アルール歴2181年 7月19日(+1日)
――ザリナの場合――
最近のナオキはずっと、心ここにあらずといった雰囲気を漂わせている。いくらなんでも働きすぎなんじゃないかと思ったから、久々にちょっと良いレストランでの夕食に連れ出して(払いはナオキ持ち)うまい飯と酒を堪能して、行き掛けの駄賃で連れ込み宿に押し込んで(払いはナオキ持ち)一戦交えてみたが、一戦終わった後もナオキはここではないどこかを見ているような目でぼうっと天井を見ている。
試しに自腹でルームサービスを頼んでみたが相変わらずナオキは憂鬱そうなままなので、カネの問題が発生しているわけでもないようだ。まぁ、あたしとしては別にナオキだけが愛人じゃあないから、彼がどうにも鬱陶しい空気を漂わせているならシーニーあたりで遊べばいいだけなんだが、それはそうとして雇い主の精神状態が芳しくないというのは、とても喜べる状況ではない。
あたしは内心でため息をつきながら、ルームサービスの蜂蜜酒を瓶からぐっと煽る。相変わらず、必要以上に甘ったるい酒だ。
「ナオキ。最近のあんた、変だぞ。
喋れないことが多いのは知ってるが、試しに喋れる範囲であたしに喋ってみろよ。
アホに向かって自分の悩みを説明するってのは、いいもんだぞ? 自分の悩みなんてものは、目の前のアホのアホさ加減に比べりゃ大したものじゃないって気づくことも多いからな」
ナオキは苦笑すると、あたしの手から蜂蜜酒のボトルを奪い取り、一口煽った。
「――喋れないこと、ってわけじゃあないんだよ。
ただ……説明するのが極端に難しい。それが問題なんだ」
相変わらず面倒くさい男だ。
「面倒くさいな。アレだろ。あんたの悩みの種は、ケイラスの野郎だ。違うか?
あんなクズ野郎、じきに尻尾を出すさ。わざわざ帝都から異端審問官まで出張ってるんだ。尻尾を出したが最後即決で火あぶりになって、問題は解決。それ以外に何かあるのか、この話に?」
ナオキは小さく頭を振る。
「悩みのタネがケイラスだってのは、そのとおりさ。
だが、どうかな……今のところケイラスは俺たちの上手を行っている。俺は自分に使えるあらゆるルートを使ってケイラスを探しているが、奴の居所はまるで闇の中だ。
異端審問官だって、昨日のアレを見るに、ケイラスに手球にとられてる。シーニーがあんなに綺麗に指揮らなかったら、救出は間に合わなかっただろう?」
あたしは苦々しい思いを噛み殺しながら、頷く。
昨日、スラム街に誘い出されたカナリスとハルナは重度のヤク中どもに奇襲され、ほとんど死にかけた。彼らが持っていた短剣では、痛みを無視して襲ってくるヤク中どもを撃退するには、あまりにも重さが足りなかったのだ。
シーニー以外が指揮を取っていたらあんなに早く2人を発見できなかっただろうし、司令室に待機させていた予備を一気に投入する決断力がなかったら、ヤク中の群れに単騎で突っ込んだあたしも危なかったかもしれない。
だが、問題はそれだけではなかったようだ。
「襲撃だけが問題なんじゃあない。コイツを見てくれ」
彼は脱ぎ捨てた上着を拾うと、隠しポケットから封筒を取り出した。
宛先はカミシロ・ナオキ。差出人はギルバート……ケイラス!?
「夕方さ、お前が突然『暁屋で晩飯にしよう』って言い出したじゃないか。まぁ俺もちょっと疲れ気味ってか、神経質になりすぎてるなと思ったし、久々に休みにするかと思ったわけよ。
折角の暁屋だし、お前とサシで晩飯ってのも久々だし、ちょっとばかりお前を驚かせようかと思って、一度執務室を出て、会社のロッカーに置きっぱにしてるフォーマルな上着を取りに行ったのさ。
で、執務室に戻ってきたら、机の上にコイツが置いてあった。ふざけた話だ。俺はすっかりケイラスに舐められてる」
あたしは慎重に封筒の表裏を改め、軽く匂いを嗅ぐ。もしそういう仕掛けがあったら完全に手遅れだが、どうやら毒の類が塗られている気配はない。だがもしこの封筒にそういう仕掛けがあったなら、今頃ナオキは死体になってたってことだ。クソが。舐めやがって。
「仕掛けはなかったよ。さすがに俺もそれくらいは確認する」
馬鹿ナオキめ。そういう問題じゃないだろうが。こんなヤバいブツを見つけたなら、すぐにあたしを呼べよ。
「……なんでその場であたしを呼ばなかった?」
不機嫌を全力で声に乗せながら、ナオキを問い詰める。
「だってさ、こんなものが見つかったって騒ぎになりゃあ、せっかくのお前とのディナーがまた何ヶ月も先になるだろ? ケイラスの野郎に舐められるのは不愉快だが、ケイラスのせいで俺のプライベートを潰されるのはもっと我慢ならん」
あたしは呆れたあまり、思わず笑ってしまう。まったく。
「中身を読むぞ?」
封筒の中身を抜き出しつつ、事後承認的に確認する。ナオキの護衛として、これを看過するわけにはいかない。ナオキは「構わんさ」と言うと、蜂蜜酒を呷った。
封筒の中には、えらく薄い羊皮紙が入っていた――いや、これは羊皮紙じゃないな。革の匂いがしない。何だろう、これは? ちょっと原材料の想像がつかない。ともあれとにかく薄くて、白い。厚さも均一だし、これだけで芸術品と言っても通じるレベルだ。
謎の紙には、綺麗な文字で短い言葉が書かれていた。
『親愛なる友へ
嘘も100回言えば真実になる。
君はゲッベルスにでもなったつもりかい?
――同志ケイラス』
あたしは思わずため息をついていた。
「――厄介な手紙をもらったもんだな」
ナオキは薄く笑う。
「まあな。俺としては『こんな手紙をもらいました』と、カナリスに見せるしかない。こっそり処分しようものなら、次はカナリスの部屋に『ナオキが僕からの手紙を君に秘密で処分したんだけど』みたいな手紙が届きかねん」
その言葉に思わずムカっとして、怒鳴りそうになる。
ナオキにそういうつもりはないんだろうが、あたしにしてみるとその物言いは「お前が無能だから、ケイラスの手下に好き放題侵入されている」という批判そのものだ。
でも普段のナオキなら絶対にそんなことは言い出さないわけで、それだけ彼は消耗しているということなのだろう。だからあたしは、やんわりと彼の言葉を咎めるだけにしておく。
「ともあれ、侵入者か内通者がいることは間違いない。
明日一番で、シーニーと対策を練る。悪いが、追加で予算をつけてもらうことになるかもしれん」
そこまで言ってようやく、ナオキは自分の失言に思い至ったようだ。彼は慌てて「すまん、そういうつもりじゃなかった」と言うと、深々と頭を下げた。
「で、だ。
このゲッベルスってのは誰だ?」
あたしの問いかけに、ナオキは困ったような顔をした。
「それもまた説明が難しい――まあ、そうだな……俺と同郷の人間だ。同郷といっても住んでる場所はだいぶ違うし、俺が生まれた頃にはとうに死んでたがね。
ま、その筋ではちょっとした有名人だよ。宣伝のプロだったが、歴史に名前を残すくらいにとんでもないことをいくつもしでかした。俺なんかよりずっと能力がある、大悪党だ。俺じゃあ逆立ちしたってゲッベルスにはなれんし、なりたいとも思わん」
またしても、思わず笑ってしまう。勘弁してくれよ、ナオキ。いくらなんでもショックを受け過ぎだろう。
「ナオキ。カナリスにこの手紙を見せれば、カナリスも同じことを聞いてくるぞ?
そこであんたは『ゲッベルスってのは自分と同郷の悪党です』とでも言うつもりか?
もしそんなことを言おうものなら、そのゲッペルズとやらを知ってるケイラスと、あんたの間にも、一定以上のつながりがあるってことになる。まさに『同志』ってやつだ。
そうなったら最後、どんな言い訳をしても無駄だぞ?」
あたしの指摘に、ナオキは「今気づいた」と言わんばかりの顔をする。
「とにかく、あんたは明日までに、カナリスに向かってどういう説明をするかを考えろ。それが最優先だ。あたしが言うのも何だが、カナリスばっかりを意識すれば、ハルナに足元をすくわれるぞ。普段のあんたみたいに、なんでもいいからしれっと嘘をつきとおせ」
ナオキは「普段からそんなに嘘ばかり言ってるつもりもないんだがな」と苦笑しながら、あたしの提案を受け入れた。
「俺としては、審問官よりケイラスのほうが難問なんだよ。
カナリスもハルナも、おっそろしく有能だが、目的ははっきりしてる。だから手もうちやすい。
だがケイラスは能力も測りきれないし、目的に至ってはまるで見当がつかない。いくつか想像はしてみたんだが、今回の手紙も含めて、奴の行動はあまりにも支離滅裂だ。敵なのか味方なのか、それとも実は俺とは何の関係もないのか、まるで分からん。対策の打ちようがない」
ふうむ。あたしは少し、鼻白む。
あたしにしてみると、ケイラスの目的なんて明白なんだけどな。
「あんた、それマジで言ってるのか?
ケイラスの目的なんて、簡単じゃあないか」
ぎょっとしたような顔で、ナオキがあたしを見る。
「確かに今のところ、あいつは上手く姿を隠してる。
シーニーが律儀に守ってる事務所に内通者なり侵入者なりを送り込んできたのも、大したもんだ。
だがよ、ケイラスが姿を隠してるってのは、紛れもない事実じゃないか。
別段あいつは、すごく上手くやれてるわけじゃあない。本当に上手くやれてるんなら、そもそも隠れる必要なんてないはずだ」
あたしの言葉を聞いたナオキは、「言われてみればその通り、か」と呟いた。彼の汗から困惑と弱気の匂いが減って、怒りの匂いが立ち込め始める。良い傾向だ。男の子は、そうじゃなきゃいけない。
「で、だ。じゃあ、ケイラスの目的は何なのか?
答えは簡単、目的なんてないんだよ。
あいつは放蕩司祭っていうキャラを捨てて、改心した信心深い司祭っていうキャラに切り替えてみたけど、その次に選んだのは行方不明になった司祭っていう、キャラにもなってないキャラだ。理由や経緯は知らんが、あいつは何かに追い詰められて、身を隠したってわけだ。なのに、未だに逃げることもできてない。
要は、あいつはただ単にケツに火がついて、慌ててるだけなんだよ。
その手紙が、証拠さ。敵対したいのか懐柔したいのかもはっきりしない、脅迫ともなんとも言えない文言。リスクとコストを払ってわざわざ手紙をあんたの執務室にまで届けたのに、手紙の中身は思わせぶりなだけで何の内容もない。手紙に毒を仕掛けてあんたを殺そうとする度胸もなきゃ、おそらくは大量に抱えてるであろう麻薬を同封してあんたに罪を被せる悪知恵もない。
あたしが保証してやるよ。ケイラスは、追い込まれて慌てふためいた腐れインテリの、典型だ。
ああいう手合いは喧嘩の仕方を知らない。だからいざ追い込まれると、こんな感じで『自分はこんな気の利いたことが言えるくらい、頭がいいです』って主張し始める。自分は強いんだぞってのを主張する方法を、それ以外に知らないんだ」
あたしの長台詞を黙って聞いていたナオキは、目を閉じると何度もゆっくりと深呼吸した。
それから、肚を決めたといった風情で目を開く。
「なるほどな。確かに、それで何もかも筋が通る。何もかもだ。
助かったぜ、ザリナ。俺はケイラスを過大評価してた。
だが――ああ、間違いない。これで……これで、戦える」
自分に言い聞かせるように何度も「これで戦える」を繰り返すナオキを、あたしは頼もしく思った。「これで勝てる」と言わないあたりが実にまたナオキらしいし、ナオキはそれでいい。
だからあたしは、ナオキをベッドに押し倒す。「おい、俺は今から仕事を……」と抗議の声が漏れかけたが、素早く唇を奪って黙らせた。ナオキは普段より長めに抵抗しようとしたが、やがて諦めてあたしの舌を受け入れる。
たっぷり数分に渡ってナオキの口の中を犯したあと、あたしは改めて彼の上に馬乗りになった。
「今から仕事だなんて、馬鹿なことを考えるな。
あんたはまだまだ弱気になってる。あたしみたいな馬鹿が言ったことを真に受けるあたり、弱気にもほどがある。
あんたに必要なのは、まずはあんたの内側でグズグズしてるよくわかんないものを、やりすごしちまうことさ。
ケイラスのことを考えるのも、カナリスのことを考えるのも、なにもかもその後だ。いまのあんたじゃ、それこそケイラスの思う壺だぜ?」
ナオキは小さく笑うと、「そうかもしれんな」と呟いた。
「その手のグズグズをやりすごす方法なんて、昔から決まってる。
1つ、酒を飲みながらアホを相手にバカ話をする。
2つ、後先考えずにセックスする。
あたしのオススメは、2つめだ」




