され続けている。
ともあれ、そんなこんなで内部には様々な問題を抱えつつも、ダーヴの街は徐々に落ち着きを取り戻していた。
マダム・ローズの死後、きわめて危うい状態にあった娼館関係も、いつしか無数の野心家たちによって店舗単位での買収が終わったようだ。以前に比べれば質は落ちたしいかがわしさは増した(つまりボッタクリとかが増えた)が、娼婦たちが大量に路頭に迷うという事態は避けられたらしい。
行政関係も徐々に安定し始めているし、教会に至っては想像以上にユーリーン司祭が市民の人気と信望を集めている状態だ。こと教会について言えば「以前よりずっと良くなった」というのが一般的な見解と言えるだろう。
無論、この急激な改革の背後には、パウル1級審問官が中心となって進めるダーヴ再建会議の強烈な働きかけがある。彼は本音と建前を巧みに使い分けながら、街の有力者たちの間に「審問会派の言うことを聞いておけば大丈夫そうだ」という空気を作っている。このあたりの手際は「さすが」以外に言うべき言葉が見つからない。
もちろん、中には表向きパウル1級審問官と握手をしておきながら、影でこっそり自分だけが街の利権を多めに確保できるよう、小狡い手を尽くす馬鹿もいる。その手の馬鹿に対しては、まずユーリーン司祭からの説法があり、しかるにパウル1級審問官からの通達がなされ、それでも「自分は彼らを出し抜ける」と信じている大馬鹿には、臨時警備隊ないし審問会派特別行動班が鉄拳制裁を下すことになる。
結局、いまのダーヴの街において、もっとも融通が効く組織と、もっとも融通が効かない組織は、同一の組織なのだ。そしてその組織が、この街で最大の武装勢力となっている。
この状況にあって、昆虫よりマシな知性を持った人がみな、街を支配する組織――つまり再建会議――の融通の効く側面と上手く交渉してやっていこうとするのは、いたって自明なことだろう。
だが、この状況が永遠には続かないのもまた、自明だ。
現状、市民にとって精神的な支えのひとつとなっているユーリーン司祭は、今年中にまず間違いなく更迭されるだろう。彼女の直属の上司であるケイラス司祭がここまでとんでもないレベルで異端に染まっていた以上、「なぜもっと早く上司の異常に気づかなかったのか」という批判は避けられない。
また、審問会派だって現状の体制はどこかで解体せざるを得ない。パウル1級審問官にしても、カナリス特捜審問官にしても、いつまでも辺境の街に関わっていて良い人間ではない。ダーヴの街で起きていた異端事件は確かに巨大極まりない事件ではあるが、事態が徐々に事後処理へと移行しつつあるいま、審問会派という槍の穂先である彼らがここにとどまり続けることは許されまい。
――といったよしなしごとを、定例の再建会議の場でわりと高い席に座った私は、漠然と考えていた。
正直言って最近は特に創意工夫が必要な案件もないし、そもそも今の季節に私が全力を投入しなくてはならないような出入りが起こるはずもないわけで(ケイラス・エミル事件は例外中の例外だ)、実際に私はこのところずっと暇だったりもする。
だがその日の会議は、それまでとは少し――いや、だいぶ違った展開を見せ始めていた。
パウル1級審問官が、ハルナさんをサルヴァージュの街へ搬送すべきだ、と主張しはじめたのだ。いや、サルヴァージュどころではない。まずはサルヴァージュへと搬送し、そこで春を待って、街道が安定したら帝都まで搬送するべきだと言い出したのだ。しかも道中の護衛を指揮するのは、カナリス特捜審問官であるべきだ、とまで言ってのけた。
当然ながら、カナリス特捜審問官はこの提案に対し烈火のように激怒して、机を叩いて「絶対にあり得ない」と断言した。
けれどパウル1級審問官は、極めて冷静に反論を積み重ねた。
「そもそも、だ。
今回のケイラス・エミル事件は、これ以上はもう事件として捜査を続けられない。
啓示によって神が示し給われた大異端のその根は、殲滅されたと考えるしかないだろう? しかもどれだけ調べても、ケイラスやエミルとナオキの間につながりは見出せなかったんだ。ナオキを追う理由を挙げるとしたら窃盗と横領の幇助か教唆がギリギリで、その程度の罪を僕らが追い続けるってのは、審問会派の上層部が許さないよ。
ああ、いや、待ってくれカナリス。君の言いたいことは、わかる。僕だってナオキの動きはどうにも納得できないし、違和感も抱いている。
でも、ならば君はその違和感を、帝都の連中に説明できるかい? 『俺が異端だと思うんだから間違いなく異端だ』以外の方法で、さ? それって無理だろ? その手の言い訳なら君に絶対に負けない自信がある僕をして、ナオキを吊るすまで僕ら自身が捜査を続ける理由が思いつかないんだから」
パウル1級審問官の言葉は、私の懸念をそのまま言葉にしたものだった。彼らのような超エリートが、この辺境中の辺境で活動を続ける理由はもはやなく、その一方で彼らは既に比類なき成果をあげているのだ。
内心でさもありなんと呟く私をよそに、パウル1級審問官の言葉は続いた。
「君や師匠が大嫌いな理屈を言えばね、僕らはやりすぎたんだよ。まったくもって、やりすぎた。
指折り数えてみなよ。僕らはサンサ教区に眠っていた巨大な隠れ異端を白日の下に引きずり出し、異端に染まっていたダーヴの街の重鎮たちを逮捕し、異端の中心となって邪悪なカルトを作っていた首謀者どもを処刑した。
カナリス――君はぜんぜんそんな気持ちじゃないだろうけど、たぶん君の名前は審問会派どころか、教会の歴史に残るよ。場合によっては、僕の名前すら残ってしまう。サンサの隠れ異端を掃滅した稀代の審問官たちとして、ね。
それだけのことを、僕らはやったんだよ」
そう。そしてそれこそが問題というわけだ。
「この街の状況は、どんなに引き伸ばしても、今年の初夏には帝都に届く。届かなきゃいけない。
常識的に考えればこれは、春のうちに帝都に届くべき吉報であり急報でもあるんだよ。ダーヴの街を完全に回復させるためには、審問会派だけではなく、教会全体の支援が必要になるからね。
そしてそれが避けられないからには、これ以上、審問会派が食い荒らしてはいけない。今年の秋にはお神輿担いではるばるサンサ教区まで押しかけてくるであろう連中に、分け前を残しておかなくちゃいけないんだよ」
私にしてみると実によく理解できる理屈なのだが、カナリス特捜審問官は顔を真っ赤にすると、再びテーブルを強く叩いて、半ば叫ぶようにパウル1級審問官を論難した。
「パウル! 貴様は異端との戦いよりも、教会内部のくだらない政治を優先しろ、と言うのか? 答えろ、パウル! ――答え如何によっては、貴様たりと言えど、断じて許さんぞ!」
火を吹くような猛抗議は、でも、パウル1級審問官には届かなかった。
当然だ。というか、カナリス特捜審問官は、明らかに冷静さを欠いている。ここまで先の見えない人物ではなかったと思うのだが……。
「頭を冷やせ、カナリス。
僕を論難するのは大いに結構。僕だって自分をぶん殴りたい気分だからね。
けれど君は、自分が何をしでかしたのか、ちゃんと理解しているかい?
君は、ハルナ・シャレットに名誉ある殉教者の地位を与え、エミルに『取り返しのつかない過ちを犯したことを懺悔して、己の生命で償わせる』機会を与えることができた。普段の君なら、どんなに困難な状況であっても、その選択ができたはずだ。
だが君がやったのは、完全に真逆だ! いまやハルナ君は生きる屍にしてシャレット家の恥部となり、エミルは物言わぬただの死体だ! シーニー君がアスコーニを確保してなかったら、この事件の首謀者に近い人間からの証言がまったく得られなくなっていたかもしれないんだぞ!?
君が普段通り、冷静に対処できていれば、僕だってこの件を政治にする必要なんてなかった。帝都でぬくぬくと椅子取りゲームしてる連中を、正論だけでぶちのめせたさ!
だが君は、教会史に残る偉業を成し遂げたのと同時に、同じくらい巨大な瑕を作った。君が、この件を、政治にしてしまったんだ! 帝都の連中の目から見れば、君はつけこむべき隙そのものだろうが!」
パウル1級審問官の反撃を前に、カナリス特捜審問官は完全に言葉を失っていた。
「3級審問官にデビューしたてのニュービーでもやらないような、馬鹿げた暴走をしておいて、それでもなお君は、君の失態の尻拭いをしようとしている僕を論難するつもりか?
僕こそ聞かせてもらおう――答えろカナリス! 答え如何によっては、僕は君を一生軽蔑するぞ!」
カナリス特捜審問官は何かを言おうとして、口を閉じ、また何かを言おうとして、再び口を閉じた。そうしてしばらくパウル1級審問官と無言で視線をぶつけ合っていたが、やがて、恥じたように視線を机に落とす。
なんともはや。パウル1級審問官は政治のプロというだけあって、仕込みもまた入念だ。ライザンドラさんに対して〈審問の儀〉を行ったのも、カナリス特捜審問官を黙らせるというのが主目的だったのではないだろうか――彼女が異端ではないことが明らかになったいま、カナリス特捜審問官がすがりつくべき捜査の端緒はすべて失われている。
「冬のサンサ教区を歩いて逃げる」という完全な常識はずれを成し遂げてしまったナオキとザリナ隊長ら(あの人たちがしくじるとは思えない)を追跡するのは事実上不可能だし、手配状を出すにしても、手配状が彼らより早く遠くに届く可能性は皆無なのだ。
とはいえ、それでもカナリス特捜審問官は諦めがつかないのか、苦渋の表情でパウル1級審問官に食い下がる。堅く握りしめられた拳が、その執念の深さを物語っていた。
「……私の判断が幾重にも誤りだったことは、認める。
貴様の努力を軽んじる発言をしたのも、完全に失言だった。謝罪して、撤回する。
だが——」
カナリス特捜審問官は、全身を震わせるようにして深呼吸した。
「ライザンドラに異端の疑いなしという貴様の言葉を、私はどうしても信じることができずにいる。
——いや、分かっている。貴様は正式な〈審問の儀〉を行い、そして託宣は降った。その託宣を貴様が捻じ曲げて口にすることはない。それは、理解している。理解しているんだ。
だが……だがそれでも——」
カナリス特捜審問官の血を吐くような言葉に、パウル1級審問官はむしろ穏やかな口調で答えを返した。
「彼女は、神に対して強い敵意を抱いている。
また、神の正しさについて極めて激しい疑いを抱いている。
この敵意と疑いは、いたって自然なものだ。何者かによってそのような怒りと疑念を抱くように仕向けられた痕跡はかすかに残っているが、本質的にその感情が彼女のものであるのは間違いない——そして彼女が神に対して憤怒と疑心を抱く原因についても、何ら不自然なものはなかった。
そりゃもちろん、神に対してこんなにも強い怒りと疑いを抱いているというのは、けして望ましいことではないね。ちゃんと訓練を受けた司祭の指導のもと、ゆっくりとわだかまりを解いていく必要がある。
けれど彼女は結局、神を信じているんだよ。信じているからこそ、自分と自分の家族に対してふりかかった悲劇を咀嚼できずにいる。
つまり、ライザンドラ君のど真ん中にあるのは、迷いだ。ずば抜けて頭がいいだけにあれこれいろいろ考えてはいるようだけど、彼女の中心を占めているのは『このままでいいのか、悪いのか』という迷いだね。その点で言えば、彼女はびっくりするくらい普通なんだよ」
なんと。ライザンドラさんのことを「普通」と評されると思わず胡乱な目でパウル1級審問官を見てしまいそうになるが、でもよくよく考えてみると、意外とそうかもしれない、とも思う。
彼女が自分の職分を越えて何かを判断するのを見たことは、ほとんどない——これはナオキ元司令に対して忠実だったとも言えるが、可能な限り自分の判断を差し挟もうとしなかったとも言える。
ナオキがニリアン領に隔離されてからも、彼女は状況に対する推測を語ることはあれ、「こうすべきです」と提案することは滅多になかった(彼女が自分の判断で事態を動かしたのは、マダム・ローズを捕らえる作戦のときだけだったと思う)。
つまりなんのかんので彼女は「人に便利使いされる側」であり続けてきたし、そういう観点に立つと実に普通の人なのだ。
「繰り返しになるけど、彼女は、とても危うい。身を焦がすような怒りと闘争心、そして日々強くなる迷い。その不安定な感情を、類まれな理性と知恵でがっちりコーティングしてる。このままだと、どこかでとんでもないことをしでかす可能性が高い。
でも、彼女は異端ではないよ。神の存在を疑っていないし、自分の方が神よりも優れているといった思い込みも皆無だ。神に対する怒りと敵意はあれど、まともに戦って勝てる相手ではないという判断もまたできている。
つまり彼女はあくまで、とてつもないポテンシャルを秘めた、迷える子羊というだけだね」
パウル1級審問官の言葉は穏やかだったが、つけいる隙もない。カナリス特捜審問官は堅く握った右拳で反射的にテーブルを叩こうとして、その鋼鉄のような拳を机に衝突させる直前にかろうじて思いとどまった。
そして手負いの獣が唸るような声を、腹の底からねじり出す。
「——彼女を、どうするつもりだ?」
カナリス特捜審問官の問いに答えるパウル1級審問官の声は、やはり、穏やかなままだった。
「僕の権限をもって、ライザンドラ君を審問会派見習いに採用する。拒否はさせない。
しばらくは再建会議で身柄を預かって、ダーヴの街で徹底的に身体面のトレーニングをしてもらおう。それこそ怒りだの迷いだのが頭によぎる余裕もないくらい、徹底的にね。
で、僕の方である程度まで政治的なゴタゴタを整理したら、帝都の師匠に預ける。
僕らの師匠なら、あの面倒くさいライザンドラ君であっても、きっと超一流の審問官に育ててくれるさ」
これまた驚天動地としか言いようのない提案に、さすがのカナリス特捜審問官も目を丸くしたが、すぐに「悪くないな」と呟いた。ライザンドラさんに対する疑念を捨てられないカナリス特捜審問官にしてみれば、「野放しにするくらいなら身内に引き込んでしまう」のは、確かに合理的な選択になり得る。
でも、それでもまだ、カナリス特捜審問官は何かが引っかかっているようだった。額に深い皺を寄せたまま、人差し指でテーブルをコツコツと叩き続けている。
そんなカナリス特捜審問官に、ユーリーン司祭が声をかけた。
「私からもひとつ、ご提案があります。正確に言えば2つですが。
まず1つめ。ニリアン領に対する財政的援助について、抜本的な見直しをお願いします。
これは、援助金の金額を増やせという話ではありません。領民たちが誇りと希望を持って生きられるような道を示しまた導くにあたり、審問会派の知恵と組織力をお借りしたいのです」
ユーリーン司祭の言葉に、パウル1級審問官は軽く眉を上げた。
「ふむ? まあ確かに、サンサ包囲網が抱える非人道的な状況は、今回の問題を難しくした要因の1つではあるね。審問会派としても、サンサ包囲網を健全化することには、かねてから強い興味がある。
とはいえユーリーン司祭の要求は、審問会派としても結構な負担となる要請だ。これを実現するとして、ボニサグス派は僕らに何を提供してくれるのかな?」
なんとも即物的で、下卑た問い。でもユーリーン司祭は表情をこゆるぎもさせず、淡々と解答を戻した。
「それが2つめのご提案となります。
ニリアン領においてナオキ容疑者らが始めた改革は、当然、無期凍結とすべきでしょう。少なくともナオキ容疑者が異端ではないことが明らかになるまでは、凍結されるべきです。
その上で、かの改革に乗る形で、私は個人的な試み——つまり学校の整備なども進めていました。
それらの事業も、すべて凍結します。つまりニリアン領の教会のあり方を、ナオキが姿を見せる前の状況に戻すことを、お約束します。
また目下の状況を踏まえ、ニリアン領の教会の管理は審問会派が行うべきであるという正式な要請書を、現サンサ教区筆頭司祭、つまり私の名において発行します」
ユーリーン司祭の提案を聞いて、私は思わず彼女の顔を見つめてしまう。
それはまあ、ニリアン領での改革は凍結されても仕方ないかもしれない。でも、だからといってユーリーン司祭が手塩にかけて作り上げた学校を潰すだなんて……いやそれどころか、ボニサグス派の司祭であるユーリーン司祭が、審問会派に既得権を完全譲渡するような書類を書くだなんて。
私は教会内部の政治には詳しくないが、ユーリーン司祭の裏切りを、ボニサグス派の上層部は断じて許すまい。
でもその提案の内容と、ユーリーン司祭が示した覚悟は、カナリス特捜審問官に苦渋の決断をさせるだけの力があった。彼は人差し指でテーブルを叩くのを止め、腕組みすると、しばらく天を仰いで沈思黙考し——それからゆっくりと口を開く。
「わかった。ナオキとザリナを追う仕事は、一時的に延期する。
パウル、橇を用意してくれ。ハルナをまずはサルヴァージュの街に搬送する。そこで春を待って、あとは帝都で最善の治療を受けさせよう。
シャレット家には、私からも正式に報告する。ハルナは私の弟子だ。私には彼女に何があったのか、彼女の家族に説明する義務がある。
いずれにせよ、私は必ずここに戻ってくる。
そして地の果てまででもナオキを追い、神の裁きを受けさせる」
カナリス特捜審問官の言葉に、パウル1級審問官はやや苦い顔をしながらも、頷いた。
けれどカナリス特捜審問官は、パウル1級審問官の表情など見ていないかのように、暗い熱を含んだ声で、何度も念押しをする。
「いいか、必ず、だ。
神に誓って、必ずやあの男に、ハルナが味わった地獄すら生ぬるいと思えるような本物の地獄を舐め尽くさせてやる」




