アルール歴2181年 7月29日(+1時間)
――ライザンドラの場合――
昨日の夜、ナオキが審問官たちに連行されるように(ザリナさんたちの護衛を引き連れての連行というのも不思議な状況だが)ニリアン領に連れてこられてからというもの、慌ただしい時間が過ぎていった。
ユーリーン司祭は気丈にも笑顔を維持して日課に励んでいるけれど、彼女の精神はほとんど限界に近い。直属の上司が異端の疑いで訴追される寸前というだけでもその心労はいかほどかと思うし、ましてやそこにナオキまでもが連座する可能性が見えてきたとなれば、私だって笑顔ではいられないだろう――もっともユーリーン司祭はいつもどおりしかめっ面にしか見えない笑顔なので、本当に彼女が笑顔をキープしているのかと言われると、ちょっと判断に悩んだりもするのだけれど。
ともあれナオキは教会の宿坊に避難させられ、ザリナさんですら面会できない状況にある。
いまのところナオキが閉じ込められている部屋の中に入れるのは、竹簡聖書の製造に協力するためにこの村の住人となったヴェルディティウス派の修道士たちだけだ。ザリナさんとシーニーさん、そして赤牙団の精鋭は、教会を守るような布陣を敷いているが、部屋には入れない。
ナオキや赤牙団の皆さんのために食事の用意をして、シーニーさんにスープが入った大鍋の移動を手配してもらっていたところに、ザリナさんがやってきた。
ザリナさん曰く、これからカナリス審問官の同席のもと、ナオキさんと警備に関する打ち合わせをするという。「あたしが口利きするから、あんたも打ち合わせに参加していいぞ?」と言われたが、私はその申し出を断った。これという理由があるわけではないけれど、直感のようなものが「今はそのタイミングではないし、自分にはその準備ができていない」と囁いたからだ。
直感に従うのはあまり好きではないのだけれど、その囁きはそのときの私にとって、とても合理的な言い分に思えた。
かくしてその日の夜は何事もなく明けて、早朝一番で審問官たちはニリアン卿との打ち合わせに向かった。私はユーリーン司祭の手伝いを済ませると、朝の祈りは省略して、赤牙団の朝食の準備に取り掛かる。
案の定、シーニーさんが采配して作ろうとしていた朝食は「完璧なまでに必要十分水準」な代物――身体の維持には申し分ないけれど士気の維持には厳しすぎる食事――だったので、越権行為だなと思いつつも全員分のちょっとした一品を作ることにした。急いで作ったありあわせのサラダは、シーニーさんからも「ありがたい」と受け取ってもらえたので、結果オーライということにしよう。
だから、というわけではないだろうが、皆が朝食を終えたころにふらりと姿を見せたザリナさん(残っていた朝食とサラダを全部食べた)は、妙に上機嫌なようだった。
「サンドラがいてくれて助かった! シーニー、お前は剣の腕も上出来だし指揮管理は完璧の一言だから、次はサンドラから料理を習え。それから、サンドラがOKっていうならベッドマナーも習っとけ。実地訓練が必要だっていうなら、あたしは許可するぞ」
ザリナさんの冗談はいつも実にきわどいラインを突いてくる。もっとも私としても、私が長く〈緋色の煉獄〉亭で娼婦として働いていたという過去をありのままに受け入れ、ときにこうやって冗談のネタに使ってくれるザリナさんのことが、とても好きだ。
「さて、与太はさておき、だ。サンドラ、ちょっと話しがある。
巨乳メガネに懺悔室なりなんなり、借りてもらえないか?」
ザリナさんの声色は相変わらず朗らかだったが、その目は戦場に赴く戦士の目へと変わっていた。私は小さく頷くと、子供たちと一緒に主堂の掃除をしていたユーリーン司祭とかけあって、教会付き学校の教員控室を借りることに成功した。今日は学校は休みなので、教員控室には誰も来ない。
控室に入ったザリナさんは、単刀直入に本題を語った。
「審問官の連中、どうやらしくじった。
連中は審問官どものいつものやり方で、ニリアン卿と交渉しようとした。ニリアン卿を叩きのめして、卿のほうから譲歩させようとしたんだ。
だが、さすがはニリアン卿だよ。逆に教理問答じみた展開に持ち込んで、審問官たちをとっちめちまった。いやはや、盗み聞きしてたけど痛快だったね、あれは!」
なるほど。ザリナさんがいなかったのは、このためだったか。
「で、だ。状況を説明するから、サンドラの意見を聞きたい。
あたしじゃあ連中が何を狙ってたのか、漠然と想像するのが精一杯だからな」
ザリナさんは決して頭が悪い人ではない。というか、状況によっては(例えば冬眠に入り損ねた熊が人里に降りてきたとかいう状況では)私よりも素早く、的確な判断をする人だ。
だから彼女は、シーニーさんをはじめとした「より的確な判断ができそうな人間」に相談することもためらわない。つくづく、すごい人だと思う。
そう思いながら私が素早く頷くと、ザリナさんは実に簡潔に審問官たちとニリアン卿のやりとりを説明してくれた。なるほど。そそくさと推論をまとめた私は、なるべくシンプルに自分の考えを口にする。
「審問会派は、最高の結果を獲得しそこないました。
ですが決して完全な失敗はしていません」
ザリナさんはフンフンと頷きながら、集中して私の言葉を聞く。
「彼らが狙った最高の結末は、ナオキはこの村に残るが、審問官らはナオキを監視できないという状況がやむを得ず発生することです。
理由はどうであれ彼らはナオキを強く疑っているのだけれど、彼ら自身がナオキを監禁するこの現状においては、この先で何が起ころうとも、ナオキの潔白を彼ら自身が証明してしまいます。
ですので、ニリアン卿と領民の名誉を貶めることで卿の激発を誘引し、『ニリアン領から出て行け』という言葉を引き出すというのが、彼らがとった戦術だったのだと思います。理想を言うなら、『この瞬間より、カミシロ・ナオキを我がニリアン領の領民として認める。貴君らが彼を捕縛したいというなら、明確な証拠を提示せよ。できぬならば、今すぐニリアン領を去れ』――ニリアン卿からこの言葉を引っ張り出せれば、彼らは100%の勝利を得ることができました」
ザリナさんは納得いったとばかりに大きく頷くと「なるほどなあ、さすがサンドラだぜ」と呟く。彼女に褒められると、かなり面映い。
「とはいえ、彼らは次善の勝利は達成しています。
ニリアン卿は『この村における事業を守るため、ナオキの監視を完璧に遂行することが必要』という譲歩をしました。審問官たちは、ニリアン卿から何一つ譲歩を勝ち取れなかったわけではないんです。
審問官たちにとって最大の弱点は、彼らはいまのところ2人しかいないということです。つまり、ナオキを監視するといっても、彼らだけでは限界があります。
彼らにしてみれば現状は、ナオキを監視する責任は自分たちにあるが、ナオキが監視の目を逃れて外部と通信することを完全に防ぐこともできないという、非常に悪い状況にあるんです。
ですので、監視の責任をニリアン卿と折半し、また監視のための人員も確保できるのであれば、ニリアン卿が下した決断は彼らにとって決してマイナスではありません」
ザリナさんは少し驚いたような顔になって「じゃあ何か、話し合いの最後で審問官どもが悔しそうにしてたのは、あれは芝居ってことか?」と聞いてきた。私は軽く肩をすくめて、その見解に同意する。
「審問官たちは、達成困難な最高の勝利を撒き餌にすることで、ニリアン卿という強敵から次善の勝利を勝ち取った。そう判断すべきだと思います。
実際、相手がニリアン卿でなければ、彼らは最高の勝利を獲得していた可能性が高いですね」
ザリナさんは何度も頷くと、「やっぱこういうのはサンドラに聞くに限るなあ。シーニーも頭はいいんだが、あんたはやっぱ段違いだ」とボヤく。私は苦笑しつつも、ザリナさんに手放しで賞賛された嬉しさで少し頬が上気するのを感じた。
「ありがとよ、サンドラ?
状況は理解できたし、そういうことならこっちもそういう対応ができる。
だからってんじゃあないんだが、もう1つ頼み事をしてもいいか?」
ザリナさんの頼みとあれば否はない。私が「なんでしょうか?」と尋ねると、彼女は半ば笑うようにして頼み事を語った。
「いやさ。なるべく早く、ナオキに会ってほしい。
話ができるかどうかはわからんし、話ができないとしても審問官の監視つきの面会になるだろうが、それでもあいつに会ってやってほしいんだ。
あたしから見れば何で今さらって思うんだが、あいつは相当参ってる。一発ヤればスッキリする程度のことなんだが、今はそういうわけにもいかん。となると、あたしじゃあ役に立たん。
今のあいつを奮い立たせられるのは、たぶん、あんただけだ。
無茶振りだと分かっちゃいるんだが、どうか、頼む」




