アルール歴2181年 6月2日(+36日)
――カナリス特捜審問官の場合――
審問会派のみが使える緊急通信によって、サンサ教区から手紙が届いたのが5月10日。ハルナ・シャレット名義のその手紙は、なるほど緊急通信を使うべき内容だった。緊急通信というのは領主が教会に対して負う義務のひとつで、これを受け取った領主は定められた次の領主に対し万難を排してかつ最速の手段で通信文を届けねばならない。
緊急通信のために各地の領主が使った費用は最終的に教会から補填されるので、手紙一本のために軽くめまいがするくらいカネがかかることになるが、このシステムによって異端者たちの先手を打てた事例も多い。なにせこれより早い情報伝達手段は狼煙を用いたネットワークしか存在せず、これは原則として帝国が地方において発生した反乱をいち早く察知すること以外には使用を禁じられているからだ。
手紙を受け取ったその日のうちに帝都を出て(本当は実行部隊である特別行動班も連れて行きたかったが、完璧なまでの官僚主義の壁に阻まれた)、最優先旅客切符を持ってダーヴの街へと向かったが、なんのかんので街に到着するのに3週間が必要となった。普通に旅をすれば45日程度の行程を半分以下の時間で移動できたのだから上出来と言えば上出来だが、1分1秒を争うような事態において、この3週間は恐ろしく長かった。
強行軍に次ぐ強行軍を繰り返してダーヴの街に到着した私は、その足でハルナが活動拠点としている地元の商会へと向かった。
本来であれば街の教会を拠点とするのだが、今回は教区の聖職者が異端に汚染されている可能性が高いうえ、ダーヴの街を管理するエルネスト男爵がまったく信用できないため、民間人の協力を得るしかない。
ナオキ商会という看板を掲げた小さな(しかし明らかにちょっとした防衛拠点並みの堅牢さを備えた)事務所を訪れた私は、何人かに身分の照会をされた後、応接間に通された。応接間ではうだつの上がらなさそうな男と、バラディスタン人の護衛とおぼしき女、それからハルナが待っていた。
ハルナとはほとんど1年ぶりの再会になるが、彼女は良くも悪くも変わっておらず、私としては喜んでいいのか嘆いていいのか判断に苦しむところだ。ともあれ私はまずハルナに目配せしてから、上座に座っている男に挨拶した。
「私は審問会派の特捜審問官、カナリスだ。
あなたがナオキ氏だな? ハルナ3級審問官を庇護してくれていると聞いている。
市民の献身的な協力に、深く感謝する」
上座の男は立ち上がると、私に向かってペコペコと頭を下げた。
「こちらこそ、はるばる帝都からお疲れ様です。
私がナオキです。この街を拠点に、しがない商売人をしております。どうか敬称ぬきに、ナオキとお呼びください。
審問会派の皆様のお力になれるのは、光栄の至りです。微力を尽くさせていただきますので、なんなりとお申し付けください」
私に向かって何度も頭を下げるナオキを見て、なんとも慇懃無礼な男だなと思いはしたが、当面の問題は彼ではない。私はまず、ハルナに状況の報告を促した。
「手紙を出した頃から、状況に大きな変化はありません。
麻薬はいまもダーヴの街を汚染し続けています。
麻薬の流入経路は不明。
ケイラス司祭も行方不明のままです。
2つ、悪い情報の追加があります。
1つめ。デリク伯爵の次男であるエミル氏の行方もわかっていません。
2つめ。失踪したケイラス司祭を探すという名目で、ダーヴ教会と、エロナ港にあるケイラス司祭の別荘を強制捜査しましたが、麻薬の形跡はまったくありませんでした」
ふむ。私は腕組みし、しばし考える。それから何気なくハルナに声をかけようとして、思いとどまった。
「……ハルナ3級審問官。まずは私もこの街の様子を自分の目で視察したい。案内してくれ。
ナオキ。すまないが、今日はこの事務所に投宿させてもらえぬだろうか。床があればそこで寝るから、特別な準備は不要だ。もちろん、料金も払う。
なにしろ宿を取るにしても、どの宿がどれくらい安全なのか、まだ判断できない。君は高級な宿の経営もしているようだが、それでもなお君がこの事務所を拠点としているからには、この街ではここが一番安全なのだと判断するほかない。
我々の活動拠点をどこにするかは、おいおい相談させてほしい」
ナオキは、ふむ、といった感じで頷くと、部屋を2つ用意すると言い出したので、1つで構わないと念押しした。
ハルナが最初の報告書で指摘しているように、ナオキは決して信用できない。部屋を2つ用意してもらうというのは常識的に考えれば喜んで受けるべき提案だが、戦力が分断される提案を飲むことはできない。多少誤解されたところで問題はないし、誤解が発生するようならその誤解を活用したほうがいい。
結局、ナオキは素直に私の提案を受け入れた。審問官を床に寝かすわけにはいかないからマットレスだけは用意させてくれと懇願されたので、こちらはありがたく申し出を飲むことにする。
交渉が成立したところで、私はハルナを連れて街に出ることにした。部屋からの出がけにバラディスタン傭兵の女が「カナリス審問官、あんたの得物が何かは知らないが、ちゃんと戦える程度の武装はしたほうがいい」と言ってきたが、いくらなんでも街中を武装して歩くのは目立ちすぎる。それに私もハルナも短剣は帯びているわけで、これ以上の武器が必要になる闘争に巻き込まれるなら、それこそ鎧兜までもが必要になるだろう。
私の主張に対し赤毛の女は食い下がってくるかと思ったが、「まぁあんたはハルナが足を引っ張っても問題ないくらい強そうだしな」と言うと、そこで引き下がった。理解して頂けたようでありがたい。
ダーヴの街に出た私とハルナは、ハルナに案内を任せる形で街をぐるりと一回りすることにした。街の地図は頭に入っているが、帝都にあったダーヴの街の地図は30年も前の地図だ。案の定、街のあちこちで増築や改築が行われていて、記憶の中の地図は大雑把にしか役に立たない。
結局、街の概況を把握するため、途中で軽い休憩を挟んで4時間ほど歩き回ることになった。ダーヴでは一番というパティシエが経営する店の焼き菓子はなかなかの出来栄えで、どこかの段階でまとめ買いしておくというタスクを脳内のメモ帳に書き留めておく。
……ちなみにハルナは私のこの癖を「師匠は甘党」としか思っていないようだが、現場に出た審問官は、ときに長期間に渡って食料が得られないことがある。
軽くて日持ちがして栄養価の高い食物を常に備蓄しておけというのは、老マルタから叩き込まれた基礎のひとつだ。
この点についてハルナに説教しながら夕暮れの街を歩いていると、ようやくあまり人通りのない地域に出た。夕焼け色に染まった公園はなかなか美しいが、市民の姿はほとんどない。実に、都合が良い。
私が適当なベンチに腰を下ろすと、ハルナもちょこんと隣に座った。
「ハルナ。改めて報告を聞こう」
ハルナはこくりと頷くと、その細い下顎に、小さな右拳をあてがった。
「ぶっちゃけると、何もかもが怪しいです。
とりあえずケイラス司祭は真っ黒だと思いますが、そこにエミルがどう絡んでいるのかが分かりません。デリク卿は何か言ってましたか?」
私は苦々しい思いを押し殺しながら、今年の年始に行ったデリク卿との面談を思い出す。
「デリク卿は、エミルを勘当するつもりだ。
昨年の5月ごろ、デリク卿とエミルはダーヴの街で大喧嘩して、売り言葉に買い言葉でエミルはダーヴに留まることになったらしい。
8月頃にエミルから届いた手紙には、『自分はダーヴで尊敬を集める人間になったから、もう二度と帝都には戻らない』と書かれていたそうだ」
それを聞いたハルナは、なんとも言えない表情をした。
「帝都には、帝国全体からずば抜けた才能が集まりますからね。
エミルだって、若い頃はデリク家の次男に相応しい男になろうと頑張ってたんでしょう。でも彼にはそれだけの才能がなかったし、そこで奮起して努力することもできなかった。だから親のカネを誇示して周囲に女を侍らせることでしか、自分が自分である価値を示せなかったんですよ。なにせ自分の価値が示せなきゃ、貴族の子供はゴミ以下ですからね」
『価値を示しすぎると君のようになるがな』という言葉を、私はそっと飲み込む。
「ダーヴに来て、彼は生まれて初めて一番になれたんだと思いますよ。
そしてこの街で一番の何者かとして尊敬も集めたんでしょう。
だから彼は、帝都に帰る理由をなくしてしまった。そんなところでしょうね。
よくある話ですし、彼の気持は私にもわかりますよ。私もちっちゃい頃、何をやっても、周囲の大人は私を評価することを怖がるだけでしたから。私としては、良くやったなって頭を撫でてもらえれば、それで良かったんですけどね。
まあ、与太話はさておいて。
エミルの場合、そこにケイラス司祭が絡んでるのが問題です。話を聞く限りでは、デリク卿がエミルとケイラス司祭を引き合わせたという可能性は排除できそうだってのが、唯一の良いニュースですかね」
ハルナの推測に、私も同意を返す。
「デリク卿は竹簡聖書の売買を始めるにあたってケイラス司祭に挨拶しているし、相当な金額の寄進もしている。だが、話はそこで終わりだ。デリク卿は、帝都から事実上の追放をされたケイラス司祭とは深く関わりたくないし、彼を竹簡聖書のビジネスに絡めることでビジネスに妙な色をつけたくもないと語っていた。その判断は妥当としか言いようがない。
ゆえに、エミルとケイラス司祭の遭遇は多分に偶然か、さもなくばケイラス司祭から接触したと考えるべきだろう。
なんにせよ、ケイラス司祭を探すより、エミルを探すほうが、ゴールは近そうだ。エミルの近くには、ケイラス司祭もいる可能性が高い。たとえダーヴの街であっても、エミルのような凡人が何かの一番になれる方法は、そう多くないからな」
私の言葉の真意をハルナは一瞬理解できなかったようだが、すぐに「あー、はい」とか言いながら激しく頷き始めた。審問官という仕事をする以上、そういう可能性は常に考えておく必要がある。
「じゃあケイラス問題は、エミルの捜索を優先するって方針で了解です。
で、ナオキの件ですが、こっちのほうがより大きな問題です。
ぶっちゃけ、こっちはまったく底が見えないです。そもそもナオキ自身まるで得体が知れない上に、関係者もわざわざ厳選したんじゃないかと思うくらいワケアリ人材ばっかり。
ほら、事務所に赤毛のバラディスタン女傭兵がいたでしょ? あの人、ザリナさんっていって、ナオキの護衛かつ愛人なんですけど。でもそれだけじゃなくて、両刀使いなんですよ。で、ナオキ以外にも女の愛人を複数人囲ってます」
軽く、めまいがする。それはもうワケアリ人材なんてどころじゃあない。
「バラディスタンでは、同性愛は絶対の禁忌だったはずだ。
バラディスタンの同性愛者は、双方の親族を挙げて粛清される運命にあるのではなかったか?」
こくりと頷くハルナ。
「リーロ・ユーリ事件ですね。帝都にまで逃げてきたバラディスタン人の同性愛カップルが、帝都にまで追ってきた親族に街の広場で殺された事件。どうやらザリナさんも同じ展開になったみたいなんですが、追っ手を全部殺したっぽいです」
思わず「強烈だな」と、無意味な感想が漏れる。それを聞いたハルナは、クスリと笑った。
「それから近いうちに紹介しますが、ナオキが改革の対象として選んだのがニリアン領ってのも大概ですよね。
ニリアン卿の人となりはご存知の通りです。ラスト・オブ・ナイトって感じの、現代とは全然違った価値観で生きてらっしゃるわりに、歴史書に出てくる野蛮な時代の騎士みたいにやたらと合理的で現実的。帝都には卿の名前を聞いただけでビビる官僚がいますけど、まぁ納得ですよ。
さらにニリアン領の司祭があのユーリーン司祭。聖フランシスの再来と呼ばれた巨乳ちゃんです。あ、巨乳がうらやましいわけじゃあないです。でも、あの人も相当ヤバい。ボニサグス派自身が彼女を辺境に追い払った首謀者だって噂、わりとマジだと思いますよ。
彼女、社会性ゼロ、社交性ゼロ、世間知らずレベルMAXの、究極の歩く聖書です。彼女の理論って何から何まで完璧に理路整然としてるけど、何一つとして現実の社会にフィットしないから、帝都に置いといたらフランシス司祭が現役だった頃と同じくらいの勢いでボニサグス派から殉教者が出たかもしれません。
で、とどめがナオキの弟子。これが最大級にヤバい。手紙にも書きましたが、ライザンドラ・オルセンが生きてたとか、もうそれだけで帝都震撼ですよ。ハルナ・シャレット社交界デビューどころじゃありません。
そんな世紀の天才が、ナオキの弟子ですよ。わけわからないですよ。ライザンドラさんはナオキを崇拝するレベルで信用してますけど、なんであんな男を崇拝するのか、まるで見えてきません。しかもナオキはライザンドラさんと寝てないんですよ。ライザンドラさんはいつでもバッチコイなのに。
この偉人変人どもが勝手にやらかす無茶無理無謀の向こう側に、霞むようにして立ってるのがナオキです。いま勝手にっていいましたけど、彼らの選択をよくよく調べてみると、どこかにナオキの影響があります。でもナオキはそれを隠そうとしない。隠さなくたって、ナオキの愉快な仲間たちが生み出す圧倒的な情報量の前に、霞んじゃうんです」
ハルナの分析を聞いて、私は思わず「似ているな」と呟いていた。すかさずハルナが「何と似てるんです?」と突っ込んでくる。このあたり、見習い時代からハルナは何も変わらない。
「ナオキとケイラス司祭だ。奇妙なくらい、2人は似ている。
なるほど、ケイラス司祭はサンサ教区ワースト・ワンの放蕩司祭で、金遣いは荒く、賄賂は取り放題、女性関係も荒れ放題だった。
一方でナオキは、資産家だが生活は比較的つつましやか、女性関係はザリナのみ、なのだろう?
ここだけ見れば、真逆にも見える」
「ですよね」とハルナ。それはハルナがケイラス司祭について深く調べていないからこその見解だ。
「だが彼らの行動原理は、あまりに酷似している。
私は君から緊急通信を受け取る前から、ケイラス司祭について基礎的な資料を洗っていた。なにせ一度は『次期教皇』の噂すら立った人物で、貴族との政治が拗れてサンサに配流されたとなれば、異端者にしてみれば格好のターゲットだからな。
調べた結果は、酷いものだ。賄賂を通じて膨らませた、地域社会の名士たちとの交友関係。御用商人や、そのコネクションとの間で作られたネットワーク。娼婦から見習い尼僧、自分が葬儀を取り仕切った家の未亡人まで、目を覆わんばかりの女性関係。いずれもスキャンダルの山だ。
無論、そのすべてが完全に醜聞まみれというわけでもなく、意外なくらいよく考えられた善行になっていることもあるが、概ねそれらは結果論でしかない。つまりは、『ケイラス司祭はまるで評価に値しない腐敗僧侶』という結論以外に、情報をまとめられない。
だが『まるで評価に値しない腐敗僧侶』という評価は、一人の人間を表すにあたって、あまりにも曖昧だ。少なくとも、審問会派が本格的に動くには情報が足りない」
そこまで説明すると、ハルナも私の気付きと同じ気付きを得たのか、しきりに頷きはじめた。
「なるほど……たしかに、ナオキと似ています。
ケイラス司祭もまた、何らかの意図をもって、自分を膨大な情報の背後に隠している。
私もケイラス司祭に関して調べ始めてますけど、彼っていう人間のイメージを特定する段階から躓いてます。ダーヴの街の人と話しをすれば、皆が皆、ケイラス司祭について話してくれるけど、全員がケイラス司祭に関する秘蔵のネタを持ってるんじゃないかと思うくらい、情報が多いんです。とても一人の人間がしでかしたこととは信じられないほどに」
ハルナの言葉を聞きながら、私は改めて、このサンサ教区で起きている何かが有する闇の深さに戦慄していた。情報が多すぎるがゆえに、結果的に情報不足に陥るなどという事態は、審問会派がこの2000年に渡って想定してこなかった事態だ。
私は西の空に沈もうとしていく夕日を睨みつけてから、ひとつ大きく息を吐き、それからハルナに声をかけた。
「もう、日が暮れる。そろそろ君の友人の事務所に戻るとしよう」
私たちは立ち上がると、青色の闇に包まれようとしている公園の出口へと向かった。公園の係員が「まもなく閉園ですのでお急ぎ下さい」と声をかけてくるのに対し軽く手を挙げて返答しつつ、私は隣を歩くハルナにだけ聞こえるような声で呟く。
「ひとつだけ、確かなことがある。
ケイラス司祭とナオキでは、ナオキのほうが何枚も上手だ。
ケイラス司祭は自分自身が直接動くことで情報を量産したが、ナオキは自分以外を動かすことで情報の隠れ蓑を作った。そしてケイラス司祭が身近に置いた人間は彼の弱点と成り得るが、ナオキが身近に置いた人間には隙がない。
ナオキが我々の敵だとしたら、この戦いは相当厳しい戦いになるぞ」




