アルール歴2177年 5月16日(+14日)
――マダム・ローズの場合――
「リジー。あなたに話があります」
ライザンドラにそう声をかけたとき、彼女は一瞬で世界が終わったかのような表情になった。そして次の瞬間、すべてを諦めたかのように、静かに目を閉じる。
やれやれ。この娘は実に、扱いが難しい。
確かに、わたくしがこの〈緋色の煉獄〉亭に足を運ぶことは、滅多にない。意識的に足を運んでいない、と言ってもいい。
なにしろ〈緋色の煉獄〉亭は、特殊な趣味を実現するための店だ。それゆえに、この街の上流階級の面々を見知っているわたくしが店に顔を出せば、それだけでわたくしは「知るべきではないこと」を知ってしまう可能性が生まれる。
実際、ドロシーという娘の常連がこのダーヴの街のラグーナ副司祭(正司祭のケイラス司祭は腐敗司祭なうえにほとんど街にいないので、ラグーナ副司祭が事実上の司祭と考えていい)であることを、わたくしは知ってしまっている。こういう余分な知識を意識的に忘れるようにするのは、この仕事にはつきものの苦労ではあるが、はっきり言えばストレスだ。
とはいえ、わたくしがこの店に顔を出さざるをえないときもある。
最もよくあるのは、お客様からの理不尽な要求を突っぱねるときだ。下半身の特殊な事情が絡んだ醜聞が露見したお客様が店におしかけ、「そのような醜聞はなかったことにする必要があるから、お前が抱えている娼婦を死刑にさせろ」といった無体を仰られる――そんな愚鈍なお客様は、年に1人くらいはいる。
そしてそのたびにわたくし自身が自分の手で状況を精査し、店舗側に問題がなかったときは断固として訴えを拒否する(それくらいの力は持っているつもりだし、そこを曲げたらこの商売はやっていけない)。
一方で、店舗側に問題があったなら――枕辺での会話で他の客の正体と嗜好をバラしてしまったとか――必ずわたくし自身の手で筋を通す。
だからこの店で働く娘たちにとって、わたくしの姿は、しばしば不吉の前兆となる。想像力が旺盛なライザンドラは、わたくしに声をかけられたその途端、「最悪の事態」を勝手にその小さな頭の中で描き、それを従容として受け入れたのだろう。
まったく。この娘は、頭が回りすぎる。
尋常ではないほどに頭が回るからこそ〈緋色の煉獄〉亭に向いていると判断したし、事実その期待通りの売上を立ててもいるけれど、かといってこうも怯えられると話がしにくい。
仕方ない。彼女には事実を断片的に話して、別の想像をさせるとしよう。
「あなたも噂は聞いていますね?
〈緋色の煉獄〉亭は、特別なお客様をお迎えしています」
ライザンドラは小さく頷く。
「彼はいま、この街の夜の社会において、非常に重要な地位を占めています。
わたくしとしては、なんとかして彼に渡りをつけたい。そう思って、彼に便宜を図りました」
ライザンドラの視線がほんの僅か宙をさまよい、それから彼女は素早く頷いた。今の一瞬で、ここで何が起きていて、わたくしがなぜここに来たのか、推測を終えたのだろう。
「――状況は把握できたようですね。
リジー。いえ、ライザンドラ。
あなたは、わたくしが知るどんな娘より、頭の回転が早い。
ですからわたくしは、あなたに賭けることにしました」
彼が〈緋色の煉獄〉亭に逗留しはじめて、まもなく1ヶ月になろうとしている。
その間、毎晩一人ずつ、最高の夜の娘たちを彼のもとに送り込み、そして全員が彼の眼鏡に叶わなかった――それどころか手出しすらしていないというのだから(それでいて彼女らの一晩に相応しい金額は払っているのだから)、このままでは“マダム・ローズ”の名が廃る。
とはいえこちらもプロだ。最高の容貌と肢体で駄目、最高の技芸で駄目、最高の性技はそもそも門前払いとなれば、次は最高の知性を用意するしかない。その切り札が、ライザンドラだ。
だがこれはこれで、ひとつだけ問題がある。ライザンドラは、その類まれな知性を活用することを、頑として拒む娘なのだ。
それでも。
いや、もしかしたら、だからこそ。
ライザンドラなら、彼が満足するかもしれない。
あの男の欲望は、ライザンドラの知性だけでなく、彼女がその知性を発揮しようとしないことによって、満たされる可能性がある。
これはただのカンだ。
女のカン、ではない。長年、若い女性たちを、欲望にまみれた男ども(ときには女ども)にあてがうことで日銭を稼いできた、しみったれた小悪党たるわたくしの、カン。
だからわたくしは、最初に声をかけたときよりも蒼白な顔をしているライザンドラに向かって、言い放つ。
「あなたの知性を、彼にお見せなさい。
それがあなたにとって越えられない壁であることは、知っています。
ですがこれは、命令です。拒むことは、許しません」