アルール歴2181年 11月15日(+0分)
――パウル1級審問官の場合――
ユーリーン君が示した仮説は思わず荒唐無稽だと怒鳴りたくなるような仮説だけど、でもその仮説にはそうやって感情的に怒鳴る以外に、つけいる隙がなかった。
重たい沈黙に押しつぶされそうな空気のなか、ハルナ君が張り切って手を挙げる――ああそうそう、彼女はそういう人間だった。
「ユーリーン先生、質問があります!
わたしも審問官なので、これまでの間、ニリアン領でもダーヴの街でも異端っぽい言動をする信徒がいないかってのはチェックしてきたつもりです。対異端包囲網の一角として作られたニリアン領で異端の気配がなかったのは当然として、ダーヴの街でも麻薬でラリって神様と交信ハッピー! みたいなことを言い出す普通の人には会ってないんですけど、これってどう考えたらいいんですか?」
ハルナ君の問いは(その言葉遣いと極論っぷりはさておき)、これはこれで的を射た問いだ。けれどユーリーン君は「良い質問ですね」と頷くと、さらに仮説を展開させた。
「300年前の記録によると、ダーヴの街にもハルナさんが言う『麻薬でラリって神様と交信ハッピー』な普通の人達は存在したようです。しかしそういう人たちはサンサ包囲網の成立にあわせてサンサ山中へと逃げ込むことになりました。帝都から審問官や司祭が来ましたからね。
そしてそれから300年間、一部の例外を除き、歴代の司祭たちはきちんと仕事をし続けたんです。ダーヴの街から明白な形での脆弱性異端は消えていき、ゆっくりと正しい信仰の中に溶けていったのでしょう。
でもそのことは、審問会派から見れば2つの問題を引き起こすはずです」
ユーリーン君がちらりとカナリス君の顔を見る。なるほど、「自分はあなたの弟子からの質問に答えたのだから、次は師匠が補足すべきだ」というわけだ。カナリス君は苦笑いしながら、彼女の仮説を受け継ぐ。
「1つ目の問題。どのような形の異端であれ、長い年月に渡って人々の間に染み込んだ異端を、一朝一夕で拭い去ることなどできない。一見して無害な遊戯が、異端の信仰に基づいた思想をそのバックボーンとして有しているといった状況は、けして珍しくない。こうした場合、善良なる人々は、それが普通だと信じながら異端思想に触れ続けることになる。
2つ目の問題。時間をかけてゆっくりと信仰が正常化していくことにより、異端の側では純化への欲求が高まる。我々からしてみれば異端でも、異端者にしてみれば正しい信仰だ。それゆえ、『正しい信仰を復興させる』ことが異端者内部で求められるのだ。
そしてこの2つの問題は、しばしば相互に影響する。
『拭い去れぬ異端』は、こちらから見れば極めて厄介な異端だが、純然たる異端側から見ても『変質した信仰』となる。それゆえ彼らは、そうやって変質した信仰を正すことで純化を進めようとし、そしてしばしばその試みは非常にうまくいく。善良なる市民から見れば、異端者が提示する純化は『より歴史があり、より価値がある』ものを復興させる運動だからだ」
異端との戦いの最前線から戻ると休暇と称して審問官育成コースで教鞭を取るのが趣味なカナリス君らしい、理路整然とした説明だ。
ここまでの仮説をつなぎ合わせると、ダーヴの街にはいわば麻薬信仰カルトとでも言うべき秘密の組織がある、と考えられる。しかもこのカルトは地域に強く根付いており、ある程度までダーヴ市民に支持されている可能性が高い。
ふむ。まずは地元民に聞いてみるとしよう。
「ザリナ君、シーニー君。君らは何か心当たりがないかな?
ハルナ君の説によるところの、『麻薬でラリって神様と交信ハッピー』教団みたいな連中がダーヴの街には存在するんじゃないか、って話なんだけど」
僕の問いに対し、ザリナ君は首を横に振る。
「まずは個人的な話をすると、あたしはその手のクスリには興味がない。なにせこっちは人をぶん殴るのが仕事なんでね。大昔の戦士ならともかく、この時代じゃあもう、ラリってちゃまともに戦えないさ。そのあたりは赤牙団でも徹底してる。
噂くらいはっていう話になっても、あたしらはちょっと不利だ。ダーヴの街は港が近いってのに、そこまで余所者に優しい街じゃあない。バラディスタン人とかスヴェンツ人みたいに、見るからに余所者って人間は、特に馴染みにくい。
だからまあ、話を聞くなら赤牙団の部下に聞くのがいいかもな」
上司の言葉を引き継いだシーニー君も、残念そうな顔になる。
「ザリナ隊長のおっしゃる通り、赤牙団では違法な薬物の使用を固く禁じています。医療用の鎮痛剤として大麻を使うことはありますが、これはちゃんと司祭様の認可を得たものを、教会が発行する資格を持った従軍医師が使っています。
念のため繰り返しますが、薬物使用に関しては、赤牙団は特に厳しいという自負があります。ナオキ司令官は赤牙団についてはほとんど何も口出ししない人ですが、薬物だけは絶対にダメだから、そこだけは徹底するように命令されています。
具体的に言えば、違法な薬物使用が発覚したら即座に解雇のうえ衛兵に引き渡し。薬物を他の隊員に勧めたことが分かったら死罪です」
ふむ、なるほど。これはこれで、とても貴重な証言だ。
いや――極めて貴重、と言ってもいい。
と、それまで黙っていたライザンドラ君が手を挙げた。
「お二人がご存じないようですので、私から報告します。
今のお二人の話からも明らかなように、ダーヴの街では今回の麻薬禍以前から、大麻に限らず一定量の麻薬が出回っていました。赤牙団が違法薬物の使用を厳重に禁じているのも、それらが手に入りうる状況にあるからです。
その上で申し上げれば、実際のところこの街では少なくとも10年前の段階において、違法な薬物が比較的容易に手に入る状況にありました。私が奴隷としてこの街に売られてきたのがおよそ10年前のことですが、その頃から娼館のごく一部でひっそりと麻薬が取引されていたんです。
娼婦だった時代、私はお茶とお酒を拒んできました。人生に絶望しきっていた私は生きる喜びを少しでも感じるものを遠ざけたかったというのが一番の理由ですが、より即物的な理由もありました――〈緋色の煉獄〉亭に来るようなお客の中には、茶や酒にクスリを混ぜて娼婦に飲ませるような人が、稀にいると聞いたからです。
もちろん、つい先日まで起きていたような大規模な麻薬禍は、10年前のダーヴの街と比べても異常の一言に尽きます。ですが私が娼婦として働いていた頃、麻薬の流通が完全に途切れることもまた、ありませんでした」
なるほどなるほど。やはりダーヴの街では、麻薬は完全には忌避されていなかったのだ。
でも――あれだなあ、この話には嘘というか、随分と隠し事が多いな。仕方ないんだけどさ。まぁそのちょっと残酷というか、さすがに僕ですらいささかしんどい質問だけど、やはりここは僕が踏み込んでおくべきだろう。
「辛いことを思い出させてしまって申し訳ない、ライザンドラ君。
その傷口に塩を塗るようで申し訳ないんだが、君が〈緋色の煉獄〉亭で働いていた頃のルームメイトは、ラグーナ副司祭のお気に入りだったはずだよね。そう、確か――ドロシー君だ。
君はいま、『〈緋色の煉獄〉亭に来るようなお客の中には、茶や酒にクスリを混ぜて娼婦に飲ませるような人が、稀にいると聞いた』と言ったよね。それは誰から聞いたんだい? 娼館のオーナーであるマダム・ローズ? それとも?」
ライザンドラ君は観念したように天を仰ぐと、絞り出すような声で真実を語った。
「ドロシーが教えてくれました。彼女があんなにもお人好しで、親切じゃなかったら、私は最初の年のうちに死んでいたと思います。
それに――その……私は一度だけ、ひどく酔っ払ったドロシーに大麻を勧められたことがあります。『もう何年も吸ってるけど、司祭様が言うみたいに地獄に直行するような感じは全然しない、どっちかっていうと天国行き』って。
私に向かって『客にクスリを盛られるかもしれないから気をつけろ』と注意してくれたのは彼女なのに、当の彼女自身が大麻を吸っていたんです。おそらくは、日常的に。
もちろん、私は断りました。いえ、断ったのとも違いますね。適当な理由をつけて、その場から逃げだしました。あのドロシーが、こんな馬鹿なことをしていて、しかも彼女がそれを楽しんでいるのを見て、どうしようもなく怖くなったんです」
想像した通りの告白だったけれど、達成感はまるでなかった。ただ、痛みがあるだけ。これだから審問官って仕事は嫌なんだよなあ。
とはいえ黙っていても仕方ないので、話を前に進めよう。
「ありがとう、ライザンドラ君。だが辛い告白をさせてしまったところで申し訳ないが、君にはさらに辛い真実を話さねばならないようだ。
僕はここに来てすぐに、ラグーナ副司祭の遺品をすべて入念にチェックしてみたんだ。具体的に言うと、匂いを確認した……ハルナ君とシーニー君、そこで『変態が出た』みたいな顔をするな! 調査の結果、彼が持ってた一番上等な下着には、大麻独特の甘い匂いが染み付いていたんだよね。
下着に大麻の匂いが染み付く状況なんて、限られてる。そこで〈緋色の煉獄〉亭で働いていた元従業員を片端から問い詰めてみたんだけど、口が固くてさ。懺悔室で聞くと説得したんだけど、『審問官様と懺悔室に行ったことがバレたら殺される』んだそうだ。
でも今のライザンドラ君の証言で、ほぼ確定だ。つまりドロシー君とラグーナ副司祭が耽溺していたのは、いわゆる大麻プレイだったってこと。彼らは大麻を吸って、セックスしてたんだ」
ライザンドラ君の証言がなくても、彼らがそういう不道徳に耽っていたんだろうという推測はしていた。だからいま改めてライザンドラ君から証言を引き出したのには、別の意味がある。
ともあれ親友にして命の恩人だったドロシー君がそんなことをしていたと知ったライザンドラ君は、ひどくショックを受けていた。つい、僕も続きを言い難い雰囲気に飲まれてしまう。
そうやって生まれた沈黙を素早く引き取ったのは、ハルナ君だった。
「ドロシーさんは収入のほとんどを実家に仕送りしていましたから、ほぼ常に赤貧でした。そんな彼女が大麻を常習するには、提供者が必要です。ドロシーさんとラグーナ司祭が、あー、その、大麻プレイを本当にしていたかどうかはともかく、ラグーナ司祭がドロシーさんに大麻を提供していたのは間違いないでしょう。マダム・ローズという可能性も一応はありますが、マダムは滅多に〈緋色の煉獄〉亭には顔を出さなかったそうですから。
……なるほど、筋が通りますね」
いやいやハルナ君。ちょっと待ち給え。そこで中間を全部端折って「筋が通ります」では会議する意味がないじゃないか。
「ハルナ君の指摘どおり、ユーリーン仮説とラグーナ副司祭の悪癖をドッキングさせると、なかなか熱い話になってくる。ラグーナ副司祭は結構な頻度で〈緋色の煉獄〉亭に通ってたわけだから、消費してた大麻も普通の量じゃなかったはずだ。
ちょいと一度、話を整理しよっか」
僕はチョークを手に取ると、黒板に文字を書き連ねていく。
「まずはユーリーン仮説。ダーヴの街では『麻薬でラリって神様と交信ハッピー』な秘密教団が成立していて、その秘密教団は古くからの市民にとっては邪悪と認識されていないのではないか。
で、証言その1。ダーヴの街では以前から麻薬の流通があった。
証言その2。見て分かるレベルの異邦人は、麻薬取引の相手にされなかった。
証言その3。事実上この街の司祭として働いていたラグーナ副司祭は、大量の大麻を私的な楽しみのために浪費していた」
書き終えたところで、ハルナ君が手を挙げる。
「イケメンで社交性あふれ深慮遠謀なるパウル1級審問官様、そろそろその『麻薬でラリって神様と交信ハッピー』はなんとかしませんか。なんとかしましょう。なんとかしてください。いやマジで。サンドラお姉さまの親友の悲しい過去が明かされてみんなでしんみりしてるのに、なんで私だけギャグキャラ扱いが続くんですか。納得できません」
おっと、さすがにいじりすぎたか。仕方ないので僕は『麻薬でラリって神様と交信ハッピー』のあたりを消して、「ダーヴ薬物カルト」と書き換える。うーむ、一気につまらなくなったな。
ともあれこれで大枠の構造は掴めてきた。あとは各論と、そして本題だ。まずは各論部分をユーリーン司祭に確認しよう。
「ユーリーン君は『歴代の司祭がこの街の教理を正常化してきた』と言ったけれど、どうもラグーナ副司祭はそうではないようだよねえ。
このあたり、あなたが調べた記録から何か分かることってあります?」
ユーリーン君は腕組みすると、口をヘの字に曲げた。
「そこまでは調査できていません。なにしろ膨大な記録ですし、申し上げたとおり300年前より昔の記録を発掘することに注力していましたから。
ただラグーナ副司祭はこの300年の司祭・副司祭の中でも一人だけ、外れ値を持っています。この300年間でダーヴの街出身の司祭ないし副司祭は、彼だけです」
さすがはボニサグス派。見るべきデータはちゃんと見ておいてくれた。
そしてこのデータは、実に見事に辻褄があう。サンサ包囲騒動で異端とされたダーヴ薬物カルト(=ダーヴの伝統を受け継ぐ者たち)は、一部はサンサ山に合流し、一部はこの街で息を潜めるように生きることを選んだ。
けれど長い長い時間が経過して自分たちの教理が歪められてしまったことに対する怒りを抑えきれなくなったダーヴ薬物カルトは、相当な時間をかけてダーヴ出身の司祭ないし副司祭を立てることに成功した。250年前には着任した司祭を自分たちのカルトに染めることに成功したが、今度は生粋の信徒をダーヴ教会の中枢に送り込んできたのだ。
でも、この説にはまだまだ多くの謎がつきまとう。なかでも特に問題なのはケイラス&エミルで、この構図のなかに彼らがどう入り込んできたのかが、まるで見えてこない。最悪、彼らはダーヴ薬物カルトを自分たちの力で掃滅しようとして返り討ちにあい、ケイラスは死にエミルは転向したという可能性すらある。
だからこそ、議論の時間は終わりだ。「わからないもの」を明らかにするためにボニサグス派は頭脳を使うが、僕ら審問会派は足と拳を使う派閥なのだから。わからないなら、知っているであろうヤツを探し出し、話させるだけのこと。
「現状、まだまだ謎は多い。でもユーリーン君が示してくれた仮説は、この街の現状をかなり的確に説明してくれる、とても強い説だ。
残り時間が限られている以上、この仮説を踏まえて、まずは一番弱くて、間違いなく悪い奴を捕まえ、詳しい話を聞くとしよう」
それはこの場にいる全員が既に到達していた結論でもあったようだ。会議室にいた面々はみな一様に頷くと、席を立って明日の大捕り物の準備に入る。
そう、たった一人を除いて。
席に座ったまま、青ざめた顔で僕を凝視するライザンドラ君が、震えるような声で呟いた。
「その――捕らえるべき、一番弱くて間違いなく悪い奴というのは、つまり……」
僕もまた席を立つと、硬直したままのライザンドラ君の肩に手を置く。
彼女の細い体は、小さく震えていた。
「君の推測どおり、マダム・ローズだ。
この街で一定以上の権力を持っている連中は、エルネスト男爵を筆頭に、誰も信用できない。その中で最も社会的に弱い立場にいるのが、マダム・ローズだ。だから彼女を狙う。事前の根回しもなければ具体的な証拠も証言もない状態で男爵の私邸に突入したら貴族社会が黙っちゃいないが、娼館を束ねるオーナーを吊し上げても抗議する者はいない。
それに君は、従業員だったドロシー君が大麻吸引の常習犯だったことを証言してくれた。何の奇跡かマダム・ローズに後ろ暗いところがまったくなかったとしても、従業員に対する甚だしい監督不行届があったのは疑いがないし、ドロシー君がやっていたことは神の教えに反する悪徳だ。だから僕らはこれを強制捜査する。神に対して隠すべき何かを持たないなら、彼女だって抵抗はしないだろう。
もっとも、ラグーナ副司祭が〈緋色の煉獄〉亭に持ち込んでいた大量の麻薬とその出処について、本当に何も気づかず何も知らずにいられるほどマダム・ローズが無能だったとは、到底思えないけどね。最低でも『うまく忘れる』ことくらいはしてたはずだ」
我ながら嫌になるくらい、悪辣な審問官を絵に描いたようなセリフ。
だが仕方ない。これが僕らの仕事だ。
だから最後に一言、あまり言いたくない言葉も付け加える。
「そうそう、悪いけどマダム・ローズを捕らえる作戦が終わるまでは、君も拘束させてもらう。なんのかんのでマダム・ローズは君の恩人でもあるんだから。
君がそんな人間じゃないのは知ってるけど、万が一にでもマダム・ローズが僕らの動きを察知してた場合、僕は真っ先に君を疑わなきゃいけなくなる。それは避けたいんだよ」




