アルール歴2181年 12月30日(+5分)
――パウル1級審問官の場合――
「異端とはいったい何か、ですか……」
僕の質問に、ユーリーン司祭はしばらくの間、黙り込んだ。当然だろう。とにかく理論的に見て整合性が取れていなくては我慢できない――失礼、理論的整合性こそが神の示す魂と正義のあり方だとするボニサグス派にとって、「異端とは何か」という定義問題はこの1000年くらい連綿と続く、大いなる未踏地だ。
とはいえ、これまた当然だが、ボニサグス派がこんな巨大な定義問題をまったく見過ごしているなんてことはありえない。これまで何人もの奇人変人に天才秀才たちが「異端とは何か」という定義を様々な方向から定義・検証してきている。
しかしながら、この定義問題は高度に政治的な問題でもある。
「異端とは何か」をボニサグス派が定義し、それが教会全体における統一見解となった場合、「我々審問会派はボニサグス派の使い走りではない」と息巻く同僚たちは、確実に大爆発を起こすだろう。実に分かりやすいが、縄張り意識なんてそんなものだ。
で、何かにつけ中道路線を歩んでいる僕としても、ボニサグス派が異端の定義を固めてしまうというのは、非常に望ましくないと思っている。というのも、審問官という仕事は世俗権力との協調なしには成り立たないからだ。
世俗権力というのはとても分かりやすい構造をしている。僕ら審問官が神の猟犬ないし教皇の走狗であるからこそ、彼ら世俗の権力者は僕らに協力を惜しまない――僕らの背後には神と教皇猊下がいて、僕らに協力することでその威光の一端に預かれるなら、自分の領地内を多少荒らされてもトータルで見ればプラスになる、という判断だ。
だが、僕らが象牙の塔に引きこもっている学者たちがこねくり回した理屈に従って動くとなれば、話は変わってくる。
いわゆるマッチョ系の人材に事欠かない世俗君主たちは、「世間知らずのもやしどものご意見とご判断を仰がなければキャンと鳴くことすらできない教会の犬」に、断じて協力などしない。
つまり僕らは、僕らの思想と理論、そして信念に基づき、「異端とは何か」の定義を定め、それが神の定められた法に則っていることを証明し続けねばならない。
というわけで、ボニサグス派が「異端とは何か」という問題を提示するたび、僕らとボニサグス派は激しい抗争を繰り広げることになる。
抗争のバランスを見ると、今のところほぼ五分五分といったところか。1221年に発表されたフランシス説を1610年にラナ司祭がまるで別の角度から物理的に証明してみせたことにより、審問会派が従来の主張を180度転換しなくてはならなかった件が象徴的だが、彼らとの教理問答は「審問会派が1日10ミリずつ稼いだ領地を、ボニサグス派が100年に一度360メートル押し返す」といった状況にある(365メートルでなく360メートルというあたりに、この戦況分析を書いた人間のちっぽけな矜持が見える)。
とはいえ僕らも(審問会派もボニサグス派も)内部抗争に血道を上げるのは本意でもなければ本義でもないと思っているので、ボニサグス派内部でも異端の定義問題は滅多に触れられない(私的な研究は除く)と聞くし、僕らの側でもボニサグス派とは(少なくとも表向きは)かなり強い協調関係にある。
実際、政治音痴の極みであるユーリーン司祭ですら、かつての統一会議の席上で異端の定義問題に踏み込まざるを得なかったときは、僕に「異端の定義問題に踏み込んでも良いか?」と確認を取っている。
それだけに、審問会派の政治的頂点付近をウロウロしている僕が、ボニサグス派にこの人ありと派閥内で恐れられていたユーリーン司祭に「異端とは何か」を問うというのは、わりと一線を越えた問いかけだ。そのことはユーリーン司祭も理解していて、結果として今の長い沈黙に至っている。
すっかり冷めてしまったお茶を、一口。
ユーリーン司祭は腕組みしたまま、そんな僕を見るとはなしに見ていたけれど、やがてその重たい口を開いた。
「異端とは、悪魔による信仰の汚染である。
この定義は、揺るがし得ぬ定義であると考えます」
僕はカップをソーサーに戻すと、思わずユーリーン司祭の顔をまじまじと見てしまった。この定義は審問会派が掲げる公式見解ではあるが、ボニサグス派はこの定義について様々な記述(アリア書に残された記述が多い)をもとに、チクチクと疑義をつきつけ続けてきた。つまり、これが彼女の本音とは思えない。
「……ユーリーン司祭。確かに僕は審問会派の1級審問官として、ボニサグス派の司祭である君に、問いを発した。
だから僕が聞きたいのは、政治じゃあない。
僕は政治のプロとして、教理のプロである君の、偽らざる意見が聞きたいんだ。
今回の件を本当に終息させるには、僕らは全力で協力しなくてはならないと思ってる。政治のプロ単体でも、教理のプロ単体でも、今回の異常事態には対処できないと判断するしかない。違うかい?
お願いだ、ユーリーン司祭。どうか僕に、協力してくれないだろうか」
僕の必死の懇願を聞いたユーリーン司祭は、でも、まったく表情を変えなかった。
「パウル1級審問官。私は、あなたの言葉で言えば教理のプロとして、申し上げております。
ついでに言えば、私にはもう政治を意識する意味などありません。上司であったケイラス司祭の信仰汚染がこれ以上ない形で明らかになったいま、私の次の任地はサンサ教区よりさらに過酷な土地となるでしょう。
ですからこれは、私の遺言にして遺題だとお考えください。私の中にずっとたゆたってきた、けして外には出せなかった疑念を、あなたにだけお伝えします――もちろん、できるだけ平易な言葉で」
彼女の言葉に、僕は思わず背筋を正し、メガネの下に潜む双眸を見つめてしまう。
間違いない。彼女は真剣だし、その目には覚悟と確信が横溢している。
そして事実、ユーリーン司祭の言葉は、のっけからハイブロウだった。
「もう一度、繰り返します。
異端とは、悪魔による信仰の汚染です。
そして異端の定義問題は、そんなところに真の課題を有したものではないのです」
驚くべきことに彼女は、審問会派とボニサグス派が主導権の奪い合いをしている異端の定義問題について、ここまで積み重ねられてきた議論はすべて無意味だと宣言した。おいおい。なんともはや、本当に僕はこの議論に最後までついていけるのだろうか?
「まず最初に、事実のみを踏まえることにします。
教皇はときに神からの神託を受けます。そしてその神託が何を意味するのかを、我ら人の子は理解できません。これが、実際に起きていることです」
僕は思わず「理解できていないわけではなく、完全には理解できていない、ということでは?」と言いかけたけれど、その言葉は尻すぼみになるほかなかった。「完全には理解できていない」、つまり「一部は理解できている」とする理論的根拠は、言われてみれば確かに存在しない。
「つまり、我ら人の子にとって、神は不可知の存在です。
アリア書2.16『神は人より大きく、人の過ちもまた神の正義である』という記述は、〈原初〉第1章で示された『神を疑うことなかれ』をより踏み込んで語った言葉です。
人は、神を、理解などできないのです。
ただ信じることしか、できないのです。
そして信じることによってのみ、神は我らにとって真実足りえます。
それ以外の方法では、我々は神が真実であるかどうか、定義する手段を持ちません。いいですか、『定義できない』のではなく、そもそも『定義という概念にあてはまらない』のです」
短く簡潔ながらも鋭い言葉の数々に、僕は無性に喉の渇きを感じていた。
なるほど、彼女が「けして外に出さなかった疑念」というだけのことはある。こんなことを、よりによって審問官の前で口にしたら、間違いなく即決で異端者として火あぶりだ。「人は神を理解できない」ですらスレスレなのに、「信じること以外に神の真実を断定できない」だなど、冒涜以外になんと評価すればいいのか。
でも僕は、この冒涜的な疑念は、こんなところで止まらないだろうという予感があった。そしてその恐怖から目をそらしたくて、思わず余計な口を挟んでしまう。
「ユーリーン司祭。あなたの説の立脚点は、つまり、賢者アムンゼンの超越的無謬説にある、のかな?」
僕の浅はかな問いに対し、ユーリーン司祭は生真面目な顔のまま、首を横に振った。
「いいえ。アムンゼン説は、評価に値しないと考えています。
超越的無謬説には、致命的な弱点があります。そもそも彼が示したとおり、本当に神が我ら人の子の判断基準を完全に超越しているのであれば、神にとって『正しい』『誤り』といった、人間にとって常識的な理論操作が成立しているのかどうか、我々は判断する根拠を持ちえません」
思わず、僕の喉から「ぐっ」という妙な音が鳴った。
彼女のロジックは、一瞬で僕の理解を超越してしまっていて、とてもではないがついていけない。
それに気づいたのか、ユーリーン司祭はあわてたように例え話を始めた。
「あー、ええと、つまりですね。逆の方向から例え話をします。
いまここに、生まれたての赤子がいるとしましょう。そしてその子が、洋服のボタンを口に含み、食べてしまおうとしたとします。
このとき、パウル1級審問官ならどうしますか?」
僕は少し考えてから、常識的な答えを返す。
「急いでボタンをとりあげて、それから、『これは食べちゃダメだ』と言うだろうね」
僕の解答に、ユーリーン司祭は深々と頷く。
「普通はそうするかと思います。
では、その訓示によって赤子はボタンを口にしなくなるでしょうか?」
僕は素直に首を横に振る。子育てはそんな簡単な仕事ではない。
――そしてそのとき、ようやく僕にもユーリーン司祭が何を言いたいのか、理解できた。
「……なるほど。生まれたての赤子は、『~をしてはならない』ということが理解できないだけでなく、『~をしてはならない』という概念そのものが存在しない可能性が高い。無論、その後の教育によって『禁止』という概念を理解していくことになるわけだが。
つまり君は、神の目から見れば人はこの赤子のようなもので、『禁止』という概念そのものを有していない、と言いたいわけだ。そして赤子たる我々の目から神を見たとき、『禁止』という概念がこちらに存在しないがゆえに、『禁止』を理解する手がかりもないし、神が『禁止だ』と言ってもこちらにはそれが何なのかを理解しようがない」
僕の言葉に対し、ユーリーン司祭は静かに頷いた。
「おおむね、そういうことです。本当は集合論を使うともっとスッキリするんですが、今は避けましょう。
ともあれ、赤子たる我々は、『お腹が減った』『下半身に汚物が付着していて気持ち悪い』といった概念こそ持っていても、『禁止する』という概念がありません。
これが大人と子供であれば、結局は同じ人間ですから、ご指摘の通りにやがて『禁止する』という概念を理解するでしょう。
ですが神と人間の間には、親子以上の決定的な断絶があります。そしてアムンゼン説はつまるところ、『禁止する』という概念は、『お腹が減った』『おむつを替えてほしい』という概念を飲み込んで存在する上位概念である、と語っているに過ぎません。暴論にもほどがあります」
ふむ。全部が理解できたと思わないが、大筋は理解できた。
しかしこれは……僕の理解が正しければ、これは――とてつもなく……。
「私は、老アムンゼンが超越的無謬説を唱えたとき、やはり彼には老いによる衰えが重たくのしかかっていたのではないか、と考えています。
彼ほどの賢者であれば、超越的無謬説が一種の自己循環を起こしていることに気づく注意力があったはずです。さもなくば、超越的無謬説をさらに一歩先に進め、もっとちゃんとした議論へと完成させる体力と勇気があったはずでしょう。
でも彼にはもう、そのどちらもなかった。無論、そのことが賢者アムンゼンがなしてきた仕事の価値を貶めることにはなりませんが」
改めて、思う。やはりユーリーン司祭は、恐ろしい人物だ。恐ろしいという意味では、シーニー君やライザンドラ君、あるいはナオキといった面々にも恐ろしさを感じるが、彼女は明らかにレベルが1つ違う。
彼女にフリーハンドを(潤沢な予算と一緒に)与えれば、彼女はおそらくたった一人で既存の秩序すべてを破壊してしまうだろう。ボニサグス派が彼女を恐れ、彼女が政治に疎いことを利用して辺境へと追放したのも、仕方のないことかもしれない。
僕の思いをよそに、時代の革命家は、さらに論を先に進めた。
「さて。もうお気づきだと思いますが、私は審問会派の行う〈審問の儀〉の効果のほどを、抜本的に疑っています。
統計的に見ると、〈審問の儀〉によって有罪とされてきた人物は、きわめて高い確率で実際に悪事に手を染めていました。ですのでまるで意味がないとまでは思っていません。私の疑念は、そこにはないのです。
まあ、たぶん〈審問の儀〉では悪魔の干渉を見抜けないだろうなという邪推くらいはしていますが、そんなことはどうでもいいんです」
喉が、乾く。それは断じてどうでもいいことではない!
そう叫びそうになりつつも、喉がひりついて、言葉にならない。
ユーリーン司祭は、そんな僕を見ながら、滔々と言葉を続けた。
「そう。問題は、悪魔とは何か、ということなのです。
我々が神の正しさを客観的に評価する術をもたない以上、神と対等の力を持ち、かつては神に対抗して地上に顕現して戦ったという悪魔についても、同じことが言えると考えるべきです。
つまり我々は、理解可能性が皆無であるという点において同一である、神と悪魔を有意に区別できない」
やめてくれ、と叫んだ。
でもその声は、言葉にならなかった。
僕は――異端審問官として、これでも幾多の場数を踏んできた僕は――眼の前の小娘とも言える年齢の司祭の言葉に、その理論に、その存在感に、完全に飲まれていた。
「異端が悪魔による信仰の汚染であるという点について、私は一点の疑義も異論もないのです。
ですが客観的に見て、我々が『これは神が与えたもうた信仰』『これは悪魔によって汚染された信仰』と綺麗に分類できる可能性が、どれくらいあるのか?
もちろん神は我らに正しい信仰の道をお伝えくださいました。私だって司祭ですから、それくらい分かっています。
でも、他ならぬ神の御力以外をもってして、我々にはその『正しさ』を判定するすべがない。そして困ったことに我々は、神が『それで正しい』と示されたとしても、そのことを理解できない。
第一、我々に神が示された道が理解できるのなら、教理問答が起こる可能性だってないはずじゃありませんか。問答するまでもなく、神によって何が正しいかは絶対的かつ決定的に示されているのですから」
冷や汗と悪寒が止まらない。
おそらく――おそらく、彼女の指摘は正しい。そして極めて危険だ。
こんなことを口にする司祭がいたならば、審問会派どころか教会全体が一丸となってその司祭を迅速に吊し上げ、拷問し、悪魔に唆されたという自白を引き出した後、燭台派が守る原初の炎に投げ込むだろうし、そうするべきだ。
だがそれでも、彼女の見解は一定以上の妥当性を有している。
「老アムンゼンが逃げたのは、この結論からであると考えます。
超越的無謬説は、神が超越的であるということと無謬であることを結びつけようとするから、無理が出るんです。
神はただ、超越的なのです。
そのことを無謬などという小賢しい人間の枠組みと組み合わせるから、自己矛盾を発生させてしまった。
でも、わからなくもありません。我々は神と悪魔を区別できず、そして神が『あれは悪魔だ』と示してくださったとしても、そのことを理解できないかもしれない――なんてことを口に出そうものならどうなるか、私にだって簡単に想像できますから。
でも老アムンゼンは、あの段階できちんと踏み込んでおくべきだったと思います。もし神の超越性に関する論考がもう少し組織的に進んでいれば、その先の仮説についても、いま少し考察が進められたかもしれません。
つくづく、残念です」
ひりつく喉を必死で動かして、僕は目の前に座った論理の怪物に問いただす。
「その先の仮説を、聞かせてくれるかい?」
ユーリーン司祭は軽く肩をすくめると、無造作に先を続けた。
「神が絶対的に超越していると考えると、自然に次の発想に至ります。
つまり我々は、神が存在していようがいまいが、それを確認できないはずなんです。
なるほど、確かにこの世には神の奇跡があり、私もまた古い形の〈豊穣の儀式〉の復活に手を貸すことができました。かのごとく神の奇跡と祝福が実在する以上、神の実在は自明である――一見するとこれは、筋が通っているように見えます。
でもラナ司祭による鉄球の実験が証明したように、神が定め給うた〈法則〉は、高徳の司祭の手によってそれが実行されようが、死罪が決まった重犯罪人によって実行されようが、結果に違いは出ません。
そして実際、辺境の無知な農民たち――自分が描いている文字が何を意味するかすら知らない貧農たちの写経を規定通りに集めて奉納することで、〈豊穣の儀式〉は完成しました。
で、あるならば。
いわゆる奇跡や祝福もまた、この世界を形作る様々な〈法則〉の内側にあると考えられます。そして神の超越性――つまり我々はけして神を理解できないというところに立ったとき、我々はこの〈法則〉すべてを作り給うた神が本当に存在するのか、しないのか、明言できないはずです。
もしかしたら我々は、神でも悪魔でもない何者か――あるいは〈法則〉そのものによって自己生成された〈法則〉に対し、神や悪魔という幻影を見ているだけかもしれない。これを『そうではない』と否定する論理的根拠は、『なぜなら私は神の存在を確信しているからだ』という信仰告白以外にあり得ない、ということになるかと」
馬鹿げた妄想はやめろ――と言う気力すら、もう僕には残っていなかった。
ユーリーン司祭が心のうちに秘めていた仮説は、暴力的なまでに斬新で、目眩がするほど美しく、甘美なまでに幻惑的だった。
「もっとも、この説――仮に神の実在超越説としますが――は、こうして結論から眺め直すと、『天に栄光を、地に繁栄を。人の魂に平穏あれ』という最も基本的な信仰告白の価値と意味を証明しているだけでもあります。つまり老アムンゼンも、ここに踏み込んでも『大山鳴動して鼠一匹』と考えたのかもしれません。
それに私だって、『仮に神の実在を人間が定義できない、あるいは人間が実在を定義できないからこそ神であるとして、お前は神が存在しないとでも言うのか?』と聞かれれば、『私は神を信じています』以外に言うべきことは何もありません」
今日何度目になるか分からないけれど、僕はどこまでも深い驚きに心を震わせながら、ユーリーン司祭の落ち着き払った顔を見つめた。
「神は我々がいかに生きるべきか、道を示してくださった。
卑小なる我ら人間にはその道を真に理解することなどできず、ゆえに、迷うことなく歩くこともできない。それどころか、迷いこそが我々の人生の大半を占めるのが現実です。
でも、それもまた神が示し給うた道なのでしょう。
おそらく我々は、迷ってよいのです。迷い、さすらい、嘆き、悲しみ、迷って、迷い続けて、それでもなお生きたいと願う。我ら幼子のごとき人間に、神はこれほど大きな猶予と自由を与えてくださった。
だから我々は、迷ってよいのです。善を望んだ者が意図せずして不善を成し、善など意に介さぬ者が一瞬の偶然により一輪の善の花を咲かせることもある。我らは、結局のところ、迷うしかない」
僕は我知らず、口の中で小さく呟いていた。
〈我らは結局のところ、迷うしかない〉――か。
ああ。その通りだ。残酷なまでに、その通りではないか。
「もちろん、迷いとは苦しみです。
私だって、さんざん迷い、苦しみました。今も迷い、苦しんでいます。
願わくばニリアン領に戻り、彼の地に住まう善良な人々と一緒に信仰の道を探したい。でもおそらく、私の未来にそんな可能性は残されていない。
私は何をすべきだったのか。なぜ私なのか。何が悪かったのか。
迷いは消えず、苦しみも消えません。
だから、苦しくて苦しくて仕方ないとき、私は神に祈ります。
『天に栄光を、地に繁栄を。人の魂に平穏あれ』と唱え、自らが神を信じていることを、確認します。
そうやってただ無心に信じればよいという時間は、再び迷い多き人生に戻るまでの間、心を穏やかにし、魂に安らぎを与えてくれます。
そしてこの構造全体を振り返ったとき、私は改めて、そこに神の存在を確信します。だって、こんなにも精緻で、こんなにも強靭で、そしてこんなにも慈愛に満ちたシステムを作れる存在がいるとしたら、それはもう神でしかあり得ないでしょう?」
僕はいつしか、自分が涙を流していることに気がついた。
僕はユーリーン司祭の信仰告白に、心の底から感動していた。この論理の果てにたどり着く知性の深さに驚愕し、また若くしてこの境地に至るまでに乗り越えた苦悩の重さに恐怖していた。
そして、確信した。
彼女こそ、最短で次の――それが叶わぬならば、3代以内に――教皇となり、信徒すべてを導く立場に立つべき人間だ。人の世の政治にすっかりおもねるに至った今の教会を改革し、自業自得でしかない閉塞状態を打破して、もう一度、神の家としての教会を再建するために遣わされた人物だ。
だから僕は、決意を固める。
ユーリーン司祭が示したように、僕は迷っていい。迷っていいのだ。
迷っていいからこそ、いま、ここで、僕は道を決める。
「ありがとう、ユーリーン司祭。
あなたは僕が聞きたかったことを越えて、僕が知らねばならなかったことまで教えてくれた。
だから僕も、覚悟を決めた。
明後日、新年のミサが終わり次第、大聖堂をお借りしたい」
ユーリーン司祭は僕の横車とも言える割り込みに苦笑しつつ、「正午から夕刻までなら」と許可を与えてくれた。それから腕を組み直すと、不審げに聞いてきた。
「それで、大聖堂で何をするつもりなのです?
いまのところここの責任者は私ですから、教会法に基づき、使用目的を聞ける範囲で伺っておかなくてはなりませんので」
実にユーリーン司祭らしい律儀な対応に、僕は苦笑しながら答えた。
「ライザンドラ・オルセンに対し、〈審問の儀〉を行う。
おそらく、彼女は異端者ではないという結果が出るだろうね。
それでも――というか、それだからこそ、僕は彼女に〈審問の儀〉を行わねばならないのさ」




