アルール歴2181年 12月20日(+12日)
――ニリアン子爵の場合――
雪をおして久々にダーヴの街から来た使者は、聞きたくなかった知らせをもたらした。15日前に行われたカナリス捕縛作戦において、ハルナ3級審問官が作戦中行方不明。赤牙団の伝令隊にも壊滅的な損害が出たという。
知らせを聞いた私は、ショックを押し殺しつつ、使者をねぎらった。この時期、ダーヴの街から我が所領まで移動するとなると、それなりの確率での不慮の死を覚悟しなくてはならないのだから。
使者が去った後、暖炉の前で私は何も言えずにいた。
招かれざる客として我が所領を訪れたハルナ君はすぐに領民たちに受け入れられ、溶け込んだ。堅物の極みのようなユーリーン司祭も、世紀の才媛であるライザンドラ君も、彼女の明るさと才能に惚れ込んだ。
もちろん、この私もだ。
孫娘であるレイナと彼女でどちらが可愛いかと問われたなら、かなり真剣に悩まざるを得なかっただろう。
だが、ハルナ君は、失われた。
無論、彼女がまだ生きている可能性はある。しかし長年の経験から言えば、その類の可能性を信じることは、自ら痛みを深めるだけの愚行だ。
むしろ彼女はいま死よりも酷い境遇にあるかもしれないし、それを思えば既に死を迎えてくれていることを願いたい気持ちすらある。
私は行き場のない怒りを込めて右拳を固めたが、その拳を振り下ろすべき先はどこにもなかった。
こうなるかもしれないということは、漠然と思っていた。
具体的に何がどうなるかまでは確言できなくとも、取り返しのつかない、忌むべき災いが、我が身に降りかかるだろうということは。
神の目は世のすべてを見通し、あらゆる罪には罰が下される。
そして私は、罰を受けるべき罪を成してきたし、今なお成しているのだから。
――だが。だが、それでも。
私は自虐に沈もうとする己が心を奮い立たせ、傲慢なる領主としての勇気をかきたてた。
なるほど、私は罪を成している。だがそれは、必要な罪だ。私にはその罪を成す、権利と義務がある。
ゆえにもし、彼がもし私を罠にかけたのであれば、それを断罪しなくてはならない。
自分で自分の思考に吐き気を覚えつつ、私はゆっくりと立ち上がった。
壁にかけた愛剣を背負い、宿坊へと向かう。
気がつけば、外はすっかり暗くなっていた。雪はしんしんと降り続けていて、このぶんなら夜のうちに一度、雪下ろしが必要になるだろう。
宿坊の奥、ナオキが保護されている部屋は、村人たちによる厳重な警備が続いている。私は彼らに、一時的に警備を解くように命じた。今からの話を、彼らに聞かせるわけにはいかない。
部屋のカギを開けて中に入ると、部屋の中は真っ暗だった。
ナオキはカギが開いた音に反応して目を覚ましたのか、ベッドの上に腰を下ろしているようだった。暗闇に慣れてきた目が、薄ぼんやりとした人影を捉える。
「ナオキ。聞くべきことがある。
先程、ハルナ3級審問官が任務中に行方不明となり、未だにその行方は分かっていないという知らせが届いた。使者がダーヴの街を出発したのは10日前だから、今現在、何が起こっているかは分からん。
だが、楽観的な予測をすべきではないだろう。ハルナ君は死んだか、死ぬより悪い状況にある」
言いながら、私は背負った剣を抜いた。
「答えよ、ナオキ。
貴様はこうなることが、分かっていたのか!?
事態がこう動くべく、策謀してきたと言うのか!?」
しばらくの間、沈黙が続いた。
世界はどこまでも静かで、雪が降り積もる音だけが響いている。
そしてナオキは、最初はポツポツと話し始めた。
「ああいう――地頭が良くて、それを高度な教育で磨きあげました、みたいな連中には……つまり、ハルナみたいな秀才にして天才には――どうしても弱点ができます。
それは、人間の善良さを信じてしまうこと。
正確に言えば、やや過剰気味に信じてしまうってことです」
一度話しはじめた彼は、やがて、何かに突き動かされるかのように言葉を紡いでいく。
「仕方ないんですよ。教育ってのはそういうものなんです。
人間は本質的には善良で、隣にいるやつが自分の財産や命を狙ってるかもしれないなんて警戒しなくても、自分たちは人間がもつ本質的な善性を信頼して生きていける。そう無批判に信じるように仕向けるのが、教育の目的のひとつでもあるのですから。
実際、そうやって人の善性をみんなが信じる社会のほうが、効率はいいに決まってます。誰も彼もが自分の財産や命を虎視眈々と狙ってると確信しながら、その対策に莫大なコストを支払い続けて生きていくより、『そんな怖い人はいない』と皆が信じながら生きていったほうが、社会の効率は良くなるに決まってます」
彼の言葉は、いちいちもっともだ。
あらゆる個人が互いの生命と財産を狙い合う獣として生きる世界より、お互いに協力してより大きな利益を獲得していく世界のほうが、より多くの人が、より幸福に人生を送れるだろう。
「そりゃもちろん、そこに乗じるクソ野郎は出てきます。
でもそういうクソ野郎をとっ捕まえる専門の組織があれば、それでいいんですよ。みんながみんなそういうクソ野郎に備えて自警団を作るようになったら、むしろ社会は壊れます。
むしろそれこそが、最悪のぶっ壊れ方だと言ったほうがいいでしょう」
それもまた、理解できる。私のような立場の人間にとって自警団以上に厄介な組織は存在しない。
「でもね、やっぱそれって、世界の半分なんですよ。
有名な古典演劇に、正義のヒーローと悪徳商人が出てくる話があるじゃないですか。俺はあのシリーズが好きで、誰かを説得しなきゃいけないときには引用っていうか、いろんな言い回しをパクったりするんですが、とりわけ俺が好きなのは、ヒーローが悪徳商人に向かって、義憤を燃やしながら正論を言うシーンです。
『憎けりゃ殺す、人間ってそんなものなのか?』って。
でも、悪徳商人は涼しい顔で答えます。
『憎けりゃ殺す、人間ってそんなものだろう?』」
――憎けりゃ殺す、人間ってそんなものなのか?
――憎けりゃ殺す、人間ってそんなものだろう?
口の中で、彼の言葉を繰り返す。
私も幼い頃にこの一節は暗唱させられた(貴族の基礎教養というやつだ)が、かなり時代がかった言い回しだったこともあって、たいした感銘も受けなかった。だがナオキが口にした現代的な――やもすれば若干の軽薄さすら感じられる――言葉の応酬は、なぜか私の心の奥底にしっかりと刺さった。
「悪徳商人の考え方が世界の全部だって思うなら、そいつはただの童貞野郎です。
そいつには人間のことがまるで分かってない。
人間は、そこまでクソじゃ、ありません。
でも悪徳商人の考え方だって、半分は本当なんです。
世界で最も理性的な人間ですら、憎いと思っただけで、人を殺せます。人類の叡智を詰め込んだ百科全書を振り回して、憎い馬鹿野郎の頭をかち割れるんです。
そういうどうしようもない部分も、人間にはあります。
そして人間はその両方の相を持っていて、常にその両方の相を持て余しています。憎しみを超えて愛の手を差し伸べたと思ったら、そうやって握った手で敵の利き手を封じてそのまま殴り殺しもする。そして殺した直後に、自分がやったことに心底絶望する。
そうやって、蝋燭の炎によって壁に映し出された、頼りなくゆらめく影のような存在が、人間なんです」
人生は歩き回る影法師、哀れな役者――教会に残された古典演劇には、そんなセリフもあったか。
「ハルナは、生まれたときから悪意のど真ん中に投げ出されて、物心ついた頃には周囲には悪意しかなかった人間です。そんな極端な経験をしてきたから、自分は人間の悪意のことを理解してると思い込んだ。
その後、高度で清潔な教育を受けるなかで、人間には善良な面もあるってことに過度の期待をするようになったんでしょう。あの手の生い立ちをした天才肌には、よくあることです。
でもそれは所詮、ガキが狭い視野の中で見た悪意でしかないし、綺麗な師匠と優秀な同輩たちが見せる机上の善意でしかなかった」
ナオキは、疲れ果てたかのように、ふっと息を吐いた。
「つまりハルナは、甘く見たんですよ。人間の悪意と、善意を。
あいつは、人間を、舐めたんです」
私は呼吸を整え、切っ先を彼に突きつける。
「俺の質問に答えろ。
貴様はハルナ君が捕らえられることを願っていたのか!?」
私の言葉を聞き、闇の中で佇むナオキの瞳がギラリと光った――ような気がした。
「首を斬られる覚悟ではっきり言えば、イエスですよ。
ねえ、それってそんなにおかしなことですか? 商売から兵隊から何から何まで、俺のすべてを取り上げられて。明日の朝日が拝めるかどうか分からない毎日を、異端として火あぶりになる明日に怯えながら生きる毎日を強制されて。それでもなお、俺からすべてを奪った連中の不幸を願っちゃいけませんか?」
彼の一言一言には、血を吐くような痛みがあった。
「いや、それはいけないことだ。
そんなことは分かってます。分かってますよ、俺だって!
俺だってハルナにもカナリスにも――それだけじゃあない、あなたにも、ユーリーン司祭にも、ライザンドラにも、シーニーにも、ザリナにも、そして俺にも、誰も彼もが幸せな結末がやってくる、そんな夢を見た。見ましたよ。
ニリアン卿。あなたが小遣い稼ぎがてら細々と進めていた、サンサに巣食う悪党どもとの密輸業に俺が手を貸したのも、『カネは無限には湧きださない』っていう現実があるからです。俺たち全員が幸せになるためであれば多少の悪事に手を染めても仕方ないってのは、霊峰サンサを望むこの地では、避けられないことだ」
構えた剣の剣先が、どうしようもなく震える。
ナオキが指摘する通り、私は――いや、私の父、祖父、曽祖父、そしてもっと前の代から――霊峰サンサに巣食う野盗や傭兵くずれどもが生業とする密輸業に手を貸すことで、領地経営に必要な予算を絞り出すという悪事に手を染めていた。
そしてまたナオキが指摘した通り、私は「清濁併せのむ必要がある」と考えてゴロツキどもと握手をし、その直後に「この世には許してはならぬ悪もある」と考えて彼らを斬り、それから自分の短慮を嘆いたこともある――いや、若い頃には、しょっちゅうあった。
「でも、どうしようもないじゃないですか。
俺は、どうしようもなくちゃちな、ゴミみたいな人間なんですよ。
俺はちゃんと忠告しました。ハルナを前線に出すべきじゃあないって。ニリアン領にハルナが戻ってくれば、こんなことにはならなかったかもしれない。だから俺は、本気で忠告したんですよ! 俺だって彼女が無事に帰ってくることを、心の半分では祈ってるんです!
でも、それでも、俺の心の残り半分は、カナリスもハルナも異端者に殺されてしまえばいいと願ってます。あいつらは一度、ダーヴの街で死にかけてる。それを助けてやったのは俺なのに、なんでこんな仕打ちをうけなきゃいけないんだ。だから死ね。死んでしまえ。そう、願ってるんですよ!」
激情に駆られたナオキの声は、微かに震えていた。
「あいつらは、俺のすべてを奪った敵だ! 憎い、憎い敵だ!
でもあいつらは、真面目で、誠実で、すごい才能もあれば血の滲むような努力も積み重ねてきていて、ほんとうに尊敬できるし、あいつらに『ありがとう』って言われれば俺も心の底から嬉しくなる、そんな最高の友人たちなんです!
俺はまだ、夢を見続けたかったんです。たとえそれが友達ごっこでしかなかったとしても、その幼稚なおままごとを続けていたかった。みんなで幸せになる夢を見続けたかった。
俺は――俺は、どうしたらよかったんです、ニリアン卿!?」
ナオキの告白を聞いて、私は漠然とした何かを理解した。
彼が言うとおり、ナオキは心底、卑小な男なのだ。
臆病で、小心で、野望とも野心とも縁のない、ちっぽけな男。人心を掴む才能に恵まれ、その技術も磨いてきたのだろうが、本質的には小者にすぎない。大事を成し遂げるだけの胆力はなく、もし自分が大事を成し遂げ得るとなれば、そこで立ちすくんでチャンスを見送るタイプの人間だ。
だからナオキは、我がニリアン領において成し遂げられようとしている何かを前に、立ちすくんだ。
そして彼を囲む人々とともに一緒に幸せになるという、こじんまりとした夢の世界に逃げ込もうとした。
けれどそうやって立ちすくんでいた彼を、ライザンドラ君が叱咤した。
かつてハルナ君が報告してくれた、ナオキとライザンドラ君の会見――ハルナ君いわく『無言でなされた会話』が意味するのは、そういうことなのだろう。
彼女はナオキが成し遂げようとしている何かを最後まで実現させようとし、ナオキはその先に待ち構えている地獄に心底恐怖しつつも、ライザンドラ君の説得の前に膝を屈した。
おそらくナオキは、ハルナ君がこうなることを、予期していた。
そしてそれは間違いなく彼が仕組んだ未来でありつつ、彼が最も避けたかった未来でもあったのだ。
――この小悪党を、いまここで、斬るべきだ。
そう、思った。
けれど私はそれが無意味であることも、直感的に理解していた。
今更ここで彼を殺したところで、動き始めた歯車は止まるまい。ナオキがその行く末に恐怖する何かを本当に止めたかったら、ライザンドラ君を斬るしかないはずだ。
――ならば、もし貴様がそれを望むなら、私がライザンドラ君を斬ろう。
そうも、思った。
けれど私はそこまで卑劣でも、愚かでもないつもりだ。彼らから受けた恩をこんな形で返すことなど、私の名誉が許さない。それにいまナオキ商会の援助を失えば、我が領民たちは再び絶望的な貧困の中で死んでいくことしかできなくなる。
だから私は剣を鞘に戻しつつ、こう言うことしかできなかった。
「ナオキ。貴様のその問いに答える資格は、私にはない。ユーリーン司祭に懺悔するがいい。
私の仕事は、邪悪を斬ることだ。それがサンサの異端を包囲するこの地を任された、ニリアン家の本質よ。
ゆえに私は、お前が卑小であることを理由に、お前を斬ることはできん」
気がつくと私は、自分でも意識しないうちにナオキが監禁されている部屋を出て、扉にカギを閉めていた。
外はなおも雪が降り続いていて、世界は果てしなく静かだった。




