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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
主よ、主よ、なぜあなたはわたしを見捨てられたのか
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アルール歴2181年 11月16日(+20時間)

――ライザンドラの場合――


 一夜明けていつもどおりの時間に目を覚ますと、ハルナさんはしっかり起きていて、退屈そうに古典演劇の台本を読んでいた。ハルナさんくらいの天才なら全文を暗記していても不思議ではない、古典中の古典。

 実際、ハルナさんは退屈しきっていたようで、私が目を覚ましたのに気づくとすぐに「おはようございます」と声をかけてきた。「お勤め、お疲れ様です」と返事する。

 彼女に対しては、いろいろと思うところはある。もちろん彼女もまた、私やナオキに対して思うことがいろいろあるだろう。だがそれはそうとして、審問会派は彼女に私の(当座の)無実を証明するための仕事を割り振り、彼女はその仕事を誠実に成し遂げた。その無私の働き(あるいはチームへの献身)は、ちゃんと評価されるべきだと思う。


 そんなことを思いながら簡単に身支度を済ませたところで、パウル1級審問官が部屋に入ってきた。

 お気楽な伊達男的な雰囲気の人物だが、審問会派の頂点付近を巧みに泳ぎ続けている彼の有能さは言うまでもない。カナリス特捜審問官が「あらゆる城門を粉砕する大槌」だとすれば、パウル1級審問官は「あらゆる不可能を解決する十徳ナイフ」のような人物と言えるだろう。


「おはよう、ライザンドラ君。ハルナ君はお疲れ様。

 本時刻を持ってライザンドラ君監視の任務を解くから、とりあえず、ハルナ君は仮眠を取りたまえ」


 ハルナさんは「了解です」と返事すると、古典演劇の本を片手に部屋を去っていった。そこまで眠そうに見えないのは、審問官としての訓練のたまものか、はたまた若さが支える強靭な体力によるものか。


「さて、今日の動きだが、ライザンドラ君はシーニー君の指揮下に入ってほしい。

 なにせ急な作戦だから、こちらも準備が整っていない。君には事務方としてシーニー君の補佐をしてもらいたいんだが、頼めるかい?」


 パウル1級審問官の型破りな提案に、私は素直に頷き返す。


 マダム・ローズを確実に逮捕するともなれば、為すべきことは膨大で、かつ高度な隠蔽性が求められる。ほんの少しでも審問官たちの意図が裏社会に漏れれば、最悪の場合マダム・ローズは完全に行方をくらませてしまうだろうし、最低でも重要な証拠を隠滅してしまうだろう。

 それだけのオペレーションをこの短時間でこなすとなれば、いくらシーニーさんでも作業量がパンクする。実際のところ私が補佐で入ったとしても、本当に完璧にこなしきれるかどうか、確証はない。つまり、私が誰にも気づかれないようにマダム・ローズに審問会派の動きをリークしたいと思っても、そんな暇はどこにもない。

 そしてそう読んだからこそ、パウル1級審問官は私をシーニーさんの補佐に据えた。なんともはや。おそろしく危ない橋を、実に危なげなく歩く人だ。


 とはいえ、相手の要求に言いなりになっているのでは、商売人として失格だ。私は素早く計算を巡らせ、パウル1級審問官に交換条件を提示する。


「お引き受けするに(やぶさ)かではありません。ですが1つだけ、お願いできますか?

 今夜の捕物には、私も現場に動向させてください。

 マダム・ローズとは旧知の仲です。恩義もあれば貸しもありますし、なによりここにいるスタッフのうち、彼女の手の内を最もよく知っているのは私だと思います。

 現場での行動については、プロの指示に100%従います。けして、皆様の足を引っ張るようなことはしません」


 私の要求に対し、パウル1級審問官は少し考えるようなふり(・・)をしてから、「いいでしょう、要求を認めますよ」と返してきた。何もかも予定通り、計算のうち、というところだろう。私だって彼の裏をかきたいわけではないので、それはそれで構わない。


 ともあれ方針は定まり、作戦は動き始めた。

 パウル1級審問官じきじきの命令で作戦の総指揮を任されたシーニーさんは「どうせ(What)こんなことになると(The)わかっていたんだ(F**k)」と無言で唇を動かすと朝一番のミルクティを一息で飲み干し、そこから先は鬼神のごとく働いた。

 シーニーさんはその言葉とは裏腹に(あるいは言葉通りに)「こうなる」ことを前提に一晩を過ごしていたようで、事務方の補佐として入った私としては特に創意工夫を働かせる必要もなく、右のものを左に、左のものを右に送るだけの仕事を淡々とこなすことになった。ランチタイムにはシーニーさんに「ありがとう、リジーのおかげで昼飯が食える」とお褒めの言葉を頂戴してけれど、私が手伝わなくても昼ごはんを食いっぱぐれることはなかったんじゃないかと思う。私が手伝っていなかったら、昼がサンドイッチ数切れになっていた可能性は高いけれど。


 作戦遂行の段取りは迅速に進み、作成開始予定時刻の2時間前にはすべての準備が完了した(昼過ぎに起き出してきたハルナさんがシーニーさんの補佐としてついたのが大きい)。

 余った時間を使って、私はハルナさんに手伝ってもらいながら、軽い革鎧を着た。

 ゆったりとした服の下に着用できるこの軽鎧は、防御力としては「ないよりマシ」程度らしいが、ハルナさんに「頼むから着てください」と言われては断れない。

 実際、「軽鎧」という区分名にしては結構重量のある鎧で、着用すると動きがぎこちなくなるし、立っているだけで疲れを感じる。ここまでしてその効果は「ないよりはマシ」かと思うと微妙に気分が萎えるが、現場を知るプロが「着ろ」と言うからには着たほうがいいに決まってる。


 鎧の調整を終えた段階で、作戦開始の1時間前になっていた。複雑な組紐を巧みに調整してくれたハルナさんにお礼を言うと、私は作戦会議室に向かう。

 会議室には、もうほとんどのメンバーが揃っていた。案の定と言うべきか、最後に到着したのはザリナさんだ。


 全員が揃ったところで、パウル1級審問官が「じゃあ始めよう」とあっさり宣言する。その宣言にあわせ、シーニーさんが一歩前に進み出ると、最終ブリーフィングが始まった。


 作戦の概要はいたってシンプル。マダム・ローズが住む邸宅を包囲したのち、急襲。マダム・ローズを確保する。途中でなんらかの抵抗があった場合(つまり用心棒などが抵抗しようとした場合)、その場で降伏しない限りは、彼らを殺害してでも迅速な作戦の遂行を目指す。

 私のような素人が聞くと「そんなに簡単に行きますか?」と思わなくもないのだけれど、審問会派の猛者たちは誰も異議を唱えないし、ザリナさんも「いいね」以外何も言わないので、そういうものなのだと逆に納得する。


 冷静に考えてみれば、白刃の下を潜る修羅場が予想される以上、作戦はシンプルであればあるほどいいに決まっている。

 シーニーさんは口を酸っぱくして「部屋を占拠したときは『確保』と叫び、続いて自分の部隊名、そして可能であれば前もって割り振った部屋番号を叫ぶこと」を繰り返していて、なかでも「確保」以外の言葉を使わないこと(「取った」とか「クリア」とか言うな)を強調しているのは、つまり、現場というのはそれくらい混乱するということなのだろう。

 赤牙団と審問会派は既に何度も共同作戦をしているが、それでもなおこのレベルでの意思統一が必要というあたり、本来なら私のような素人を連れていくなど(最前線ではないにせよ)あり得ないことなのだなと、いささか申し訳ない気持ちにもなる。


 かくして始まったマダム・ローズ捕縛作戦は、あっけないほどあっさりとケリがついた。

 マダムの邸宅を警護していた用心棒たちは質も数もそれなりに揃っていたそうだが、ザリナさんと審問会派の精鋭によって同時多発的に多方向から仕掛けられた奇襲には、まるで抵抗できなかった。

 屋敷のあちこちから「確保」の声が響き、シーニーさんはその「確保」の声を聞いた瞬間に指揮卓上の戦況図を動かしていく。おそらく彼女は突入した兵士一人一人の声質を覚えていて、部隊名を聞くまでもなく誰がどこで何をやっているのか、概況を把握しているのだろう。私にも到底読み解けない戦況図を前にしたシーニーさんは次々と伝令を飛ばし、不確かな情報を明らかにし、手こずっているエリアに増援を送り込んでいく。

 やがて最高指揮官クラスのみが持つ笛が高々と吹き鳴らされ、作戦は終わった。「護衛は降伏、マダム・ローズを確保」の合図だ。


 笛の音を聞いたシーニーさんは、声にならないため息をひとつ、細く、長く漏らすと、デッキチェアにどさりと腰を下ろした。私はそんな彼女にミルクと砂糖がたっぷりはいったコーヒーを差し出し、彼女は無言でそれを飲んだ。


「ガニスが死んだ。イーライとサイラームも、おそらく助からない。

 馬鹿め……だから、あれほど――」


 顔も名前も知る同僚たちの名前が、シーニーさんの口から漏れる。

 私は何と声をかけていいか分からず、ただ彼女の隣に立ち尽くしていた。

 言うまでもなく、マダム・ローズの館を守る護衛たちは、もっとたくさん死んでいる。そして人を殺しても構わないという作戦を実行した以上、こちらに死者が出たとしても、なんら不思議はない。


 だからこれは、そういうもの(・・・・・・)なのだ。

 そういうもの(・・・・・・)として飲み込み、乗り越えねばならないものなのだ。


 無言で目を閉じてコーヒーを飲むシーニーさんの横顔を見ながら、私は自分の小狡さに嫌気がさしていた。

 シーニーさんは審問会派のトップ級すら一目置く指揮能力を持つが、それでいて、個人としての戦闘能力も高い。ダーヴの街に増援としてやってきた審問会派の特別行動班と模擬戦をして、トップ10に入る腕前の持ち主なのだ。

 だからおそらく、何度も何度も――何度も何度も何度も何度も、「ここで自分が剣を抜いて飛び出せば、赤牙団の隊員を失わずに済む」という状況に、シーニーさんは立ち向かってきた。


 そしてそれでもなお、彼女は決して指揮卓の前から動こうとはしなかった。

 より多くの部下の安全を守るため、目の前で「情報」として死んでいく部下を、見殺しにすることを、己に課した。

 事実、作戦が完了した今もなお、シーニーさんは指揮卓の前から動こうとはしない。まだまだ不測の事態は起こり得るし、そうなったとき集団としての統率を取るためには、総指揮官は指揮所にいなくてはならないのだから。だから今もこうやって、凍てつくような孤独のど真ん中で、総指揮官たるシーニーさんは「状況」を睨みつけている。


 ――だのに私は、「現場」に向かうことを望んでいる。

 本当ならこの場で、最後までシーニーさんの補佐をすべきなのに。


 忸怩たる思いをこね回していると、指揮所にパウル1級審問官が姿を見せた。彼は私の姿を認めると、「ライザンドラ君の出番のようだよ」と声をかけてくる。

 私はその言葉に頷くと、シーニーさんに深々と一礼してから、パウル1級審問官のエスコートで指揮所を出た。


 指揮所を出ると、審問会派特別行動班の隊員数名がすぐに合流した。彼らにがっちりと護衛された私とパウル1級審問官は、何の不安も感じることなく、マダム・ローズの邸宅に足を踏み入れる。


 いくつかの凄惨な戦いの名残を見ながら屋敷の奥へと向かった私たちは、豪奢な私室の奥で椅子に腰掛けたマダム・ローズの姿を見た。

 マダムの周囲は武器を構えたカナリス特捜審問官やザリナさんが固めているが、彼らはマダムを捕縛できてはいない。マダムはワイングラスを手にしていて、そのグラスの中身が強烈な毒薬なのは聞かずとも分かっていた。

 彼女を生きたまま捕らえて尋問するにはあのグラスをなんとかするしかないが、カナリスさんとザリナさんをして、その隙を見いだせてはいないようだ。


 マダムの私室に入った私は、真っ向からマダム・ローズと向き合う。

 それから、カナリスさんとザリナさんに、少し下がってもらうように頼む。

 彼らはあっさりと武器を腰にしまうと、数歩後ろに退いた。

 それに合わせるようにして、マダム・ローズもワイングラスをテーブルの上に戻す。


 口火を切ったのは、マダム・ローズだった。


「遅かったですね、ライザンドラ。まったく、そんなみっともない鎧なんか着て。

 何度も言ったように、あなたにとって最大の武器にして鎧は、あなたが持つ知性です。それでなんともならないなら、そんな醜い鎧を着ていても、何の役にもたちません」


 私は苦笑して、頭を下げる。


「マダム。私はもう自分ひとりで生きているわけではありません。

 私を守ってくれる人がそれを求めるなら、私は甲冑だって着たでしょう」


 マダムはふふっと笑うと、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。


「ならばわたくしは前言を撤回します。

 あなたは自分の人生を見つけたのですね、ライザンドラ」


 マダムはそう言うとワイングラスを掲げ、グラスを口元に寄せると、香りを楽しむ。

 バネ仕掛けの人形のように背後の二人が武器を構えたのがわかったが、私はそれを手で制する。

 案の定、マダムは再びグラスを机の上に戻した。


「――皆様にはお礼を申し上げなくてはなりません。あんなにも手のかかる娘だったリジーが、立派に独り立ちしただなんて。

 いっときなりとも彼女の身を預かった者として、これ以上の喜びはありません。

 ですから一つだけ……一つだけ、皆様の知りたがっていることをお教えしましょう」


 マダムは背筋を伸ばすと、落ち着いた声で語り始めた。


「お察しの通り、このダーヴの街には、〈古き教え〉を守る秘密結社がございます。

 ですがこの秘密結社の実情は、皆様のご想像とは、微妙にズレているのではないか、と考えます。

 わたくしたち〈結社〉の人間は、〈古き教え〉とやらが教会の教えに勝っているとは、考えていません。我々も馬鹿ではありませんから、〈古き教え〉が所詮は異端思想であり、表沙汰になればダーヴの街を根底から破壊してしまいかねない騒乱になり得ることを、理解しています」


 背後でカナリス特務審問官が軽く鼻を鳴らしたのが聞こえる。嘘をつくな、とでも言いたいところなのだろう。

 でも私には、マダムの告白が完全な嘘とも思えない。

 実際のところ、伝統などというものは50年もあれば生まれるし、消え去る。それなのに300年にも渡ってこんな田舎街の秘密結社が伝統を守り続けるだなんて、いくらなんでも無理がある。


「事実、この街で長い年月に渡って維持されてきた〈結社〉にしてみると、〈古き教え〉は、いわば箔、ないし演出のようなものでしかありませんでした。

 この街に生まれた者であれば誰であれ、〈結社〉に年間の寄付金を払えるくらいの成功を収めれば、〈結社〉――つまり特権階級の一員に迎え入れられる。そうなればそこで得た社会的なコネを活かしたり、あるいは領主に融通を利かせてもらったりと、より大きな商売に手を広げられる。

 この〈結社〉に迎え入れられることこそが、〈古き教え〉に入信することの、真の意味です。ですので私を含め、〈結社〉のほとんどの人間は、〈古き教え〉が何を伝えているのかも知りません」


 ――なるほど。縦割りになりがちなギルド制や徒弟制の枠組みを守るだけでは、この北の大地で生き延びることは難しかったのだろう。必然的に発生した横断的な組織が〈結社〉であり、そこにおける精神的な支柱が〈古き教え〉だというわけだ。

 してみると、マダムら〈結社〉にとって、ナオキの存在は頭痛の種だっただろう。下手すると誰よりも大きな成功を収めた商人であるナオキは、この街の生まれではない以上、〈結社〉に迎え入れられる資格がない。


「もっとも、わたくしたち〈結社〉に何ら後ろ暗いところがないかと言われれば、そうでもありません。秘密結社の秘密性を守るため、私たちは互いに互いの秘密を握り合うことにしています。一蓮托生、という仕掛けですね。

 とはいえ、はっきり言えば、〈結社〉はもうだいぶ昔から、秘密である必要などありませんでした。〈古き教え〉など投げ捨て、教会が守る秩序に従って、堂々と〈組合〉として組織を公開してしまったほうが、何かと便利だったはずなのです。

 ですがわたくしたちは秘密を保持すべき理由が、〈古き教え〉以外にもありました」


 それもまた、理解できる。秘密結社の秘密なんて、往々にしてそんなものだ。

 そしてこの手の秘密が保持される場合、その理由なんて数パターンしかない。


「その秘密が、〈結社〉の構成員として得られる特権の一部だったから、ですね。

 だから〈結社〉は秘密を持たねばならなかった。

 その特権を手放すなんて、考えられなかったから。違いますか、マダム?」


 私の言葉に対し、マダムはゆっくりと頷く。


「鋭いわね、リジー。ご明察よ。

 わたくしたち〈結社〉は年に数回、いわゆる魔女の宴(サバト)を開きます。サバトと言うと随分と大仰ですが、要は大麻を使った大規模な乱交パーティです。

 ナオキが賭場を作り直すまで、ダーヴの街には極端に娯楽が少なかったですから、年に数度開催されるこの〈祭り〉を廃止するなどということは、考えられなかったのでしょうね。『サバトを通じて結社のメンバーが兄弟姉妹となり、ともにダーヴの街を支える家族となる』という麗々しい開会の言葉でスタートする〈祭り〉ですが、『兄弟姉妹となる』とはなんとも、実に下世話な言葉だと思いませんか?

 もっともわたくしとしては年に数度の強烈な書き入れ時ですし、〈祭り〉を契機として身請けされるに至った夜の娘も少なくありませんから、こんな馬鹿げた風習はもう辞めましょうとも言いだせませんでした」


 なるほど。ダーヴの街において成功を収め、特権階級に迎え入れられた人々は、マダムの指摘通り、実に下世話な「兄弟姉妹」として秘密を共有していたわけだ。当然、小規模ながら大麻を取引する権利も〈結社〉が握っていたのだろう。ラグーナ副司祭は、そのおこぼれに預かっていたというところか。

 だとすれば、この街で何が起こったかも、推測は容易い。


「――これは私の想像でしかありません。違っていたら、そう言って下さい。

 〈結社〉によるダーヴの街の支配は、長らく、上手くいっていました。大麻の取引にしても、港町が近い以上、誰かが裏社会においてもコントロールしなくてはならないという事情もあったのでしょうし。

 でもあるとき突然、破局が訪れた。それまで〈結社〉でコントロールされていたはずの大麻が、街にあふれ始めたんです。そして〈結社〉はこれに対し、有効な手が打てなかった。

 理由は簡単です。

 〈結社〉はあくまでその根本的な原理を〈古き教え〉に依っている。どんなに形骸化したとしても、それは事実です。

 それゆえに、相互監視ないし自浄機能が機能していてなお、〈古き教え〉によって絶対的な正しさが保証される者の行動を抑制することはできなかった。

 違いますか?」


 マダムは無念そうな顔で、頷く。


「わたくしもまた、この街を襲った麻薬禍と戦ってきました。謎の敵と戦わねば、このままではわたくしたちは負けてしまう、と。

 リジーが想像したとおり、顔役たちによる相互監視や自浄機能は、完璧に機能していました。ですがわたくしたちは、その内なる敵が〈結社〉の根底を支配していたことに気づかなかったのです」


 そこまで言うと、マダムは目を閉じ、細く、長く、息を吐いた。

 それはどこか、シーニーさんのため息にも似ていた。

 「あのときこうしていたら」「あそこでああやっていたら」という、もうどうにもならない、後悔。

 悔いたからといって、他の選択肢などなかったことを再確認する、儀式。


「ダーヴの街に大量の大麻を持ち込んだのは、ケイラス司祭です。

 彼がサンサ教区に左遷されてきたのを知った〈結社〉は当初、彼の目から〈結社〉を隠蔽することに注力しました。所詮、彼は余所者でしかありませんから。

 ですがケイラス司祭は、どうやって知ったのか、サバトの場に姿を現しました。

 こうなっては仕方ありません。わたくしたちは彼を〈結社〉に迎え入れました。彼が〈古き教え〉に注目し、『異端審問官に問い詰められても問題ないくらい、〈古き教え〉を無害なものに解釈しなおしてあげよう』と提案してきたので、こちらとしても渡りに船だったところもあります。〈古き教え〉は〈結社〉にとって泣き所であり、教会との関係を極めて慎重にコントロールすべき原因でもありましたから」


 マダムが強く下唇を噛む。

 後悔。裏切られた悔しさ。失ったものの痛み。

 そんな、いろいろ。そんな――いろいろ。

 だから私が、マダムの言葉を引き継ぐ。おそらくはこの場でただ一人、マダムが味わう痛みを知る、私が。


「〈古き教え〉のあり方に直接触れる立場――つまり〈古き教え〉における教皇としての立場に、ケイラス司祭が就任したということですね。でもその重要性に、〈結社〉の皆さんは思い至らなかった。

 かくしてケイラス司祭は〈結社〉を蝕んでいき、急激に組織は腐敗していった。マダムや、あるいはマダムと志を同じくする結社員は事態の異常さに気づいたけれど、自分たちの組織の教皇を掣肘したりチェックしたりする機能は存在せず、ようやく主犯が誰か判明した頃には、何もかもが手遅れだった。

 だからマダム――あなたは、ケイラス司祭がいまどこにいるのか、知らない。おそらくはエミルがどこにいるかも、まるで心当たりがない。違いますか?」


 マダムの瞳が、一瞬だけ揺れた。


「――ケイラス司祭がどこにいるのか、わたくしは知りません。

 エミルがどこにいるのかも、知りません」


 それで、十分だった。

 〈緋色の煉獄〉亭で、ごく稀に姿を見せるマダムの一挙手一投足に怯えながら何年も過ごしてきた私にとっては、あまりにも、十分だった。

 そしてそのことは、マダムもまた理解していた。


 だからマダムは、どこまでも見苦しい命乞いを口にする。


「……わたくしが情報を漏らしたことがわかれば、わたくしは何かしらの方法で殺されます。

 そうしたらわたくしが世話している夜の娘たちは、多かれ少なかれみな破滅です。

 リジー。あなたは、その一歩を踏み出すというのですか?」


 あまりにも無残な命乞いに、カナリス特捜審問官が、そしてパウル1級審問官が声を荒らげようとした。私はそれもまた、手で制する。


「マダム、それは間違ってます。

 私がその一歩を踏み出すのではありません。

 あなたが、はるか昔に、その一歩を踏み出したんです。

 そのときの愚かなあなたは黄昏の荒野をさまよいながら、何人もの夜の娘たちを踏み潰してきました。ドロシーもその一人です。

 でもついに、愚かだったあなたは、賢いあなたに追いついた。

 これはもともと、そういう物語でした。

 いまのマダムにできることはただ、祈ること。それだけです」


 無礼極まりない私の言葉を聞いても、マダムは表情をまったく変えなかった。

 マダムは、賢い人だ。私に言われるまでもなく、こんなこと(・・・・・)は、分かっていたのだ。

 

 だから私は、パウル1級審問官に告げる。


「ケイラス司祭、ないしエミルの居場所が分かりました。

 彼らが居場所を変える余地はないと思いますが、念のためにマダム・ローズの身柄は審問会派で隠蔽して確保してください。

 その上で、可及的速やかに次の作戦に移る必要があります。私は指揮所に戻って、その準備に着手します。後はお任せしました」


 パウル1級審問官はほんの少しだけ驚いたような顔をしたが、やがて軽く肩をすくめると、「いいだろう」と言った。その声に私は頷くと、マダム・ローズに背を向ける。


 マダムの私室を出ようとする私の背後で、マダムが激しく咳き込む声がした。おそらく、マダムが毒杯を仰いだのだろう。

 そんなことを思う私の背に、マダムの末期の声が投げかけられる。


「リジー……あなたは……自分から――逃げ切れる、つもり?」


 私は背後を振り返ることなく、答える。


「いいえ。

 私は私から逃げているのではなく、私を追っています。

 いつか私が私に追いついたときには、あの世でまたマダムのお店のお世話になるかと」

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