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お前が神を殺したいなら、とあなたは言った  作者: ふじやま
嘘も100回言えば真実になるなら、真実とは何か
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アルール歴2181年 7月28日(+8日)

――カナリス特捜審問官の場合――

 重たい背嚢を床に置き、防具の類をラックにかけて、愛用の戦槌をその横に引っ掛ける。ニリアン卿の館はもともと要塞だった(今でも要塞だが)だけあって、この手の設備がしっかりしているのがありがたい。

 長らく使われていなかったであろう客間は重厚な作りで、しっくいが塗られた壁を叩いてみると中身にはレンガが詰まっている音がした。客間とは言うが、おそらくここは高級士官が籠城時に指揮をとるための部屋だったのではないだろうか。

 鎧下を脱いでハンガーにかけ、背嚢から清潔な下着を取り出して汗で湿った下着と着替えると、いくぶん気分がスッキリとした。今まで着ていた下着はまた洗って干しておく必要があり、審問官によってはそれに使う時間と水を「贅沢だ」と評する者もいるが、捜査が長期になればなるほど衛生の維持は重要になってくる。健康であることもまた、審問官にとっては重要な任務なのだ。


 ともあれ、いまは洗濯は後回しだ。それより先に、ハルナとの打ち合わせを済ませる必要がある。


 私が背後を振り返ると、ハルナは貫頭衣めいたシンプルなワンピースを頭から被り終えたところだった。3級審問官になりたての頃は私の着替えの速度に間に合わず、顔を赤らめながら狼狽えていたこともあったのが懐かしい。

 客間に用意されていた丸テーブルに着座すると、ハルナもまた私に向き合うように椅子に座った。


「さて、まずは君の報告を聞こう。

 ニリアン領まで護送する間、ナオキは外部との連絡をしていた形跡があったか?」


 ハルナは小さく頭を横に振る。


「私が観察している範囲で言えば、一切そのようなそぶりはなかったですね。

 食事を運んできたシーニーさんに対しても無言、馬車の外で護衛するザリナさんに対しても無言。もちろん彼らの間だけで通じる符丁はあるとは思いますが、どちらかと言えばナオキさんは外部との接触を自ら拒んでいるように見えました」


 なるほど。よほど周到な準備なしには、ハルナの目を欺くのは不可能だ。ナオキとその仲間たちの間にはその周到な準備(・・・・・)があると考えて間違いないが、今はその準備を活用しようとはしていない、と考えてよさそうだ。


「我々の一団を護衛してきた赤牙団の面々も、この村に到着するまでの間、メンバーの入れ替わりは一切なかった。ダーヴの街に向かった伝令もゼロ。こちらに到着する直前に、ニリアン卿に対する先触れの伝令が一騎走っただけだ。

 現状、ナオキの一党は情報的にダーヴと隔離できていると見なせる」


 ハルナはこくりと頷くと、テーブルの上に乗っていた干し柿を1つ、手に取った。


「で、師匠。これからどういう方針で行くんです?

 客観的に見れば、私たちはナオキさんに対してかなり優位に立ったと判断できます」


 そこまで言って、ハルナは干し柿を一口齧った。


「――とはいえ、これまた客観的に見ると、私たちはダーヴの街に蔓延する300年級の大異端をどう炙り出し、どう根絶するのか、明確な方針が示せているとは言いかねます。

 師匠がニリアン卿との正式な打ち合わせを明日に設定したのも、このあたりを一度詰めておきたかったからですよね? あ、この干し柿めっちゃ美味しいです。師匠も是非。うわこれヤバい。おみやげはこれにしよっと」


 ハルナに促されるがまま、私も卓上の干し柿を1つ取る。この村ではかつて干し柿が名産品だった(最近では言うまでもなく〈貧者の聖書〉だ)というが、確かにこれは他では見ない、透き通ったオレンジ色をしている。


「ダーヴの街における異端との戦いにあたっては、我々だけでは手が足りないのは明白だ。

 ゆえに再び審問会派の緊急通信を用い、帝都に対して援軍の大動員を要請する。

 300年前にサンサ山中に封じられたはずの異端が、ダーヴの街で発見されたのだ。緊急通信も大動員も、これ以上の必要なとき(・・・・・)はあるまい。

 従って我々の表向きの目標は1つ。審問会派の主力がダーヴの街に到着するまでの間に、ケイラスをどこかに逃さないことだ。これにしくじっているようでは話にならん」


 言いながら、干し柿を一口齧ってみる。確かにこれは、実に素晴らしい干し柿だ。

 こんな優れた名産品があるなら、竹簡聖書などに頼らずともよいだろうに。


「ケイラスを逃さないため、ケイラスに対し異端の疑い(・・・・・)をもって正式な召喚と訴追を発表する。

 もちろん、ダーヴでの発表は一番最後だ。周辺都市で先に発表し、逃走ルートを塞いでから、ダーヴの街で発表する。

 ダーヴの街にどれほど異端が深く浸透していようとも、『普通の善良な市民』の群れからは逃れられん。もし逃走が成功するとしたら、エロナ港からの海路以外にはあり得んだろうな」


 ハルナは干し柿を齧りつつ、器用に相槌をうつ。


「で、エロナ港の積み荷と旅客の検査には赤牙団を動員する、と。

 ナオキさん的にも赤牙団的にもこれでケイラス司祭を逃がしたら『やっぱりグルだったか』でアウトだから、こっちに全面協力するしかないですもんね。

 それに、ナオキさんがケイラス司祭を嫌ってるのはガチっぽいですし、敵の敵として利用するにはバッチリだと思います」


 さすがは八名家のパワーバランスを崩すと恐れられた神童、ハルナ・シャレットだけのことはある。いちいち説明せずとも、彼女は私のプランをほぼ見通しているようだ。事実、私としても彼女と話し合うことで、自分のプランに瑕疵がないかを確認したかったという気持ちは強い。


「表向きの問題はそれでほぼ解決だ。

 問題は裏の事情だな。こちらのほうが、ずっと厄介だ」


 ハルナは強くうなずき返す。


「ナオキさん問題ですね。私もそれには思いっきり同感です。

 さっきも言いましたけど、ナオキさんに対して優位に立ったのは事実ですけど、それって半分はナオキさんとか赤牙団に協力させるための手段(・・)ですもんねえ」


 ハルナの指摘する通りだ。

 利害が一致するかどうか極めて不透明な相手――つまり今回の場合はナオキ――と交渉するのであれば、相手の弱みにつけこみ、まずは徹底的に叩きのめすしかない。譲歩(・・)だの協調(・・)だのは、叩きのめされた相手が自分の生存のために持ち出すカードであって、最初からテーブルに乗せるカードではない。

 当然、ナオキだってそれは熟知しているだろう。だから私のプランを聞けば、彼は絶対に「赤牙団を使ってエロナ港の臨検をしましょう」と言い出す。ここまでは、我々から見ても悪くない展開だ。あくまで、ここまでは。


 問題の厄介さに思わず黙り込んだ私に代わって、ハルナが言葉を続ける。


「ナオキさんは、強敵だと言うしかないです。あー、その、一応公平を期して言えば、ヤバい(・・・)相手です。敵かどうかは今の材料からは断言できませんしね。

 師匠も気づいてると思いますが、ナオキさんがこの村で主導してる改革(・・)が、なにひとつ失敗らしき失敗もせずに、無駄なく前進し続けてるってのがまず怪しいですよ。こんなの怪しすぎです。常識的に言ってあり得ない。

 その上、例の早朝ミーティングで師匠に問い詰められたときも、まったく嘘をつきませんでしたよね。あれだってあり得ない。普通の人は、異端審問官に、それも師匠みたいなコワモテに直接尋問されたら、どもったり、とっさに小さな嘘をつこうとしたり、首尾一貫しないことを言い出したりするものです。ビビリますもん、普通なら。

 でもナオキさんは、あまりにも自然に、滑らかに、まったく矛盾のない証言をし続けました。事前にどんな質問がありえるかを想定して、たっぷり練習してきたんじゃなきゃ、あんなのはあり得ない。

 多分、これがナオキさん唯一の弱点なんだと思います。あの人は抜け作に見えますけど、ここぞという場面では、絶対に失敗しない。そのこと自体が、弱点なんです」


 ハルナの指摘は――私がコワモテであるとかその手の些細な論点を除けば――まったくもって正しい。失敗のない改革はもちろん、特捜審問官を前にして一介の商売人が(しかも重大な被疑者であるケイラス司祭に同志(・・)呼ばわりされているという窮状にあるにも関わらず)ああも自然に供述し続けられるなど、普通ではあり得ない。


 だがそうなると、2つの問題が発生する。

 そしてその2つについても、ハルナの熱弁は続いた。


「もちろん、そうなると問題が2つ出ます。

 1つめ。失敗しない(・・・・・)ナオキさんが、なぜここにきて300年ものの大異端との繋がりを懸念されるような物的証拠を我々に見せた(・・・)のか。

 ナオキ商会の内部に潜り込んだ、ケイラス司祭の内通者を捕らえる場面を、わざわざ私に変装させてまでこちらに見せた(・・・・・・・)のは、ナオキさん自身です。もちろんナオキさんからの提案がなければ私から同じような作戦を提案しましたが、それにしたってやりすぎ(・・・・)でしょう。

 ほぼほぼ疑いなく、彼は私たちに重要参考人として移送されることを望んだんです。じゃあ、その理由はなぜか」


 一気にまくしたてたハルナは、「ふう」とわざとらしい一息をつくと、干し柿を齧った。

 私は渋々、ハルナの言葉を引き継ぐ。


「理由は1つしか考えられない。

 ナオキはこれから起こる何か(・・)に際し、『審問会派の完璧な監視下にいた』という事実を欲している。

 異端の蔓延が疑われるとき、審問会派に拘束され監視されていたということ以上に、身の潔白を証す方法はないからな」


 苦々しい思いを飲み込みながら、濃厚で上品な甘みを持つ干し柿を一口。摂取した糖分が脳の働きを活性化する、ような気がする。


「帝都から援軍が来た段階でナオキさんを捜査の前線に――具体的に言えばダーヴの街に呼び出して、そこで協力して(・・・・)捜査を進める、というのはどうです?

 これならアリバイは崩れますし、ナオキさんが何かを仕掛けてきたとしても、さすがに審問会派の主力派遣部隊相手じゃあ勝負にならないと思うんですが」


 それは私も考えはした。しかし遺憾ながら、採用できない戦術だ。


「不可能ではない選択肢だが、極めて望ましくない選択肢でもある。

 よく聞け、ハルナ3級審問官。確かに我々にとってこの捜査は最後の捜査(・・・・・)となる可能性を秘めている。異端審問官とはそういう仕事だ。

 だが審問会派にとって、これは決して最後の捜査ではない。これから何千年にも渡って、我らの後に続く審問会派の戦いは続いていくのだ。

 もとより協力的だった市民を無理に拘束し、こちらの都合で解放し、そして再び拘束するということをしていては、審問会派に対して協力を惜しまない善良な信徒たちの信頼を損ねることになる。『審問会派は異端を狩るためであれば協力者を騙して使い捨てることすらやってのける』という噂は、特に今回のような大きな捜査においては、絶対に回避すべきだ。

 そうやって審問会派の信頼についた傷は、場合によっては100年かかっても拭い去れん」


 ハルナは干し柿を皿に戻すと、反射的に何かを言おうとして、その言葉を飲み込んだ。

 代わりに一瞬の沈黙の後、その可憐な唇から、震える声で質問が投げかけられた。


「……では2つ目の問題です。

 このまま万事上手く進めば、ケイラス司祭とそれに付随する大異端の尻尾を掴み、300年以上に渡るサンサの異端との戦いに大きな前進、ないし場合によっては終結をもたらし得るでしょう。

 でもそうなると極めて高い確率で、ナオキさんたちを無罪放免することになります。そうなる(・・・・)ために、いまあの人はここ(・・)にいる。でしょう?

 おそらく、ケイラス司祭やサンサの異端は、ナオキさんにとっても敵なんです。このままでは、私たちはナオキさんの敵を全力で排除してあげた挙句、彼を野放しにしてしまう。師匠はそれもやむなし(・・・・・・・)と考えてるんですか?」


 一直線の問いに、私は一瞬、目を閉じる。

 そうだ。まさにそこを、私は決めかねていた。だから今夜のうちにニリアン卿に「今後の予定」を話せなかったし、ハルナと打ち合わせの時間を持ちたいと思ったのもそれが核心だ。


 これは決して、簡単な問題ではない。

 なにしろケイラスがサンサの大異端となんらか繋がりがあるというのは教会の政治(・・)を揺るがす一大事だ(ケイラスを司祭に就任させた関係者の誰かは殉教を求められるだろうし、「誰が詰め腹を切るか」は派閥内での政治抗争に直結する)。また、ダーヴの街がサンサの大異端に深く汚染されているという事態は、解決すれば審問会派の歴史に残るような偉業となる。

 とはいえ、これらの問題をすべて完全に解決するとなると、私はもちろん、ハルナの天寿を使い切ったとしても、到達し得ぬ大業となるだろう。短く見積もって150年――それが現実的な数字だ。


 そうなったとき、「あまりに完璧である」以外に訴追できる要素を持っていないナオキを追い込めるかと言われれば、「そんなことをしている暇があったらダーヴの街の正常化を急げ」と教会各派から圧力がかかるのは必至だろう。

 まあ、ジャービトン派はニリアン領における各種改革を「異端として焼け」と姦しいから、そのあたりを上手く利用できればナオキを最後まで追い込める可能性もある。だが身内から大異端を出すことになるジャービトン派(ケイラス司祭はジャービトン派だ)が、ニリアン領における非の打ち所のない(・・・・・・・・)改革を吊るし上げられるほどの政治力を維持できるかとなると、極めて怪しい。


 その上でさらに考えねばならないのは、本当にナオキは異端に関与しているのかという、抜本的な疑問だ。


 異端審問官は神以外のすべてを疑うのが仕事だが、すべてを疑うからには、今はもうこれ以上には疑わないという基準を持つことも欠かせない。極論言えば「自分は既に異端思想に汚染されてしまったのでは?」という疑いを持つことも必要になるのがこの仕事であれば、「まだ自分は大丈夫だ」とする指標を持たねば任務を遂行し続けられないのだ。


 そして今のところ、ナオキは「異端からはあまりにもかけ離れている」と判断するしかない。

 ダーヴの賭博王と呼ばれていた頃、彼はダーヴの街の賭博ビジネスを比較的クリーンなものとして作り変え、賭博の利益とシステムを使って地域の伝統的な神事を復活させてみせた。

 ニリアン領の改革に着手してからは〈貧者の儀式〉を復活させたのみならず、〈貧者の聖書〉を通じて貧しい農民にもより深く教理を理解させるなど、むしろ聖人の行いと言うべき善行を(しかもあくまで既存のシステムの内部で持続可能な仕組みを作りながら)積んでいる。


 つまり、「異常な能力を持つが、信仰心に篤い信徒」というのが、彼に対する最も妥当な評価なのだ。実際に彼と向き合うと絶対に信じられない評価ではあるが、その著しいギャップも含めて、「彼はそういう人物なのだ」としか言いようがない。


 異常なだけで異端として罰しうるかとなれば、当然ながら答えはノーだ。それならばハルナだって異端として罰せられるだろうし、実際のところその基準で行けば私自身もわりと危ないという自覚はある。

 ゆえに、ナオキもまた審問会派が罰するべき要素を持たない――従業員に異端者がいたというのは大きな傷だが、彼自身の思想調査を行って汚染が確認されなければ、罰金+厳重注意+教会でのボランティア活動といったあたりが妥当な「罰」となる。既にユーリーン司祭の教会でたっぷりボランティア活動をしている彼にしてみれば、罰でもなんでもあるまい。


 だから、私の結論は1つ。ナオキを無罪放免するもやむなし(・・・・)


 そしてそれゆえに、私はたった一人の弟子に向かって問いかける。


「ハルナ3級審問官。君はナオキが異端であることに確信を持っているように見える。

 だが彼を異端として罰するには、この後の正式な思想調査でクロと出ない限りは、まずその要件が満たされない。そのことは君も理解しているはずだ、違うか?」


 私の問いに対し、ハルナは机を叩いて立ち上がった。その瞳は憤怒に燃え、激しい感情が小さな肩を揺らしている。


「教会が誰かを罰したいとき、そこに理由なんて必要なんですか!?

 正当な手続きなんて必要なんですか!?

 そんなの必要じゃないですよね!? 本当に必要だっていうなら、おじいちゃんは――コーイン司祭は死ななかったはずです。違いますか!?」


 ハルナのその主張に、私は100でも200でも反論を立てることができた。

 だが私は、直弟子が感情のままに絶叫するその姿に――おそらく、見とれていた。

 激情のまま、涙が溢れるのを隠そうともせず、私に向かってあたりちらすハルナの姿に、魅了されていた。


「おじいちゃんには、責任をとって死ぬべき罪なんてなかった。

 絶対に、絶対に、絶対に、そんな罪なんてなかった!

 でも教会は! 教会が、おじいちゃんの命を支払う(・・・)ことにした!

 教会のメンツのために! ただ、それだけのために! 罪でも、罰でもなく、おじいちゃんはただ、取り引き(・・・・)の材料として、殺されたんです!」


 ハルナが見習い時代から神の超越的無謬説に固執するのはこれが理由だということには、だいぶ前に気づいていた。

 ハルナの祖父は、啓示を解釈する賢人会議の末席にいたがゆえ、その解釈が間違っていることが明らかになったとき殉教を強いられた。神の完全無謬説(神は絶対に間違えず、間違えるとしたら神の啓示を解釈した司祭の間違えであるとする説)が現在の主流である以上、啓示の解釈が間違っていたときは誰かがその責任を取らねばならない。

 だが超越的無謬説――神が何かを間違ったように思えても、それは人間には想像もできない神の采配の一部であって、より大きな正しさ(・・・)の一部であるという説――は、世俗の司祭たちが神の啓示の解釈を間違えたとされる(・・・)可能性を大幅に減らす。 


「なのに、そこらの商人の1人程度、理由なく殺すことができないはずがないでしょう!?

 ナオキさんは危険です。極めて!

 何がなんでも、どんな横車を押してでも、彼をここで異端として殺す必要があるんです!」


 肩で息をしながら叫ぶ弟子の顔を、私はじっと見つめる。

 それから、静かに問いを発した。


「ハルナ。君はなぜ、ナオキが異端であるという堅固な確信を抱いている?

 そこがはっきりしない限り、私は判断できない」


 私の問いに対し、ハルナは一度深々と深呼吸した。

 そして半泣きのまま、彼女は己の見解を示してみせる。


「――おじいちゃんが……いえ、コーイン司祭が殺される――殉教する前の日に、私だけに語ってくれたことがあるんです。

『地にあまねく信徒がみな聖書を読み、神の教えを自らの頭で理解するようになったとしよう。ハルナはそんな未来が幸福であると信じるかい?』

 何の資料にも残っていませんが、それがコーイン司祭の最後の説法でした。

 そしてこの問いは、信徒に対して常になにがしかの答えを――ときにそれは複数の矛盾した答えであったりもしましたが――示してくれたコーイン司祭の説法の中で、たった一つだけ、明確な答えを示してくれなかった問いなんです。

 誰もが聖書を読み、自分で教理を理解する。そんな世界、私にだって想像すらできません。そんな可能性があることすら、おじいちゃんに示唆されるまで思いつきもしなかった。

 でも、おじいちゃんはそういう世界を知っていた(・・・・・)。そしてそういう世界が幸福であるかどうか、明言しなかった――あるいは明言できなかった(・・・・・・)んです」


 私は自分の背中に冷たいものが流れるのを感じた。


「誰もが聖書を読み、自分で教理を理解する世界。

 それって、ナオキさんがもたらそうとしてる世界そのものじゃあないんですか?

 ナオキさんは、おじいちゃんが教えてくれた『大きな嘘を何度でも繰り返せば、最後には人はそれを信じるようになる』という格言を知っています。だったら、おじいちゃんが結論を躊躇った『そんな未来が幸福か』というところにだって、ある程度まで確信があるんじゃあないんでしょうか。

 師匠。私も、ナオキさんが異端かどうか、分かりません。

 でもこれだけは言える。

 ナオキさんは、危険です。あの人はおじいちゃんでさえその幸福を確信できない不確かな未来に向かって、世界を進めようとしています。『誰もが聖書を読み、自分で教理を理解する世界』へと、大急ぎで世界を作り変えようとしているんです」


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