アルール歴2181年 12月4日(+2日)
――シーニーの場合――
会議とブリーフィングの山を乗り越えかきわけ、ついに作戦が始まった。
ときに12月4日、夜10時。通例であれば〈結社〉のサバトが開催される時刻だ。今日はサバトの開催日ではないが、ケイラス司祭とその信徒たちは、毎日のようにサバトを開いているんじゃないかというザリナ隊長の提言に従い、この時刻の作戦開始とあいなった。
地下墓地に突入する赤牙団隊員にはマダム・ローズ宅に突入した隊員も数名含まれていて、ストレスや疲労のことを考えると非常によろしくない。かくいう私も勤務規定違反状態だ。
ああ、まあ、ザリナ隊長みたいな人は例外。あれは例外中の例外。
同レベルで例外なのが審問会派の連中で、今回は諸事情により「足を引っ張る存在」認定されてしまっているハルナ3級審問官ですら、たぶん私よりタフだ。
最近はデスクワークばかりで残業と早出が多すぎて基礎トレが疎かになっているし、剣技の精度に至っては自分でも「これはヤバイ」と感じるくらいに落ちている。今回は「ハルナ審問官の安全は自分が確保します」的な大見得を切ったものの、エミルが司令部に仕掛けてきたら私のほうがハルナさんに守られてしまう可能性すら否定できない。いやいやいや。それでもまだ剣さえ抜けば私のほうが上なはず……。
そんな馬鹿なことを考える余裕があるのには、理由がある。
ぶっちゃけると今回の作戦、地下に突入する側について言えば下準備こそ猛烈に手間がかかったが、いざスタートしてしまったが最後、司令部側でできることはそれほど多くない。部隊を集中運用するため、こちらとしては突入した部隊の要求に従って予備を投入するとか、負傷者を引き上げさせるとか、その程度の仕事しかないからだ。
突入部隊は総延長1km近いロープを分割して運搬しており、伝令はロープを伝うことで司令部と本隊を行き来する。このため連絡は必要十分に密に取れているし、現状では戦闘もなく、部隊は順調に前進を続けているという情報が入ってくるばかり。
もっとも、このノンビリした空気も、あともう少しで終わりだ。
突入開始と同時に、ダーヴの街には赤牙団の斥候をツーマンセル体制で放っている。地下墓地に続く出入り口がどこにあるか分からない以上、街の様子には気を配っておく必要がある。街の広さに対して甚だ心もとない情報調査網だが、それでも何もしないよりはマシだ。
斥候たちが最初の報告を戻してくるまで、あと10分ちょっと。そこから先はいつものように、一瞬たりと指揮板の前を離れられない修羅場のスタートだ。
「……嵐の前の静けさ、ですね」
お茶のカップを片手に、ハルナ3級審問官がぽつりと呟いた。私は小さく頷くと、目の前に置かれたカップをハルナ審問官側へと押しやる。
「あれ。お茶、いりませんでした?」
ほしいと言えば心の底から欲しいのだが、今はお茶を楽しむわけにはいかない。
「とてつもなく飲みたいですよ。そりゃもう心の底から。
でもお茶には利尿作用があります。この作戦がどれくらい続くかわからない以上、とりあえずお茶はおあずけってことにしておきます」
ハルナ審問官は「なるほど」と言うと、やや恥ずかしそうに手元のお茶を飲み干した。
「タフですね、シーニーさん。私には真似できそうにもないです」
審問会派のエリートからの賛辞はありがたいけれど、これはそんなに上等な話でもない。
「いえ、そうはいっても判断力を維持するためには1時間に1度、コップ1杯程度の水分補給は欠かせない――そう、スヴェンツ傭兵は学んでいます。なので今は飲まないというだけで、じきにこのお茶も頂きますよ。
あと、まあその、ご想像頂けるとは思いますが、作戦が長時間に及んだ場合、私はこの場で垂れ流すことになりますので、そのあたりも事前にご了承ください」
私の言葉にハルナ審問官は目を丸くしたけれど、すぐに神妙な顔になって頷いた。
「ほんとにタフですね、シーニーさんは。
かなり、憧れてしまいます」
過分な評価に、私は小さく首を横に振る。
「憧れられるような人間ではないですよ、私は。
実を言うと私って、正式にはスヴェンツ傭兵を名乗る資格を持っていません。王立軍事学院を、本当には卒業できてないんです」
スヴェンツ傭兵というのは、一般的な傭兵とは完全に異なる練度と戦意を持つ軍事組織だ。分類としては国営企業なので、軍隊とどこが違うのかと言われるといろいろ困るのだが、とにもかくにも営利団体なのは間違いない。
で、その国営スヴェンツ傭兵の正社員のみが、スヴェンツ傭兵と名乗る資格を持つ。そして正社員として入社するには、王立軍事学院を卒業しなくてはならない。
「会議の席でも言いましたけど、学院に在学中、教官がストーカーになりまして。
最悪でしたよ。なにせ相手はプロ中のプロの技量を備えたストーカーです。学院も最高の警備をしましたけど、常に出し抜かれ続けました。無論、私の自衛なんて紙切れの役にも立ちませんでしたね。
幸いにして強姦されるところまでは行かず、その前段階でストーカーは逮捕されましたけど、逮捕まで2年かかりました」
あれは思い出しても悪夢のような毎日だった。どんなに警戒に警戒を重ねても、相手は思いもよらぬ場所に手紙や……その――体液が付着した布とかいったものを残していく。
昼食時に何気なく飲んだお茶に高濃度のアルコールが混じっていてその場で酔いつぶれたり、そうやって担ぎ込まれた医務室で目を覚ますとパジャマの懐に手紙が差し込んであったりと、気が休まる瞬間は一瞬たりとしてなかった。
「これでも私、入学して最初の年は、主席だったんですよ。久々に女性の主席卒業者が出るんじゃないかって、大いに期待もされてました。
でもストーキングが始まってから、成績はガタ落ち。『こんな異常事態は、戦場に出ればごくごく日常的にあり得ること』と必死で自分を鼓舞しましたけど、無理でした。2年目は精神的にもズタボロで、寮の部屋から一歩も外に出られない日が続くことすらありましたね。当然、単位は落としまくりです。
ストーカーが逮捕されても、まともな学院生活を取り戻すことはできませんでした。メンタルが完全にぶっ壊れていたんです。
結局、留年を繰り返して学院に6年居座った挙句、何をどう頑張ったって残り年限では卒業単位が揃わないことが確定したので、中退しました。そこから先は、よくある『偽スヴェンツ傭兵』の人生です」
王立軍事学院の卒業率は75%。高いように見えるが、学院生の半数を占める留学生は事実上無条件で卒業が保証されているので、生粋のスヴェンツ人入学生の実に5割は中退を余儀なくされている。そしてその多くは私と同様、偽スヴェンツ傭兵として、身分詐称がバレないような田舎でひっそりと生き延びることを選ぶ。
「その後もいろいろあったんですが、とあるド田舎での攻城戦の防衛主任として、よりによってスヴェンツ傭兵精鋭部隊の攻勢を2ヶ月ほどしのいでいたら、結果論的に停戦まで城を守り抜くことに成功したってことになりまして。
停戦後、ノーサイドってことで敵味方を交えて宴会になったときは、生きた心地がしませんでしたよ。
なにせ敵方には同窓生もいましたからね? そんななか、雇い主から『我々の守護天使、スヴェンツ傭兵のシーニー閣下です』とかいうご紹介を受けて、偽スヴェンツ傭兵の私が登壇するんですよ?
殺せ、いますぐ私を殺してくれって、真剣に神に祈りました」
今思い出しても、顔から火が出る思いがする。あれこそが人生最大の試練だったと、今でも私は断言できる。
「でもまあ、城攻めしてた側としては、『スヴェンツ傭兵が守ってたからこそ抜けなかった』ほうが、営業的にも望ましい。
てなわけで、事後承諾的に王立軍事学院の卒業証書と、国営スヴェンツ傭兵の隊員証が発行されたそうです。ま、どっちも未だに私の手には届いてないですし、本社からの帰還命令も出てませんが。
なので私が己の誇りとするスヴェンツ傭兵という肩書は、実にあやふやな肩書なんですよ。戦争に勝った――ないし負けなかったから発生した、いかがわしい称号です。無論、なんのかんので書類上はスヴェンツ傭兵らしいので、その名誉を汚すこともできないと思ってますが」
ハルナ審問官は私の愚痴を黙って聞いていたが、やがてポツリと言葉を返した。
「戦火によって鍛えられた肩書であれば、それは誇るべき肩書かと思いますよ。
失礼ながらその攻城戦でシーニーさんのことを本物のスヴェンツ傭兵だと信じて戦い、あなたの命令に従って戦死した兵士もいるであろう以上は、シーニーさんは本物のスヴェンツ傭兵でなくてはならない。違いますか?」
――なるほど。そこを突かれると、こちらとしては「そうですね」以外に何も言えない。薄汚い詐欺師の言葉を信じて死んだ純朴な若者たちの忠誠心を汚さぬためにも、あのときの私は詐欺師ではなかったことにすべきなのだ。
「勝者が歴史を作るというのは、そういうことなのかもしれませんね、シーニーさん。
私は決して好きになれない考え方ですが、友の死には意味があったことを証明するために、ときに人は戦い続けることを選ぶ。
それを外側から見ると、勝者が歴史を作っているように見えるのかもしれません」
これぞ才媛と言うほかない、鋭い見解がハルナ審問官の口から漏れる。でもどうだろう、その見解には私としてはやや、同意しかねるところがある。つうかいかにも処女くさいご意見ですな、それは。
「ハルナさん――今だけは、ハルナさんと呼ばせてください。
それはたぶん、半分くらいの真実です。
残り半分は、勝った己をもっと賞賛してほしい、未来永劫褒め称えてほしい、そして愚かな敵を永遠に隷属させたい――そんな野蛮な欲望があって、最終的な勝利によってその欲望が爆発して歴史が作られる。そういう風景は、これまで何度も見てきました。
でもそうですね、私が戦死したとしても、ハルナさんが『嘘つきシーニーの死は無駄ではなかった』ことを証明するために戦ってくださるなら、それはとても……とても、嬉しいです」
そこまで言ったところで、街に放った斥候が次々に飛び込んできた。
私は気持ちを切り替えて、斥候からの報告を街の地図にプロットしていく。報告はすべて、「異常なし」。
だが――
だが、これは――
「何か問題が?」
ハルナ3級審問官が私の顔を覗き込んでくる。
「以前、あなたがたお二人が襲撃された〈腐り沼のスラム〉が含まれるグリッドに出した斥候の戻りが早すぎるんですよ。
おい、ヴェルナー! 貴様の足なら、通常ならB-3グリッドの巡察を終えてここまで戻ってくるのに、あと2分余分にかかるはずだ。それでも貴様は『異常がなかった』と判断したのか?」
私の詰問を受けたヴェルナーは一瞬怯んだが、すぐに「本当に異常はなかったんです」と答えた。そんな馬鹿なことがあるか。異常がないのに、早く戻ってこれた? その理由は一つしかあり得ない。
「なるほど、異常はなかったのだろう。
ならば聞き方を変えよう。B-3グリッド、特に〈腐り沼のスラム〉付近に、どれくらい人がいた? この時間、あの地域にはたちの悪い故売人だの、たちんぼを紹介しようっていうポン引きだの、その手合いが山ほどいるはずだ。
ヴェルナー。貴様はその手の連中に、まったく呼び止められなかったのか?」
ここまで噛み砕いて話をすると、ヴェルナーの顔色がさっと変わった。
「……そ、それは! た、確かに、司令のおっしゃられる通り――その……誰にも呼び止められません、でした。
いえ――そうじゃありません。
その手合いが、そもそも、いなかった……ような――。
いえ、いませんでした! 間違いありません、客引き連中は一人もいませんでした!」
やはり、か。何者かが意図的に、〈腐り沼のスラム〉付近から人を遠ざけている。さもなくば、あの界隈の目端が聞く連中が、意図的にあのエリアを避けている。いずれにしても、何かが起こっているのだ。
まずいな。
もし〈腐り沼のスラム〉に地下墓地への隠し通路があるとすれば、審問会派の2人を襲ったヤク中どもがどこから来たかも説明がつく。地下墓地への襲撃が始まったいま、あの地域が急におとなしくなったというのも、それで説明がついてしまう。
だが――これが罠という可能性は? それもまた、捨てきれない。
ともあれ、新たな指示を出さねばなるまい。
「4班と8班はヴェルナーに合流、〈腐り沼のスラム〉を重点的に捜索しろ。ケイラス司祭とエミルの人相書きは持っているな? ――よし。
連中が〈腐り沼のスラム〉付近にいる可能性はけして低くない。ただし、もし連中を発見しても、仕掛けるなよ。2名の伝令をこちらに戻し、監視を続けろ。場合によっては長時間の監視になる心づもりでいろ。
繰り返すが、仕掛けるなよ! 万が一、とり逃したとしても、それは私の責任だ。貴様らの失敗ではない。
ヴェルナー、お前が監視の指揮を取れ! 命令を復唱! ――いいだろう、行け! それ以外の班は、司令部周辺エリアを手分けして哨戒しろ。いいな? 行け!」
街に出した斥候に命令をしたところで、次は地下の本隊に送り込む伝令に命令を伝えようと思った――ところで、ハルナ3級審問官が書面を手渡してくれた。
ざっと目を通すと、状況が実に簡潔明瞭にかかれている。マジか。この短時間で、指示もないのに必要な書類を作ったのか。天才ってこれだから怖い。
そんなことを考えながら、地下行きの順番を待っている伝令にハルナ審問官が書いた書面を託して、送り出す。うわなんて楽なのこれ。ごめんなさい、ハルナさんのことを「小便くさい処女」とか思ってたの、全力で撤回します。
「いや――助かりました。なんというか……いやもう、言葉もないです」
驚きと感謝を、そのままの形でハルナ3級審問官に伝える。あーくそ悔しいなー、カナリス特捜審問官はこんな天才を補佐官として独占してるだなんて。そら可愛がりますよ。手放しませんよ。
ハルナ3級審問官の返答は、これまた面映いものだった。
「シーニーさんの観察力こそ、驚きです。
私では何が異常なのか、まるで想像すらできませんでした。
確かに、異常がなさすぎるというのは、異常なんですよね……じっくり考えていいなら、私も思い至るんですが」
私は思わず緩みそうになる頬を必死で引き締めながら、ハルナ3級審問官に忠告する。
「これは私の直感ですが、何かが起きているのは間違いありません。
そしてこれは、ほぼ疑いなく、こちらを誘い出す罠です。
言っちゃなんですが、〈腐り沼のスラム〉のあたりには何もないと思いますよ。これで何かあるとしたら、あまりにも都合が良すぎます。
ま、これは私が学生時代に学んだこと、ですね。何もかもが論理で説明できる状況が発生しているときは、誰かがその状況を意図的に作ってます。現実はそこまで論理的に動いたりはしないんですよ、ハルナ3級審問官」
ハルナ3級審問官は深々と頷いてから、ふっと笑みを浮かべた。
「ええと。今回の作戦の間だけでもいいですから、私のことはハルナと呼んでもらえませんか? さっきハルナさんって呼んでもらいましたけど、私はそっちのほうが嬉しいです。
それにシーニーさんの仕事を見てると、わざわざ正式な肩書で呼び合うだけ、時間を無駄に消耗してる気がして、ちょっと馬鹿馬鹿しいな、と」
お、おお? いやでも、さすがにそれは不敬の極みというか、3級とはいえ審問会派の正規審問官というのは教会組織の中でも天上界にいる人々なわけで……いやでもザリナ隊長はカナリス特捜審問官すら「カナリスさん」呼ばわりだったか……でもねえ……
「無論、これは私的な策略でもあります。
私はシーニーさんの技術と知見を、もっとたくさん盗みたいと思っています。なのでこうやって親密度を上げることで、うっかりシーニーさんがスヴェンツ傭兵の極意を解説しちゃうような機会を増やそうと企んでいるわけです。
それを踏まえた上で、ハルナ、と呼んで頂けません?」
そう来たか。これだから天才児は困る。これがギブアンドテイクであることを暗に示されては、断りにくい。やれやれ。
「わかりました、ハルナさん。
この作戦の間だけは、ハルナさん、と呼ばせて頂きます」
――と、合意が形成できたところに新たな伝令が飛び込んできた。伝令隊のエース、ハーミルだ。
「急報です! 〈腐り沼のスラム〉を縄張りにしているポン引きのモーが、本日昼頃に〈腐り沼のスラム〉でエミルらしき人物を見た、と証言!
縄張り荒らしで喧嘩になっていたのを仲裁したところ、モーが『ガチでヤバそうだったから河岸を変えた』と。モー以外にも同様に河岸を変えた連中は多いそうです」
おいおい、ここまで露骨に仕掛けてくるか!
私は急変する事態に気を引き締めなおしつつ、情報の細部を確認する。
「モーがエミルに買収されて、我々に情報を押し付けようとしている可能性は?
モー以外に、〈腐り沼のスラム〉でエミルを見たという証言者はいるか?」
ハーミルは私の問いに、実に素早く返答を戻す。
「モーにはその点も問いただしました。
異端者として審問官が追跡してる重犯罪人から小遣いもらって偽証したバカになるのがいいか、それとも審問会派に協力してる赤牙団の協力者としてナオキ商会に恩を売るのがいいか、選べと。
モーはエミルとは接触しておらず、エミルに何かを頼まれたこともない、と繰り返しました。モーには尋問後、手付けとして少し払いましたので、後で補償してもらえるとありがたいです。
それから、モー以外にエミルを見た者がいるかどうかについては、まだ捜索していません。現状、〈腐り沼のスラム〉の監視と偵察を優先しています」
なるほど。ハーミルは子供のような外見(実際まだ子供だ)だが、ナイフの技は確かだし、頭もよく回る。彼に喉元にナイフを押し当てられて質問されたら、そこらのポン引きでは相手にもならないだろう。
とはいえ、ここで人員配置の無理が露呈したか。本来なら今頃、ハーミル直下の部下が他にもエミルの目撃者がいないか捜索し始めていただろう(ハーミルにはその裁量権を与えている)。だが今回、あくまで副戦線でしかない地上班は、最小限の編成だ。ハーミルの部下たちも、今は地下との連絡線維持に回っている。
マズい。実に、マズい。
我々は情報戦において、下手すると敵に負けている。
これは大げさでも何でもない。「普段ならできること」が「できない」という、その隙間で敵の行動を許しているというのは、由々しき事態だ。
だがそれだけに、大駒であるハーミルを次にどう動かすかは、非常に重要な判断となる――いや、ここまで状況が劣勢な可能性がある以上、いっそ〈腐り沼のスラム〉から全員を撤退させ、いったん間合いを取ったほうが良い、か?
いままさに敵はこちらに仕掛けを見せたのだから、そのタイミングで間合いを切って相手にたたらを踏ませるというのも、有効な選択だ。赤牙団伝令隊も連日の任務で疲労が溜まっているし、緊急事態が重なれば無駄な損害を出してしまう可能性すらある。
だが完全撤退となると、地下の本隊に許可を取る必要がある。伝令を出し、本隊で討議され、その結果が戻ってくるまで動かないのでは、事態はさらに悪化するかもしれない。最悪、作戦後にクビになることを覚悟の上で、ここは私の独断で動いたほうが……
押し黙った私に向かって爆弾発言を投げたのは、ハルナさんだった。
「シーニーさん。私が〈腐り沼のスラム〉に向かいます。捜索を続けるにせよ、撤収するにせよ、私が自身の責任において、現地の皆さんに命令を出します。
現状は、即応が必要な状況です。エミルを逃がすかもしれないというこの状況において、審問官が黙っていることだけは、できません。
危険なのは、わかっています。かなり高い確率で、私はエミルに勝てないだろうとも。それでも、これは審問官としての義務です。その先に死が待っているという程度で、審問会派は足を止めてはならない。
だから、行かせてください。いえ――行きます」
喉の奥から、「なぜ!」という声にならない悲鳴が漏れた。
でもすぐに私は、ハルナさんがなぜここまでエミル捕縛の可能性に拘るのかを、悟った。
ハルナさんは――いや、審問会派は――ナオキ司令を異端者として疑っている。
彼らにとっては、ケイラス司祭やエミルより、ナオキこそが重要なターゲットだ。
そしてそのナオキから、「エミルが危険だからハルナを前線から外せ」という伝言が届いた。審問会派としてはこの言葉を「ナオキはエミルに重大な秘密を握られており、審問会派をエミルからできるだけ遠ざけたい。そしてなんとかしてエミルを先に見つけ、口を封じたい」というナオキの意思だと判断したのだろう。私だって、立場が逆ならそう考える。
それでも、私はここでハルナさんを外に出すわけにはいかない。
そんなことをすれば、敵の思うつぼだ。
「ハルナさん……どうか、どうか信じてください。
我々はけして、審問会派を出し抜いてエミルの口を封じようとなど、考えていません。私はそんな命令を、どこからも受けていません。
だからどうか――お願いです。今ここであなたに何かがあったら、この司令部は完全にパンクします。これから地下で起こるであろう戦闘と、あなたの捜索を、限られた人的リソースをやりくりして並行させるなんて、私にだって不可能です。
エミルの捜索は、私が全力をもって遂行します。地下から審問会派が戻ってくるまでは、絶対に捕縛作戦に移行したりしません。そもそも戦力的に見て、今の地上班で危険人物を捕縛するミッションの遂行は不可能なんです!
お願いです、ハルナさん!
他の誰が信じられなくても、私を信じてくださいませんか!?」
私の必死の懇願に、ハルナさんはにっこりと笑みを浮かべた。
「シーニーさん。私はあなたのことを信用しています。
でも、ナオキさんとザリナさん、そしてライザンドラさんのことは、まったく信用できません。
あなたはご存知ないと思いますが、ニリアン領でナオキさんが最後にライザンドラさんと面会したとき、彼はルールを破って、ライザンドラさんに対し『エミルを探せ』と厳命しています。エミルは、ナオキさんたち一党にとって、最重要人物なんです。
そして私は、ナオキさんの能力を過小評価するつもりはありません。無論、ザリナさんとライザンドラさんも、です。
シーニーさんがどんなに神に対して誠実な仕事をしているとしても、その誠実さを逆手にとって、神を裏切るような行いを代行させる。それだけの力が、彼らにはあるんです。
それに――それに、たとえ私が戦死したとしても、シーニーさんは『ハルナ3級審問官の死は無駄ではなかった』ことを証明するために、戦い続けてくださるのでしょう?」
ハルナさんの言葉を聞いた私はなおも抗弁しようとして、もうどんな言葉も彼女には届かないことを悟った。
ああ。
ああ。よりによって。
よりによって、こんな土壇場の、土壇場で。
ここまでなんとか上手くやってきたチームが、空中分解するだなんて。
だから私は、血を吐く思いで、彼女の提案を受諾する。
「――わかり、ました。ハルナさんに、〈腐り沼のスラム〉方面における赤牙団伝令隊の指揮権を移譲します。それから、この司令部周辺を哨戒している伝令隊も、帰還次第、随時ハルナさんの指揮下に編入します」
私の言葉に、ハルナさんは強く頷く。
それから私はハーミルの胸に拳を当て、そのまだ幼いとも言える瞳を覗き込みながら、最悪の命令を発した。
「ハーミル。貴様は今からハルナ3級審問官の指揮下に入れ。一時的に、赤牙団伝令隊の、現状での地上部隊の指揮権を貴様にも移譲する。第一指揮権はハルナ3級審問官。貴様はその補佐だ。
今夜が貴様らの命の燃やしどころだと、覚悟を決めろ。伝令隊すべての命を使い尽くしてでも、ハルナ3級審問官を守れ」
ハーミルは凛々しく敬礼すると、既に走り始めていたハルナさんの後を追った。
それと入れ違うように、地下からの伝令が駆け込んでくる。
「7分前に、突入部隊が接敵!
敵の数は想定以上、ほぼ全員が薬物の影響下にあると思われます!
予想以上の被害が出る可能性が濃厚なため、緊急救護体制をBからAに上げろとの、ザリナ隊長からの命令です!」
私は目を閉じると、司令部に控えていた伝令に対し、救護体制の変更を伝える。
ああ、どうか――どうか、誰もが最後には笑顔で、この夜を乗り切れますよう。
どうか。
どうか――神様。




