アルール歴2181年 8月15日(+17日)
――シーニーの場合――
ナオキ司令官が勾留されてからも、ナオキ商会の仕事は減らず、赤牙団の平常業務にも変化はなかった。ケイラス側の内通者だったカイムの交友関係が、審問官たちによって極めて厳しく調査されたが、異端の形跡はどこにもなかったというのが最も大きい。
ナオキ商会の商売敵はいまがチャンスと言わんばかりに「あそこは異端に関与しているそうですから」と喧伝したが、カナリス特捜審問官自ら「異端かどうかを判定するのは審問会派であり、徒に誰それが異端だと語るのであれば、審問会派はしかるべき対処を行う」と宣言したことにより、その手のネガティブキャンペーンは鳴りを潜めた。
もちろん、審問会派がナオキ商会に対して配慮を示すのにも理由がある。
ナオキ商会はいまや審問官たちの拠点となっており、赤牙団は事実上、審問官たちの指揮下にある。わざわざ乗っ取った資産を理由もなく自分たちの手で破壊するほど、カナリス特捜審問官は馬鹿ではないということだ。
加えて言えば、ダーヴの街にライザンドラ女史が戻ってきたのも大きい。彼女はナオキ商会の総帥代理として、これまでナオキ司令官が取り仕切っていた仕事を綺麗に引き継いでみせた。ここだけの話をすれば、ライザンドラ女史がトップに立った今のほうが私にかかる負荷は小さくなったくらい、彼女の采配は効率的だ。
というわけで、ナオキ商会はカナリス特捜審問官とハルナ3級審問官を頂点として、財政面をライザンドラ女史が、軍事面をザリナ隊長が、それぞれ管理するという状況にある。いやその、くどいと言われるかもしれないが、この体制になってからというもの私の仕事は本当に楽になったし、私としては今後ずっとこの体制でもまったく文句はない。というかこれぞ理想の職場、理想の部隊と言うほかない。
無論、現状が永遠に続くことなど、決してあり得ないのだが。
ナオキ司令官の身柄をニリアン軍に預けて8月3日にダーヴの街へと戻ってきた我々は、翌8月4日には新体制を整え、10日には商会の運営も元に戻った。
赤牙団の綱紀粛正はとうの昔に終わっており、10日までには審問官による異端の洗い出しも終わっていた。
これを踏まえ、カナリス特捜審問官は11日の正午をもって、決定的な布告を発令する――つまり、「異端の疑いのあるケイラス司祭の召喚と審問」を、ダーヴの街の全域に対して大々的に発令したのだ。
行方不明になっているケイラス司祭には賞金がかけられ、その逮捕につながる情報を提供した信徒には高額の報酬が支払われるという布告に、ダーヴの街は大いに沸いた。
ぶっちゃけケイラス司祭は人々に愛される司祭という人物像から果てしなく遠かったし、「ケイラス司祭には異端の疑いがあるんだって」と言われれば私だって――何も知らなかったとしても――「そりゃそうかもしれませんね」と納得したと思う。
少なからぬ数の若き野心家たちがケイラス司祭の追跡を開始し、捜査本部となったナオキ商会の事務所には真贋定かならぬ情報が続々と押し寄せた。
ライザンドラ女史とハルナ3級審問官は津波のように押し寄せる情報を迅速により分け、有益と判断された情報を提供した信徒に対しては即座に報奨金が支払われることになった(報奨金はナオキ商会が支払い、後ほど審問会派がそれを補填するという仕組みだ)。
その一方で、明らかに悪意のあるデマを持ってきた信徒に対してはカナリス特捜審問官がじきじきに公開説法を行うというパフォーマンスも開催された。このイベントの効果は覿面で、市場のど真ん中で公開説法が開催された13日以降は、傍目にも情報の品質がぐっと向上したのがわかった。
だが、これほどまでに優れた効率を発揮するシステムが完成してもなお、会議室に緊急招集された我々が一様に渋い顔をするような事態は起こる――いや、起きてしまっていた。
最初にそれが発生したのは、10日の深夜だった。
ケイラス司祭の召喚と審問の布告を発する前の晩、カナリス特捜審問官とハルナ3級審問官に率いられた特別チームは、ラグーナ副司祭を逮捕すべくダーヴの教会を急襲した。
ラグーナ副司祭は基本的には生真面目で勤勉な司祭で、堕落したケイラス司祭の尻拭いをしつつも、司祭の代わりにほぼすべての儀式や礼拝を行ってきた。〈真紅の煉獄〉亭なる、ちょっとばかり特殊な趣味人が足を運ぶ娼館の常連だという話は私ですら耳にしていたが、この街の市民にしてみれば「それくらい許してやれよ」というのが暗黙の了解だったと思う。つまるところ、彼は市民に慕われていたのだ。
一方で、ラグーナ副司祭は今回の異端および薬物汚染騒動のど真ん中にいる人物でもあった。
かつてライザンドラ女史が予測したように、ダーヴの街に運び込まれた麻薬は、教会の馬車を利用していた可能性が高い。ハルナ3級審問官が抜き打ちで教会を強制捜査したときは、教会からは麻薬のまの字も出なかったが、教会のロジスティックスを使って麻薬の密輸をするのであれば、当然その程度の備えはするだろう。
しかも、この街で捜査をしていた審問官2人を襲った薬物中毒患者の群れの死体はダーヴの教会で保管されたが、カナリス特捜審問官曰く「保管された死体から何かを抜き取った形跡があった」という。これだけの大事に、ラグーナ副司祭がまったく何の関与もしてないとは考えにくい。
ラグーナ副司祭とケイラス司祭は(ケイラス司祭が姿を消す直前のしばらくを除くと)ほとんど接触がなかったので、より直接的な手がかりとなるエミルに比べると、ラグーナ副司祭の優先度は低い。が、彼を尋問することで得られるであろう情報には、それなりの価値が期待できた。
だが教会に忍び込んだ(ラグーナ副司祭はかつて赤牙団に潜り込んでいた内通者であるカイムと同様、奥歯に毒薬を仕込んでいる可能性が高いので、完全な奇襲をもって一撃で意識を刈り取る必要があった)我々を待っていたのは、司祭の私室で死体となって横たわっているラグーナ副司祭だった。審問会派がナオキ商会と赤牙団という手駒を得たことを知った敵は、先んじて副司祭の口を封じることを決意し、その短剣はギリギリのタイミングで我々に先んじた……ということだろう。
ラグーナ副司祭を殺されたのは非常に痛かったけれど、それでもこれは予想の範囲内ではあった。ナオキ商会を審問会派がジャックしたというのは、耳の早い商人たちにはすぐに知れ渡った事実だ。つまり審問官たちが攻撃に出るという兆候は、異端者たちがよほど間抜けでない限り、遅くとも8月3日には察知できたはずだ。
一方で我々がもっと早い段階でラグーナ副司祭の逮捕に動けなかったかということになると、審問官たちがナオキ商会と赤牙団を完全に掌握できた(=内部に異端者がいないと確信できる状態にした)のが8月10日だったわけで、それより先に動くのは無謀だ。
つまるところ、「ラグーナ副司祭は必要な犠牲の範囲にある」という暗黙の合意は、我々の内側に存在していた。それでも我々が10日の深夜に仕掛けたのは、10日昼の段階でまだ副司祭が生きていたからだ。ここで一手差で競り負けたのは、僅差で負けて悔しいというより、敵はこの好条件においてすらギリギリセーフな手を講じられる程度の統率力だという証拠を得られて嬉しいというべき状況だ――このギリギリセーフっぷりが敵の欺瞞でなければ、だが。
だが13日の早朝に起きたことは、今度こそ我々全員を困惑させた。
夜明け一番にナオキ商会へと駆け込んできた衛兵の手には、一枚の書状が握られていた。なんでも衛兵の詰め所にいつの間にか投げ込まれていたのだという。
ハルナ3級審問官が慎重に書状を開いてみると、差し出し主には「神の僕 エミル」と書かれていた。エミルがあれほど頼りにしてきたデリク家の紋章はなく、この段階で会議室に集まった面々は不審げな顔になる。
しかるに、書状の内容はさらに衝撃的だった。エミルはデリク家に対して一方的に「デリク家と縁を切る」と宣言していたのだ。正確に言えばその書状はもっと儀礼的な文言を並べた文章で、ハルナ3級審問官とライザンドラ女史が2人で必死に解読した結果「要約すると絶縁状で、文面の大半はデリク家と絶縁する自分を褒めちぎってます」という結論が出るような代物ではあったが、そうであるなら一層理解不能な事態だ。
そのうえ、政治的にも宗教的にも極めて微妙なことに、この絶縁状にはケイラス司祭が正式にそれを認めるというサインも残されていた。
ケイラス司祭は異端の疑いがかけられた――というかほぼ100%間違いなく異端の――司祭だが、それでも司祭は司祭だ。そして彼が神の威光をもって証明した正式な絶縁状が世に示された以上、この書状によってエミルがデリク家から離脱したことが確定してしまう。しまう、が、その目的や経緯はまるで意味不明だ。どいつもこいつも狂っている、としか言いようがない。
……まあ、ハルナ3級審問官はそのエミルにプロポーズされているらしいので、ちょっと真剣にいろいろ考えたほうがいいですよ、とは忠告しておいたが。具体的に言えば寝る前には窓にも鍵をかけろとか、レストランで注文した覚えのない食べ物が出てきたら絶対に手をつけるなとか、そういういろいろについて、彼女はわりと真剣に対策しておくべきだろう。なんとも忌まわしい記憶だが、この手合いの「自分の内側にある真実にだけ従う」タイプの人間に人生の一時期を大いに狂わされた経験者として、ハルナ3級審問官が私と同じ思いをしないことを祈るばかりだ。
ともあれこの2つの事件は、不可思議な要素がてんこ盛りになった事件だ。
特に不可思議なのはラグーナ副司祭暗殺で、殺しそのものは「口封じ」で説明できる(というかそれ以外は考えにくい)のだが、殺しが起きた状況があまりに不自然なのだ。
最大の問題は、ラグーナ副司祭の死体が司祭の私室にあったという点だ。
いろいろあったとはいえラグーナ副司祭は聖職者としての規律を重んじ、誠実な生き方を実践していた人だから、副司祭である彼は司祭のための私室には、掃除以外の理由で入ることはなかった。彼はあくまで「立場をわきまえた」人物だったのだ。
つまりラグーナ副司祭を殺した犯人は、何らかの意図をもって、わざわざ司祭の私室にまでその死体を運んだということになる。さもなくば10日の深夜に限って、副司祭は司祭の私室に入る必要があったのだろう。
話をさらに難しくしたのは、ラグーナ副司祭の殺され方だ。彼の死体には抵抗の形跡がないだけでなく、殺した側も一撃で綺麗に副司祭を殺している。明らかにプロの手口だ。
ただこのこともまた、とてつもなく不可思議だ。
まず、これほどのプロが手を下すなら、「プロが殺した」という証拠を残したりはしない。これはまだまだ前哨戦である以上、審問官たちに「こっちには殺しのプロがいる」という手札を見せるのは馬鹿のやることだ。
しかも口封じという目的を考えるなら、殺しはもっと残虐かつ目立つものであるべきだ。「口を割ったらこっそりと慈悲深く殺される」のでは、心が弱い犯罪者であれば「あらいざらい喋って、何もかも家族には秘密のまま、慈悲深く殺されよう」とすることだってあり得る。なのに敬意すら感じられる殺し方をするというのは、まったく筋が通らない。
かくして審問官たちとライザンドラ女史は額にシワを寄せて悩み、ザリナ隊長はしきりに私をつつくという状況に再び陥ったが、私としてはこの2つの謎に対する結論は完全に同一だ――つまり、「知ったことか」に尽きる。
エミルの絶縁宣言は心底意味不明だが、ラグーナ副司祭殺しは意味不明なんていう領域を越えているのだ。
そりゃまあ、副司祭殺しの目的が口封じなのは、ほとんど議論の余地がない。そこまではギリギリ、意味が理解できる。でもそれこそが、この問題を難しくしている。
実際、口封じが必要だったら、ケイラスが行方不明になるのと同時に殺すべきだった。あるいは教会に強制捜査が入って、そこで審問官に対してラグーナ副司祭が何かをゲロったかもしれないとなった段階で、見せしめも兼ねて殺すべきだった。口封じというのは「いよいよ密告するかもしれなくなったヤバい仲間」を殺すのではなく、「密告する必然性のある奴を前もって」殺すというのが定石なのだ。
ちなみに、これを言うと「そんなことをしたら仲間を皆殺しにしなくてはならない」などと言い出す馬鹿がいるが、それはただ単にその馬鹿の情報統制が甘かったというだけのこと。要は「口封じ」のラインで考えると、ラグーナ副司祭殺しは「どう転んでも素人が絡んだ仕事」以外にコメントできない。
もちろん、副司祭殺しの目的が口封じではない可能性も、ゼロではない。この場合、殺しの原因は内部分裂ということになるだろう。
これについては、「十分にあり得ますね」というのが率直な感想だ。でも、だからといってそこを真剣に考えるのは時間の無駄だというのも、偽らざる感想となる。
理由は簡単だ。内部分裂そのものは、どんな組織であっても起こる。人間が2人いれば闘争が、3人いれば派閥闘争が起こるのだ。「内部闘争を起こすような組織を作った段階で問題外」などと言い出すのは、「人間って実に問題外な生物ですよね」という自明な真理のトートロジーに過ぎない。
だから、ちゃんとした組織とそうでない組織の違いは、内部分裂を起こすかどうかの違いでは測れない。内部分裂してもなお平常運転している組織がちゃんとした組織であり、内部分裂すると死人が出たりして最悪の場合崩壊にまで至るのがそうでない組織――これが我らスヴェンツ傭兵から見た組織論だ。
つまり。
口封じ説にしても、内部分裂説にしても、ラグーナ副司祭殺しをやらかした側はまともではない。まともではないという言い方が情緒的に過ぎるのであれば、プロの仕事ではないと言ってもいい。実行犯にプロが混じっているのは間違いないが、仕切っているのはプロではあり得ない。
そしてプロの仕切りではない以上、予測などしてはならない。
素人さんたちの仕事は、とにかく無駄が多い。だから長期戦をすればプロが圧勝するが、一瞬だけを切り取って、しかもそれに対応しようとすると、今度は逆にプロの側がてんてこ舞いするハメになる。プロならば絶対にやらないこと――ほとんど禁忌にも近いこと――を、素人さんは実に気楽に選択するからだ。
禁忌に対抗するには禁忌に手を染めるしかなく、しかしてプロが決死の覚悟で禁忌に手を染めた頃には、素人さんはまるで別の方角に飛び去っている。これが「素人は怖い」と言わしめる、最大の理由だ。
今回のケースで言えば、エミルの絶縁状はその典型だ。
私が知る範囲で言えば、エミルはゴミ以下の穀潰しだ。あの手の、出自以外に自己の責任を転嫁できるものを何一つ持たないこじらせたクソ野郎どもが何を考えているかなど考えるだけ無駄だし、どうしても何を考えているか推測しなくてはならないのであれば「途方もなく非常識で愚鈍で卑劣で夢想的で無意味だが本人だけは世界の真理かつ正義だと信じていること」以外に答えはない。世の中にはそういう、常識とか良識とか理性とかが通じない狂人も、結構な数がいるのだ。
だから素人を相手にするとき、プロはその一挙一動にいちいち反応してはならない。それこそが、プロがいわゆるジャイアントキリングを自ら呼び込んでしまう、最大の原因だ。我らスヴェンツ傭兵が正式な軍議の席でもしばしば「知ったことか」と発言するのは、我らの祖先が屈辱的なジャイアントキリングをされたときの様々な経験を受け継げばこそなのだ。
とはいえ、ハルナ・シャレットにライザンドラ・オルセンという当代屈指の才媛――というか天才――2人が頭を悩ます会議の場で、その2人が悩む議題に対して「そんなの知ったことかですよ」などと言い出す度胸は、私にはない。そんな度胸がある人がいたら会ってみたい。そんな英雄にこそ、私の生涯の剣は捧げられるだろうから。
かくして私はしきりに脇だの頬だのを突いてくるザリナ隊長を無視しながら、世界の頂点で討論する2人を実に気まずい思いで見守ることしかできなかった――このぶんだと、ザリナ隊長じきじきに執行される今夜の「個人的なおしおき」は、さぞかし長く濃密なものになるだろうなという、下世話な想像をしながら。




