アルール歴2181年 12月19日(+5秒)
――シーニーの場合――
「先輩が遅滞戦術を仕掛けてくることも、そして遅滞戦術によって稼いだ時間で別働隊による奇襲を仕掛けてくるであろうことも、分かっています。
だから今回、私は、最前線に立つことにしました。なぜなら先輩は私に『スヴェンツ傭兵たるもの、指揮権を持ったならば、けして前線に出てはならない』と教えてくれた人だから。つまり先輩の裏をかくならば、その教えの逆をするのが最適解です。
司令部には、ザリナ隊長とその部下が伏せています。先輩が送り込んだ別働隊ごとき、今頃全滅しているでしょう。
だから、今度は、私の勝ちです。降伏して下さい、先輩」
私の降伏勧告に、案の定というべきか、アスコーニ先輩は従わなかった。
「シーニー。この程度で俺に勝ったとは、甘すぎる!
貴様こそ、剣を捨てろ! さもなくば俺は、パウル1級審問官を、俺が仕掛けた最大の罠の上に、投げる! そうすれば貴様らは全員死ぬ!
シーニー、俺の罠がどれほどいかれてるかは、お前が一番よく知ってるだろう! さあ、剣を捨てろ!」
アスコーニ先輩の言葉に、特別行動班の猛者たちが、思わずといった風情で一歩退く。
でもその言葉は、私には届かない。
「先輩――なぜこんなことを?
私の知る限り、エミルには先輩が忠義を誓う価値などありません。
先輩が自らをスヴェンツ傭兵と名乗るのであれば、先輩はスヴェンツ傭兵の忠誠を安売りしているだけです。とてもではありませんが、第103期卒業生総代の態度とは思えません」
私の言葉に対し、アスコーニ先輩は苦笑いした。
「それはむしろ、お前のほうがよく知っているんじゃないのか?
エミル様だって、昔は利発で、健気で、一本気な、正義感の強い若様だった。
だがエミル様は、ゆっくりと、ゆっくりと、おかしくなっていった。
利発さを他人と比べられ、努力を否定され、真面目さが実を結ばず、正義を笑われて、あの方は迷子になられたのだ。そう、学院でお前がそうなったように。
そしてその果てで、いつしか俺もまた、人倫を越えていた。
哀れなエミル様に命じられ、そして請われるがまま、騎士として、人として、越えてはならぬ一線を越えた。
そして己の手を無辜の血で汚したからこそ――俺にはもはや、エミル様に対する忠義以外、何もない! 何もないんだ!」
アスコーニ先輩がパウル1級審問官を押し倒そうとする両腕に、一層の力がこもる。
それに対し、パウル1級審問官も、全身の筋力を総動員して対抗する。
それを見ながら、私は内心で、先輩に同情していた。
先輩と、エミルに、同情していた。
なんて。
なんて……哀れな。なんて――
だからもう――終わりにしましょう、先輩。なにもかも、終わりに。
「先輩」
臆することもなく、躊躇うこともなく、私は一歩を先に進める。
「私、気づいてました」
また一歩、前に出る。
「私の部屋にいかがわしい手紙を投げ込んだり、ストーカーを女子寮に手引きしたりしてるのが、先輩――先輩たちだってことに。
1年生と2年生の対抗模擬戦で、先輩が指揮する2年生チームをこてんぱんに打ちのめした私が、先輩はもちろん、2年生全員からも恨まれてたことだって」
一歩。また一歩と、歩を重ねる。
私の確かな歩みに怯えたように、アスコーニ先輩が叫んだ。
「――シーニー、そこで止まれ!
その先には、俺の、この俺が仕込んだ、罠が――罠が!」
駄目です、先輩。
その言葉では、私にはもう、響かない。
だから私は、一歩を踏み出し。
そこに、罠などなかった。
しばらく、ただ、私は立っていた。
勝った喜びも、出し抜いた優越感もなく、ただ、立っていた。
それから私はさらに数歩を前進して、パウル1級審問官といまだ組み合っているアスコーニ先輩の横に立った。
「先輩。いまここで先輩が審問会派相手に戦っているという事実が、エミルに対する先輩の忠誠は本物だと証明しています。
で、あるならば。
麻薬に溺れたご主人様――つまり、いつどこにフラフラと歩いて行ってしまうかわからない主君の居住空間に、致死的な罠なんて仕掛けられるはずがないんです」
このことは、作戦が始まる前に再三、全員に説明した。
でも彼らはどうしても、その理屈を、信じきれなかった。
それは仕方ないことだと思う。他人の判断に従った結果として死ぬというのは、決して心躍る未来ではない。
私は、自分の判断に、自分の命を預けた。
そして私は、自分の判断が正しいことを、自分の命で証明できた。
つまり、この戦いはもう、完全に決着がついた。
だから私は、アスコーニ先輩にとどめを刺す。
「そう。先輩は、自分にとって大事な人を危険に晒すかもしれない罠は、仕掛けられない。
だって先輩は、私の体に傷が残る可能性があるような仕掛けだけは、絶対にしなかったから。
だって先輩は、先輩の同級生たちが呼び込んでしまった変質者が私に直接の危害を加えないよう、必死で努力していたから。
でも――そんな臆病者に、主君の命を危険に晒してでも百万が一の勝利を掴み取るような策を、実行できるはずがありません。先輩には、指揮官にとって重要な能力である〈厚顔無恥であれ〉という訓練が欠けていたし、今も欠けてるんです」
私の言葉を聞いたアスコーニ先輩は、一瞬絶句し、そして怒りを沸騰させようとして――そして、全身の力が抜けたようだった。パウル1級審問官が先輩を押し返そうとする力そのままに、岩壁に叩きつけられる。慌てたようにパウル1級審問官が手を離すと、先輩はそのまま床に両膝をついた。
「――降伏する。俺の命を賭けて、すべてを話す。
エミル様をわずかなりとも救うため、俺にできることはもう、それしかない」
ボソボソとそう呟く先輩は、ひどく頼りなかった。パウル1級審問官はいささか冷ややかな目で先輩を睨みつけると、部下の特別行動班に命じて先輩を拘束させ、それから洞窟の奥へと走り始めた。事前の打ち合わせで決めた手はず通り、私と特別行動班のエース4人がそのあとを追って洞窟の奥へと向かい、残りは拘束したアスコーニ先輩を司令部へと護送していく。
そうやってしばらく走って、走って、走って、ようやく、私たちは大きな扉の前に出た。扉はかなり頑丈そうな造りで、鍵穴も見える。どうするのかなと思っていたら、パウル1級審問官は「派手に行くぞ」と宣言すると、ドアを蹴破った。
ドアは難なく開き、私たちは武器を片手に部屋の中へと突入する。
部屋に入ると、そこには地獄があった。
そこはかなり開けた空間で、あちこちにランプが引っ掛けられていた。どこかに空気穴が開いているのか、少し肌寒い空気が流れ込んできている。
でもその冷えた空気とは裏腹に、部屋の中には血の匂いが充満していた。
――カナリス特捜審問官が、先に突入したか。
私はそんなことを思いながら、慎重に惨劇の間を先に進む。
床には全裸の男や女が倒れていた。みな一様に絶命していて、そのほとんどは頭部に激しい損傷がある。重たい鈍器でめいっぱい殴られた跡だ。頭蓋骨が割れ、脳みそがはみ出している死体も多かった。
無造作に散乱する死体の真ん中には、カナリス特捜審問官がいた。
彼は私たちに背を向けるようにして床にどっかりと座りこんでいて、傍らに転がったメイスには血と臓物がべっとりと絡みついている。
カナリス特捜審問官の横で地面に転がっている、頭が半分なくなっている死体は、エミルだろう。なんともはや、実にあっけないものだ。こんなにもあっさりと、ハーミルたちの敵討ちが終わってしまうだなんて。
そんなことを考えながらふと視線を前に向けると、そこには異様なものがあった。
カナリス特捜審問官が座りこんでいる場所の、少し先。
気持ち床が高くなったところに、それは、あった。
私はしばらく、それが何なのかわからなかった。
けれどよく見ると、それは――それは、人間の死体だった。
十字型に組まれた大きな板に、人間の死体が打ち付けられていた。
それはぞっとするほど恐ろしく、また本能的に異教を思わせる、おぞましいオブジェだった。
そして事態をさらに難しくしてやるぞと言わんばかりに、その十字型の板に打ち付けられた死体は、ケイラス司祭の死体だった。
ケイラス司祭の死体は完全に全裸で、滑稽なことに、頭には茨で作られた冠が乗っていた。死体には目立った腐敗も見当たらず、防腐処理が万全になされているのは間違いない。パウル1級審問官は「これだけの処理ができる職人は限られてるな」と呟いた――なるほど鋭い視点だと思うけれど、今はそれどころではないような気もする。
胸が悪くなる思いを飲み込みながら、私はカナリス特捜審問官のもとにそっと近寄る。
岩のようにうずくまったカナリス特捜審問官を背後から覗き込むと、その大きな両手は、白い小さな裸体を抱きしめていた。
ハルナさんだ。
ちらりと見ただけでも、ハルナさんに何があったかは明白だ。
彼女の体は、男たちや女たちの体液にまみれていた。
あー。あ、あー。
どこかで、小さなうめき声のようなものが聞こえた。
いや、うめき声とも少し違う。赤子の泣き声のような、そんな声。
私はこの場にそぐわぬ声に驚いてあたりをきょろきょろと見渡し、それからその声の発生源に気づいた。
その声は、カナリス特捜審問官の両手の中から、発せられていた。
あー。うー。ううー。あー。
まるで意味をなさないその言葉は、そう理解して聞けば、ハルナさんのものだ。
衝撃のあまり、私は立ちすくんでいた。
こういう可能性はあると覚悟していたけれど、実際にそれを目にすると、驚きや怒りや悲しみといった感情はむしろすべて抜けおちる。そして「こんなのは嘘だ」「こんなのは何とかしてやり直せるはずだ」という思いだけが、脳の中をぐるぐると旋回し続けた。
そんな私を押しのけ、パウル1級審問官が、カナリス特捜審問官に鋭い声で問いかける。
「カナリス。なぜ殺さなかった」
おそろしく冷酷な――そして、残酷なほど妥当な問い。
でもカナリス特捜審問官は、ゆっくりと顔をこちらに向けるだけで。
その表情は、まだ悪夢の中にいるかのようだった。
カナリス特捜審問官は何かを言おうとして、怒りと絶望のあまり何も言えず、ただ私たちに向かって、首を横に振る。
うー。あ、ああ、うー。あー。
カナリス特捜審問官の両手の中で、ハルナさんの小さな体が痙攣した。その体がガクガクと動くが、そこに何の刺激もないことに怒ったのか、ハルナさんはより大きな唸り声をあげる。その声を聞いて、カナリス特捜審問官は必死で彼女の体を抱きしめ、背中を撫で、「ハルナ」と呼びかけた。
その様子を、パウル1級審問官はひどく悲しそうな顔で見ていた。
私は彼が何をしようとしているのかを悟り、ちらりと周囲の特別行動班隊員に視線を送る。彼らもすぐに頷いて、私たちは揃って部屋を出ることにした。
パウル1級審問官は、ハルナさんを「名誉の殉教者」として、この場で葬りたいと思っている。私ですら、そうすべき理由をいくつも思いつく。政治のプロであるパウル1級審問官なら、100でも200でもその理由を並べられるだろう。
でも、まだ生きている――そしてぱっと見た感じでは致命傷を負っているわけでもない――ハルナさんを殺すとなると、いろいろと問題がある。少なくとも審問会派ではない私は席を外すべきだし、そういう政治とは縁のない特別行動班の隊員も「遠くにいる」ほうが望ましい。
……でも、パウル1級審問官は、本当にハルナさんを殺せるだろうか? この点について、私は大いに疑問だと思ってもいる。だいいち、あの状態でハルナさんを殺すことを、カナリス特捜審問官が許すはずがない。
……でもでも、じゃあハルナさんをまずはダーヴの街に護送し、そこで治療を受けさせたとして。彼女はかつてのような知性と明るさを取り戻せるだろうか? これまた、非常に疑わしい。私は医者ではないので明確なことは言えないが、ああなってしまった人間は、たいてい、完全に壊れてしまっている。
だから実のところ、私が特別行動班の隊員と一緒にあの部屋から離れたのは、配慮や思慮の結果ではない。
私は――私たちは、逃げたのだ。
あまりにも暗く、あまりにも凍てついた現実から目をそらしたくて、あの死と絶望が横溢する空間から、全力で逃げ出したのだ。
あそこから逃げさえすれば、きっとハルナさんは元気を取り戻し、パウル1級審問官はあの部屋で異端撲滅を決定的に前進させる証拠を見つけ、カナリス特捜審問官は事態を収束させるべく皆に号令をかける。何もかもが元通りになり、また私たちは厳しくも充実した任務の日々に帰れる。
そう。あそこから、逃げさえすれば。
だから私たちは、ひたすら逃げた。ただただ、逃げた。「いちど司令部に戻ったほうがいいですね」「司令部への襲撃がどのような規模だったのか気になります」「兎にも角にもケイラス司祭とエミルが死に、彼らが作った薬物カルトも壊滅したということは、司令部に報告すべきです」などと、空虚な会話を交わしながら。
そうやって洞窟を小走りで戻っていると、入り口方向から特別行動班の隊員が4人ほど、走ってきた。おそらくは何らか対処すべきこと――つまりあの扉の向こう側ではなく、こちら側についてだけ考えれば良いような事態が発生したのかと思い、私は内心で深々と安堵しつつ、足を止めて敬礼する。
――けれど彼らは私の姿を見て、ひどく複雑な表情を浮かべた。
そうして少しマゴマゴした後、予想外の事を言い始めた。
「シーニーさん。あなたを拘束します。武器をこちらに。
抵抗するのであれば、必要な措置を取ります」
一瞬、何を言われているのか分からず、動きが止まってしまう。
拘束? 武器を? 抵抗? いったい――何が?
「……やはり、あなたは部外者だったのですね。
ともあれ、もう一度繰り返します。武器をこちらに。
抵抗する、あるいは非協力的態度を取り続けるなら、必要な措置を取ります」
話が繋がらない。繋がらないが、それでもいま、私がなすべきことは、分かった。
私は剣を鞘ごと外すと、目の前の隊員に手渡す。予備の短剣とナイフも、同様に鞘ごと預けた。
それから両手を上げて、抵抗の意思がないことを示す。
「ご協力に感謝します。それから、規則ですので腰縄をつけさせて頂きます。
こちらにもご協力頂けますと、助かります」
相変わらず状況は理解できないが、私はおとなしく腰に縄を巻きつけられた。私が犯罪者として逮捕されるのであれば両手も拘束されるはずなので、現状では非常に疑わしい容疑者といったところか。
「では、まずは司令部に。そこで状況を説明します」
言われるがまま、司令部に向かう。もともと司令部を目指していたのに、容疑者として拘束されて司令部に行くことになるとは、なんとも不思議な気分だ。
しばらく歩くと、外に出た。司令部を置いた高台はすぐそこだ。そして下から見た限りで言えば、司令部に何か重大な被害があった様子もない。
困惑しながら、司令部へと続く坂道を登り――登りきった私は、すべてを理解した。
司令部のテントには、いくつかの死体以外、誰もいなかった。
転がっている死体は、アスコーニ先輩が仕掛けた別働隊だろう。
でも、誰もいないなんて――そんな……
「アスコーニ容疑者に確認したところ、死体は彼が編成した別働隊で間違いない、とのことです。
ですので、ここで戦闘があったのは間違いありません。
そしてその後、ザリナ容疑者を含む赤牙団隊員たちは、すべての物資を持ち、どこかに消えました。いま特別行動班隊員が足跡を追っていますが、窪地に降りてすぐに小川の中を歩き始めたようで、おそらくは上流へと移動しているのだろうという予測以外、できていません。
以上が、状況です。シーニーさんに聞きますが、ザリナ容疑者から事前になんらかの相談を受けていましたか?」
私は反射的に、全力で首を横に振る。
そんな――だって……だって――
「だって――だって、ザリナ隊長は……これが終わったら、今晩は二人で食事しようって……レストランも――ホテルも予約してあるって……
そう――そう、約束……して――約束して……」
支離滅裂なことを喋りながら、気がつくと私はボロボロと涙を流していた。
でも、頭の中のどこか醒めた部分が、状況を冷静に分析している。
ザリナ隊長は、直属の部下だけを連れて、どこかに姿をくらませた。あるいは、どこかに向かって移動を開始した。あの人が本気を出せば、追跡はほぼ不可能だ。たとえ追跡できたとしても、移動速度で勝てっこない。
つまり。
つまり――私は……
「約束したんです――絶対……埋め合わせするって――
今夜は寝かさないぞって……約束したんです――」
つまり、私は、捨てられたのだ。
あの人にとって、おそらくは一世一代の作戦から、私は外されたのだ。
「約束、したんです。約束――約束を、したんです。
だから――どうして……どうして、こんな――」
どうして、こうなったんだろう。私の何が、悪かったんだろう。
どうして、あんなハルナさんを見せつけられた挙句、ザリナ隊長にまで捨てられなきゃいけないんだろう。私の何が、悪かったんだろう。
あの扉の先にあった現実は、なぜこうやって、扉の外にまで追いかけてくるのだろう。私の、何が、悪かったんだろう。
「どうして――こんな……こんな、ことって――」
とめどなく涙を流しながら、私はただひたすら、それだけを繰り返していた。




