アルール歴2177年 5月17日(+1日)
――ライザンドラの場合――
扉の前で、私は深呼吸をした。
マダム・ローズから命令を受けた翌日、私はマダムが手ずから特別に用意したドレスを着せられ、ドロシーが言う「変な客」が連泊している部屋へと向かった。
まだ夕刻を告げる教会の鐘は鳴っていなかったが、周囲はすっかり暗くなっている。ポツリポツリと灯されたランプの炎が、豪奢な壁紙の貼られた壁や天井に反射し、不思議にゆらめく模様を描き出す。空気はまったりと甘く、娼館ならではのエキゾチックだがどこか饐えた匂いを漂わせていた。
意を決して、ドアをノックする。
「どうぞ、入って」
その男の声は、予想よりずっと若く、それにどこかおどけたような雰囲気があった。夜の街の重鎮というからには、年季の入った迫力ある声だろうと勝手に想像していただけに、初手というか、初手が始まる前から調子が狂う。
でもそのせいか、部屋に入った私は、まるで気負いを感じていなかった。むしろ部屋に入ると甘い香りが一層強くなり、男にしては随分と女々しい香を炊くんだな、などと失礼なことを思っていた。
「マダムから話は聞いてるよ。そこに座って。楽にして」
彼は、実に行儀悪くも、大きな机に腰を掛けていた。着ている服は上等だし、態度や声も穏やかだったが、とてもマダムが言うようなすごい人には見えない。
言葉は悪いが――そう、そこらのちょっと気の良い屋台のお兄さんに、高級スーツを着せたらこうなるだろう、といったところ。
ともあれ、少し迷ったが、彼が指差した豪華なソファに腰を下ろす。お客様が座れというのだから、夜の娘としては無作法であったとしても、先に着席するしかない。
そのとき、彼がふとテーブルの上に目線をやった。
私もつられてテーブルの上を見る。
テーブルの上には、羊皮紙が一枚乗っていた。
羊皮紙には数字が階段状に並んでいる。
1
11
21
1211
111221
ああ、なるほど。これ、面白い。
――そう思った瞬間、彼と目があった。
その目は、私をえぐるように見つめていた。
視線を逸らそうと思ったけれど、いま逸らしたら駄目だと自分の中の何かが訴えていた。
彼は私をその強烈な視線で射抜いたまま、祈るように数字を口にする。
「312211」
嫌だ。やめて。
頭の中で悲鳴があがる。
「13112221」
やめて。やめてください。
嫌なんです。駄目なんです。それは、駄目なんです。
「1113213211」
喉が乾く。体が震える。
「やめてください」。そんな音が自分の喉から漏れた。
「31131211131221――さあ、次を言いたまえ」
嫌だ。いいたくない。言ってはダメ。
13 21
頭を下げて。体を小さくして。
口を閉ざし、目を閉ざし、過ぎ去るのを待って。
13 11
「君はその次が言いたい。
なぜなら君はこの小さな数字の世界の、真実を知ったから。
真実を知った以上、人はそれを語らねばならない。
それが人にとって最も大きな義務だから。
そして――最も大きな快楽だから」
嫌だ……イヤ――頭を下げて……体を小さくして――
12
これが過ぎ去るまで、我慢を――
31
我慢を、すれば――
13
「我慢をすれば、どうなると思う?
君は決してこの次の数字を忘れない」
11
「この次の数字は、ここから先、君の一生について回る。
なぜなら、真実とはそういうものだから」
22
「本当にやりすごしたいなら、君は今すぐ真実を吐き出すべきだ。
あるいは――ああ、そうだね、わざと間違いを言う、というのも良い手だよ。
わざと間違いを言っても、やりすごすことはできる」
彼のその言葉は、恐怖と混乱でぐちゃぐちゃになった私の魂に降り注ぐ、天啓だった。
――ああ。そうか。間違えばいい。わざと。
そうすれば、私は分かっていない。
そうだ。それでいい。そんな手があっただなんて。
私は息せき切って、適当な数字を並べる。
そしてその瞬間、自分がまた踏み出してしまったことに気づいた。
「そうだ。君はいま、俺の言葉どおり、わざと間違えた。
君は次の数字が何かを知っていたけれど、わざと間違えることを選んだ。
君は、分かっていないわけではないことを、自分から語ってくれたんだよ。
俺の故郷ではそういうのを、頭隠して尻隠さずと言う」
彼の口調はどこかふざけたような響きがあったが、今の私には、その声がひたすらに恐ろしかった。彼が何を言っているかではなく、彼が何かを言っている、それがただ恐ろしかった。
「つまり、だ」
彼の言葉の先が聞きたくなくて、私はマナーもへったくれもなくソファから立ち上がり、全力で部屋から逃げた。
いや、逃げようと、思った。
ソファから立ち上がった私は、自分が平衡感覚を失っていることを知った。一歩目で床がぐにゃりと歪み、二歩目で横転する。
そんな無様な私の姿を、彼はただ見ていた。
その口がゆっくりと動き、私の耳に歪んだ音が届く。
「君は、俺の側にいる人間なのさ」
心臓が凍えるほどの恐怖と焦りに突き動かされるまま、私はその場で頭を抱え、小さく丸くなっていた。そして緊張とパニックの限界を突破した私の意識は、その記憶を最後に暗転していった。