アルール歴2181年 12月19日(+1分)
――パウル1級審問官の場合――
シーニー君の号令一下、僕らは通称〈泉のアジト〉に突入した。無論、罠の存在には最大の注意を払いながら。
シーニー君は「罠は絶対にない」と断言していたし、そう断言する理由も理解できるのだけれど、〈腐り沼のスラム〉を調査した経験を踏まえて言えば、敵側にあれを仕掛けた男がいるのに罠を気にせず突入するというのは、無理だ。どうしたって人間の自然な心理に反している。
結果として、僕らの前進速度はゆっくりとしたものにならざるを得なかった。
この判断は実に苦しい判断だ。
僕としては、カナリスが本陣に飛び込む前に、僕らのチームで先にケイラスとエミルを確保してしまいたい。是が非でもそうしたい、複数の理由がある。
でも現実問題として言えば歴戦の猛者である審問会派特別行動班も腰が引け気味だし、僕自身に至っては部隊の最先頭に立っているという責任感というか連帯意識というかその手のものがなければ完全に足が止まっていただろう。
いや、まったく。ナオキがヤバイってのは僕も薄ぼんやりと理解してるつもりなんだけど、こうして極限状態に立ってみると、彼の本当のヤバさは彼自身の思想なんかじゃなく、彼が持つ「規格外の人材を見抜く目」なのだと痛感させられる。
例えばザリナ君。
彼女は確かに一人の戦士として傑出しているけれど、バラディスタン人のタブーを踏みにじって今なお逃走中である彼女を雇うというのは、彼女以外のバラディスタン傭兵をすべて敵に回すということでもある。だから彼女の市場価値は、その能力に比べて大幅に安値をつけざるを得ない。
けれどナオキは彼女を雇うだけでなく、個人的なパートナーにまでしている。そしてそれはとてつもない正解と評価するほかない――彼女はバラディスタン文化においては決定的なマイノリティである同性愛者(兼異性愛者)だが、それだけにマイノリティが陥りがちな苦境や苦悩に寄り添う度量を持っている。
結果、地の果て・文明の果てと呼ばれるサンサ教区にまで流れてくるしかなかった傭兵たちは、ザリナ君が率いる赤牙団を家族として認識するに至った。戦死者たちを侮辱するつもりはないが、あえて言えば「名誉や義務よりカネと命が大事な傭兵」でしかない赤牙団伝令隊が、己の命を賭けて任務を遂行しようとした背景には、ザリナ君という巨大な存在がある。
そしておそらくナオキは、ザリナ君が秘めたその可能性を知っていたからこそ、ザリナ君を己の右腕に選んだ。
シーニー君にしても、同じことが言える。
シーニー君は、審問会派特別行動班はもちろん、あのカナリスでさえ信頼する人物――つまり、良くも悪くも、指揮官馬鹿だ。彼女は間違いなく天才で、しかもその才能は部隊を指揮するという一点に絞り込まれている。
けれどこの才能は、雇う側にとってみれば、厄介極まりない才能でもある。
シーニー君の才能を完璧に機能させるためには、雇う側は「実行部隊の指揮に口を挟まず、また、シーニー君が要求する(わりと)無理な予算編成や人材確保計画に対し、きちんと評価して承認できる」だけの度量と理解力が要求される。
この度量と理解力は――悲しい話だが――今の審問会派の上層部に求めるには、まるで無理だ。いや、そんな見識を持った人間は、帝都じゅう探したっていないだろう。
そりゃあ、実際に現場でブーツを泥で汚し、剣を振るって血を流す実行部隊の必要性までであれば、常識として認められる者もいるだろう。けれど、実行部隊の規模とほとんど変わらないスケールの伝令部隊を設置し、かつ教育コストを重点的にそこに投下していくなどという方針を認められる知識人が、どれほど存在するか。恥ずかしながら僕だってそんなことを提案されたら「理想論を通したいならボニサグス派に、どうぞ?」と言ってしまったと思う。
けれどナオキは、シーニー君の才能を見抜くのみならず、情報伝達の密度と精度を上げることが組織としての実行部隊を劇的に強化するということを知っていた。だからシーニー君という、一般論で言えばスヴェンツ傭兵のできそこないを、ザリナ君の直下に置いた。
ユーリーン司祭も、偶然が絡む要素は大きかったとはいえ、無視できない。
彼女がこの時代きっての純粋神学者であり、現代のボニサグス派が抱える超巨大爆弾であるというのは、今の僕なら全力をもって肯定できる。
だが、それだけに思うこともある。
彼女は現代におけるボニサグス派、それそのものだ。ボニサグス派はかくあるべしという、そのすべてを、たゆまぬ努力と研鑽、そして避けがたい苦悩をもって、体現している。
ボニサグス派は、議論の余地なく、最も危険な派閥だ。過激化するときは審問会派が青ざめるほど過激化し、異端の領域に寄るときは審問会派が真剣に派閥解散を議論するほど異端より異端となる。あらゆる局面において現実よりも理論を優先する彼らは、どうしても極端から極端に走る傾向がある。
そしてそういう派閥だからこそ、彼らが真摯に現実と向き合ったとき――そしてそれに耐えられる強靭な精神と理論構造を完成させている聖職者が出たとき――そこで生じる究極の苦悩は、僕らみたいな凡俗では計り知れない風景へと彼らを跳躍させる。統計的に言うと、ボニサグス派が「世界とはかくも美しいものだったか」的なことを口走ったとき、それから10年以内にとんでもないことが確実に起きるのだ(僕としては、こんな統計を取った審問会派の馬鹿を大いに賞賛したいところでもある)。
ユーリーン司祭は、そういう「世界を変えてしまうボニサグス派」だ。
だがそんな人物を、よりによってボニサグス派自身が死地へと放逐してしまうのが、今のボニサグス派だ。
そんな矛盾と劣化の歯車に飲まれて消え去ろうとしていた才能を、期せずして拾ったのは、またしてもナオキだ――いや、本当にこれは期せずしてだったのか?
ナオキはニリアン領以外も己の実験場として選べたはずで、そのなかでもニリアン領を選んだのは、ニリアン卿というこれまた時代の傑物(彼の場合は前時代の偉大なる遺跡と言うべきか)を選んだだけでなく、ユーリーン司祭という異能を選んだのではないのか?
ライザンドラ君に至っては、何をか言わんや。
彼女は時代の頂点に位置する天才の中でも、究極の一人だ。そしてあの手の万能の天才にありがちなことだが、彼女は何かひとつ、とてつもなく傑出した、それこそ人間離れした何かを持っている。あの天才の発露は、なにもかも、巨大すぎるその何かが発露する、余波にすぎない。
言ってみれば、それはハルナ君も同じだ――同じだった。ハルナ君が祖父であるコーイン司祭の殉教を取り戻したいという圧倒的な不可能への想いを軸としてあの才能を開花させたように、ライザンドラ君もまた余人では近寄れない規模の熱量を持つ何かを軸にして己の才能を爆発させている。
だがハルナ君が社会に居場所を見つけられなかったように、ライザンドラ君もまた社会が彼女を受け入れなかった。今更悔やんでも悔やみきれないが、ライザンドラ君の社会を決定的にぶち壊すにあたって一役買った僕としては、灼熱の泥沼に喉元まで沈み込んだかのような後悔が身を焼く感覚と同時に、あのとき僕に「あの魔女を魔女として焼いてくれ」と懇願してきた愚かな人々の本気の涙を、それでも無下にできないと思ってしまう。
なのに。
おそらくはそのすべてを知った上で、ナオキはライザンドラ君を軽やかに救いあげた。彼女にあてがわれた魔女の烙印も、その意味も、その後で彼女が歩んだ煉獄の日々も、すべてを知った上で、「そんなことに何の意味がある」と言わんばかりに、堂々と、胸を張って、彼女の手を取った――
否!
断じて、否!
ナオキは彼女を――無限の煉獄でなにもかもを委ねていた彼女を、もう一度自分の足で立たせた。つまり、事実上、死者を蘇らせたのだ。
何をどうしたらそんなことが可能になるのか想像すらできないが、ナオキはその不可能を可能たらしめた。神ですら拒絶するその奇跡を、あくまで精神の面だけとはいえ、ナオキはやってのけた。
つまり。
あらゆる面において、ナオキは規格外だ。
ハルナ君は彼の異常なまでの先見性を疑ったが、僕としては彼の周囲を固める人材の異常さだけをもって、十分に「ナオキは危険だ」という結論に達する。
それはけして、彼が革命的な成功を成し遂げているからではない。世界を変えていく人間は、常に必要なのだから。
僕が彼に感じる危険さは、彼が選んだ人間たちがまさに示すように、彼が何に対して価値を認めるのか――あるいは何に対してどのような文脈を見出すのかが、あまりにも違いすぎる点にある。あたかも彼だけがまったく違う世界を見ているかのように。
――そんなよしなしごとを考えながら、僕は洞窟をゆっくりと先に進んだ。長い棒で壁や床を叩いて、罠の可能性を排除しながら、ゆっくりと。
そうやって亀のような速度で前進するうち、僕らは結構キツめの上り坂に遭遇し、そこを慎重に慎重に登りきったところで、やや開けた場所に出た。開けたと言っても、せいぜいが3人程度横に並んだらギリギリ、という程度の場所だが。
そしてその開けた場所には、事前調査で調べたとおりの顔をした武人が立っていた。エミルの主席護衛騎士を務めている――いや、務めていた騎士アスコーニだ。
剣と盾を構えたその姿には一切の油断はなく、兜の面頬を跳ね上げたその目に宿る圧倒的な気迫には、つまらない薬物の影響など感じられない。やれやれ。ただでさえ遅れをとっているというのに、ここで一番厄介な敵のお出ましか。
ため息を押し殺す僕を前に、騎士アスコーニは堂々と名乗りを上げた。
「我こそはデリク卿配下の騎士アスコーニ。ここはデリク家の次男、エミル殿の私的な居住地である。貴君らは審問会派とお見受けするが、何の所以あってかような狼藉に出たか、聞かせていただこう!」
……まったく。あまり長い時間もかけられないので、僕は一足飛びで結論に向かう。
「審問会派、パウル1級審問官だ。
騎士アスコーニに問う。貴君のような偉大な騎士が、なぜ神の意に沿わぬ命に従い続けるのか? おっと、余計な言い訳は無用だ。正直言えば、僕は――先を急いでいる」
アスコーニ君は僕の顔をまじまじと見ると、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「なるほど、あなたが審問会派にこの人ありと名高きパウル・ザ・バットマンか。噂に違わぬお人柄のようで、いささか……そう、いささか、感動している。
だが私は、あなたが下らぬ噂とは真逆の、高潔な魂の持ち主だと思っている。先を急いでいるにも関わらず、部下を一斉にけしかけない、そんな立派な騎士である、と」
ええい。まったく口の減らないヤツだ。
僕は内心で呆れながら、でもちょっとだけ彼を憐れみながら、最後通牒をつきつける。
「それはまだ僕の忍耐が底をついていないからだ。
審問会派が命ずる。騎士アスコーニ、いますぐ投降しろ。貴様の主人には異端の疑いがある」
でも、アスコーニは剣を降ろさなかった。
代わりに彼は、面頬を下ろした。カシャンという金属音が、洞窟に響く。
「断る。ここを越えたいなら、私を殺して先に進むことだ。
もっとも、こちらもたっぷり準備させてもらっているがな」
そう宣言すると、騎士アスコーニはこちらから見て左側の壁に体を寄せた。開けた空間に対し、大きく右側が開く。露骨なまでの誘い。右側に開けた部分のどこかに、致死的な罠が仕込んであるのだろう。
こうなると、僕としても対応は1つに限られる。まったく。それがアスコーニの狙いだってことくらい、わかってるんだが。
内心で毒づきながら、僕も剣を抜いた。
「いいだろう、騎士アスコーニ。
僕と一騎打ちだ――そこを通らせてもらう。
少なくとも君が立っているそこに、罠はないだろうからね」
スヴェンツ軍事学院で戦闘用の罠を学び、それを極めたプロを相手に、大人数で仕掛けるのは馬鹿げている。遺憾ながら一騎打ちで彼を仕留め、彼自身に安全なルートを聞き出すしかない。
いやまあ、シーニー君なら「そんなのはハッタリです、罠なんてありません」と言うのだろうが。
若干の迷いを残しながら打ち込んだ初太刀は正面から受け止められ、そのまま鍔迫り合いに持ち込まれた。
アスコーニは一瞬の躊躇もなく左手で持っていた盾を落とすと、僕の右手を掴む。
まずい。
僕もあわてて盾を落とし、左手で彼の剣手を取ろうとした。
すると驚くべきことに彼は右手に持っていた剣すら手放し、僕の左手を逃れると、半歩詰めて右手で僕の奥襟を取る。
まずい。おそろしく、まずい。
アスコーニがさらに半歩、右足を前に詰める。
僕は左足を引きながら、懸命にこらえる。彼は僕を、僕から見て右側の空間――彼が仕掛けたであろう罠の上に投げようとしている。
く、そ!
今更ながら、スヴェンツ軍事学院では剣を握る前に無手格闘術から教えている、というトリビアを思い出した。
まずい。まずい。これはほとんど、走馬灯的なアレだ。
だが無手格闘術なら、審問会派にも秘伝の技がある。
異端の徒と戦うなかで、血を流しながら受け継いできた、実践的かつダーティな技がいくらでもある。
僕は老マルタ相手に気絶するまで組み手をさせられた冬のことを思い出しながら、一瞬だけ両膝を沈み込ませ、次の瞬間に全身のバネを使ってアスコーニの顔面に頭突きをする。
ガツン、と、金属が激突した音がした。
アスコーニの右手が奥襟から離れ、やや体の動きが自由になる。
そのスキを逃さず、開いた左手を思い切り引いて、ローブロー。いわゆる金的だ。
男の急所は鎧で厳重に守っているものの、衝撃を完全に殺しきれるわけじゃあない。それだって僕はいやってほど体験済みだ。
でもアスコーニは神がかった速度で、僕の金的を払った。渾身の一撃を払ったのは、奥襟を離したばかりの右手。いや違う。あれは離したんじゃあない。頭突きからの金的を読んで、自ら手放したんだ。
こいつは、審問会派の技を、知ってる!?
払った右手で絡みつくように僕の左手首をとったアスコーニが、荒い息の下で言い放つ。
「スヴェンツ傭兵は――しばしば、椅子の上で武芸を学ぶ、臆病者と、呼ばれる。
だが我らは、貴君らの秘技も……学んでいる――さ!」
その声と同時に、彼の膝打ちがせり上がってくるのが見えた。
反射的に膝を上げ、防ごうとする。
でもそれもまた、罠だった。膝打ちは来ず、一方的に片膝を上げた僕は、完全にバランスを失う。あわてて膝を下ろしたが、かろうじて転倒していない、というレベル。まずい。まずい。まずすぎる。
「……そんな、ことより! ここで、俺と、遊んでいて、いいのか!?
今頃、私が鍛えた別働隊が、貴様らの、司令部を襲っているぞ!
さっさと引き返して、シーニーを、救うがいい。
それとも、今度こそ――シーニーを、失う、か!?」
――おいおい。
おいおい。
マジか、よ……
苦悩とも苦痛とも苦笑ともつかない痛みが、僕の脳裏を駆け巡った。
でも彼に投げられまいと必死でこらえる僕には、言葉を放つ余裕がない。
だから、僕が言うべき言葉は、その言葉を言うべき者が、言ってくれた。
「――騎士アスコーニ。いえ、アスコーニ先輩。
先輩の負けです。先輩の策は、すべて読み切りました。
先輩が私の策を、読み切ったように」
一騎打ちを後ろで見守っていた特別行動班の一人が兜を取り、素顔を露わにする。
そこには、シーニー君がいた。
歪んだ面頬のスリットの向こうで、アスコーニの目が驚愕に見開かれたのが、はっきりと見えた。




