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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
嘘も100回言えば真実になるなら、真実とは何か
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アルール歴2181年 7月29日(+1日)

――ニリアン子爵の場合――

 ナオキを保護(・・)してきた審問会派の2人が私の執務室を訪れ、状況の説明に来たのは、彼らが村に戻ってきた次の朝のことだった。礼を失していると言えば礼を失しているが、昨日彼らが村に到着したのが日暮れ過ぎだったことを思えば、やむを得ないとも言える。もっとも、こちらとしてはその程度の虚礼の有無にどうこう言うつもりもないが。


 そして実際、翌朝に彼らが持ち出してきた論題は、礼儀がどうのというレベルの話題ではなかった。

 私は怒りを押し殺しながら、この村に事実上の死刑(・・)を申し渡した2人に向かってその真意を問いただす。


「大変申し訳無いが、歳をとったせいか耳が遠くなっておるようだ。

 もう一度、貴殿らの要求を聞かせてもらえるか?」


 カナリス特捜審問官は怒気をはらんだ言葉に臆することなく、同じことをもう一度繰り返した。


「ではもう一度お伝えします。

 ナオキには、300年前の大異端を元凶とする、信仰汚染の疑いが残っています。

 それゆえに、彼の思想調査が正式に完了し、信仰汚染がなされていないことが確認されるまでは、彼がニリアン領で始めた事業を停止して頂きたい。

 具体的に言えば、聖書の複製、及び、〈貧者の儀式〉の執行。

 なお同じ要望はユーリーン司祭にも伝えました。ユーリーン司祭に関しては、彼女が主宰する教会学校の一時的な閉校も提案しています」


 内心で沸騰しそうになる怒りを、懸命に堪える。この要求は無体(・・)などというレベルの要求ではない。

 ニリアン領の今年の財政は、竹簡聖書をデリク卿に納品することによる収入と、〈貧者の儀式〉による収量増大見込みを前提として組み立てられている。ゆえに、そのすべてを捨てろなどという要求を飲めば、ニリアン領の領民の半分は今年の冬を越せないだろう。

 そうなれば次の年にはニリアン領とは名ばかりの、4つの廃村が並ぶ無人の地が出来上がる。我が領民がいかに忠実で勤勉たりとて、確実な死を前にして逃散農民とならない理由などない。


「つまり諸君らは、すべてをもとに戻せ(・・・・・)と言いたいのか?

 それが何を意味するのか、理解しておらぬ諸君らではあるまいに!」


 私の反論に対し、ハルナ3級審問官がすっと手を挙げて発言する。


「ニリアン子爵。誤解が1つと、まだお伝えしていないことが1つあります。

 誤解に関して申し上げますと、これはあくまでご提案(・・・)であって、命令(・・)ではない、ということです。

 ただ、言葉を選んでも仕方ありませんから率直に脅迫(・・)させて頂きますと、ニリアン領に対する2つの事業の停止は、遠からず審問会派からの正式な要請となります。当然、帝都から審問会派の査察官も来ます。そうなったとき、既に事業が自主的に停止されていたのと、査察官の命令によって停止されたのでは、再開までにかかる時間が随分変わることが予想できます。

 それからもう1つ、お伝えしていないことがあります。

 シャレット家はニリアン領の経済的窮状に対し、全面的な支援をする準備があります。無論、ニリアン卿はデリク卿の陪臣でありますれば、シャレット家が直接的に支援するということにはなりませんが。

 そのあたりの政治的な建前はともかく、具体的に申し上げればこれまでニリアン領に対し中央教会から支給されている支援金を10倍に増額します。この支援は、聖書複製事業と〈貧者の儀式〉がニリアン領で再開される(・・・・・)まで継続されることを約束いたします」


 ハルナ3級審問官の提案は、理論という面だけで言えば完璧だった。

 このふざけた要請が、現場に出ている審問官による臨時の要請ではなく、審問会派としての要請だというなら、何もかも諦めて事業を手仕舞いすることで信仰心(・・・)があることを証明、しかるに連中の査察がとっとと終わることを祈るというのが最善手だ。

 そのうえ、この査察によって発生する半永久的な経済的損失――審問会派による査察を受けた聖書など誰が欲しがるか――については、シャレット家がこれを補償するという。

 支援金が10倍になれば、聖書や儀式を諦めても、そこまで劇的に領民の生活は悪化しない。数年は不満も出るだろうが、これまで通りに働き祈る限り日々の暮らしが安定するのであれば、やがてその不満は消えていくだろう。ナオキが来てからの数年、この我が領地では世界の果てにも似つかぬ騒ぎがあったが、それは泡沫の夢だったということ――それですべては丸く収まる。


 だがそれはあくまで、理論という面での話しだ。

 私は静かに笑うと、審問官たちを睨みつけた。


「なるほど。これはまた過分なご提案とご配慮を頂いたものだ。

 であれば、喜んでそのご厚意に預かる――と、言うとでも思いましたかな?」


 胸の内側で、猛々しい炎が渦巻くのを感じる。

 大貴族たちに媚びを売る父親の背中を見たときに感じた、鈍い色をした炎。

 自分が主導した改革(・・)が無残な破綻に終わったときに飲み込んだ、煮えたぎる黒い泥のような炎。

 生まれてすぐに死んだ赤子たちの名前を執務室の壁に刻んだあのときに抱いた、声にならぬ呻きのような炎。


「サンサの麓の世俗の地を預かり、またサンサに潜む異端との戦いの最前線に身を置く責任者として、正式に返答させていただく。

 私の解答はただ一つ。馬鹿め(・・・)、だ。

 たかが惰弱な商人の甘言によって儂が父祖伝来の名誉と信仰を過つとでも思ったか? 老骨と見て侮るのもほどほどにして頂こう。

 我らはなんら信仰に恥じることはしておらんし、この地におけるあらゆる事業を最終的に統括しているのはこの儂だ。査察官に、思想調査、大いに結構。儂は喜んで尋問を受けようではないか――貴君ら審問会派にその度胸があれば、だがな!」


 怒りに任せて切った啖呵だが、私としてもまったく勝算なしに怒りをぶちまけたわけではない。


 私は仮にも子爵であり、貴族社会の末端に席を置く。さしたる根拠や証拠もなしに私に対して思想調査をするということは、私の主家であるデリク家の権威に対して挑戦するということであり、それはつまり貴族社会の秩序に対して挑戦するということだ。普段はいがみ合っている八名家といえども(そして敵対する相手が審問会派といえども)、宗教世界からここまでいわれなき介入(・・)があるとなったら、さすがに黙ってはいるまい。

 それに、今回のように「異端の疑いがあるから事業を止めろ」という横暴が世俗の支配者に対しても自由自在に通るという前例が出来てしまえば、世俗社会は事実上、審問会派が牛耳ることになる。宗教世界においても派閥はあり、特にジャービトン派あたりは審問会派がその手の権益拡大(・・・・)を果たすことを決して望むまい。


 私の激発に対し、審問官たちは超然とした態度を崩さなかった。

 ハルナ3級審問官は、いたって静かな声で私に告げる。


「賢明な判断とは思いませんが、それがニリアン卿のご決定ということであれば、私からはこれ以上申し上げることはありません。

 ただ、ニリアン卿にご協力いただけないというのであれば、シャレット家を動かすことも叶いません。その点についても、よろしいのですね?」


 度重なる侮辱と脅迫に、胸の内で渦巻く炎が一気に爆発しそうになる。

 「痴れ者が、その首が胴とつながっているうちに、我が領地より去れ!」という言葉が、喉の奥からせり上がってくる。


 だがそのときふと、壁に刻んだ名前が目に入った。


 「お前はまたこれ(・・)を繰り返すのか?」という、サンサの山から吹き下ろす寒風のような冷たい声が脳内に響く。


 それから、ナオキの不躾な言葉をふと思い出す。


『真の恐怖とは、今を失うことではない。未来を失うことだ。

 ニリアン卿。あなたは、ニリアン家の未来を失うおつもりか』


 私と領民たちの誇りと、シャレット家による半永久的な保護。

 我々の未来(・・)は、そのどちらにあるのか。


『それは、ニリアン卿が並外れて強い人間だからこそ、持ち得た怒りだ。

 あなたはこの、村の形をした人間を飼う厩舎(・・・・・・・)にあって、それでもなお、尊厳ある人間としての怒りを失っていない』


 そうだ。たとえそれが一切の苦難なき未来であったとしても、この地を再び人間を飼う厩舎(・・・・・・・)に戻してはならない。それこそが世俗の管理を任された人間が指し示すべき、未来であるはずだ。


 けれどそうやって高まろうとする思いを吹き飛ばすかのように、「お前はまたこれ(・・)を繰り返すのか?」という醒めた声が体のあちこちを駆け巡る。


 ……決められぬ。


 決められるものか。


 なぜ私が――なぜ私だけが、こんな思いをしなくてはならない!?


 自分でも憤死しそうなほど情けない弱音を心の奥に押し込みながら、私は壁に刻まれた名前を睨みつけ、何度も口を開きかけては閉じ、開きかけては閉じた。


 だからそのときふと気づき(・・・)が降りてきたのは、純粋に幸運だったのだと思う。

 普段であれば、決して至り得なかった気づき。

 あまりにも巨大すぎて、違和感を抱くことすら忘れてしまうような、異常。


 改めて、私は壁の名前を睨む。

 私がこの気付きに至ったことを、審問官たちには悟られないほうがいい。

 これは、(いくさ)だ。

 否。戦というよりは、剣戟だ。

 騙し、惑わし、ときに力でねじ伏せ、ときに間合いを外す。剣と剣の、打ち合いだ。

 それゆえ、私は彼らの視線を誘導しなくてはならない。

 私の視線から、私の望む、「私の思考」を読み取らせねばならない。


 そして案の定、長い沈黙に耐えられなくなったハルナ3級審問官が、私の視線の先にあるものに目を向けた。彼女の鋭い視線は壁に刻まれた名前を読み取ったようで、その顔と瞳に理解の色が浮かぶ。

 その理解の空気(・・・・・)に釣られるように、カナリス特捜審問官もちらりと壁に刻まれた名前を見て、彼もまた私の躊躇を理解(・・)した。


 かくして稼ぎ出した貴重な数瞬の隙をついて、私は一気に違和感の正体に到達する。


 そう、彼らの言動は、何もかもがおかしい。

 何もかもがおかしいせいで、私は何がおかしいのかを考えることを放棄していた。


 そもそも彼らは、ダーヴの街に逃れていた大異端と戦う義務がある。何をどう考えたってこれは彼らにとって最優先任務であり、そして私にしても最大限の協力を惜しまない――場合によっては私自らが最前線に出るべき緊急事態だ。事実、それを可能にするための大号令、つまり聖戦の号令と儀式も既に終えている。

 だから異端の浸透をさほど心配せずに利用できる前線基地であるニリアン領は、少なくともダーヴの街の異端を焼き払うまでの間であれば、審問官たちにとっても円満な協力関係を構築したい相手であるはずなのだ。


 にも関わらず、彼らは異端との戦いへの協力要請よりも、ニリアン領でナオキが始めた事業の停止を中心的な論点に持ってきた。

 理屈としてはそれもあり得る(前線基地としたニリアン領が、実はナオキという異端によって汚染されていた、などということになったら目も当てられない)が、それならそれでこちらに配慮した提案はいくらでもできたはずだ。

 例えば「審問会派の駐屯地とするので、審問会派はその費用を払う。ナオキの思想調査は可及的速やかに行い、問題がなかったときは彼の名誉回復に全力を尽くすことで、できるだけ早急に事業の再開が可能なようにする。その間に発生した経済的損失については(ナオキが異端でなければ)審問会派が補填する」といった、具体的かつ現実的な提案を、彼らのようなエリート審問官が思いつかないはずがない。


 だが現実には、彼らが打ち出してきたのは非現実的かつ極端な提案と脅迫だ。

 しかも実務面を重視した言葉ではなく、あえて私や領民の名誉を傷つけるような言葉を選び抜いている。


 つまり。


 彼らは、意図的に私を怒らせようとしている。

 私が激発し、それこそ『痴れ者が、その首が胴とつながっているうちに、我が領地より去れ!』と叫ぶのを、待ち構えている。


 ではいったい、それはなぜか?


 ――いや、それを考える必要はない。

 そこまで見抜かなくても、この勝負(・・)には勝つことができる。

 人間、然るべき場所に刃を10センチ突き立てれば、それで死ぬ。

 首を刎ねずとも、人を殺すことはできるのだ。


 私はゆっくりと、カナリス特捜審問官に視線を戻す。彼の瞳に、一瞬だけ、「しまった」という後悔の色がよぎった。フン。まだまだ貴様のような若輩者に負けはせぬよ。


「審問官の方々にこれを指摘するのは実に気恥ずかしいが、この老骨にも思うことはある。

 御存知の通り、サンサ山の包囲から異端が漏れた(・・・)のは、これがまったくの初めてというわけではない。250年前に一度、よりによってダーヴの街の司祭が異端に取り込まれていたという事件が起こっておる」


 私がどこに話を着地させようとしているのか、審問官たちにはすぐにわかったようだ。ハルナ3級審問官の顔色が露骨に変わる。


「困ったことにこの事件は、その司祭の死後になって発覚した事件だった。

 ダーヴの街で彼が司祭を勤めた30年間、ダーヴの街では異端者が洗礼を施し、異端者が告解を聞き、異端者が祝福を授けていたのだ。

 では異端者によって洗礼を受けた赤子たちは皆、正しい洗礼を受けざる異端者となったのか?

 答えは否。

 聖フランシスが説いたように、神の威光はその媒介者の価値とは無関係に、唯一無二の光として地に満ちる。ゆえに、ダーヴの街において、かの異端の司祭が神の威光を広めた30年の間に生まれ洗礼を受けた子供たちを、全員異端として焼き払うといった悲劇も起きなかった。

 ここまで、儂の理解に誤りはあるか?」


 苦虫を噛み潰したような顔で、カナリス特捜審問官が首を横に振る。


「では、いま仮にナオキが異端であったとしよう。

 彼が主導してこの村で復活させた〈貧者の儀式〉は、そもそもそれを実際に執り行っているのはユーリーン司祭である。そしてたとえナオキが異端であったとしても、聖フランシスが説くがごとく、この地に豊穣をもたらした。

 ゆえに、ナオキに信仰の問題があるならば、ナオキを排除すればよい。

 彼が主導してこの村での生産が始まった竹簡聖書は、最終的な監修を行っているのはユーリーン司祭であり、またこの事業に共感してはるばる我が領地まで旅してきたヴェルディティウス派の修道士たちである。彼らが聖書と保証するものが聖書でなかったら、何が聖書なのだろうか?

 ゆえに、ここにおいてもナオキに信仰の問題があるならば、ナオキを排除すればよい。

 さて、ここまで、儂の理解に誤りはあるか?」


 ハルナ3級審問官は軽く天を仰ぎ、首を横に振る。


「ならば話は早い。

 ニリアン領は既に聖戦を宣言している。そして貴君らの献身的な働きにより、ダーヴの街にこそ我らが宿敵が潜んでいることがわかった。

 であれば、我らはただ、貴君らに全面的な協力をするのみ。代償など不要だし、経費の支払いも結構。300年に渡って我が領地に中央教会からの支援金が送られてきたのは、この日のためである。

 また、もしシャレット家がこの聖戦に共感し、個別に支援をしたいと思うのであれば、デリク卿に話しを通す必要などない。聖戦への支援は、家の上下を問わぬ。

 その上で、儂が我が領民の尊厳と未来を守るために、ナオキの徹底的な監視が必要であるということが、この討論(・・)で明らかになった。審問会派による思想調査は、儂から真っ先に受けよう。無論、すべての領民にも受けさせる。

 このプランに対し、貴君らの意見は?」


 審問官たちはしばらく沈黙していたが、やがてカナリス特捜審問官が「異議はありません」と言うと、立ち上がって右手を差し出してきた。私も立ち上がり、彼の右手を握る。彼の手は、歴戦の異端審問官らしい、武人の手だった。だが――まあ、まだ若い、な。


 だから私は彼らに、強めに釘を刺すことにした。


「良い結論に至れて良かった。やはり話し合い(・・・・)は大切だな。

 だが――次はもっと腹蔵なく、貴君らの望みをはっきりと言いたまえ。

 我々の敵は異端者だ。そして異端と戦ってきた時間だけで言えば、この中では私が最も長い。

 帝都での教育は素晴らしいものだが、老人の知恵と経験も、これはこれで馬鹿にしたものでもなかろう?」

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